あの
翌朝、俺は肘に絆創膏を貼って、昨日のことを無かったことにした。
制服の袖は破けたままだ。予備はあるが、出すのが面倒だった。裂けているのは肘の外側で、腕を下ろしていれば見えない。
見えなければ聞かれない。聞かれなければ説明しなくていい。電車の中でそこまで考えて、自分がずいぶん段取りよく逃げているな、と思った。
教室に入ったのは八時十二分で、いつもと同じくらいの時刻だった。窓際の一角には、いつもと同じくらいの人数がいた。中心にいる人も、いつもと同じだった。
篠宮はこちらを見なかった。それで、俺は少し安心した。安心してから、安心したことに引っかかった。昨日までなら、見られないことは前提であって、確認するようなことではなかったはずだ。
一限は現代文で、二限は数学だった。二限の途中で、俺は自分が黒板をまったく見ていないことに気づいた。
昼になった。俺は購買へ行かず、鞄からパンを出して自分の席で食べた。
これは昨日からの習慣ではなく、去年からの習慣だ。購買は混むし、混んでいるところで一人でいると、一人でいることが目立つ。
半分ほど食べたところで、教室の音の質が変わった。言葉にすると難しいが、話し声の総量は変わらないのに、その中の何割かが同じ方向を向いた、という感じだった。俺は顔を上げなかった。上げなくても分かることがある、というのは昨日学んだ。
誰かが俺の机の前で止まった。
「あの」
パンを持ったまま、顔を上げた。篠宮が立っていた。
まず思ったのは、近い、ということだった。教室で見る篠宮はいつも三メートル先か、窓際の光の中にいて、輪郭が少しぼやけていた。目の前にいると、思っていたより背が低い。
次に思ったのは、この人は俺の名前を呼ばなかった、ということだった。
「あの」
二度目も同じだった。篠宮は俺の顔を見て、それから少し下を見て、また顔を戻した。昨日と同じ動きだ。昨日は俺の袖を往復していたが、今日は俺の顔と、たぶん絆創膏のあたりを往復している。
「……はい」
俺が言うと、篠宮の口が開いた。開いて、そのまま止まった。
言葉が出てこないというより、どの言葉を出すかを選んでいる途中で、選択肢が全部だめだと分かった、という止まり方だった。
教室が静かになりつつあった。完全に静かではない。誰も俺たちを見ていないふりをしていて、そのふりをするために必要な音だけが残っていた。
「昨日は」
やっと出たのがそれだった。
「……昨日は、その」
言い直したのは、たぶん昨日という言葉が範囲として大きすぎたからだと思う。昨日には放課後も含まれるし、そこで起きたことも含まれる。それを教室で言うのは、この人にとって、たぶん無理だった。
俺はパンを机に置いた。
こういうとき、相手に楽をさせる言い方というのがある。気にしてないですよ、とか、たまたまですから、とか。俺はそれを一度も使ったことがないが、知ってはいる。
言おうとして、やめた。やめた理由は自分でもよく分からない。ただ、いま俺がそれを言うと、この人が言おうとしていることが行き場を失う気がした。
三年間まったく話しかけてこなかった人が、教室の真ん中で二回「あの」と言った。その先を、俺が代わりに埋めるのは違う。
だから待った。昨日と同じだ。俺は待つのが得意なわけではないが、何もしないのは得意だった。
篠宮は右手で左の袖口を握っていた。制服の袖を、内側へ折り込むように握って、それを離して、また握った。二回目に握ったとき、指の関節が白くなっているのが見えた。
「──放課後、」
言いかけたところで、廊下側で誰かが笑った。
俺たちとは関係のない笑い声だった。誰かが誰かをからかっている、教室でいくらでも起きる種類の音だ。それでも篠宮は口を閉じた。
閉じて、周りを見た。見た瞬間に、自分が今どこにいるかを思い出した顔になった。三十人ぶんの、見ていないふりの視線の真ん中に立っている。
「……すみません」
それが最後だった。
篠宮は小さく頭を下げて、自分の席へ戻っていった。歩き方は普通だった。
窓際の一角では誰も何も聞かず、話題は途切れたところから再開された。そういう配慮ができる集団なのだと思う。
俺はパンの残りを食べた。味はしなかった。
五限が始まる前に、斜め前の席の坂内が椅子ごと振り返った。同じクラスで二年目になるが、話すのは月に一度か二度くらいの間柄だ。
「なあ、篠宮となんかあった?」
「いや」
「いやって、めっちゃ来てたじゃん」
来ていたのは一回だ。一回来て、二回「あの」と言って、帰った。それを「めっちゃ来てた」と表現できる感覚が、俺にはよく分からない。
「なんもないよ」
「ふーん」
坂内は前を向いた。向いてから、もう一度振り返った。
「なんもないやつって、だいたいなんかあるよな」
悪気はない。坂内はそういうやつで、ここで言い返せば言い返しただけ話が長くなる。
俺は黙って教科書を開いた。開いてから、黙ったことも一種の返事になるのだと気づいた。
五限が終わるころには、俺の耳に入らないところで、少なくとも二種類の話ができていたと思う。
午後の授業は、午前より頭に入らなかった。頭に入らないなりに、引っかかっていたことがひとつある。
この人は、俺の名前を呼ばなかった。
もっとも、名前で呼ばれないことなら慣れている。呼ばれる場面がそもそも無い。頼みごとを「あの」から入る人は珍しくないし、たぶん深い意味はないんだと思う。
それでも、二回とも「あの」だったな、とは思った。
六限が終わって、掃除が始まった。俺の担当は黒板で、これは一年のときからずっと同じだ。誰も取り合わないので、じゃんけんをせずに決まる。
黒板消しをクリーナーにかけていると、機械の音で教室の話し声が聞こえなくなる。この時間だけは、何を言われていても分からない。悪くない役だと思っている。
掃除が終わって、人が減っていった。部活のやつは早く、そうでないやつも今日は早かった。俺は鞄を持って立ち上がり、廊下へ出るところで、一度だけ振り返った。
篠宮はまだ席にいた。窓際の一角はもう解散していて、その人だけが残っていた。
机の上には何も出ていない。帰る用意も、残る用意もしていない。
目が合った。
三年で、二度目だった。
今度は篠宮のほうが先に逸らした。逸らして、それからもう一度こちらを見た。何か言おうとして、口の形だけ作って、やめた。
そのあいだ、俺は自分の右腕が下がっているかを確かめていた。袖の裂けているところが見えていないか、という意味だ。見えていたところで何が変わるわけでもないのに、下がっていることを確認して、少しほっとした。昨日から、この人の前で俺がしていることは、それだけだった。
俺は廊下へ出た。昨日のことは無かったことにする、というのが今朝の予定だった。予定というのは、こちらが一人で決めた場合、たいてい守られない。




