三年ぶりに目が合った
六限の終わりに、担任がプリントを配り忘れた。気づいたのはたぶん俺だけだったが、言わなかった。どうせ明日でいい。
鞄を持って立ち上がると、窓際の一角がまだ賑やかだった。放課後になっても人が減らない席というのがあって、あそこがそうだ。
中心にいるのが誰かは、こっちを向いていなくても分かる。声の位置が変わらないからだ。周りが動いて、真ん中だけが動かない。
篠宮。中学が同じで、高校でも二回クラスが同じになって、その三年のあいだ、俺はあの人と一度も目が合ったことがない。
廊下ですれ違うとき、向こうの目は俺の肩の少し上を通っていく。透明人間というのは、案外こういう感じなのかもしれない。
嫌われている、とは思わなかった。嫌うには、まず認識しないといけない。
昇降口を抜けたところで、体育館の裏からバスケ部の走る音が聞こえた。外周を回っているらしい。俺は自分の足元を見て歩いた。
ああいう規則正しい足音を聞くと、膝の裏あたりが今でも勝手に反応する。中学までは陸上をやっていた。やめた理由は、まあ、いろいろだ。
通学路は駅までほぼ一本道で、途中に古い商店街のアーケードがある。屋根はあるのに雨の日は端が濡れる、という中途半端な作りだ。
夕方は自転車が多い。歩道と車道の境目が塗装で示されているだけで、その塗装も半分消えている。毎年誰かが接触して市に苦情が入るという話を、去年の生徒会が全校集会で三分ほどしていた。その日も自転車は多かった。
俺の二十メートルほど前を、同じ制服の女子が歩いていた。片手にスマホを持って、画面を見ている。歩きスマホというより、地図か時刻表を確かめている歩き方だった。二、三歩進んでは止まり、また進む。歩幅が一定しない。
その先から、荷台に段ボールを積んだ自転車が来た。
積みすぎだった。三段重ねた上の一箱が明らかに斜めになっていて、それを右手で押さえながら漕いでいる。
つまり片手運転で、目線は荷台のほうを向いている。前を見ていない。速度も落ちない。アーケードの幅は、人が二人並んだらもう一杯だ。
片方は画面を見ていて、片方は荷台を見ている。真正面から近づいている。
間に合わないな、と思った。思ったのと走り出したのは、たぶん同時だった。
地面が近くなる感覚があった。走るときの最初の三歩は、前へ進むというより落ちるのを足で受け止める動きで、それを体が覚えていた。
四歩目で顔が上がる。制服の背中が思ったより速く大きくなる。距離が縮まるのが、自分の力ではなく画面が寄ってくるみたいに見えた。
腕を掴むか、押すか。掴めば引き倒すことになるし、俺の体は勢いがついている。
右肩から入った。
背中に当たった感触は、思っていたよりずっと軽かった。人ひとりというのはこんなに軽いのか、と場違いなことを考えた。そのまま二人でアーケードの柱側へ倒れ込む。すぐ横を金属の塊が通り抜けて、段ボールの角が俺の踵をかすった。
アスファルトは思ったより硬かった。肘から先が急に熱くなって、ああ擦ったな、と分かった。痛みはまだ来ていない。来る前に分かる、というのが久しぶりだった。
「──っ、」
息の詰まった声がした。俺のじゃない。押し倒す形になっていた。慌てて左腕をついて体を起こす。
段ボールの自転車は五メートルほど過ぎたところで止まっていて、乗っていたおじさんが崩れた箱を拾いながらこっちを見ていた。何か言っている。
すみません、と聞こえた気もするし、聞こえなかった気もする。人が三人ほど足を止めて、また歩き出した。
俺は自分の肘を見た。制服の袖が破けて、下の皮膚が赤くなっている。血は少し。骨は大丈夫そうだ。
それから下の人へ手を貸そうとして、やめた。触るのはまずい気がした。
「立てますか」
声が変だった。走ったせいだ。三年もサボっていれば、二十メートルでこうなる。
返事はなかった。スマホが一メートルほど離れたところに落ちていて、画面に蜘蛛の巣みたいなひびが入っていた。
俺は膝で移動してそれを拾い、差し出そうとした。
そのとき、相手が顔を上げた。夕方の光がアーケードの切れ目からちょうど差し込んでいて、正面から当たっていた。だから見間違えようがなかった。
目が合った。
三年で、初めてだった。
篠宮は俺を見ていた。俺の肩の少し上ではなく、俺を。口が半分開いていて、何か言おうとして言葉が出てこないという顔をしていた。前髪が片側だけ乱れて、頬に細い線の跡がついている。柱に擦ったのかもしれない。
俺は自分がまだ差し出したままのスマホを見た。ひびの入った画面に、俺の指が映っている。言うべきことは、たぶん一つしかなかった。
「──落ちてました」
言ってから、いや違うだろ、と思った。篠宮は受け取らなかった。
座り込んだまま、俺の破けた袖のあたりを見ていた。それから顔へ視線を戻して、また袖へ戻した。何往復かした。
その目が、俺の知っているどの表情とも違っていた。驚きでもない。感謝でもない。迷惑そうでもない。
もっと悪いものを見た顔だった。
「……どうして」
最初に出たのは、それだった。礼でも、名前でもなく。
俺はスマホを持ったまま返す言葉を探した。どうして、と聞かれても困る。体が動いたからだ、としか言いようがない。
でも彼女が聞いているのはそういうことじゃない、というのは分かった。そのくらいは、三年間まったく目を合わせてもらえなかった人間にも分かる。
最初からそうだったわけではない。中学の途中までは、少なくとも認識はされていた。それがある時期から、ぱたりと止まった。
去年の球技大会で同じ班になったとき、篠宮は班の全員に立ち位置の指示を出した。俺以外の全員に。俺の分は隣のやつが「日野はこっちだって」と伝えてくれた。悪気があるようには見えなかったし、隣のやつも特に変だとは思っていない様子だった。たぶん本当に、見えていないだけなんだと思っていた。
その人が、俺の袖を見ている。
立ち上がった篠宮は、制服の埃を丁寧に払った。慌てた手つきではなかった。それから俺の手からスマホを取った。指は触れなかった。
そして深く頭を下げて、何も言わずに歩き出した。
俺はその場にしゃがんだまま残された。段ボールのおじさんがようやく荷物を積み直し終えて、何度も頭を下げながら自転車を押していった。
足を止めていた人たちはとっくにいない。アーケードの照明が一段明るくなって、夕方が終わったことが分かった。
どうして、と人に聞かれたのは久しぶりだった。
俺が何かをしても、たいてい何も起きない。三十人いる教室で、俺の指摘は三十一人目くらいの重さしかない。
これは卑屈じゃなくて、観測結果だ。二年の四月に席替えをしたとき、くじ引きの紙に俺の名前だけ書かれていなかった。誰かの書き忘れで、言えばその場で直る話だった。
言わなかった。最後に余った席へ自分で座って、それで終わりにした。誰も気づかなかったし、俺も困らなかった。そういうものだと思っている。
その俺が、さっき人ひとりぶんの結果を出した。出した相手は、三年間こっちを見なかった人だった。
肘の痛みは、そのあたりでやっと来た。熱を持った部分に空気が当たるとひりつく。制服の袖は肘のところで裂けていて、母に何と説明するかを考えて、説明しないことにした。どうせ聞かれない。
立ち上がって、篠宮の背中を探した。まだ見えた。歩くのが速い。走ってはいないが、走りたいのを我慢しているような足の運びだった。
駅は反対だった。




