第8話 自分の記憶を疑う
第8話 自分の記憶を疑う
千尋は廉との連絡記録を保存した翌朝、ほとんど眠らないまま台所へ下りた。洗い直した作業着は風呂場の物干し竿から水を落とし、床に置いた洗面器には薄い洗剤の水がたまっていた。千尋は水色の寝間着の上へ紺色のカーディガンを羽織り、前日の食パンを一枚だけ焼いた。マーガリンの容器は冷蔵庫に入れ忘れたため表面が柔らかくなり、ふたを開けると油の匂いがした。
「今日は、運営に連絡する」
千尋は自分に聞かせるため、声に出した。食パンへマーガリンを塗ったが、考え事をしているうちに同じ場所へ何度も重ね、中央だけ黄色くなった。端は何も塗られておらず、かじると乾いたパンが上顎へ貼りついた。
食後、千尋は机の上へ証拠を並べた。廉へ母の靴と青いガラス玉について説明した日付のある連絡、未発表原稿を送った記録、廉の作品が公開された日付、両方の文章を印刷した紙。プリンターのインクが少なくなっていたため、後半の文字は灰色にかすれていた。
「これが先で、こっちがあと」
千尋は古い封筒へ「一、送った原稿」「二、廉さんの質問」「三、廉さんの作品」と書いた。数字の二を二つつくってしまい、片方を黒く塗りつぶした。書き直そうとしたが、封筒が足りなくなると思い、そのまま使った。
投稿サイトの問い合わせ画面には、名前、作品名、問い合わせの種類、内容を書く欄が並んでいた。千尋は「利用者間の問題」を選んだが、「権利侵害」という項目も見つけ、どちらが正しいのか分からなくなった。二つを同時に選ぶことはできなかった。
「盗用は、権利侵害かな」
辞書を引きながら一時間迷い、最後に「権利侵害」を選んだ。問い合わせ文には、感情を書かず、起きた順番だけを書くよう美沙から言われていた。千尋は紙へ下書きし、一行ずつ画面へ入力した。
「わたしは、柊木廉さんへ未発表原稿と設定資料を送りました。その中には、主人公が亡くなった母の靴を毎週洗い、靴底から青いガラス玉を見つける場面があります。送信した日付は、廉さんの作品が公開される約五か月前です。廉さんからは、靴を洗う曜日、ガラス玉を隠した理由、その後の使い方について質問を受けました」
そこまで書き、千尋は送信記録の画像を添付した。画像を選ぶ順番を間違え、三番目の記録が最初に表示された。取り消してやり直すと、今度は同じ画像を二枚添付した。
「順番が違っても、日付は見える」
美沙が言った「今は消さずに残す」という言葉を思い出し、重複した画像もそのままにした。最後に、廉の作品の該当部分を確認してほしいと書いた。
「わたしは文章をまとめることが苦手です。説明が足りなければ、質問してください。記録はすべて残っています」
送信ボタンを押すと、受付番号が表示された。千尋はその番号をノートへ書き、手の甲にも書いた。右手へ書いた数字は途中で一つ抜けていたが、ノートには正しく残っていた。
昼過ぎ、廉から個別の連絡が届いた。千尋が運営へ問い合わせたことを、すでに知らされたらしい。文章はこれまでと同じように整い、怒っている言葉は一つもなかった。
「運営へ盗用の申し立てをしたそうですね。僕は、あなたの相談に乗り、善意で作品づくりを手伝ってきました。その僕が盗んだと疑われたことを残念に思います」
「疑ったのではありません。同じ場面がありました」
「似た要素があることについては、すでに説明しました。母の形見から秘密を見つける発想は、あなた一人のものではありません」
「母の靴を毎週洗うことも、靴底に青いガラス玉を隠すことも同じです」
「あなたは、それを僕へ送る前から書いていたと確実に証明できますか」
「送った原稿に日付があります」
「送信日が分かるだけで、その文章をいつ書いたのかは分かりません。僕の構想は、もっと前からありました」
「その構想は残っていますか」
「作家がすべての着想へ日付をつけて保管しているわけではありません」
千尋は廉の返事を何度も読んだ。自分には送信記録がある。廉には日付のある構想がない。それなら自分の記録のほうが確かなはずだった。しかし廉は、千尋が原稿を書いた時期そのものを疑っていた。
「わたしは、廉さんの作品が公開される前に送りました」
「君は送ったものも、言ったこともよく忘れる。僕の作品を読んでから、自分が考えたと思い込んだのではありませんか」
千尋は画面の上へ定規を置き、その一文を最初から読み直した。意味は分かったが、何度読んでも指を次の行へ動かせなかった。廉は以前、千尋が同じ原稿を二度送ったことも、第三十一話を入れ忘れたことも知っている。電話をしながらメモを取れないことや、投稿の順番を間違えることも相談していた。
「でも、送った記録があります」
「あなたが僕の作品を読んだあと、自分の古い原稿へ同じ場面を書き足し、そのファイルを以前から存在したものだと思い込んだ可能性はありませんか」
「送ったファイルの中に入っています」
「僕が受け取ったファイルには、あなたが今言っているほど詳しい場面はなかったと記憶しています」
「廉さんから、ガラス玉について質問されています」
「それは、僕が先にガラス玉の案を出したからではありませんか」
「違います」
「本当に覚えていますか」
千尋はすぐに返事を打とうとした。しかしキーボードの上で手が止まった。工場で七十枚まで数えたことを忘れた。食パンを電子レンジへ入れたまま翌朝まで忘れた。美沙から頼まれた買い物も、病院の予約も、図書館の本の返却日も忘れてきた。
小学生のころには、宿題をしたのかどうかさえ分からなくなったことがある。父から、忘れたのではなく最初からやる気がなかったのだと言われた。机の中から宿題が見つかっても、自分がいつ入れたのかは思い出せなかった。
「わたしが、忘れたのかな」
千尋は机の引き出しから大学ノートを取り出した。青いガラス玉の設定には、何度も書き直した跡があった。最初の文字は鉛筆で、あとから足した説明は青いペンで書かれている。どちらを先に書いたのか、目で見ただけでは分からなかった。
廉の作品を読んだあと、青いペンで詳しい設定を書き足した可能性はある。しかし、靴を毎週洗う場面も青いガラス玉も、廉の公開前に送った連絡へ書かれている。その記録まであとから変えることはできないはずだった。
「質問の記録を見てください。廉さんが、わたしの説明を聞いています」
「連絡の一部だけを切り取れば、そう見えるかもしれません。前後の会話も運営へ提出してください」
「全部保存してあります」
「それなら、運営が判断するでしょう。ただ、君は以前から記憶に自信がないと言っていましたね」
「はい」
「病院でも、注意と記憶に問題があると言われたのでしょう?」
「診断はあります。でも、全部を覚えていないわけではありません」
「僕も、病気のある人の言葉は信用できないと言うつもりはありません。ただ、自分の記憶が完全ではない可能性も考えてほしいのです」
廉の文章は穏やかだった。千尋を嘘つきと呼ばず、病気だから間違っているとも書いていない。自分の記憶が完全ではない可能性を考えてほしいと頼んでいるだけだった。
千尋は数年前、美沙に勧められて病院へ行った。診察室で、文章を読むと行を飛ばすこと、口頭の指示を聞きながらメモを取れないこと、物をなくし、手順の途中で別の作業へ移ってしまうことを話した。検査のあと、読み書きの障害と注意欠如の特性があると説明された。
「努力が足りなかったわけではありません」
医師はそう言った。千尋はその言葉を聞き、診察室の椅子の上で両手を握った。子どものころから言われ続けた「やる気がない」という言葉が、白衣の医師によって初めて否定された。
診断を受けてからは、仕事で短い指示書を使わせてもらい、通院日には携帯電話の目覚ましを三回鳴らした。それでも忘れることはなくならなかった。予約日を一週間間違え、薬を飲んだか分からず、同じ本を二冊買ったこともある。
「全部、間違って覚えているのかな」
千尋は廉との連絡を最初から読み始めた。廉が先にガラス玉を提案した言葉は見つからなかった。しかし見つけられないだけで、どこかにあるのかもしれない。会話の数は多く、一行ずつ読むと目の奥が熱くなった。
昼食を食べていないことに気づいたのは、午後四時だった。台所へ下りると、朝に使った皿の上へマーガリンの油が白く固まっていた。冷蔵庫には昨夜の味噌汁と、ラップをかけたアジの開きが半分残っている。千尋は味噌汁を温めず、椀へ移して冷たいまま飲んだ。
「忘れたことは、忘れたって分からないんだよね」
豆腐を箸ですくおうとしたが、角が崩れて汁の底へ沈んだ。千尋は椀へ直接口をつけ、油揚げと一緒に流し込んだ。冷えた味噌の塩気が舌へ残り、胃の奥が重くなった。
夕方、美沙が家へ来た。白いシャツの上へ薄い緑色のカーディガンを着て、買い物袋には総菜の肉じゃがと三個入りのプリンが入っていた。玄関には千尋が朝脱いだスリッパが片方だけ転がり、洗面所には昨日の洗濯物がまだ干されていた。
「顔を洗った?」
「朝、洗ったと思う」
「思うって、覚えてないの?」
「廉さんが、わたしは忘れるから、あとから自分で考えたと思ったんじゃないかって」
「記録が残っているでしょう」
「廉さんが先に言ったのを、わたしが忘れてるかもしれない」
「そんな記録があるの?」
「見つからない」
「見つからないなら、廉さんは何を根拠に言ってるの?」
「わたしが、よく忘れるから」
美沙は買ってきた肉じゃがを鍋へ移した。冷えた煮汁の中でジャガイモが崩れ、玉ねぎは茶色く透き通っている。火をつけると醤油と牛肉の匂いが台所へ広がった。
「千尋が今日の朝ご飯を忘れることと、半年前の記録が残っていることは別でしょう」
「でも、わたしは自分で書いたものも忘れるよ」
「忘れていても、書いた事実は消えないよ」
「廉さんは、詳しい場面は受け取ってないって」
「送信したファイルを開けば分かるでしょう」
「ファイルは残ってる。でも、あとから書き足したかもしれない」
「送ったあとのファイルを直しても、廉さんが受け取ったものは変わらないよ。運営に提出した記録を見てもらえばいいでしょう」
「廉さんが先にガラス玉を言った会話を、わたしがなくしたのかもしれない」
「廉さん自身が、その記録を出せばいいんじゃない?」
「残ってないのかもしれない」
「千尋の記録は疑うのに、廉さんに記録がないことは疑わないの?」
美沙は鍋の火を弱め、冷蔵庫から卵を二つ取り出した。一つを鍋へ割り入れ、もう一つは明日の朝に使うため元へ戻した。千尋は食卓の椅子へ座り、テーブルクロスについた古い醤油の染みを爪でこすった。
「廉さんは本を出してるから」
「本を出している人は、記憶を間違えないの?」
「文章もちゃんとしてる」
「文章が上手い人は、嘘をつかないの?」
「嘘だって決まってない」
「千尋が間違ってるとも決まってないでしょう」
美沙は肉じゃがを二つの鉢へ分けた。千尋の鉢には形の残ったジャガイモを入れ、自分の鉢には崩れたものを入れた。食卓には冷蔵庫から出したたくあんと、朝の残りの冷たい味噌汁も並んだ。
「運営から返事が来るまで、廉さんと話さないほうがいいよ」
「返事をしないと、わたしが間違いを認めたと思われる」
「何を言っても、また記憶の話へ戻されるよ」
「ちゃんと説明すれば分かってくれるかもしれない」
「今まで何回説明したの?」
「分からない」
「記録を数えれば分かるでしょう」
千尋は肉じゃがのジャガイモを箸で割った。中まで煮汁が染み、湯気と一緒に甘い匂いが上がった。美沙がいる間だけでもパソコンから離れようとしたが、通知音が鳴るたびに肩が動いた。
三日後、ノベルフロンティアの運営から返信が届いた。送信者は「運営責任者・黒崎」となっていた。千尋は一人で読む前に、美沙へ電話をかけた。
「来たよ」
「まだ開かないで。今から行こうか?」
「今日は仕事でしょう」
「夕方なら行ける」
「待てない」
「じゃあ、電話をつないだまま読もう」
千尋は携帯電話を耳と肩で挟み、運営の返信を開いた。机には昼食に食べたカップスープの容器があり、乾いたコーンが底へ一粒貼りついていた。千尋は定規を画面へ当て、最初の行から読んだ。
「お問い合わせいただいた件について、双方から提出された資料を確認いたしました」
「続けて」
「両作品には、亡き母の履物を洗う行為、内部から青色のガラス製品を発見する場面など、一部に類似が認められます」
「似ているって認めた」
「まだ最後まで読んで」
「しかし、登場人物、作品世界、文章表現、当該場面が物語上で果たす役割には相違があり、現時点で規約上の盗作に該当すると判断できる十分な根拠は確認できませんでした」
千尋はそこで読むのを止めた。十分な根拠という言葉の意味を確かめるため、辞書を開こうとした。
「まだ続きがある?」
「ある」
「読んで」
「柊木廉氏からは、該当作品について、以前から構想していたものであるとの説明がありました」
「構想した日付は?」
「書いてない」
「千尋の送信記録については?」
千尋は次の段落を読んだ。
「水城千尋様から提出された通信記録については、柊木氏が創作相談の一環として助言および質問を行っていた事実を示すものではありますが、発想の帰属を確定する資料とは判断できません」
「どうして?」
「分からない」
「その先は?」
千尋は画面を下へ動かした。最後に近い段落には、以前受けた大量更新の警告について書かれていた。
「なお、水城様のアカウントには、過去に短時間での大量更新による警告履歴がございます。また、今回の申し立てにおいて、同一資料の重複提出、説明内容の一部不一致、問い合わせの複数送信が確認されました」
「同じ画像を二枚つけたからだ」
「それと盗用は関係ないでしょう」
「説明が違うって」
「何が違ったの?」
千尋は送った問い合わせを確認した。最初の文では、靴を洗う曜日を毎週日曜日と書いていた。追加で送った説明では「週末」と書いていた。リナが靴を受け取った年齢も、最初は八歳、次の説明では九歳と書いている。
「八歳か九歳か、分からなくなった」
「ガラス玉の場面があることは変わらないよ」
「でも、違ってる」
「細かな設定でしょう」
「黒崎さんは、説明内容が一致しないって」
「千尋が説明を間違えたことと、原稿の日付は別だよ」
返信には、さらに続きがあった。千尋が問い合わせの中で、読み書きの障害と注意欠如の診断があり、長い文章の説明が難しいと伝えた部分について触れていた。
「水城様ご自身から、記憶、注意、読み書きに困難があり、出来事の時系列を正確に整理することが難しいとの申告をいただいております。そのため、主観的な記憶に基づく説明のみをもって、故意の盗用を認定することは困難です」
「主観的な記憶だけじゃない」
美沙が電話の向こうで言った。
「原稿と送信記録がある」
「でも、わたしが困難だって、自分で書いた」
「長い文章をまとめるのが難しいから、分かってもらうために書いたんでしょう」
「それで、正確じゃないって思われた」
「診断があっても、記録の日付は変わらないよ」
「黒崎さんは、責任者だよ」
「責任者でも間違えることはある」
「廉さんも黒崎さんも、わたしの話は信用できないって」
「二人が同じことを言えば、本当になるの?」
千尋は返事をせず、最後の段落を読んだ。
「以上により、本件について運営から柊木廉氏へ作品の削除、修正等を求める対応は行いません。今後、根拠の明示されない盗作の主張をサイト内で繰り返した場合、利用者への中傷行為として措置の対象となる可能性があります。双方におかれましては、直接の接触を避け、創作活動を継続されるようお願いいたします」
千尋は電話を耳から離し、画面を見た。困ったことを正確に説明しようとして伝えた診断名が、説明を信用しない理由として使われていた。読み書きが難しいから画像を重複して送った。その重複が、訴えの信頼性を疑う材料になった。
「千尋、聞こえる?」
「聞こえる」
「その返信も保存して」
「保存して、何になるの?」
「あとで必要になるかもしれない」
「黒崎さんが、もう終わりだって」
「運営の判断だけが全部じゃないよ」
「盗作って言ったら、中傷になるって」
「サイトの外で相談できる場所を探そう」
「また、最初から説明するの?」
「私も一緒に行くから」
「八歳か九歳かも分からないのに?」
「そこが違っても、靴とガラス玉は同じでしょう」
「どこまで違ったら、全部違うことになるの?」
美沙はすぐには答えなかった。電話の向こうで、駅の案内放送が聞こえた。仕事へ向かう途中なのだろう。千尋は美沙を遅刻させることが怖くなり、運営の返信を保存すると約束して電話を切った。
その日の午後、廉は自分の活動報告を公開した。千尋の名前は書かれていなかったが、内容を読めば自分のことだと分かった。
「最近、僕の新作について、根拠のない盗作疑惑を向けられています。これまで創作相談に乗ってきた相手からの申し立てであり、力になりたいと思っていた僕としては残念でなりません。運営には必要な資料を提出し、盗作には当たらないとの判断をいただきました。読者の皆様にはご心配をおかけして申し訳ありません」
活動報告には、すぐに読者からの言葉が並んだ。
「柊木先生は何も悪くありません」
「親切にした相手から疑われるなんて、ひどすぎます」
「売れない作家の嫉妬に負けないでください」
「人気が出ると、こういう言いがかりをつける人が現れるんですね」
「先生がどれほど努力してきたか、読者は知っています」
千尋の名前は出ていない。それでも一部の読者は、以前から廉が助言していた作品を探し始めた。千尋の感想欄に、見覚えのない利用者から言葉が届いた。
「柊木先生に迷惑をかけないでください」
「似ても似つかない文章なのに、よく盗作だなんて言えますね」
「あなたの作品を読みました。これを柊木先生が盗む必要がありますか?」
「被害者ぶる前に、文章の勉強をしたらどうですか」
千尋は感想を一件ずつ読んだ。反論しようとしたが、運営から中傷行為として措置の対象になると警告されている。事実を書いても、盗作という言葉を使えば、また自分が規約違反になるかもしれなかった。
「わたしの文章は、そんなにひどいのかな」
作品の第一話を開くと、公開後に何度も直したはずなのに、まだ誤字が残っていた。「少女は枝を拾った」が「少女は技を拾った」になり、白い獣が運んだ石は、別の段落で岩と書かれていた。話の途中でリナを少女と呼び、次の行では彼女と書いている。
廉の作品には、そのような乱れがない。読者が指摘するように、廉が千尋の文章そのものを必要とする理由はないように見えた。廉は千尋が何ページも使った場面を、半分の長さで分かりやすく書けた。
「青いガラス玉も、廉さんが直したら廉さんのものになるのかな」
千尋は自分の手を見た。右手の甲には運営への受付番号が薄く残り、その上から工場で使った赤いペンの線が重なっていた。どちらの数字も途中でこすれ、もう正確には読めなかった。
夕方、職場から電話があった。二日続けて休んでいるため、明日は出勤できるのか確認された。千尋は体調が戻ったと答えたが、電話を切ったあと、明日が勤務日だったか分からなくなった。冷蔵庫へ貼った勤務表を見ると、木曜日に青い丸がついていた。
「今日は、何曜日?」
携帯電話の画面には水曜日と表示されている。明日は出勤日だった。千尋は弁当用の米を洗い、炊飯器へ入れた。水を二合の線まで入れたつもりだったが、米を何合入れたか思い出せなかった。
「二杯だったかな。三杯だったかな」
計量カップは流し台にあり、内側に米粒が三つついていた。三粒だから三杯ではないと分かっていても、では何杯だったのかは戻ってこなかった。千尋は水を捨てて米を数え直すこともできず、そのまま二合の線で炊いた。
炊き上がったご飯は柔らかすぎた。千尋は弁当箱へ入れ、中央に梅干しを一つ置いた。冷凍のコロッケと卵焼きも詰めようとしたが、卵を割ったあとに砂糖を入れたか分からなくなった。
「入れたと思う」
焼き上がった卵を味見すると、ほとんど甘くなかった。砂糖を入れ忘れたらしい。しかし塩を入れたかどうかも分からず、追加するのはやめた。
その夜、千尋は夢の中で母の靴を洗った。古い歯ブラシで靴底をこすると、青いガラス玉ではなく、赤いボールペンが出てきた。高瀬先生がそれを拾い、「これは最初から柊木さんのものです」と言った。千尋が違うと答えると、父が後ろから「また嘘をつく」と言った。
目を覚ますと、午前三時だった。寝間着の襟は汗で湿り、布団の横には印刷した記録が散らばっていた。千尋は廉との最初の会話をもう一度開いた。
「物語を作る才能はあると思います。ただ、あなたは見せ方でかなり損をしています」
あの言葉を受け取ったとき、千尋は初めて仲間ができたと思った。才能があると言った廉の判断を信じた。まとめる力がないと言われたときも、成功している人のほうが正しいと考えた。
今、廉は千尋の記憶が正しくないと言っている。同じ人の判断なのだから、これも正しいのかもしれなかった。才能があるという言葉だけを信じ、記憶が間違っているという言葉だけを拒むのは、自分に都合がよすぎるのではないかと思った。
「わたしが、廉さんの話を盗んだのかな」
千尋は声に出した。自分が廉の作品を読んだあと、昔の原稿に書き足した可能性を考えた。しかし送信記録の日付は、廉の公開より前だった。そこまで考えると、今度は廉がもっと前から同じ構想を持っていた可能性が浮かんだ。
「同じことを、二人で思いついたのかな」
それなら盗用ではない。廉は悪くなく、千尋も嘘をついたことにはならない。しかし廉が質問した内容と、新作に使った細部までが重なっている理由は残った。
千尋は一つ考えるたびに、別の可能性を思いついた。どれも完全には否定できず、どれも確かだとは言えなかった。頭の中で話の順番が入れ替わり、最後には何を確かめようとしていたのかも分からなくなった。
朝になると、千尋は弁当と水筒を鞄へ入れた。薄い水色の作業着には、洗剤を入れすぎたため白い粉の跡が残っていた。ぬれた布で拭いたが、肩の辺りだけ色が濃くなった。
工場へ着くと、班長から休んだ理由を尋ねられた。千尋は腹痛だと伝えていたことを忘れ、頭痛だったと答えた。
「電話では、お腹が痛いと言っていませんでしたか」
「両方だったかもしれません」
「自分の体のことなのに、分からないの?」
「今は治っています」
「また急に休まれると困りますからね」
作業場へ入り、千尋は紙を数えた。十枚ごとに角をずらし、三十枚まで進んだところで、廉の言葉が頭に浮かんだ。
「本当に覚えていますか」
千尋は指を止めた。三十枚だったのか、四十枚だったのか分からなくなった。最初から数え直し、今度は二十枚で止まった。
「また数え直してるの?」
隣の作業員が笑った。
「何枚だったか、分からなくなりました」
「さっき自分で数えてたでしょう」
「自分で数えたけど、覚えていません」
「じゃあ、何なら覚えていられるの?」
千尋は答えず、紙を一枚目から数えた。白い紙の角が指の傷へ触れ、細い痛みが走った。百枚を数え終えるまで、廉の名前も、青いガラス玉も考えないようにした。
昼休み、弁当箱を開けると、柔らかいご飯が卵焼きの下まで広がっていた。甘くない卵焼きは形も崩れ、梅干しの赤い汁が白身へ染みている。投稿サイトを教えてくれた女性は、千尋から少し離れた席へ座った。
「柊木先生の件、千尋さんのことなんですか」
別の同僚が尋ねた。千尋は箸を持ったまま、何と答えれば規約違反にならないか考えた。
「運営が、盗作ではないと判断しました」
「じゃあ、違ったんですね」
「同じ場面はあります」
「でも、運営が調べたんでしょう?」
「はい」
「柊木先生、かわいそう。親切で相談に乗ったのに疑われたんだって」
「わたしも、最初は親切だと思いました」
「今は違うんですか」
「分かりません」
「また分からないって言うんですね」
同僚は自分の弁当へ目を戻した。焼いたウインナーを箸でつまみ、隣の女性へ小声で何か話した。千尋にはすべて聞こえなかったが、「思い込み」と「病気」という二つの言葉だけが耳へ入った。
千尋は柔らかいご飯を一口食べた。米粒は水分を吸いすぎ、噛まなくても舌の上で崩れた。甘くない卵焼きを一緒に食べると、梅干しの酸味だけが強く残った。
帰宅後、千尋の作品にはさらに感想が増えていた。
「運営の判断が出たのに、まだ被害者のふりをしているんですか」
「柊木先生へ謝ってください」
「記憶に問題があるなら、思い込みで人を傷つけないでください」
千尋は最後の一文を読んだ。自分が運営へ相談したことも、診断があることも、公表していない。廉が活動報告で詳しく書いたのか、誰かが運営とのやり取りを知っているのか分からなかった。
廉の活動報告には、新しい文章が加えられていた。
「相手の方には記憶や認知に関する事情があり、悪意からの行動ではないと理解しています。これ以上の非難は控えていただければ幸いです。僕は今後も、困っている書き手へ手を差し伸べる姿勢を変えるつもりはありません」
廉は千尋の名前も診断名も書いていなかった。しかし読者には、盗作を訴えた人物の記憶に問題があると伝わった。廉が責めないでほしいと書いたことで、感想欄には廉の寛大さを褒める言葉が増えた。
「先生は優しすぎます」
「ここまでされても相手を気遣えるなんて、本当に立派です」
「病気なら何をしても許されるわけではありません」
「先生を支えます。新刊も必ず買います」
千尋は画面を閉じた。部屋には夕方の湿った空気が入り、半乾きの作業着から洗剤の匂いが漂っていた。机の上の味噌汁の椀には、朝から残った汁が薄い膜をつくっている。
千尋は壁に貼った「仲間だと思ってもらって構いません」という廉の言葉をはがした。紙を破るつもりはなかったが、値引きシールが強く貼りつき、端が裂けた。「仲間」の二文字だけが壁に残り、残りは千尋の手へ落ちた。
「わたしが、間違えたのかな」
裂けた紙を机へ置き、セロハンテープを探した。引き出しには見つからず、台所の戸棚にもなかった。小学生のころ、佐伯先生に破られた作文をつないだ古いテープは、もう黄色くなって菓子箱の中にある。
千尋は菓子箱を開けた。破られた作文、進路希望欄へ「小説家」と書いた紙の写し、最初のパソコンを買った店でもらった説明書が残っていた。どれも千尋の記憶より確かな形を持っていた。
作文の裏では、少女が白い獣と家を建てている。紙の端はずれ、何文字かはテープの下へ隠れていた。それでも、少女が白い獣へパンを半分渡したことは読めた。
「これは、わたしが書いた」
千尋は作文を両手で持った。誰かにそう教えられたのではなく、自分が鉛筆を握り、ごみ箱から拾い、テープでつないだことを覚えている。けれど廉の言葉を思い出すと、その記憶にさえ小さな穴が開いた。
「本当に、わたしが書いたのかな」
紙には子どものころの千尋の名前が書かれている。筆圧の強い字も、横線で消した間違いも、今の千尋と似ていた。それでも自分の記憶を疑い始めると、名前さえ証拠にならないように見えた。
その夜、美沙は真奈と一緒に再び家へ来た。二人はスーパーで買った豚汁とおにぎりを持っていた。真奈は黒いパーカーの袖をまくり、千尋のパソコンの前へ座った。
「記録を別の場所にも保存するね」
「わたしが書き換えたかもしれない」
「送受信の記録は、千尋のパソコンだけにあるんじゃないよ」
「廉さんのところにもある?」
「あるはず。運営のサーバーにも残っているかもしれない」
「黒崎さんは、わたしを信用しなかった」
「信用するかどうかではなく、記録を調べてもらう方法を探すの」
真奈は画像を日付順に並べ、一つのフォルダーへまとめた。ファイル名の先頭に番号をつけ、同じ画像には「重複」と書いた。千尋が何時間もかけてもできなかった整理を、真奈は三十分ほどで終えた。
「真奈ちゃんも、わたしより上手だね」
「パソコンの整理は慣れてるだけだよ」
「わたしは、何をしても遅い」
「遅くても、元の記録を残したのは千尋おばちゃんでしょう」
「間違えて同じものを二つ残した」
「二つあっても、なくなるよりいいよ」
美沙は台所で豚汁を温めた。電子レンジから出した容器のふたを開けると、ごぼうと味噌の匂いが部屋へ広がった。おにぎりは鮭、昆布、梅の三種類で、千尋は袋の文字を読む前に梅を選んだ。
「千尋、病院で診断されたとき、先生は何て言った?」
美沙が豚汁へ七味唐辛子を振りながら尋ねた。
「努力が足りなかったわけじゃないって」
「記憶が全部間違っているとは言われた?」
「言われてない」
「診断がある人の記録は、証拠にならないって?」
「言われてない」
「困っていることを説明したのは、助けてもらうためでしょう」
「うん」
「それを、言葉を聞かない理由に使うのはおかしいよ」
千尋は梅のおにぎりを半分に割った。中央の梅干しは片方へ偏り、もう一方には赤い色だけが染みていた。千尋は梅干しのないほうを先に食べた。
「でも、黒崎さんは運営責任者だよ」
「責任者なら、障害のことをもっと丁寧に扱わないといけないんじゃない?」
「廉さんには読者がいっぱいいる」
「人数と記録の内容は関係ない」
「廉さんの文章のほうが上手」
「それも関係ない」
「じゃあ、何を信じたらいいの?」
美沙は千尋の前へ豚汁を置いた。里芋の表面は煮崩れ、薄い豚肉が容器の底へ沈んでいる。湯気が千尋の眼鏡を白く曇らせた。
「今すぐ自分の記憶を信じられなくても、残っている記録まで捨てないこと。まずはそれでいいよ」
千尋は眼鏡を外し、カーディガンの裾で拭いた。レンズには脂が広がり、先ほどより曇った。真奈が眼鏡拭きを鞄から出し、何も言わずに渡した。
食後、三人で廉との連絡記録を見た。真奈が日付を読み、美沙が内容をノートへ書き、千尋はそのとき何を説明したか思い出せる範囲で話した。思い出せないところでは、美沙が無理に答えなくてよいと言った。
「分からないと言ったら、また信用されないよ」
「分からないことを分かると言うほうが危ないよ」
「廉さんは、そこを使う」
「だったら、記憶ではなく記録で話せばいい」
「記録の意味を、わたしが間違えるかもしれない」
「私と真奈も一緒に読む」
真奈が画面へ一つの連絡を表示した。廉が「なぜ靴底に隠すのですか」と質問し、千尋が「父に見つからないようにするためです」と答えた記録だった。日付は廉の作品の公開より五か月前になっている。
「この文章だけ見たら、どっちが先にガラス玉の話をしてる?」
「その前を見ないと分からない」
「じゃあ、前を見よう」
一つ前の連絡には、千尋が自分から「母の靴底に青いガラス玉を隠しています」と説明していた。さらに前には、廉が母の形見について尋ねているだけで、靴もガラス玉も書かれていなかった。
「ここでは、おばちゃんが先に言ってる」
「でも、もっと前に廉さんが別のところで言ったかもしれない」
「もし言ったなら、その記録を廉さんが出す番だよ。ないものを、おばちゃんが探し続けなくていい」
千尋は画面の日付をノートへ書いた。数字を一つ間違え、消しゴムで消して直した。紙には黒い跡が残ったが、正しい日付は読めた。
夜十一時を過ぎると、美沙と真奈は帰る支度を始めた。千尋は玄関まで見送り、忘れないよう鍵をかけた。廊下には豚汁のごぼうの匂いが残り、食卓には三人分の空き容器が重なっていた。
二階へ戻ると、パソコンの画面には記録が開かれたままだった。千尋は廉の穏やかな言葉と、自分が送った説明を交互に読んだ。
「本当に覚えていますか」
廉の問いへ、すぐに「覚えています」と答えることはできなかった。千尋は忘れる。約束を忘れ、物をなくし、今日食べたものさえ思い出せないことがある。その事実は変わらなかった。
けれど、忘れる人間が残した記録まで、記憶と一緒に消えるわけではなかった。間違いのある原稿も、重複した画像も、順番の乱れた説明も、廉の質問より先に千尋が青いガラス玉について書いた日付を残していた。
「わたしは忘れる。でも、これは残ってる」
千尋はその一文をノートへ書いた。字の大きさはそろわず、「残」の旁を一度間違えた。横線を引いて隣へ書き直すと、帳面はまた少し汚れた。
机の横には、小学生のころに破られた作文が置かれていた。千尋はそれを菓子箱へ戻さず、記録の封筒と一緒に机の上へ並べた。自分の記憶をすぐに信じられなくても、自分以外の人が決めた物語だけを信じる必要もなかった。
千尋は運営の返信を新しいフォルダーへ保存した。名前は「わたしの記録」とした。「証拠」という言葉を使うことは、まだ怖かった。それでも削除のボタンには触れなかった。
窓の外では雨が上がり、屋根から最後の水滴が落ちていた。風呂場には乾ききらない作業着が並び、台所には洗っていない豚汁の容器が残っている。千尋は明日の朝に忘れないよう、画面の中央へ「食器を洗う」と大きく入力した。
その下へ、もう一行を書き加えた。
「忘れることと、最初からなかったことは、同じではありません」
千尋は保存のボタンを押した。自分の記憶には穴があり、今もその穴へ廉や黒崎の言葉が入り込もうとしている。それでも穴の周りには、日付のある原稿と、送信記録と、千尋が何度も間違えながら書いた文字が残っていた。




