弁償させてください
朝、自分の机の中に紙袋が入っていた。
教科書を出そうとして指が当たった。引き出してみると白い紙袋で、口がきっちり二回折り込まれ、角が揃えてある。
中身を見る前に、俺は一度だけ教室を見渡した。誰もこちらを見ていなかった。見ていないというより、見ていた何人かが同時に見るのをやめた、という種類の静けさだった。
紙袋を開けた。制服のシャツが入っていた。袋の形に合わせて畳まれている。
値札は外してあったが、外した跡が襟の裏に残っていた。糸を切った位置が丁寧すぎて、かえって目立つ。
サイズを見た。俺の一つ上だった。誰が入れたのかを考える必要はなかった。俺の机に物を入れる人間は、この学校に一人もいない。一人もいなかった、が正確だ。
紙袋を鞄の中へ戻した。戻してから、口をもう一度折り直した。折り目が二回ついていたので、そのとおりに。
一限は英語だった。俺は自分の右腕が机の上でずっと同じ位置にあることに気づいて、動かした。
昼になっても、篠宮は来なかった。俺は購買へ行かず、いつもどおり自分の席でパンを食べた。窓際の一角はいつもどおり賑やかで、その真ん中だけが動かない。
半分ほど食べたところで、自分が音の質の変化を待っていることに気づいた。昨日、教室の話し声の何割かが一斉に同じ方向を向いた、あの感じだ。
来なかった。
それだけのことなのに、パンを食べ終わるまでに二回、同じことを考えた。二回目に考えたとき、俺はさすがに自分に呆れた。三年間なにも起きなかった相手に、二日で予定を作られている。
午後の最初の休み時間に、廊下で知らない女子二人とすれ違った。すれ違ってから、後ろで声の高さが変わった。内容は聞こえなかったが、変わったこと自体は分かる。
昨日までなら、俺の後ろで声が変わることなんて起きなかった。
五限の前に、坂内がまた椅子ごと振り返った。
「今日は来ないな」
「何が」
「いや、こっちの話」
坂内は前を向いた。向いてから、肩だけで笑った。この男は悪気がないぶん、ごまかしが下手だ。
六限が終わって、掃除が始まった。黒板消しをクリーナーにかけていると、機械の音で教室の話し声が聞こえなくなる。その十数秒のあいだに、俺は三つのことを順番に確認した。
返さないという選択肢はない。着るという選択肢もない。つまり、返しに行くしかない。
問題はそこだった。返しに行くというのは、こちらから話しかけるということだ。三年間、俺はあの人に自分から話しかけたことがない。一昨日の「立てますか」は数に入らない。あれは倒れているのが誰であっても同じことを言った。話しかけられないのと、話しかけないのは違う。後者は俺が選んできたことだった。
掃除が終わって、人が減っていった。篠宮は鞄を持って廊下へ出るところだった。
俺は紙袋を持って立ち上がった。立ち上がってから、窓際の一角の誰かがこちらを見たのが分かった。見たまま、見ていないふりに切り替わったのも分かった。
廊下で追いついたのは、階段の手前だった。
「あの」
先に言われた。俺が声を出すより早かった。呼び止めるつもりで近づいたのに、呼び止められたのはこちらだった。
「……返しに来ました」
紙袋を差し出した。篠宮は俺の手元を見て、それから顔を見て、また手元へ戻した。この人は視線を往復させる癖がある。
受け取らなかった。手は動いたのだと思う。動きかけて、途中で止まって、そのまま鞄の持ち手のほうへ戻った。昨日、袖口を握ったり離したりしていたのと同じ手だった。
階段を上ってくる足音がして、篠宮が半歩下がった。下がった先が踊り場の窓のほうで、俺もつられて動いた。二人分の場所を空けて、下級生が二人、話しながら通り過ぎていった。
声が遠くなるまで、どちらも喋らなかった。
「それは」
篠宮が言った。
「お礼ではありません」
「じゃあ、何ですか」
「弁償です」
言い切った。声はまだ硬かったが、昨日みたいに止まらなかった。たぶん、用意してきたんだと思う。
「弁償されるほどのものじゃないです」
「破れています」
「破れたのは、俺の不注意です」
「不注意ではありません」
即答だった。
そこで俺は、この人と言い合いをしているのだと気づいた。三年間、目も合わなかった相手と、廊下の踊り場で。
「私のせいで破れました。ですから弁償します。それは、お礼とは別のことです」
理屈としては通っている。通っているのに、どこかがおかしい。
おかしいのは、この人が「ありがとう」の四文字を避けるためだけに、ここまで組み立ててきた、という点だった。
「じゃあ、逆に聞きますけど」
「はい」
「弁償って、壊した側がするものですよね」
「はい」
「壊したの、自転車の人ですよね」
篠宮は数秒黙った。黙っているあいだ、視線が俺の顔から少し外れて、また戻ってきた。
「あの方には、あの方の分があります」
分がある、という言い方をする高校三年生を、俺は初めて見た。
「私の分は、私に弁償させてください」
どこかで聞いたことのある喋り方だと思ったら、去年の生徒会が全校集会でしていた喋り方だった。この人はたぶん、ああいう場所で喋る側の人間だ。
「サイズ、一つ上でした」
言うつもりのなかったことが出た。
篠宮の口が止まった。
「……大きいほうが、間違いが少ないと思いました」
「間違いはありました」
少しの間があって、篠宮が下を向いた。前髪が落ちて表情は見えなくなったが、耳が赤かった。
俺はこの人が完璧に見えるほうの人間だと思っていた。実際、教室ではそう見える。指示は正確だし、忘れ物もしない。
その人がいま、サイズの見立てを外して黙っている。
「……取り替えます」
「取り替えなくていいです」
「では、どうすればいいですか」
聞かれるとは思っていなかった。
俺は紙袋を持ったまま、窓の外を見た。グラウンドでバスケ部が外周を回っている。三年前に俺がやっていたのと同じ、規則正しい足音だ。
「何もしないでいてくれるのが、いちばん助かります」
言ってから、まずいと思った。
これは、三年間この人がやってきたことだ。俺は今、そのまま続けてくれと頼んだことになる。
篠宮も気づいた顔をした。気づいた瞬間に、目の奥のほうが動くのが見えた。一昨日の、もっと悪いものを見た顔に近い。
「……それは」
言いかけて、やめた。
やめてから、もう一度口を開いた。
「それは、できません」
初めてだった。この人が、俺に向かって自分の側から何かを断るのは。
断られたのに、こちらが責められている感じはしなかった。ただ、決まったことを言われた感じだった。
「じゃあ、これは」
紙袋を少し上げた。
「持って帰ります」
篠宮はそれを見て、一度だけ頷いた。それから、頷いたことを後悔したような顔をした。
「では、別の方法を考えます」
頭を下げて、階段を下りていった。歩き方は普通だった。踊り場の途中で一度だけ手すりに触れたが、それだけだった。
俺は紙袋を持ったまま残された。昨日と同じだ、と思ってから、昨日とは違うと思い直した。昨日は座ったまま黙っていただけだった。今日は、こちらから追いかけて、追いかけたうえで返せなかった。
廊下の時計を見た。四時二十分。教室を出たのが四時十分だったから、十分ほど喋っていたことになる。
三年で、いちばん長かった。
考えてみれば、いちばん長かったも何も、これまでがゼロなのだが、それでも十分は十分だ。
俺は紙袋の口を折り直した。二回折り込んで、角を揃えて。
昇降口を出たところで、自分がわりと機嫌のいい歩き方をしていることに気づいて、足を止めた。
止めたところで、直しようもなかった。




