確率です
六限の途中で、窓に最初の一滴が当たった。
二滴目までは十秒くらいあった。三滴目からは数えるのをやめた。数える必要がないくらい、まとめて来たからだ。
教室のあちこちで音が上がった。洗濯物だとか、自転車だとか、そういう話が同時に始まって、担任が黒板を叩いた。
俺は窓の外を見ていた。朝、雲はなかった。念のために天気を確認した記憶もない。傘は家にある。家にあるということは、ここにはない。
斜め前で坂内が振り返った。
「おまえ、傘」
「ない」
「昨日、言われてたじゃん」
言われていた。「傘は、持っていて損はありません」と、あの人は昨日の朝に言った。俺は窓の外の晴れを見て、はい、と返した。
放課後になっても雨は弱くならなかった。昇降口の前で二十人ほどが空を見上げていて、そのうち何人かは諦めて走り出した。走り出したやつから順に、五メートルで判断を後悔していた。
俺は自分の靴箱の前で、しばらく突っ立っていた。靴箱の上の段は一年生のもので、そこだけ傘立ての金具が新しい。うちの学年のあたりは金具が半分折れていて、誰も直そうと言い出さないまま二年が経っている。
走れば駅まで七分だ。七分濡れたところで死ぬわけではないし、家に着けば着替えがある。問題は制服がもう一枚しかないことだが、それも乾かせば済む。
そう計算していたら、横に人が立った。
「あの」
篠宮だった。
手に傘を二本持っていた。一本は差してきたらしく、柄のあたりが濡れている。もう一本は乾いていて、たたんだままだった。
濡れているほうは薄い灰色で、乾いているほうは紺色の、どこでも売っているやつだった。持ち手にビニールの跡がある。今日買ったものだと分かる跡だった。
「④です」
「はい」
「傘です」
乾いているほうを、両手で差し出してきた。
俺はそれを見て、それから篠宮の顔を見た。この一週間で何度もやった往復だが、今日は俺のほうがやっている。
「昨日のあれ、予報だったんですか」
「予報ではありません」
「じゃあ何ですか」
「確率です」
言い切った。
「昨日の時点で、降水確率は四十パーセントでした。四十は、低くありません」
「晴れてましたけど」
「晴れていても四十です」
この人は、こういうときだけ一切迷わない。
「なんで俺が傘を持ってないって分かるんですか」
聞いてから、これは聞かないほうがよかったかもしれないと思った。
篠宮は差し出した手を下ろさないまま、少しだけ目を伏せた。
「……朝、鞄が薄かったので」
「鞄」
「傘が入っていると、厚みが変わります」
俺は自分の鞄を見た。ただの布の鞄だ。厚みが変わると言われればそのとおりだが、そんなものを見ている人間がこの世にいるとは思っていなかった。
しかも、見ている本人は俺の顔を一度も見ていないことになっている。教室でこの人がこちらを向いたところを、俺はアーケードの日まで三年間、一度も見たことがない。
見ないで、鞄の厚みだけ見ていたのか。
「怖いですよ」
「……すみません」
素直に謝られると、こちらのほうが悪いことをした気になる。
「いや、いいです。ありがとうございます」
受け取ろうとして、手を伸ばした。
伸ばしたところで、篠宮が半歩下がった。
「あの」
「はい」
「これは、貸すのではありません」
「じゃあ何ですか」
「渡します。返さなくていいです」
「それは困ります」
「困りません」
「困ります」
昇降口で押し問答をしていた。傘の受け渡しで揉めている高校生二人を、通りがかりの一年生が二度見していった。
結局、俺が折れた。この人は理屈で来るので、こちらが理屈をやめるまで終わらない。
先週は折れなかったのに、と思った。あのときは紙袋を持って帰って、今日は傘を受け取っている。何が変わったのかは、自分でもうまく説明できない。
外へ出て、傘を開いた。差した瞬間に雨の音が変わる。頭の上だけ屋根ができて、世界が少し狭くなった。
新しい傘は開くときに少し固い。骨の一本が最後まで伸びきらなくて、俺は歩きながら二回、下から押し上げた。
篠宮も傘を開いた。当たり前だが、二本ある傘を二人で差せば、二本とも開く。
並んで歩き出してから、俺は昨日のことを思い出した。
「今日は、どっちですか」
「隣です」
「じゃあ、俺も隣です」
「……定期は」
「今月末で切れます」
嘘ではない。言い方は嘘に近いが、内容は本当だ。
商店街のアーケードに入ると、雨の音が屋根に集まって、逆に大きくなった。ここは屋根があるのに端が濡れる。半分だけ濡れる場所を、みんな器用に避けて歩いている。
俺たちは傘をたたんだ。たたむタイミングがほぼ同時になって、二人とも少しだけ手が止まった。
「聞いていいですか」
俺が言うと、篠宮の歩幅が一瞬だけ変わった。変わって、すぐ元に戻った。
「……はい」
「どうして、三年間、俺を見なかったんですか」
言った。昨日の夜に一度、今朝の電車で二度、頭の中で言った文だった。
三回練習した文は、口に出すと思ったより短かった。
雨の音が続いていた。アーケードの端で、屋根の切れ目から落ちる水が、同じ場所を叩いている。同じ間隔で、同じ音で、ずっと。
店の前の平台にビニールがかけてあって、その上に溜まった水が、たまに限界を超えて横へ流れた。八百屋のおばさんが出てきて、竹の棒で下から突いて落としていた。落とすたびに、足元で小さい川ができる。
篠宮は前を向いたまま歩いていた。答えないのかと思ったが、歩く速度は落ちていない。逃げてはいなかった。
「答えられません」
やがて、そう言った。
「答えないんじゃなくて、答えられない?」
「はい」
「言いたくないから答えられないんですか。それとも、言うと何か困るからですか」
「……後のほうです」
正直な人だと思った。ここで「前です」と言えば、俺はたぶん引き下がった。
「いつなら聞けますか」
「分かりません」
「一年後とかですか」
「そんなに、かかりません」
その答え方は、答えたのと同じくらいの情報量があった。
「じゃあ、待ちます」
俺が言うと、篠宮が足を止めた。
止まって、こちらを見た。何か言おうとして、口の形だけ作って、やめた。この一週間で四回目くらいの、あの動きだった。
「待たなくていいです」
「待ちます」
「……待たれると、困ります」
「困ってください」
言ってから、少し言いすぎたかと思った。
篠宮は黙って、それから前を向いた。前を向いた横顔が、笑っているのか怒っているのか、俺には判別できなかった。ただ、口の端が一度だけ動いた。
アーケードを抜けたところで、雨が止んでいた。
止んでいるというより、通り過ぎたあとの匂いだけが残っていて、空の西側だけ明るかった。傘を開く必要はもうない。
交差点で、篠宮が左を見た。俺も見た。
「……一緒に帰るわけでは、ありません」
「知ってます」
「同じ方向に歩いているだけです」
「知ってます」
「二回言わなくていいです」
そこで、初めて笑った。
笑ったというほどでもない。息が少し漏れただけで、次の瞬間には元の顔に戻っていた。それでも俺は、三年のあいだで、この人が笑うのを初めて見た。
住宅街の道は、雨のあとで色が濃くなっていた。側溝の音がいつもより大きくて、そのぶん会話がなくても気にならない。
橋の上から見た川は、昨日より水かさが増していた。石を投げていた小学生は今日はいない。
半歩ぶん後ろを歩きながら、俺は答えが一つも出ていないことを確認した。理由は聞けなかった。時期も分からない。持って帰るのは傘だけだ。
それでも、今日の帰り道は長かった。
長いというのは、距離の話ではない。




