一緒に帰るわけではありません
翌朝、篠宮は俺が鞄を置くより先に来ていた。昨日より早い。
「あの」
「はい」
そこで止まった。
止まり方は昨日と同じだった。口が開いて、息が入って、そのまま音にならない。俺は待った。待つことについては、この四日でだいぶ慣れた。
教室の音が半分になっている。窓際の一角も、坂内も、廊下側の連中も、全員が別のことをしているふりをしている。ふりの精度は日ごとに上がっていて、今日はもう誰も顔を上げなかった。上げなくても済むくらい、この件は全員に共有されている。
「……②から、いいですか」
篠宮が言った。
俺以外の誰にも通じない文だった。実際、坂内が「は?」という顔で振り返ったのが視界の端に見えた。
「いいですよ」
俺が言うと、篠宮は一度、目を伏せた。伏せてから、背筋を伸ばした。
「今日、放課後は空いていますか」
「空いてます」
「そうですか」
それで終わりだった。頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
②が何だったのかは分からないままだが、少なくとも②までは行った。四日かかって二番目だ。この調子だと⑩に着くころには冬になっている。
坂内が椅子ごと回ってきた。
「今の暗号なに」
「番号の話」
「番号」
「うん」
「おまえら何の番号で話してんの」
説明できることではなかったので、俺は教科書を開いた。坂内は「まあいいや」と言って前を向き、五秒後にもう一度振り返って「よくねえよ」と言った。
その日、篠宮はもう来なかった。放課後は空いていますか、と聞かれたので空けておいたのだが、六限が終わって掃除が終わっても、篠宮は窓際の一角で普通に喋っていた。こちらを見もしない。
俺は黒板消しを返して、鞄を持って、教室を出た。空けておいた放課後は、何にも使われないまま余った。
そういうこともある、と思うことにした。四日で調子に乗りかけていただけだ。三年ぶんの前提のほうが、たぶん正しい。
商店街のアーケードに入ったのは四時半ごろだった。
この道は四日前から少しだけ通りにくい。柱の下のあたりに、俺が擦った跡がまだ残っている気がする。実際には何も残っていないのだが、通るたびに一度は見る。
自転車は今日も多い。塗装は今日も消えている。市に苦情を入れた誰かは、まだ報われていない。
その先を、同じ制服の背中が歩いていた。二十メートルほど前。四日前とほとんど同じ距離だった。ただし今日はスマホを見ていない。歩幅も一定している。速い。
俺は歩く速度を変えなかった。追いつく気はなかったし、声をかける理由もなかった。放課後は空いていますかと聞いておいて何も言わなかったのは向こうだ。
そのまま二十メートルの差で、アーケードを抜けた。
抜けたところが駅前の交差点で、駅は右手にある。歩道橋の下をくぐって二分の距離だ。この時間はうちの制服がかなりの数、そっちへ流れていく。
篠宮は左へ曲がった。
俺は交差点で立ち止まった。四日前も同じことがあった。あのときは、駅は反対だった、と思って終わりにした。忘れていたわけではないが、考えないようにはしていた。
二度目になると、考えないのが難しくなる。一度なら用事だ。二度なら経路だ。三年ぶん同じことをしていたのなら、それはもう性質と呼んでいい。
左は住宅街で、その先に川がある。橋を渡ってしばらく行くと、隣の駅に着く。歩いて十五分くらいだと思う。
俺は右へ曲がらずに、まっすぐ立っていた。信号が青になって、また赤になった。
それから左へ歩き出した。追いかけたわけではない。帰る方向は違うが、この時間に急ぐ用事もない。そういう理屈を三つほど並べてから足を出したので、たぶん追いかけたのだと思う。
二つ目の角で追いついた。追いつくつもりはなかったのに、向こうが立ち止まっていた。
立ち止まって、こちらを見ていた。
「あの」
今日二回目の「あの」だった。
「……駅、あっちです」
篠宮が指をさした。俺が道を間違えたと思っているらしい。
「知ってます」
「知っていて、こちらですか」
「そっちも知ってます」
言ってから、噛み合っていないなと思った。
篠宮は指を下ろした。下ろしてから、その手で鞄の持ち手を握った。四日で分かるようになった握り方だ。
「駅、あっちですよね」
今度は俺が聞いた。
篠宮は少し黙って、それから言った。
「知っています」
「隣の駅ですか」
「……はい」
「毎日ですか」
「毎日です」
毎日、十五分歩いて、隣の駅から乗っている。定期券のことを考えると意味が分からない。
「なんでですか」
聞いた。聞いてから、これは順番で言えば⑨とか⑩に置くやつだな、と思った。
篠宮は答えなかった。
答えないという言い方は正確ではない。口は開いた。開いて、閉じて、もう一度開いて、それから顔の向きを変えた。川のほうを見ている。
風が来て、前髪が動いた。動いた分だけ、耳のあたりが見えた。
「……歩くのが、好きなので」
嘘だった。
嘘だと分かるのは、この人が嘘をつくときだけ、言い終わりが少し早くなるからだ。四日で気づけるようなことではないはずだが、なぜか分かった。
俺はそれ以上聞かなかった。聞けば、この人はもっと下手な嘘を重ねる。重ねさせても仕方がない。
「じゃあ、俺もここまでで」
言って、引き返そうとした。
「あの」
三回目だった。
「……一緒に帰るわけでは、ありません」
「はい」
「同じ方向に歩いているだけです」
「はい」
「それは、別のことです」
二日前と同じ理屈だった。この人は、名前の付いていない状態に名前を付けないと歩けない。
「分かりました」
俺が言うと、篠宮は少しだけ肩の力を抜いた。抜いたのが分かるくらいには、それまで力が入っていた。
それから、また歩き出した。俺も歩いた。半歩ぶん後ろを、同じ速度で。
橋のところまで、どちらも何も言わなかった。
住宅街の道は歩道が細くて、二人が並ぶには足りない。だから半歩ぶんの差は、遠慮ではなく道幅の問題ということになる。この人はたぶん、そういう説明のつく形を選んでいる。
途中で犬を連れた人とすれ違ったとき、篠宮は一度だけ足を止めて道を譲った。譲り方が丁寧すぎて、相手のほうが恐縮していた。
川はほとんど流れていなくて、水面に夕方の色がそのまま乗っている。上流のほうで小学生が三人、石を投げていた。二つ目まで届いて、三つ目は届かない。届かないほうを投げた子が、いちばん長く手を振っていた。
橋の途中で、篠宮が足を止めた。
「今日は、四時二十分でしたね」
「え」
「教室を出たのが」
俺は自分の記憶を確認した。確かに四時二十分ごろだった。
問題は、そのとき篠宮が窓際の一角で喋っていたことだ。こちらを見てもいなかった。
「見てました?」
「……見ていません」
言い終わりが早かった。
篠宮は前を向いて、また歩き出した。歩き出す速度が、さっきより少しだけ速かった。
俺は橋の上に残って、それから追いついた。結局、隣の駅までの十五分のうち、喋ったのは合計で二分もない。それでも、この四日で一番静かな二分だった。
改札の前で篠宮は頭を下げた。下げてから、何か言おうとして、また下げ直した。二回目のほうが浅かった。
それで先に階段を上っていった。上りながら一度だけ振り返ったが、目が合う前に前を向いた。
俺は定期券を持っていない駅で、切符を買った。百五十円だった。一日百五十円は、たぶん俺の小遣いだと三日で効いてくる。
電車を待ちながら、俺は自分が明日もこっちから乗る気でいることに気づいた。
気づいたことにして、ホームの端まで歩いた。




