十二月二十三日
夏祭りの夜から、季節は淡く三つを越えた。
九月、キャンパスの銀杏並木を桜井さんと二人で歩いた。並木の足元には黄色の絨毯が一枚分ずつ重なっていき、踏むと低い音が返ってきた。卒論の章立ての話を彼女がした。声の張りは、図書館で会うときと同じだった。風の中で、彼女が一度だけ髪を耳にかけた。
十月の終わりの夜、研究棟の前で待ち合わせた。桜井さんは紙袋から濃紺の毛糸の塊をひとつ取り出し、
「これ、編んでみたんです。試しに」
と短く言って、僕の側に差し出した。マフラーは、まだ少し編み糸の匂いがした。冬になって以降、僕はほとんど毎日それを首に巻いている。
十一月の朝、初雪の日に、図書館の前で偶然会った。桜井さんはコートの肩に薄く粉のかかった霜を載せたまま、
「初雪、見ました」
とだけ言った。僕も「見ました」と返した。それ以上の言葉は要らなかった。
十一月の終わりの平日の午後、僕は一人で、夏祭りの夜に二人で寄った神社へ行った。年に何度かしか開かない社務所が、ちょうど開く日を待っていた。小窓に並んだお守りの中に、白地に紺の紐の意匠が一つだけあった。あの夜、桜井さんが指で示してくれた、石灯籠の根元のお守りと同じ意匠だった。一つ買って紙の袋に入れてもらい、家に持ち帰って机の引き出しの一番上にしまった。
***
十二月二十三日の昼に、桜井さんへメッセージを送った。
『明日、五時に、駅前の交差点で会いましょう』
すぐに返事が来た。
『予約してくれたお店、楽しみです』
少し間が空いて、
『もしよかったら、今夜、少しだけ、うちに来ませんか。明日の前に』
と続いた。
『行きます』
と返した。
駅前のコンビニで温かい缶のお茶を二本買った。夏祭りの夜にも同じ棚の前で同じ二本を選んだのを思い出す。
水路沿いの煉瓦色の四階建て。三階のいちばん奥のドアの脇の表札に、
桜井、
とだけ書かれていた。ベルを押すと、低いチャイムが二度鳴った。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
桜井さんは家用の薄手のニットに、足元は厚手の靴下を履いていた。室内のストーブの低い音が、ドアの隙間からひとすじ漏れてくる。
「寒かったでしょう」
「いえ。途中で、お茶を」
と缶を二本差し出した。桜井さんは両手で受け取り、
「あったかい」
と片方を自分の頬に近づけ、それから急いでもう片方を僕の側に戻した。
窓ガラスは下半分が薄く曇り、結露が縦に二筋、滴の道を引いていた。
食事は簡素だった。台所から運ばれてきた小さな一人鍋。白菜と春菊と、薄切りの豚肉。鍋の蓋を取る指の動きが、図書館で本を扱うときと同じ角度をしていた。彼女は野菜の方から先に取って、僕の小皿に静かに置く。
「冷めないうちに、どうぞ」
「いただきます」
台所の小さな棚の端に、小ぶりの白い箱がひとつ置かれていた。蓋は閉じている。桜井さんは鍋の蓋を片手で支えたまま、もう片方の手の指先で、白い箱の角を一度だけ撫でた。撫でたことに自分で気づかないような撫で方だった。月にひとつ、と、僕は数えなかった。
食事のあと、お茶を淹れてくれた。二人がけのソファに、彼女が右側、僕は左側に座る。神社のベンチのときと同じ順番だった。
桜井さんが膝の上に一冊の本を置いた。文庫よりも少しだけ大きな、布張りの本だった。深い青の表紙は角から灰色に抜けかけ、背の金箔はほとんど剥げ落ちて、書名は判じづらかった。
「それ、ずいぶん、古い本ですね」
「ええ。祖母が大切にしてた本で」
「中学生の頃に、これは気に入っているから、って、譲ってもらって」
桜井さんは表紙の角を指の腹で一度撫でた。
「古い、外国のお話で。妻を亡くした、音楽家の話なんです。冥界に降りて、妻を連れ戻そうとする話で」
「妻の顔を冥界で見ることを禁じているのですが、最後の最後で、見てしまって」
そこで、桜井さんは一度、言葉を切った。
「……ごめんなさい。あらすじを、話してしまって」
「いえ。面白そうですね。読んでみたいです」
桜井さんは小さく頷いて、本を僕の方にそっと差し出した。
「よかったら、持って帰って、読んでみてください」
「……いいんですか、そんな大切なもの」
「ええ。返すのは、いつでも、いいので」
平らな声だった。
両手で受け取り、膝の上で表紙を開いた。紙はわずかに焼けて、墨と古い糊の匂いが指先に立った。桜井さんはソファの背に頭を寄りかからせ、湯気の上がる湯呑みを両手で包んでいた。
しばらく読んだところで、隣から、ふっと声がかかった。
「ねえ、瀬戸さん」
本を閉じる手が止まった。
「私のこと、いつから、好きでした?」
「……どこから、答えれば、いいんでしょう」
「一番、最初のところから。ちゃんと、覚えてますか」
図書館のあの棚の上の段を、目の奥で一度だけ確かめた。
「あの、図書館で、肩に、桜の花びらが付いていて」
「桜井さんが、指で、摘み上げて、手渡ししてくれた、夕方」
桜井さんが短く黙り、いつもより少しだけ上ずった声で笑った。
「ふふ。ちゃんと、覚えてるんですね」
「私、てっきり、棚で手が触れた夜のことを言うかな、と思ってました」
「……あれは、その、もう少し、後だった気がします」
「順番、間違ってませんよ」
「桜の花びらのほうが、先でした」
僕は膝の上の本を伏せて、桜井さんの方を見た。
「瀬戸さん、ちゃんと、覚えてくれてる人で、よかった」
さらりと置かれた。視線が一度、窓の方へ逸れた。
桜井さんはお茶の湯気の向こうで短く笑った。
「明日、遅れずに来てくださいね」
「五時に、待ってますから」
それから話題は本の方へ戻された。桜井さんは湯呑みをローテーブルに置き、ソファの背に頭を寄りかからせた。僕は膝の上の本をもう一度開き、栞代わりの指の位置から数行を追った。やがて、隣の呼吸が穏やかに整っていった。
重みが少しずつこちらへ傾き、桜井さんの頭が僕の肩に触れた。思っていたよりも軽かった。肩の骨のくぼみに、頭の重みがちょうど一つ分だけ収まっている。首元に残っていた毛糸の匂いが、いつのまにか彼女の髪の匂いに置き換わっていた。あの雨の日と同じシャンプーの匂いが、近くで、今度は遠ざからずにとどまっていた。
動かないようにした。呼吸を浅くした。胸の上下のわずかな揺れさえ、肩の上の重みを起こしかねないように思えて、息を吐く速さをいつもの半分にした。灰色のひざ掛けを、手の届く範囲だけそっと引き上げて、彼女の膝の上にかけた。指は触れないようにした。本は閉じて、僕の鞄の上に重ねて置いた。ストーブの低い唸りと、隣の呼吸と、自分の呼吸の三つだけが、部屋の中に残っていた。時計の音は、いつもより遠くで鳴っていた。
しばらくして、彼女が目を開けた。
「あ。すみません、うとうとしてしまって」
「いえ」
「明日の準備、もう、できてるので」
と座り直し、髪を耳にかけた。
***
玄関で靴を履き、鞄を肩にかけ直した。布張りの本の角が、鞄の口から少しだけのぞいていた。
マフラーを巻き直した。濃紺の毛糸が、首の前で二度、軽く折り目を作る。
「明日、五時に、交差点で」
「うん。じゃ、明日」
「うん。明日」
ドアの内側で、桜井さんが半歩だけこちらに身を傾けて、止まった。閉まる扉の隙間の最後のひと寸のところで、彼女の指がドアの縁を一度だけ押さえた。閉まる音はそれだけ遅れた。
水路沿いの道に出てから、立ち止まって三階のいちばん奥の窓を見上げた。カーテンの内側に、薄い影が一度揺れた気がした。
***
部屋に帰り、机の手元灯だけを点けた。机の上に、預かった本を置いた。
窓の外で、街路樹のかすかな葉擦れの音が、夜の中をひと撫でして消えた。




