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第7話 私より上手な私の物語

第7話 私より上手な私の物語


 柊木廉へ未発表原稿を送ってから半年が過ぎた。千尋は相変わらず印刷工場へ週三日通い、白い紙を十枚ずつ指でずらしながら百枚の束をつくっていた。梅雨に入った作業場は湿気が多く、紙の端が指へまとわりつき、二枚を一枚と数えることが増えた。薄い水色の作業着の背中には汗がにじみ、帽子の内側では切りそろえていない前髪が額へ貼りついていた。


「水城さん、三番の機械へ紙を持っていって」


「この束を数えてからでいいですか」


「今すぐ必要なの」


「今、七十枚です」


「戻ってから続きを数えればいいでしょう」


「戻ると、七十だったか分からなくなります」


「だったら、紙へ書いておいて」


 千尋は作業台の端に「七十」と書いた付箋を貼った。三番の機械へ紙を運び、帰りに廃棄箱がいっぱいになっていることへ気づいた。先に廃棄紙を片づけると、作業台へ戻ったころには、何のために「七十」と書いたのか分からなくなっていた。


「これは何の数字だろう」


 付箋を指で押さえ、机の上を見回した。七十枚の束の横には、別の作業員が置いた三十枚の紙が重なっている。どこまでが自分の紙なのか分からなくなり、千尋はすべてを最初から数え直した。


 昼休みになると、千尋は更衣室の隣にある狭い休憩室へ入った。弁当箱には昨夜焼いた塩鮭、甘い卵焼き、冷凍食品の小さなコロッケが入っていた。朝、急いでふたを閉めたため、鮭の皮が卵焼きへ貼りつき、コロッケの衣にはご飯粒がいくつもついている。千尋は卵焼きから鮭の皮をはがし、アルミカップの端へ細く丸めた。


 向かいの席では、投稿サイトを教えてくれた女性が携帯電話を見ていた。桃色の弁当箱を開けたまま、画面へ指を滑らせ、隣の同僚へ声をかけた。


「柊木廉の新作、ランキング一位だって」


「また? 前の作品が書籍になったばかりでしょう」


「今度のも書籍化が決まったみたい。投稿を始めて半年なのに早いよね」


「さすがだね。題名、何だっけ?」


「『追放王子は海辺の町で名もなき家を建てる』」


 千尋の箸が卵焼きへ触れたまま止まった。海辺の町と追放された王子なら、エリアスと似ている。しかし廉は半年前から、海の向こうから追放された王子の物語を書くと言っていた。王子が出てくる小説はたくさんあると、自分も美沙へ説明した。


「柊木廉さんの新作、どんな話ですか」


 千尋が尋ねると、女性は画面を見せてくれた。表紙の絵には黒い髪の青年と、灰色の外套を着た少女が描かれていた。二人の背後には荒れた海があり、波打ち際には青白い大きな獣が立っている。


「この獣は、何ですか」


「月狼っていう魔獣。王子が子どものころから一緒にいるんだって」


「白い獣ですか」


「絵は青っぽいけど、本文では銀色らしいよ」


「言葉を話しますか」


「話さないみたい。主人公の気持ちだけ分かるんだって」


 千尋は自分の弁当箱へ目を戻した。白い獣も、人間の言葉を話さなかった。リナが家を建てるときに枝を運び、年を取ってからは森の古い家を守っている。けれど、言葉を話さない獣が登場する小説も、追放された王子の小説と同じように、ほかにもあるのかもしれなかった。


「読みたいなら、最初から読めるよ」


 女性は作品の画面を開いた。千尋は携帯電話を持っていたが、休憩時間は残り十五分しかない。廉の新作はすでに八十話まで公開されており、一話ずつ読めば何日もかかる。


「家で読みます」


「千尋さん、柊木先生と知り合いなんですよね?」


「はい。小説を教えてくれます」


「すごいよね。書籍化のお祝い、送った?」


「まだ知りませんでした」


「今朝発表されたばかりだから。本人から聞いてなかったの?」


「最近、連絡が少なくなりました」


 最後に廉から届いたのは、一か月前だった。新作の締め切りが近いため、しばらく千尋の原稿を読めないと書かれていた。それでも公開された『森の家と白い獣』へ閲覧の印が増えれば、どこかで廉も見てくれているのだと千尋は考えていた。


 午後の作業中、千尋は何度も柊木廉の新作を思い出した。月狼は銀色で、白い獣とは色が違う。主人公も少女ではなく王子であり、家を建てる場所も森ではなく海辺の町だった。同じところより、違うところを数えればよいと思った。


「水城さん、紙が逆です」


 先輩に言われ、千尋は手元を見た。印刷する面を上にするはずの紙が、半分だけ裏返っていた。考え事をしないよう気をつけると、今度は百枚を数えた束へ帯を巻くことを忘れた。


「今日はどうしたの?」


「少し、気になることがあって」


「家のこと?」


「小説のことです」


「仕事中は仕事のことを考えて」


「はい」


「何度も同じことを言わせないでね」


 千尋は返事をし、紙の白い面だけを見た。白い紙には何も書かれていなかったが、頭の中では銀色の獣が海辺を歩いていた。白い獣と同じように太い枝を運ぶのか、リナの青い花の服と同じものが出てくるのか、確かめるまで紙の数へ集中できそうになかった。


 帰宅すると、雨で濡れた紺色のズボンを脱ぎ、灰色のジャージーへ着替えた。洗濯機へ作業着を入れたが、洗剤をどこまで入れたか分からなくなり、ふたを開けて匂いを確かめた。粉末洗剤の甘い匂いが強かったので、たぶん二回入れたのだと思った。泡があふれないか気になったが、先に廉の作品を確かめたくなり、洗濯機を動かしたまま二階へ上がった。


 机の上には朝のコーヒーカップが残り、底には砂糖の溶け残りが茶色く固まっていた。窓辺へ干したタオルは半乾きで、湿った布の匂いが部屋へこもっている。千尋は毛玉のついた黄色いトレーナーの袖を肘までまくり、パソコンをつけた。


「一話目から読まなくちゃ」


 廉の作品を開くと、最初の一文から整っていた。追放された王子レオンが、母の遺骨を抱えて海辺の町へたどり着く。そこで銀色の月狼と出会い、戦争で焼かれた家を一軒ずつ建て直していく物語だった。


 レオンが何を求め、何を失い、次に何をするのか、一度読めば分かった。台詞の話し手を見失うこともなく、同じ説明が繰り返されることもなかった。一話の最後には必ず次を読みたくなる出来事が置かれ、千尋は定規を画面へ当てなくても先へ進めた。


「読みやすい」


 千尋は声に出した。自分の文章を読むときは、一行を何度も戻り、主語を探さなければならなかった。廉の文章では、レオンが歩けば景色も一緒に動き、月狼が振り返れば誰を見ているのかすぐに分かった。


 十話まで読んだところで、台所から洗濯機の終了音が聞こえた。千尋は階段を半分まで下りたが、次の話の題名に「母の靴」と書かれているのを思い出した。洗濯物は逃げないと思い直し、部屋へ戻った。


 第十一話で、レオンは亡くなった母が履いていた古い靴を取り出した。柔らかい革でできた小さな靴には、海水の白い染みが残っている。レオンは毎週日曜日になると、井戸から水をくみ、その靴を洗った。


 千尋は画面へ近づいた。自分の未発表原稿にも、リナが亡き母の靴を毎週洗う場面があった。それは本編へ入れる前の短い挿話であり、投稿サイトには一度も公開していなかった。


 リナの母は、家から追い出される直前、娘へ自分の靴を渡していた。父親には畑仕事へ行くふりをし、リナを森の入口まで送った。森で歩けるよう底の厚い靴を履かせようとしたが、娘の足には大きすぎたため、自分の靴だけを残して家へ戻った。


 成長したリナは、その靴を毎週洗った。母を許したからではない。泥がついたままにすれば、母が自分を送った最後の朝まで汚れる気がしたからだった。靴は履かず、洗い終えると森の家の壁へ立てかけた。


「同じじゃない」


 千尋は自分へ言い聞かせた。廉の主人公は男で、母の靴も小さい。リナの母の靴は娘には大きく、海ではなく森の泥がついていた。毎週洗うというところが同じでも、それだけなら偶然かもしれなかった。


 廉の文章では、レオンが靴底へ詰まった砂を古い歯ブラシで落としていた。右足の靴底には小さな穴があり、そこから青いものがのぞいた。レオンが指でつまみ出すと、海の色を閉じ込めたような丸いガラス玉が現れた。


「違う」


 千尋の声が大きくなった。机の端にあったコーヒーカップへ肘が当たり、固まっていた砂糖が床へ落ちた。洗濯機の終了音が、階下でもう一度鳴った。


 リナの母の靴にも、青いガラス玉が隠されていた。母はリナを森へ逃がす朝、靴底の穴へ小さなガラス玉を押し込んだ。貧しい家で買えるものではなく、母が少女だったころ、海を旅する行商人からもらった品だった。


 リナは毎週靴を洗っていたが、靴底の泥をすべて落としたことはなかった。母が死んだという知らせを受けた週、初めて古い歯ブラシで底をこすり、青いガラス玉を見つける。光へ透かすと、玉の中には白い傷が一本あり、それが海の向こうへ続く道のように見える場面だった。


 千尋は椅子から立ち、机の引き出しを開けた。薬の袋、古い電池、使いかけの輪ゴム、期限の切れた割引券の下から、設定を書いた大学ノートを取り出した。表紙にはカレーの染みがあり、角は何度も開いたため丸くなっていた。


「どこだっけ」


 ページをめくる指が汗で滑った。リナの幼少期、母の過去、森の家と書いた見出しを探したが、同じ話を何か所にも書いていた。焦るほど行が飛び、青いガラス玉という文字を見つけられなかった。


 千尋はパソコンの中も探した。「廉さん用」と名前をつけた設定ファイルを開き、検索の欄へ「ガラス」と入力した。三か所が見つかった。半年前、廉へ送ったファイルの中に、母の靴を洗う場面と、靴底から青いガラス玉を見つける結末まで書かれていた。


「送ってる」


 千尋は送信した日の連絡も開いた。


「リナの母が残したものについて、詳しく教えてください」


 廉に尋ねられ、千尋は母の靴の形、洗う曜日、使う歯ブラシ、ガラス玉の色まで説明していた。


「なぜ靴の中ではなく、靴底に隠すのですか」


「父に見つからないようにするためです。母は家を出る前に、糸切りばさみで靴底へ穴を開けました」


「ガラス玉には何か力がありますか」


「ありません。母が自分で持っていた、いちばんきれいなものです」


「ただのガラス玉?」


「はい。リナに何も持たせられなかったので、それだけ隠しました」


「リナは、見つけたあとどうしますか」


「靴底へ戻します」


「身につけないのですか」


「母が隠した場所だから、そのままにします」


「それでは見つけた意味が弱いのでは?」


「見つけるまで、母が何もくれなかったと思っていたからです」


「場面は悪くありません。ただ、君には見せ方をまとめる力がない。もっと読者へ分かりやすくしたほうがいいでしょう」


 半年前の言葉が、そのまま画面へ残っていた。廉は靴底へ隠す理由まで知っていた。青いガラス玉には魔法の力がないことも、母が持っていた最も美しい品だったことも知っていた。


 廉の作品では、レオンがガラス玉を光へ透かした。中の白い傷は、母と行くはずだった海の道に見えた。レオンは玉を靴底へ戻さず、首飾りへ作り替えて身につける。そして、海辺の町を母が帰れる場所へ変えると誓った。


「僕は、母さんの帰る家をつくる」


 台詞は短く、何を決めたのか一度で分かった。リナは青いガラス玉を見つけても、何も言わない。靴底へ戻し、次の週も同じように靴を洗うだけだった。千尋自身にも、リナが母を許したのか、それとも許さなかったのか、一つの言葉へまとめることはできなかった。


 廉のレオンは違った。母を待つために家を建てると宣言し、その決意が物語の目的へつながった。靴を洗う行為も、青いガラス玉も、町を再建する理由として一つにまとまっている。千尋が考えた場面なのに、廉の物語のほうが、その場面を置く意味がはっきりしていた。


「わたしより、上手だ」


 千尋は画面へ向かって言った。下の階では洗濯機が止まり、泡を含んだ水が排水口へ流れていた。机の上には昼に食べ切れなかった鮭のおにぎりが紙に包まれたまま置かれ、海苔の表面が湿って黒く光っている。


 千尋は廉の感想欄を開いた。第十一話には、ほかの話より多くの言葉が届いていた。


「靴を毎週洗うところで涙が止まりませんでした」


「青いガラス玉を靴底に隠したお母さんの気持ちを思うと胸がいっぱいです」


「こんな場面を思いつく柊木先生は天才です」


「ただの形見ではなく、靴を洗う習慣そのものに愛情を描くなんて、どうしたらこんな発想ができるのでしょう」


「書籍になったら絶対に買います」


 感想は何十件も続いていた。泣いたと書く人、亡くなった自分の母を思い出したと書く人、レオンがガラス玉を身につける場面を絵にしたいと書く人もいた。どの人も廉の名前を呼び、廉が生み出した場面として褒めていた。


「これは、わたしが考えました」


 千尋は感想欄の入力画面へ書いた。文字にすると、指先が冷たくなった。


「この場面は、わたしが未発表原稿に書いて、柊木廉さんへ送りました。亡くなった母の靴を毎週洗い、靴底から青いガラス玉を見つけるところは、わたしの物語に先にありました」


 誤字がないか確認するため、最初から読んだ。「未発表」の未と末を間違えていないか、辞書を開いて確かめた。内容に間違いはなかったが、公開のボタンを押せなかった。


 廉の文章は、千尋の原稿をそのまま写したものではない。主人公はリナではなくレオンであり、靴を渡した経緯も違った。ガラス玉を見つけたあとの行動も、物語で果たす役割も変えられていた。台詞も同じではなく、廉が考えた言葉だった。


「盗んだって、言っていいのかな」


 千尋は自分の原稿を開いた。リナが靴を洗う場面には、視点の混乱があった。母の靴を洗う現在の場面から、母が娘を森へ送った過去へ移り、途中で再び現在へ戻っていた。誰の手が歯ブラシを持っているのか分からない文もあり、「靴底」が一か所だけ「足底」になっていた。


 廉の文章には誤字がなかった。現在と過去の移り変わる場所もはっきりし、レオンの手が止まるたびに、ガラス玉へ近づいていく。読者がどこで母のことを思い、どこでレオンの決意を知ればよいのか、順番が整えられていた。


「同じじゃない。わたしより、ちゃんと書けてる」


 千尋は感想欄へ書いた文章を消した。一文字ずつ消えるのを見ながら、学校の進路希望欄で「小説家」の三文字を赤い線で消された日のことを思い出した。あのときは線の下にも三文字が残っていた。今は自分で書いた言葉を自分の指で消していた。


 階段の下から水の流れる音が聞こえた。洗剤を二度入れた洗濯機から泡があふれ、洗面所の床へ白い水が広がっていた。千尋は慌てて下り、古いバスタオルを何枚も床へ置いた。


「どうして、こんな日に」


 洗濯機は返事をせず、ふたの隙間から泡を吐き出した。千尋は電源を切り、濡れた作業着を一枚ずつ浴槽へ移した。水を吸った服は重く、袖を持ち上げると洗剤の泡が腕を伝った。


 床を拭いている途中で、美沙から電話がかかってきた。千尋は泡のついた手で受話器を取り、耳へ当てた。


「もしもし」


「千尋、今大丈夫?」


「洗濯機から泡が出てる」


「また洗剤を二回入れたの?」


「たぶん」


「電源は切った?」


「切った。服はお風呂に入れた」


「排水口の周りを見て。糸くずが詰まってない?」


「どこ?」


「洗濯機の横に丸いふたがあるでしょう」


「パソコンを見なくちゃいけないの」


「今は水を止めるほうが先でしょう」


「盗まれたかもしれない」


 美沙の声が止まった。千尋はバスタオルを床へ押しつけ、泡を吸わせた。桃色の古いタオルには母が縫った小さな花の印が残り、白い泡の下で見えたり消えたりしている。


「何を盗まれたの?」


「青いガラス玉」


「物語の?」


「廉さんの新作に出てきた。お母さんの靴を毎週洗って、靴底から青いガラス玉を見つけるの」


「千尋が前に話していた場面?」


「話してた?」


「私にも一度だけ話したよ。リナがお母さんを許したか分からないから、玉を靴底へ戻すって」


「廉さんの話では、首飾りにするの」


「それ以外は同じなの?」


「主人公は男。靴も小さい。家をつくる理由も違う」


「でも、靴を毎週洗って、青いガラス玉を見つけるところは同じなんでしょう?」


「廉さんのほうが上手に書いてある」


「上手かどうかを聞いているんじゃないよ」


「感想がいっぱい来てる。みんな泣いたって。天才だって」


「千尋、原稿を送った記録は残ってる?」


「残ってる」


「廉さんから質問された記録も?」


「ある」


「だったら、全部消さないで保存して。画面の写真も撮って」


「でも、廉さんの文章のほうが――」


「上手でも、千尋が先に考えたことは変わらないでしょう」


 美沙の声が強くなった。千尋は受話器を肩と頬で挟み、床の泡を手で集めた。洗剤で指の傷がしみ、皮膚が赤くなっていた。


「わたしが作者だって言ったら、笑われるよ」


「どうして?」


「わたしの原稿には誤字がある。誰が話してるのかも分からないところがある。廉さんのは、ちゃんと小説になってる」


「千尋の原稿がなければ、廉さんはその場面を書けなかったかもしれないでしょう」


「廉さんなら、自分で思いついたかもしれない」


「そう言ってるの?」


「まだ聞いてない」


「じゃあ、先に連絡して。どうして同じ場面があるのか聞きなさい」


「怒らせたら、もう教えてもらえない」


「まだ教えてもらいたいの?」


 千尋は答えなかった。廉は初めてできた作家の仲間だった。才能があると言い、投稿時間も題名のつけ方も教えてくれた。閲覧数が増えたのも、一話ずつ投稿できるようになったのも、廉の助言があったからだった。


「廉さんは、わたしにまとめる力がないから、代わりに書いたのかもしれない」


「そんな頼み方をしたの?」


「してない」


「作品へ使っていいと言った?」


「言ってない」


「だったら、勝手に使っていい理由にはならないよ」


 美沙は画面の記録を保存するまで電話を切らないと言った。千尋は泡の広がった洗面所をそのままにし、二階へ戻った。濡れたジャージーの裾が階段へ触れ、一段ごとに小さな水滴を残した。


 パソコンの画面には、消しかけた感想の入力欄が残っていた。千尋はそれを閉じ、廉との連絡を古い順番から保存した。薬草師と青い花の服、白い獣が運んだ石、壊れた羅針盤、母の靴と青いガラス玉。廉が詳しく尋ねた場面だけを探すと、何十件ものやり取りがあった。


「こんなに送ってた」


「保存した?」


「一つずつやってる」


「日付が見えるようにしてね」


「どうやるの?」


「画面全体を撮ればいいよ」


「文字が小さくなる」


「あとから拡大できるから」


「順番が分からなくなる」


「番号をつけよう。最初の画像を一番にして」


 美沙に言われたとおり、千尋は一つずつ保存した。途中で同じ画像を二度撮り、どちらを消せばよいか分からなくなった。美沙はどちらも残してよいと言った。


「間違えても、今は消さなくていい。残すことだけ考えて」


「部屋が散らかってるのと同じになるよ」


「今は散らかっていていいの。あとで一緒に並べるから」


 すべてを保存するころには、一時間以上過ぎていた。洗面所の泡は少しずつ消え、ぬれたバスタオルが床へ貼りついていた。千尋は電話を切る前に、美沙へ何度も確かめた。


「本当に、わたしが先なの?」


「私は千尋から先に聞いてる」


「でも、美沙ちゃんは姉だから、わたしの味方をするでしょう」


「姉だからじゃない。日付のある原稿が残っているから言ってるの」


「廉さんのほうが上手だよ」


「上手な人なら、ほかの人の考えを使っていいの?」


「分からない」


「上手い下手と、誰が考えたかは別の話だよ」


 電話を切ると、千尋は洗面所へ戻った。浴槽の中には作業着と下着とタオルが混ざり、洗剤の泡が薄く残っている。千尋は一枚ずつ水ですすぎ、手で絞った。脱水機へ戻すのが怖くなり、風呂場の物干し竿へ重いまま掛けた。


 夕食を食べていないことへ気づいたのは、夜の九時を過ぎてからだった。冷蔵庫には卵とハムがあり、流し台の籠には芽の出たジャガイモが二つ残っていた。料理をする手順を考えられず、千尋は鮭のおにぎりの残りを電子レンジで温めた。


 加熱時間を三分にしたため、海苔は縮み、ご飯の端は硬くなった。千尋は冷たい麦茶へ浸しながら、一口ずつ食べた。口を動かしていても、廉の第十一話が頭から離れなかった。


「僕は、母さんの帰る家をつくる」


 廉が書いた台詞は短く、物語の目的が一度で分かった。千尋のリナは、靴底から青いガラス玉を見つけても何も言わない。玉を同じ場所へ戻し、次の日曜日にも母の靴を洗う。


 廉が言うように、千尋にはまとめる力がないのかもしれなかった。けれど、リナが黙ることには理由があった。母が自分を忘れていなかったと知っても、守ってくれなかった事実は変わらない。許すとも許さないとも言えず、捨てることも身につけることもできないから、見つけた場所へ戻したのである。


「言わないから、リナなのに」


 千尋は硬くなったご飯を飲み込み、濡れた手をジャージーへこすった。廉のレオンは、自分の気持ちを立派な台詞にして、多くの読者を泣かせていた。リナは何も言わないため、読者には伝わらないかもしれない。それでも青いガラス玉を首飾りにした瞬間、その場面はもうリナのものではなくなっていた。


 千尋は廉へ連絡を書くことにした。最初に「書籍化おめでとうございます」と入力した。次に、青いガラス玉の場面が自分の未発表原稿と似ていると書いた。


「母の靴を毎週洗い、靴底から青いガラス玉を見つける場面は、以前わたしが送った原稿に書いてあります。廉さんにも、靴のことやガラス玉のことを説明しました。どうして新作に同じ場面があるのでしょうか」


 千尋は送信する前に十回以上読み返した。「盗んだ」という言葉は使わなかった。「返してください」とも書かなかった。ただ、どうして同じ場面があるのか尋ねた。


 送信すると、既読の印はすぐについた。しかし返事は届かなかった。千尋は机の前で待ち、冷蔵庫のモーター音を聞いた。夜中の十二時になっても、画面には何も表示されなかった。


 翌朝、目を覚ますと、廉から返信が届いていた。


「似ていると言われれば、似ている部分はあるかもしれません。しかし、母の形見から秘密を発見する場面は珍しいものではありません。僕の作品では主人公も設定も、その後の展開も異なります。あなたの原稿をそのまま使ったわけではありません」


 千尋は布団の上で何度も読んだ。廉の言っていることにも、間違いはなかった。母の形見から秘密を見つける物語は、ほかにもあるかもしれない。主人公も、母の靴の大きさも、ガラス玉を見つけたあとの行動も違った。


「でも、毎週洗うところも同じです」


 千尋は返信した。


「靴底から青いガラス玉が出るところも同じです。わたしが廉さんへ送るまで、その場面はどこにも公開していません」


 しばらくして、廉から返事が届いた。


「着想は誰か一人だけのものではありません。同じ素材でも、作品として完成させた人間の表現によって価値が決まります。厳しい言い方になりますが、あなたの原稿はそのままでは読者に伝わらない状態でした。僕の作品は構成も文章も一から書いたものです」


 千尋の指が画面の上で止まった。廉は盗んでいないとは書いたが、偶然に思いついたとも書かなかった。自分の作品を読んでいないとも言わなかった。


「わたしの場面を、廉さんが上手に書いたら、廉さんのものになるんですか」


「僕はあなたの場面をそのまま書いたのではありません。物語を書く人間なら、似た発想へたどり着くことはあります」


「青いガラス玉も、毎週日曜日に靴を洗うことも?」


「これ以上、同じ説明を繰り返すつもりはありません。君は自分の作品が評価されない理由を、他人のせいにしないほうがいい」


 最後の言葉を読んだとき、千尋は携帯電話を布団の上へ伏せた。枕元には昨日脱いだ靴下があり、洗剤の匂いが強く残っている。窓の外では雨が降り続き、物干し竿へ掛けた作業着から水が落ちていた。


 千尋は仕事を休んだ。工場へ電話すると、班長から体調が悪いのかと聞かれた。どこが悪いのか答えられず、腹痛だと伝えた。


「明日は来られるんでしょうね」


「分かりません」


「分からないでは困ります」


「明日の朝、電話します」


「急に休まれると、ほかの人が迷惑するんですよ」


「すみません」


 電話を切り、千尋は布団へ戻った。台所には朝食用に解凍した食パンがあり、電子レンジの中には昨夜温めたまま忘れた麦茶が残っていた。食べるために階段を下りたが、途中で足が止まり、そのまま段へ座った。


「わたしが悪いのかな」


 人気作家の廉は、作品を完成させた。千尋は靴とガラス玉の場面を何年も未発表のまま置き、リナの気持ちを一つの台詞へまとめられなかった。読者を泣かせたのは廉であり、書籍として店へ並ぶのも廉の物語だった。


 もし千尋が作者だと名乗れば、感想欄の人たちは何と言うのだろう。誤字だらけの『森の家と白い獣』を書いた人間が、人気作家へ言いがかりをつけていると思うかもしれない。閲覧数の少ない作家が、ランキング一位の作品を妬んでいると笑うかもしれなかった。


「こんなに上手に書ける人が、わたしから盗む必要はないよね」


 千尋は階段へ座ったまま、自分へ言った。それでも、青いガラス玉を思いついた夜のことを覚えていた。母の遺品を整理していたとき、裁縫箱の底から青いボタンが一つ出てきた。そのボタンを光へ透かし、リナの母なら靴底へ何を隠すだろうと考えた。


 青いボタンではなくガラス玉にしたのは、リナが幼いころに一度だけ海を見たがっていたからだった。そのことは廉へ送った設定ファイルにしか書いていない。偶然という言葉で片づけるには、靴も曜日も歯ブラシもガラス玉も、千尋の記憶と同じ場所へ並びすぎていた。


 千尋は二階へ戻り、自分の未発表原稿と廉の第十一話を左右に並べた。自分の文章には赤い下線がいくつも表示され、漢字の間違いや文法の乱れを指摘していた。廉の文章には赤い線がなく、段落の長さもそろっている。


 同じ青いガラス玉が、千尋の原稿では泥のついた靴底へ埋もれ、廉の作品では光を受けた首飾りになっていた。どちらを本屋の棚へ置くかと聞かれれば、多くの人が廉の物語を選ぶのだろう。千尋自身でさえ、続きを読みやすいのは廉の作品だと思った。


「わたしより上手な、わたしの物語」


 声にすると、誰の物語なのか分からなくなった。発想した人が作者なのか、分かりやすく書いた人が作者なのか、完成させた人が作者なのか。学校で「小説家」と書いた三文字を赤線で消された千尋には、自分を作者と呼ぶ資格が最初からなかったようにも思えた。


 美沙から電話がかかってきたが、千尋は出なかった。真奈からも短い連絡が届いた。


「お母さんが心配しています。昨日の記録、消してない?」


 千尋は「消してない」とだけ返した。送信したあと、廉との連絡をすべて削除したくなった。削除すれば、自分が場面を渡した証拠もなくなり、廉の作品を読んでも偶然だと思えるかもしれなかった。


 削除のボタンへ矢印を合わせたとき、青い鳥から感想が届いた。


「リナがお母さんの靴を洗う話も、いつか読めますか」


 千尋は画面へ顔を近づけた。青い鳥には、母の靴の場面を公開していない。それでも以前、作品のあとがきに、母の形見を洗う短い話を書きたいと一度だけ記していた。その一行を覚えていたらしい。


「どうして知ってるんですか」


 千尋が返信すると、青い鳥からすぐに返事が来た。


「前に、あとがきに書いてありました。リナが何を洗うのか、ずっと気になっています」


「靴です。お母さんの靴を毎週洗います」


「読みたいです」


「ほかの作家さんが、もう書きました」


「リナの話ではないですよね」


「似た話です。そっちのほうが上手です」


「でも、私はリナの話を待っています」


 千尋は返信を読んだ。青い鳥は廉の作品より千尋の文章が上手だとは言わなかった。廉が盗んだとも、千尋が正しいとも書かなかった。ただ、リナの話を待っていると書いていた。


 千尋は未発表原稿を開いた。母の靴を洗うリナは、青いガラス玉を見つけ、靴底へ戻すところで止まっている。廉のレオンのように立派な台詞を言わず、首飾りにもせず、母のための町をつくるとも誓わなかった。


 それでも次の日曜日になると、リナはまた靴を洗うはずだった。靴底に玉があると知ったあとは、以前より歯ブラシを当てる手が弱くなる。玉を取り出すことはなくても、そこに母が残したものがあると知りながら、泥を落とし続ける。


「リナは、何も言わないよ」


 千尋が返信すると、青い鳥は「それでいいと思います」と答えた。


 机の下には、洗い終えていない作業着を拭いたバスタオルが丸まっていた。朝の食パンはまだ台所にあり、腹の奥が空になっていた。千尋は立ち上がり、階段を下りた。電子レンジの中から冷えた麦茶を出し、代わりに食パンを十秒だけ温めた。


 食パンへマーガリンを塗り、砂糖を少し振った。端は乾いて硬くなっていたが、温めたところだけ柔らかかった。千尋は流し台の前で一枚を食べ、水道の蛇口から水を一杯くんだ。


「作者って、言ってもいいのかな」


 冷蔵庫は何も答えなかった。二階の画面には、ランキング一位になった廉の物語と、誤字の残る千尋の原稿が並んでいる。読者の数も、文章の整い方も、書籍になる速さも比べものにならなかった。


 それでも、リナが青いガラス玉を靴底へ戻すことを知っているのは千尋だった。玉を首飾りにしない理由も、毎週洗い続ける理由も、母を許すとも許さないとも言えないまま大人になったリナの手の動きも、千尋の中に残っていた。


 食べ終えた千尋は、皿を水につけて二階へ戻った。廉との連絡は削除せず、「記録」と名づけた場所へ保存した。そのあと未発表原稿を開き、赤い下線を一つずつ直し始めた。


 廉より上手に書けるとは思えなかった。人気作家へ自分が作者だと名乗る言葉も、まだ見つからなかった。それでもリナの靴を洗う手まで、廉の文章へ渡したままにはしたくなかった。


「次の日曜日も、リナは靴を洗いました」


 千尋は新しい一文を入力した。靴底には青いガラス玉が残っている。リナはそれを誰かに見せることも、首へ下げることもしなかった。ただ、玉を傷つけないよう歯ブラシの角度を変え、今までより時間をかけて泥を落とした。


 千尋は書いた一文を保存した。画面の文字には、廉の作品ほどの美しさも、読者を一度で泣かせる分かりやすさもなかった。それでもその朝、リナの手を動かしたのは廉ではなかった。千尋は冷えた指をキーボードへ戻し、自分より上手に書かれた物語の外で、自分にしか書けない続きを一行ずつ取り返し始めた。


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