↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/27

確率です

 六限の途中で、窓に最初の一滴が当たった。


 二滴目までは十秒くらいあった。三滴目からは数えるのをやめた。数える必要がないくらい、まとめて来たからだ。


 教室のあちこちで音が上がった。洗濯物だとか、自転車だとか、そういう話が同時に始まって、担任が黒板を叩いた。


 俺は窓の外を見ていた。朝、雲はなかった。念のために天気を確認した記憶もない。傘は家にある。家にあるということは、ここにはない。


 斜め前で坂内が振り返った。


「おまえ、傘」


「ない」


「昨日、言われてたじゃん」


 言われていた。「傘は、持っていて損はありません」と、あの人は昨日の朝に言った。俺は窓の外の晴れを見て、はい、と返した。


 放課後になっても雨は弱くならなかった。昇降口の前で二十人ほどが空を見上げていて、そのうち何人かは諦めて走り出した。走り出したやつから順に、五メートルで判断を後悔していた。


 俺は自分の靴箱の前で、しばらく突っ立っていた。靴箱の上の段は一年生のもので、そこだけ傘立ての金具が新しい。うちの学年のあたりは金具が半分折れていて、誰も直そうと言い出さないまま二年が経っている。


 走れば駅まで七分だ。七分濡れたところで死ぬわけではないし、家に着けば着替えがある。問題は制服がもう一枚しかないことだが、それも乾かせば済む。


 そう計算していたら、横に人が立った。


「あの」


 篠宮だった。


 手に傘を二本持っていた。一本は差してきたらしく、柄のあたりが濡れている。もう一本は乾いていて、たたんだままだった。


 濡れているほうは薄い灰色で、乾いているほうは紺色の、どこでも売っているやつだった。持ち手にビニールの跡がある。今日買ったものだと分かる跡だった。


「④です」


「はい」


「傘です」


 乾いているほうを、両手で差し出してきた。


 俺はそれを見て、それから篠宮の顔を見た。この一週間で何度もやった往復だが、今日は俺のほうがやっている。


「昨日のあれ、予報だったんですか」


「予報ではありません」


「じゃあ何ですか」


「確率です」


 言い切った。


「昨日の時点で、降水確率は四十パーセントでした。四十は、低くありません」


「晴れてましたけど」


「晴れていても四十です」


 この人は、こういうときだけ一切迷わない。


「なんで俺が傘を持ってないって分かるんですか」


 聞いてから、これは聞かないほうがよかったかもしれないと思った。


 篠宮は差し出した手を下ろさないまま、少しだけ目を伏せた。


「……朝、鞄が薄かったので」


「鞄」


「傘が入っていると、厚みが変わります」


 俺は自分の鞄を見た。ただの布の鞄だ。厚みが変わると言われればそのとおりだが、そんなものを見ている人間がこの世にいるとは思っていなかった。


 しかも、見ている本人は俺の顔を一度も見ていないことになっている。教室でこの人がこちらを向いたところを、俺はアーケードの日まで三年間、一度も見たことがない。


 見ないで、鞄の厚みだけ見ていたのか。


「怖いですよ」


「……すみません」


 素直に謝られると、こちらのほうが悪いことをした気になる。


「いや、いいです。ありがとうございます」


 受け取ろうとして、手を伸ばした。


 伸ばしたところで、篠宮が半歩下がった。


「あの」


「はい」


「これは、貸すのではありません」


「じゃあ何ですか」


「渡します。返さなくていいです」


「それは困ります」


「困りません」


「困ります」


 昇降口で押し問答をしていた。傘の受け渡しで揉めている高校生二人を、通りがかりの一年生が二度見していった。


 結局、俺が折れた。この人は理屈で来るので、こちらが理屈をやめるまで終わらない。


 先週は折れなかったのに、と思った。あのときは紙袋を持って帰って、今日は傘を受け取っている。何が変わったのかは、自分でもうまく説明できない。


 外へ出て、傘を開いた。差した瞬間に雨の音が変わる。頭の上だけ屋根ができて、世界が少し狭くなった。


 新しい傘は開くときに少し固い。骨の一本が最後まで伸びきらなくて、俺は歩きながら二回、下から押し上げた。


 篠宮も傘を開いた。当たり前だが、二本ある傘を二人で差せば、二本とも開く。


 並んで歩き出してから、俺は昨日のことを思い出した。


「今日は、どっちですか」


「隣です」


「じゃあ、俺も隣です」


「……定期は」


「今月末で切れます」


 嘘ではない。言い方は嘘に近いが、内容は本当だ。


 商店街のアーケードに入ると、雨の音が屋根に集まって、逆に大きくなった。ここは屋根があるのに端が濡れる。半分だけ濡れる場所を、みんな器用に避けて歩いている。


 俺たちは傘をたたんだ。たたむタイミングがほぼ同時になって、二人とも少しだけ手が止まった。


「聞いていいですか」


 俺が言うと、篠宮の歩幅が一瞬だけ変わった。変わって、すぐ元に戻った。


「……はい」


「どうして、三年間、俺を見なかったんですか」


 言った。昨日の夜に一度、今朝の電車で二度、頭の中で言った文だった。


 三回練習した文は、口に出すと思ったより短かった。


 雨の音が続いていた。アーケードの端で、屋根の切れ目から落ちる水が、同じ場所を叩いている。同じ間隔で、同じ音で、ずっと。


 店の前の平台にビニールがかけてあって、その上に溜まった水が、たまに限界を超えて横へ流れた。八百屋のおばさんが出てきて、竹の棒で下から突いて落としていた。落とすたびに、足元で小さい川ができる。


 篠宮は前を向いたまま歩いていた。答えないのかと思ったが、歩く速度は落ちていない。逃げてはいなかった。


「答えられません」


 やがて、そう言った。


「答えないんじゃなくて、答えられない?」


「はい」


「言いたくないから答えられないんですか。それとも、言うと何か困るからですか」


「……後のほうです」


 正直な人だと思った。ここで「前です」と言えば、俺はたぶん引き下がった。


「いつなら聞けますか」


「分かりません」


「一年後とかですか」


「そんなに、かかりません」


 その答え方は、答えたのと同じくらいの情報量があった。


「じゃあ、待ちます」


 俺が言うと、篠宮が足を止めた。


 止まって、こちらを見た。何か言おうとして、口の形だけ作って、やめた。この一週間で四回目くらいの、あの動きだった。


「待たなくていいです」


「待ちます」


「……待たれると、困ります」


「困ってください」


 言ってから、少し言いすぎたかと思った。


 篠宮は黙って、それから前を向いた。前を向いた横顔が、笑っているのか怒っているのか、俺には判別できなかった。ただ、口の端が一度だけ動いた。


 アーケードを抜けたところで、雨が止んでいた。


 止んでいるというより、通り過ぎたあとの匂いだけが残っていて、空の西側だけ明るかった。傘を開く必要はもうない。


 交差点で、篠宮が左を見た。俺も見た。


「……一緒に帰るわけでは、ありません」


「知ってます」


「同じ方向に歩いているだけです」


「知ってます」


「二回言わなくていいです」


 そこで、初めて笑った。


 笑ったというほどでもない。息が少し漏れただけで、次の瞬間には元の顔に戻っていた。それでも俺は、三年のあいだで、この人が笑うのを初めて見た。


 住宅街の道は、雨のあとで色が濃くなっていた。側溝の音がいつもより大きくて、そのぶん会話がなくても気にならない。


 橋の上から見た川は、昨日より水かさが増していた。石を投げていた小学生は今日はいない。


 半歩ぶん後ろを歩きながら、俺は答えが一つも出ていないことを確認した。理由は聞けなかった。時期も分からない。持って帰るのは傘だけだ。


 それでも、今日の帰り道は長かった。


 長いというのは、距離の話ではない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。