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①で止まりました

 朝、教室の戸を開けたら、篠宮が俺の席の前に立っていた。


 八時十二分だった。いつもと同じ時刻に来て、いつもと違うものがあった。


 窓際の一角はまだ半分しか集まっていない。集まっていないぶん、教室の視線は分散していない。つまり全員が見ていた。


「あの」


 鞄を持ったまま、俺は自分の席まで歩いた。歩くしかなかった。


「おはようございます」


 篠宮はそう言って、頭を下げて、自分の席へ戻っていった。


 俺は椅子に鞄を置いた。鞄の中には、昨日返しそこねた紙袋がまだ入っている。置いてから、いま起きたことを頭の中で三回再生した。三回目でも結論は同じで、この人は朝から俺の席まで来て、挨拶だけして帰った。


 斜め前で坂内が振り返る気配がした。俺は先回りして教科書を出した。出したところで無駄で、坂内は椅子ごと回ってきた。


「今の見た」


「見てないよ。当事者だから」


「当事者は見たって言うんだよ」


 言われてみればそうだった。


「あのさ、日野」


「なに」


「三日連続って、もう連続じゃなくて習慣じゃね」


 坂内は言うだけ言って前を向いた。この男の言うことは、たいてい半分くらい当たっている。


 窓際の一角は、集まりきったところで一度だけ声の量が落ちた。落ちてから、何事もなかったみたいに元へ戻った。誰も篠宮に何も聞かないし、篠宮も何も言わない。そういう扱い方をされる人なのだと思う。


 その日、篠宮は三回来た。


 朝と、昼と、掃除の前。三回とも「あの」で始まって、三回とも別のことを言って帰った。朝は挨拶で、昼は「机、動かしますか」で、掃除の前は「黒板は、毎日ですか」だった。


 どれも用件ではなかった。用件ではないのに、三回とも本人は真剣で、そのたびに教室の音が半分になった。


 昼の「机、動かしますか」については、少し説明がいる。


 俺の机はどこにも動かす必要がなかった。掃除でもないし、席替えでもない。それでも篠宮は俺の机の角に手をかけて、五センチほど持ち上げかけて、そこで自分の手を見て、静かに下ろした。


 たぶん何か別のことを言おうとして、途中で経路を変えたんだと思う。変えた先に用意がなくて、目の前にあった机に手が伸びた。俺はパンを持ったまま、下ろされた机の脚を見ていた。


 掃除が終わったのは四時過ぎだった。俺は黒板消しを返しに用具入れの前へ行った。


 用具入れは廊下の突き当たりにあって、この時間になるとほとんど人が通らない。クリーナーの音が止まると、校舎の遠いほうの音が聞こえてくる。吹奏楽の同じ四小節が、さっきから六回繰り返されている。


 用具入れの中は、乾いた雑巾と塗料の匂いがする。何年ぶんか分からない黒板消しが棚に並んでいて、上の段のやつは誰も使っていないので白い層が固まっている。


 突き当たりで篠宮とすれ違った。正確には、すれ違いかけた。俺が用具入れの戸を開けたとき、篠宮は反対側から来て、俺を見て、足を止めて、それから鞄を持ち直した。


 持ち直したときに、鞄の口から何かが落ちた。


 小さいノートだった。手のひらより少し大きいくらいの、表紙が薄い緑のやつ。落ちた拍子に開いた。


 鞄の口からは、ひびの入ったスマホの画面も見えた。ひびは隅の一点から出ている。


 俺は屈んで拾った。拾うときに、開いているページが目に入った。


 箇条書きだった。


 番号が振ってあって、①、②、③と続いている。字は小さくて丁寧で、教室で見る篠宮の板書とまったく同じ形をしていた。


 ①のところだけ、線が引いてあった。取り消し線ではなく、なぞって太くしたような線だ。


 読むつもりはなかった。読むつもりはなかったが、目というのは勝手に読む。


 俺はノートを閉じて、差し出した。


「落ちました」


 篠宮は受け取らなかった。


 俺の手の中のノートを見て、それから俺の顔を見た。この三日で何度も見た往復だが、速度が違った。


「……見ましたか」


「見ました」


 嘘をつく場面ではない気がした。


 篠宮は一度、目を閉じた。閉じて、開けて、それから背筋を伸ばした。伸ばしたところで状況は何も変わらないのに、この人はそういうときに姿勢を直す。


「返してください」


「はい」


 今度は受け取った。受け取って、鞄の中へしまって、鞄の口を閉めた。閉めてから、閉めたことを確認するようにもう一度触った。


 それで終わりだと思った。頭を下げて帰るんだろう、と。


 篠宮は帰らなかった。


「準備をしないと」


 言った。


「言えないので」


 俺は黒板消しを持ったまま突っ立っていた。返しに来たのに、まだ返していない。


「順番を、決めておかないと、途中で分からなくなります。何を言いに来たのかが」


 声は小さかったが、途中で止まらなかった。用意していない話のときのほうが、この人はよく喋る。


「……はい」


「今日は、三つ書きました」


 三つ。朝と、昼と、掃除の前。数が合っている。


「全部言えました?」


 聞いてから、聞くことじゃなかったかもしれないと思った。


 篠宮は少し黙った。廊下の突き当たりの窓から、四時過ぎの光が斜めに入っている。吹奏楽の四小節が七回目に入った。


「……①で止まりました」


「三回とも?」


「三回ともです」


 俺はそこで、笑いそうになった。笑うのは失礼だと分かっていたので、口の内側を噛んだ。噛んだのが顔に出たらしく、篠宮がこちらを見た。


「おかしいですか」


「いや」


「おかしいと思います」


 自分で言った。俺が言う前に、自分で。三回来て三回とも同じところで止まる人間のことを、この人はいちばん厳しく採点している。


 言ってから、篠宮は少しだけ視線を下げた。俺の靴のあたりを見ている。


「三回来て、三回とも①で終わるのは、効率が悪いです」


「効率の問題なんですか」


「効率の問題ではありません」


 即答だった。この人は即答するときだけ声の硬さが取れる。


 俺は教室で見る篠宮のことを考えた。指示は正確で、忘れ物をしなくて、班の全員に立ち位置を割り振れる人。あれは完璧なんじゃなくて、全部あらかじめ書いてあるんだ、と思った。


 思ってから、それは他人に言うことじゃないな、と思い直した。


「じゃあ、明日は②から始めたらどうですか」


 言ったのは俺だった。言った瞬間に、なぜ自分が続きを勧めているのかが分からなくなった。


 篠宮が顔を上げた。


「①を飛ばしていいんですか」


「飛ばしても、たぶん怒られないと思います」


「私が怒られるかどうかの話ではありません」


 そこも即答だった。


 じゃあ何の話なんですか、と聞こうとして、やめた。聞けば答えるかもしれない、という感じがしたからだ。答えられたら、たぶん俺はどうしていいか分からない。


 篠宮は鞄の持ち手を握り直した。三年間ずっと持っていた握り方の癖が、三日で分かるようになっていた。


「明日、また来ます」


「はい」


「①からです」


「はい」


 頭を下げて、篠宮は廊下を戻っていった。突き当たりを曲がるところで一度足が止まったが、振り返りはしなかった。


 俺は黒板消しを用具入れへ入れて、戸を閉めた。


 教室へ戻る途中で、窓際の一角の何人かとすれ違った。すれ違ってから、後ろで声の高さが変わった。昨日と同じで、内容は聞こえない。ただ、昨日より人数が増えていた。


 鞄を取って、昇降口へ向かった。外はまだ明るくて、体育館の裏からは今日もバスケ部の足音がしていた。三日前と同じ音のはずなのに、同じようには聞こえなかった。


 歩きながら、俺はノートの①のことを考えていた。なぞって太くしてあった一行。ページの一番上に、他のどれより短く書いてあったやつ。


 ──① 名前を呼ぶ。

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