歩道橋の上で
朝、俺は隣の駅から電車に乗った。家を出る時刻を十五分早めて、交差点を左へ曲がって、住宅街を抜けて、橋を渡って、切符を買った。百五十円。金曜と同じだ。
篠宮には会わなかった。会うわけがない。あの人が家を出る時刻を俺は知らないし、知っていたら知っていたで問題がある。
住宅街の道は、朝に歩くと夕方とまったく違って見えた。ゴミの日らしくて、角ごとに網をかけた袋の山があり、その横を自転車が次々に抜けていく。犬の散歩は夕方より多い。
橋の上で、俺は一度だけ足を止めた。川の水は朝のほうが少しだけ動いていた。
ホームで電車を待ちながら、俺は自分に三つの説明を用意した。今日は早く目が覚めた。定期は今月末で切れる。歩くのは体にいい。
三つとも本当だった。三つ並べないと成立しないという時点で、たぶん全部だめだった。
教室に入ったのは八時十分で、篠宮はもう来ていた。俺の席ではなく、自分の席に。こちらは見ていない。
鞄を置いたところで来た。
「あの」
「はい」
「③、いいですか」
金曜の続きだった。この人の中では番号が進むらしい。①は今日も飛ばされている。
「どうぞ」
「傘、持っていますか」
俺は窓の外を見た。雲がない。いっそ腹が立つくらいの晴れだった。
「今日、降るんですか」
「……降りません」
「はい」
「降りませんが、傘は、持っていて損はありません」
言い切ったあと、篠宮は自分の言葉を検算するような顔をして、それから頭を下げて戻っていった。
斜め前で坂内が笑いをこらえていた。こらえきれずに椅子ごと回ってきた。
「傘だってよ」
「聞こえてたのかよ」
「教室の全員が聞いてる」
たぶん本当だった。窓際の一角では誰かが、わざとらしく窓の外を確認していた。
昼休みに、知らない女子が教室の戸のところから俺の名前を呼んだ。
正確には、知らなくはなかった。中学で同じクラスだった相川で、高校では一度も同じになっていない。廊下で見かけることはあるが、高校に入ってから喋ったのは合計五分もないと思う。
「日野くん、ちょっといい?」
俺は廊下へ出た。出たところで、教室の中の何割かがこちらを向いたのが背中で分かった。先週からずっとこの調子だ。
「久しぶり。っていうか、同じ学校だけど」
「うん」
相川は中学のときから背が低くて、話すときに少しだけ顎を上げる癖がある。三年経ってもそこは同じだった。
「あのさ」
相川はそこで、髪を触った。触ってから、触ったことをごまかすように鞄の紐を持ち直した。
「篠宮さんと、なんかあった?」
「なんもないよ」
「みんな言ってるけど」
「みんなが言ってることって、だいたい違うよ」
自分で言っておいて、坂内みたいな言い方だな、と思った。
相川は少し笑って、それから笑いを引っ込めた。引っ込め方が中途半端で、口の端だけが残った。
「あのね、あたし、中学のとき陸上部だったじゃん」
「うん」
「日野くんが辞めたとき──」
そこで止まった。
止まり方に覚えがあった。ここ数日で何度も見ている。言葉を選んでいる途中で、選択肢が全部だめだと分かる止まり方だ。
ただ、篠宮のそれとは少しだけ違った。篠宮は言えないことを言おうとして止まる。相川は、言っていいのかどうかを迷って止まっている。
「ごめん、なんでもない」
「うん」
「ほんとに、なんでもないから」
二回言った。一回でいいことを二回言う人は、たいてい自分に言っている。
「またね」
相川は手を振って、自分のクラスのほうへ戻っていった。
俺は教室へ戻って、パンの残りを食べた。辞めたとき。その言い方が引っかかっていた。
俺は自分で辞めた。中三の秋に、練習に行くのをやめて、そのまま退部届を出した。理由は自分の中にあって、他人が続きを言い淀むような話ではない。
そう思っているのに、午後の授業のあいだ、相川の止まり方が頭から出ていかなかった。
六限が終わって、掃除が終わって、俺は黒板消しを返しに廊下へ出た。用具入れの手前の角を曲がったところで、篠宮がいた。
一人ではなかった。背の高い男子が一人、篠宮の正面に立っている。顔は知っているが名前は知らない。たしか隣のクラスで、球技大会のときに声が大きかったやつだ。
何を話しているかは聞こえなかった。距離が十メートルくらいあって、そのあいだに窓があって、外で誰かがボールを蹴っている音のほうが大きい。
篠宮は背筋を伸ばして立っていた。相手の目を見て、はっきり首を横に振った。
教室で見るのと同じ姿勢だった。俺の机の前に立つときの、あの少し力の入った立ち方ではない。誰に対しても正確で、誰に対しても同じ距離を保つ側の顔だ。
それだけだ。
それだけのことなのに、俺は角のところで立ち止まっていた。立ち止まってから、自分が黒板消しを胸の高さで持っていることに気づいた。
男子が何か言って、篠宮がもう一度首を振った。二回目のほうが少し深かった。
俺は来た道を引き返した。用具入れとは反対の方向へ、黒板消しを持ったまま歩いた。三十歩ほど歩いてから、自分が何をしているのか分からなくなって、階段の踊り場で止まった。
先週、篠宮と押し問答をした場所だった。
俺は黒板消しを窓枠に置いて、しばらくそこにいた。窓の外では、さっきから同じ子がボールを蹴っている。壁に当たって戻ってきたのを、また蹴る。それを七回か八回聞いた。
見なかったことにする理由はない。あの人が誰と何を話していようが、俺には関係がない。関係がないのに引き返したということは、関係があると思っている人間がここに一人いる、ということになる。
理屈としては、それだけの話だった。三年間、俺はこの手の計算をしなくていい生活をしていた。誰が誰と話していても、俺の側には何も起きない。それが楽だと思っていたし、実際に楽だった。
黒板消しを持って、用具入れへ戻った。篠宮も男子ももういなかった。
帰り道、俺は交差点で右へ曲がった。右がうちの駅だ。今朝は左へ行ったが、それは定期が今月末で切れるからで、体にいいからで、早く目が覚めたからだ。朝と夕方で判断を変えてはいけない理由はない。
歩道橋の階段を上って、途中まで行って、そこで止まった。歩道橋の上からは、左の道が見える。住宅街の細い道が、夕方の光の中をまっすぐ伸びていて、その先に橋がある。
制服の背中が一つ、歩いていた。
距離があって、顔は見えない。この学校の生徒なら誰でもおかしくないが、歩くのが速くて、歩幅が一定していて、半分は走りたいのを我慢しているような足の運びだった。
歩道橋の手すりは、夕方でもまだ熱を持っていた。下を車が通るたびに、足の裏に細かい振動が来る。
俺は手すりに手を置いたまま、その背中が橋にかかるまで見ていた。時間にすれば二分くらいだと思う。二分のあいだ、俺は一度も別のことを考えなかった。
そこでようやく、認めた。
三年間、目も合わなかった人のことを、俺はいま毎日考えている。考えないようにする努力を毎日していて、その努力の量で言えば、もう完全に考えている側だ。
好きとかそういう言葉を使うつもりはない。使わなくても事実は事実で、事実のほうは俺の許可を取らずに進んでいる。
認めたところで、状況は何も変わらなかった。変わったのは、ここから先の予定だけだ。
俺は歩道橋を下りて、駅へ向かった。ホームで電車を待ちながら、明日の順番を考えた。①でも②でもいい。こっちには番号がない。
聞くことは一つだけ決まっていた。
どうして、三年間、俺を見なかったんですか。




