第6話 親切な人気作家
第6話 親切な人気作家
大量更新の警告を受けてから、千尋は毎晩九時に一話ずつ投稿するようになった。忘れないよう台所の時計と携帯電話の両方に目覚ましを設定し、冷蔵庫には「一日一話、夜九時」と青いペンで書いた紙を貼った。半額の値引きシールで留めた紙は、冷蔵庫を開けるたびに風でめくれた。投稿を終えると、千尋は前日の味噌汁を温め、冷たくなったアジの開きを電子レンジへ入れた。
「今日は一話だけ」
誰もいない台所で声に出すと、冷蔵庫のモーターが低く鳴った。味噌汁の鍋には大根と油揚げが残っていたが、煮直したため汁が濃くなっている。千尋は湯を少し足し、火を止める前にパソコンの通知音を聞いた。
「感想かな」
火を消したことを二度確かめてから、二階へ上がった。紺色のカーディガンの袖には、洗い物をしたときの水が染みていた。階段を急いで上ったため、右足のスリッパが途中で脱げたが、拾わずに部屋へ入った。
新しい感想ではなかった。投稿サイトの中で、ほかの利用者から届く個別の連絡だった。差出人の名前は「柊木廉」と表示されている。千尋にも、その名前には見覚えがあった。
柊木廉は、ノベルフロンティアで最も読まれている作家の一人だった。異世界へ渡った少年が滅びかけた王国を立て直す長編で人気を集め、作品は書籍になり、画面の横には美しい表紙の広告が表示されていた。お気に入りの人数は二万人を超え、感想欄には毎日何十件もの言葉が届いている。千尋の作品を読んでいる人が数人の日でも、廉の作品には一話だけで何千人も訪れていた。
「どうして、わたしに?」
千尋は指先についたアジの脂をカーディガンの裾で拭き、連絡を開いた。短い挨拶のあとに、千尋の作品を第二十五話まで読んだと書かれていた。
「突然の連絡を失礼します。『森の家と白い獣』を読みました。荒削りではありますが、物語を作る才能はあると思います。ただ、あなたは見せ方でかなり損をしています。よろしければ、少し助言をさせてください」
千尋は最初からもう一度読んだ。「物語を作る才能はある」という一文へ定規を当て、そこだけを三度読んだ。学校の教師にも、工場やスーパーの同僚にも、作品の中身を認められたことはなかった。美沙は好きだと言ってくれたが、姉だからそう言うのだと千尋は考えていた。
「才能があるって」
口に出すと、舌の上に残っていた濃い味噌の味が薄くなった。千尋は返信を書こうとしたが、最初の挨拶だけで十五分かかった。「読んでくださってありがとうございます」と書き、「読んでいただいて」に直し、どちらが丁寧なのか分からなくなって元へ戻した。
「助言をお願いします。わたしは、どこが悪いのか自分では分かりません」
送信したあと、言葉が足りなかった気がして、もう一通送った。
「小説を読んでいただいたのは初めてではありませんが、才能があると言われたのは初めてです」
さらに、うれしいと書こうとしたが、自慢をしているように見えるかもしれないと思い、送らなかった。階下から焦げた匂いが上がってきた。電子レンジで温めすぎたアジの皮が皿へ貼りついていた。
「また忘れた」
千尋はアジの皿と味噌汁を二階へ運んだ。机の端へ置いた味噌汁から湯気が上がり、画面の下を白く曇らせた。返事を待ちながらアジの身をほぐしていると、小骨が親指へ刺さった。
十分ほどで、廉から返信が届いた。
「まず、題名が弱いです。『森の家と白い獣』では、何が起こる物語なのか分かりません。読者は新着欄に並んだ題名を数秒で判断します。主人公が何者で、何をするのか、どんな魅力があるのかを題名に入れたほうがいいでしょう」
千尋はノートを開き、廉の言葉を一行ずつ書き写した。題名、主人公、何をする、魅力と書いたところで、味噌汁の椀へ袖が当たった。濃い茶色の汁が机へこぼれ、図書館の返却票と電気料金の請求書をぬらした。
「待って、消えないで」
千尋は画面へ向かって言い、雑巾を取りに台所へ下りた。戻る途中で脱げたスリッパを見つけたが、拾えば雑巾を持っていることを忘れそうだったので、そのまままたいだ。机を拭き終えると、廉の助言は消えずに残っていた。
「題名は、何に変えたらいいでしょうか」
「たとえば、『家族に捨てられた少女は白い魔獣と森に国をつくる』なら、内容が伝わります。ただし、あなたの作品は港町へ移ってからが長いので、これでも完全ではありません」
「国はつくりません。少女がつくるのは、自分が住む小さな家です」
「事実と完全に同じでなくても、読者の興味を引くことが大切です」
「国をつくると思って読んだ人が、家しか出なかったら怒りませんか」
「そこは物語を国づくりへ広げてもいいでしょう。読者が求める方向へ調整するのも作家の仕事です」
千尋はキーボードの上で指を止めた。リナは国をつくりたいのではない。家族に捨てられたあと、自分を追い出す人がいない場所を欲しがっただけだった。森の家も港町の部屋も、リナが自分で眠るための場所だった。
「でも、リナは女王になりたくありません」
「今すぐ題名を変えろとは言っていません。ひとつの案です」
「すみません」
「謝る必要はありません。こだわりがあるのは悪いことではない。ただ、君には読者へ分かりやすくまとめる力がない。その点は、経験者の意見を聞いたほうがいいでしょう」
千尋は最後の二文を読み直した。胸元へ味噌汁のしずくが飛び、カーディガンに丸い染みができていた。廉は書籍を何冊も出している。題名だけで何千人もの読者を集められる人が言うのだから、自分の考えより正しいのかもしれなかった。
「分かりました。教えてください」
翌日、廉は投稿時間について教えてくれた。平日の朝より夜、特に八時から十時の間に読者が増えること、一話の文字数をそろえること、同じ曜日に休まず更新することが大切だと説明した。千尋は仕事へ行く前に廉の連絡を読み、朝食の食パンへマーガリンを塗りながらノートへ書き写した。
「投稿は夜九時。一話は二千文字から三千文字。毎日同じ時間」
台所の窓から冬の白い光が入り、流し台に積んだ食器の水滴を照らしていた。食パンは焼きすぎて端が黒くなり、マーガリンを塗ると表面が細かく崩れた。千尋は焦げた部分も捨てず、牛乳へ浸しながら食べた。
廉から教えられた時間に投稿すると、閲覧数は少しずつ増えた。十人だったものが二十人になり、次の日には三十人になった。青い鳥からも新しい感想が届いた。
「白い獣が無事でよかったです」
千尋はその言葉を読み、白い獣の足の傷を治す場面を書き足した。港町の薬草師が森まで来て、傷口を洗い、乾いた薬草を布へ包んで巻く。白い獣は痛みで薬草師の手を噛みそうになったが、リナの声を聞いて踏みとどまった。
「この場面、どうでしょうか」
千尋は廉へ尋ねた。廉は読んでみたいと言い、未発表の原稿を送るよう頼んだ。千尋は第二十六話から第三十五話までを一つのファイルへまとめようとしたが、順番を間違えて第二十九話を二度入れた。廉は数分後に、そのことを指摘した。
「同じ話が二つ入っていますよ」
「すみません。送り直します」
「それから、第三十一話が抜けています」
「入れたと思いました」
「確認してから送ってください」
「三回確認しました」
「確認しても間違えるなら、確認の方法を変えなければいけません」
「どう変えたらいいですか」
「そこまで僕が教えることではないでしょう」
千尋は送信したファイルを一度削除し、番号を紙へ書き出した。一、二、三と数えるように、第二十六話から第三十五話までを指で押さえながら確認した。今度は一話ずつ別のファイルにして送り、廉に迷惑をかけたかもしれないと思って、謝罪を三度書いた。
「もう大丈夫です。読みますから待っていてください」
廉の返事を見て、千尋は椅子へ座り直した。仕事から帰ったままの服を着ており、薄い水色のブラウスの襟には紙の粉がついていた。夕食に買ったサバのみそ煮弁当は机の端で冷え、透明なふたの内側に水滴がついている。廉が読んでいる間に食べればよいのに、箸を割る音を立てるだけで返事を見逃す気がした。
三十分後、廉から長い感想が届いた。白い獣の治療場面には迫力があり、獣がリナの声で噛むのをやめるところがよいと書かれていた。薬草師が幼いころに白い獣と出会っていたという設定にも興味を持ったらしい。
「この薬草師は、過去にも白い獣を治したことがあるのですか」
「はい。薬草師が八歳のころ、森で熱を出したところを白い獣に助けられました」
「その設定は作中に出ていますか」
「まだ出していません」
「なぜ出さないのですか」
「あとで書くつもりでした」
「どの場面で?」
「白い獣が死ぬ前です」
「白い獣は死ぬのですか」
千尋は、まだ誰にも話したことのない結末を打ち始めた。白い獣は物語の最後、リナが自分の子どもを連れて森の家へ戻った夜に息を引き取る。薬草師は助けようとするが、白い獣は治療を拒み、幼いころにリナが最初に立てた壁の前へ横たわる。翌朝、白い獣の体には雪が積もり、リナは森に残ることを決める。
「リナはエリアスと結婚するのですか」
「結婚します。でも、エリアスは海で死にます」
「どうして死ぬのですか」
「港町の人たちを逃がすために、嵐の中で船を出します」
「リナはそのとき妊娠している?」
「はい。エリアスは知りません」
「なぜ知らせないのですか」
「リナも、そのときはまだ知りません。エリアスが帰らなくなったあとで分かります」
「なるほど。それは強い展開ですね」
廉は、エリアスが船を出す場面を詳しく尋ねた。嵐は何日続くのか、船には何人乗っているのか、港町の住人をどこへ逃がすのか、王家の短剣が最後にどう使われるのか。千尋は質問されるたびに、頭の中にしまっていた場面を一つずつ説明した。
王家の短剣は、エリアスの身分を証明するものだった。彼は海の向こうの国から追放された王子であり、港町を襲う軍船は兄王が送ったものだった。エリアスは王位を取り戻すためではなく、リナと町の人々を守るために兄と戦う。最後には短剣を海へ投げ、自分は王子ではなく港町の船乗りとして生きると決める。
「その短剣を海へ投げる場面は、どこに書いてありますか」
「まだ書いていません。五十話くらいで書きます」
「原稿は何話まであるのですか」
「四十二話です」
「続きを僕に送ってください」
「まだ直していません」
「直していなくても構いません。内容を知りたいだけです」
千尋は四十二話までの原稿を送った。投稿サイトへ公開していない部分だけでなく、人物ごとの設定を書いたノートも文字にして送った。リナが卵焼きの焦げた部分を捨てない理由、白い獣が人間の言葉を理解しても話さない理由、エリアスが右手へ傷を負った日のことまで説明した。
廉は夜中でも返事をくれた。千尋が午前三時に送れば、三時半に質問が届くこともあった。人気作家なら昼間は忙しく、夜中しか時間がないのだろうと千尋は考えた。廉の連絡を逃さないため、パソコンの音量を上げ、布団へ入ってからも通知音を待った。
「寝ていた?」
「起きています」
「薬草師が白い獣へ巻く布について聞きたいのですが、あれは普通の布ですか」
「リナが子どものころに着ていた服の袖です」
「なぜ、その服を薬草師が持っているのですか」
「森の家に残っていたからです。薬草師は、白い獣を治すために家の中を探します」
「その服には、何か模様がありますか」
「青い小さな花です。母がリナへ最後に縫ってくれた服です」
「母はリナを捨てたのでは?」
「父に逆らえなかったんです。服の裾の内側に、リナの名前を縫っています」
「それは面白い。詳しく教えてください」
千尋は布の色、花の形、母が使った糸まで説明した。リナは捨てられた朝、その服を持ち出せなかった。何年もあとで袖の布を見つけ、母が名前を縫っていたことに気づく。母が自分を忘れたわけではないと知るが、リナは故郷へ戻らない。
「なぜ戻らないのですか」
「名前を縫うだけで、母はリナを守らなかったからです」
「それをリナに言わせるのですか」
「言いません。服をたたんで、白い獣の傷へ巻きます」
「台詞がないのに、読者に伝わりますか」
「分かりません。でも、リナは言わないと思います」
「場面そのものは独創的です。ただ、君には意味をまとめて読者へ伝える力がない。僕なら、母を許せないという台詞を入れます」
千尋は返信を打たず、画面を見つめた。机の上には夜食に食べたカップうどんが残り、冷えた汁の表面で細かな油が白く固まっていた。割り箸は容器の縁から床へ落ち、カーディガンの裾には麺の汁が飛んでいた。
「台詞を入れたほうがいいですか」
「一般の読者には、そのほうが分かりやすいでしょう」
「リナは、自分の気持ちを言葉にするのが苦手です」
「それは作者である君と同じですね」
「はい」
「だからこそ、作品まで分かりにくくなる。自分と登場人物を分けたほうがいい」
「分かりました」
千尋は原稿を開き、白い獣へ布を巻く場面へ台詞を加えた。
「お母さんがわたしの名前を縫っていても、わたしを守らなかったことは変わらない」
入力したあと、リナがこんなに長く説明するだろうかと考えた。森の中で一人になったときも、家をつくると言っただけだった。姉にいなければよかったと言われた少女のころから、リナは胸の中にあるものを一度に話せない人物だった。
千尋は追加した台詞を消した。しかし廉が正しいと言ったことを思い出し、もう一度同じ言葉を入力した。三度読み直しても決められず、原稿の文字を赤くして残した。
それから廉は、千尋の未発表原稿を毎日のように求めた。公開した話への感想より、まだ誰にも読ませていない場面について詳しく質問した。閲覧数を増やす題名のつけ方や、読者を引きつける一話目の作り方も教えたが、話題はいつも物語の結末へ戻った。
「森の家の壁が最後まで一本だけ古いまま残っているのは、なぜですか」
「リナが最初につくった壁だからです」
「ほかの壁はどうなる?」
「嵐で壊れます。村の人が新しく建て直してくれます」
「最初の壁だけは壊れない?」
「曲がっていますが、根元に白い獣が運んだ大きな石を入れているので残ります」
「その石には何か秘密があるのですか」
「ありません。ただ重い石です」
「魔法の石にしたほうが面白くないですか」
「白い獣が重いのに運んだから、残るんです」
「ただの石を運ぶ場面に意味があると?」
「白い獣は話せないから、石でリナを守ったんです」
「それは使えるな」
廉から送られた最後の言葉を見て、千尋は首をかしげた。「使える」という言葉が、どこで使うという意味なのか分からなかった。自分の作品へ使えるということなら、すでに書くつもりだった。
「どう使うのですか」
「終盤の象徴として使える、という意味です。白い獣が死んだあと、石だけが残る。悪くありません」
「最初から、そのつもりです」
「そうでしたね。ただ、設定を作品の形へするには整理が必要です。君は発想だけなら面白い。でも、君にはまとめる力がない」
廉は毎回、よいところを教えたあとに同じ言葉を加えた。才能はある、場面は独創的だ、人物の過去は面白い。しかし、君にはまとめる力がない。最初はその言葉を読むたび、千尋の指はキーボードから離れた。
それでも廉の作品は書籍になっていた。大勢の読者に読まれ、ランキングの一位にもなっている。千尋の作品には誤字が残り、登場人物の呼び方もそろわず、閲覧数は一日に五十ほどだった。どちらの判断が正しいのか考えると、数字はいつも廉の側にあった。
「わたしには、まとめる力がない」
朝食の納豆を混ぜながら、千尋は声に出した。納豆のたれを入れる前に醤油もかけたため、白いご飯へ載せると塩辛かった。流し台には昨夜のカップうどんが残り、窓際へ干した布巾の端から水が落ちていた。
「だから、教えてもらわなくちゃ」
冷蔵庫に貼った投稿時間の紙の横へ、新しい紙を貼った。「題名は内容を説明する」「気持ちは台詞で書く」「一話に一つの出来事」「廉さんの助言を聞く」と書いた。最後の一行だけ、青いペンで二重に囲んだ。
次の休日、美沙が真奈を連れて家へ来た。高校生になった真奈は紺色のパーカーとジーンズを着て、居間のソファで携帯電話を見ていた。美沙は商店街で買ったコロッケを皿へ並べ、千切りキャベツを添えた。千尋は廉から連絡が来るかもしれないため、パソコンの通知音が聞こえるよう二階の扉を開けていた。
「最近、小説はどう?」
「人気作家の人に教えてもらってる」
「人気作家?」
「柊木廉さん。美沙ちゃんも名前を知ってるかもしれない。本が何冊も出てる人」
「その人が千尋の小説を読んだの?」
「才能があるって言ってくれた」
「よかったじゃない」
「でも、まとめる力がないって」
千尋はソースをかけたコロッケを箸で半分に割った。揚げたてだった衣は、持ち帰る間に蒸れて柔らかくなっていた。中には粗くつぶしたジャガイモと小さなひき肉が入っている。
「未発表の話も全部読んでもらった」
「全部?」
「結末も教えた。分からないところを質問してくれるの」
「どんなことを聞かれたの?」
「白い獣が運んだ石のこととか、リナのお母さんが縫った服のこととか、エリアスが海で死ぬところとか」
「それ、まだ公開してないんでしょう?」
「うん。廉さんだけが知ってる」
美沙はコロッケへ伸ばした箸を止めた。真奈も携帯電話から顔を上げた。
「知らない人に、未発表の原稿を全部送ったの?」
「知らない人じゃないよ。柊木廉さんだよ」
「会ったことはあるの?」
「ない。でも、毎日話してる」
「本当に本人なの?」
「投稿サイトの名前に柊木廉って書いてある」
「本人だと確認した?」
「作品のところから連絡が来たから、本人だよ」
「それだけでは分からないでしょう」
「人気作家が、わたしの原稿を盗むわけないよ。自分で面白い話を書けるんだから」
千尋はコロッケの端へついたキャベツを集め、ソースへ絡めた。美沙は何か言いかけたが、真奈が先に口を開いた。
「その人、自分の新作を書いてるの?」
「今度、新しい物語を出すって」
「どんな話?」
「まだ秘密だって。海の向こうから追放された王子が、小さな町を守る話らしいよ」
「千尋おばちゃんのエリアスみたい」
「王子が出る話は、たくさんあるよ」
「白い獣も出る?」
「それは知らない」
千尋が答えると、二階から通知音が聞こえた。箸を置き、椅子から立ち上がる。美沙が腕をつかんだため、カーディガンの袖が引っ張られた。
「食べてからにしなさい」
「返事を待たせると悪いから」
「向こうは千尋が食事中かもしれないって考えないの?」
「人気作家だから忙しいの。時間があるときに答えないと、もう教えてもらえないかもしれない」
「千尋、原稿を送るのは少し止めたほうがいいよ」
「どうして?」
「せめて、その人が何のために細かい設定まで聞くのか確かめて」
「わたしにまとめる力がないから、代わりに整理してくれてるんだよ」
「整理したものを、どこで使うの?」
「わたしの小説に決まってるでしょう」
千尋は美沙の手を外し、二階へ上がった。机の画面には、廉から新しい質問が届いていた。
「エリアスが嵐の海へ出る前、リナへ何か残しますか」
千尋は濡れた口元をカーディガンの袖で拭いた。エリアスは言葉を残さない。リナが眠っている間に、使い古した羅針盤を食卓へ置いて出ていく。羅針盤の針は壊れており、北を指さない。それでもリナは、エリアスが帰る方角を毎晩その羅針盤で探す。
「壊れた羅針盤を残します」
「なぜ壊れたものを?」
「エリアスが子どものころ、初めて船に乗ったときから持っているからです」
「壊れた原因は?」
「兄から海へ突き落とされたときに、岩へぶつかりました」
「兄王は、子どものころからエリアスを殺そうとしていた?」
「はい。でも、エリアスは兄が自分を嫌っている理由を知りません」
「その理由は?」
千尋は、王妃が隠していた出生の秘密を説明した。兄王は先王の子ではなく、王妃と宰相の間に生まれた。エリアスこそが正しい王位継承者であり、その事実を知った兄は彼を海へ突き落とした。壊れた羅針盤は、兄の罪を見ていた船員が拾い、成人したエリアスへ返したものだった。
「面白い。それは何話で明かしますか」
「最後まで明かしません」
「なぜ?」
「エリアスは王位を欲しがっていないからです。兄の秘密を公表せず、短剣と羅針盤を海へ投げます」
「読者が知らないままでは、設定を考えた意味がないでしょう」
「読者には、船員が羅針盤を拾う場面だけ見せます」
「それでは伝わりません」
「全部言わなくても、分かる人には分かります」
「また、それですね」
廉からの返事は、しばらく途切れた。千尋は椅子の上で膝を抱え、画面の点滅する印を見ていた。階下では美沙と真奈が食器を片づけ、蛇口から水を流している。冷めたコロッケが一つ、千尋の皿へ残っているはずだった。
「場面は非常に独創的です。壊れた羅針盤を王位の放棄へつなげる発想もいい。ただし、君にはそれを分かりやすくまとめる力がない。秘密を伏せるのではなく、必要なところで説明するべきです」
「廉さんなら、どう書きますか」
「僕なら兄王との対決で出生の秘密を明かし、エリアス自身に王位を捨てると宣言させます」
「エリアスは、兄と会いません」
「会わせたほうが盛り上がります」
「でも、兄はエリアスの船を遠くから沈めます」
「それでは敵との決着が弱い」
「海では、顔を見ないまま死ぬ人もいます」
「現実の話ではなく、小説の見せ方を話しています」
「分かりました」
千尋は返事を送り、原稿の結末を開いた。エリアスの船が嵐の海で沈む場面を削除し、兄王の船へ乗り込む場面を書きかけた。しかしエリアスが剣を持って兄の前へ立つと、それまでの人物とは別人に見えた。
「俺は王位を捨てる」
台詞を入力したが、エリアスは最初から王位を求めていない。持っていないものを捨てると宣言する必要はなかった。千尋は一行を消し、もう一度書き、また消した。
階段を上がる足音がして、美沙が部屋へ入ってきた。手には千尋が残したコロッケの皿を持っている。ソースが衣へ染み込み、千切りキャベツは茶色くしなびていた。
「食べないの?」
「あとで食べる」
「また廉さん?」
「うん。結末を教えてもらってる」
「結末は、千尋がもう考えていたんでしょう」
「わたしの結末は、まとめる力がないから分かりにくいって」
「千尋は、どっちを書きたいの?」
「エリアスは嵐の海で死ぬの」
「じゃあ、それを書けば?」
「廉さんは、兄と対決させたほうがいいって」
「千尋の小説なのに?」
「成功してる人のほうが分かってるよ」
美沙はコロッケの皿を机へ置いた。味噌汁をこぼした跡は完全に拭き取れておらず、木の表面が白く曇っていた。机の横には、廉の助言を書いた紙が何枚も貼られている。
「才能はある。でも、まとめる力がない」
その一文だけ、ほかより大きな文字で書かれていた。美沙は紙を読み、千尋の肩へ手を置いた。
「この人、いつも同じことを言うの?」
「よいところも言ってくれるよ」
「よいところを言ったあと、必ずこれを言うの?」
「本当のことだから」
「本当かどうか、誰が決めたの?」
「廉さんは本を出してる。読者も二万人いる」
「人数が多い人は、千尋の物語を好きに変えていいの?」
「好きにしてるんじゃないよ。教えてくれてるの」
「だったら、どうして千尋が書きたい結末を消すの?」
千尋は答えられず、冷めたコロッケを指でつまんだ。衣は油を吸って重く、ジャガイモは冷えて硬くなっていた。美沙は机に貼られた紙をはがさず、ゆっくりと階段を下りていった。
夜中になり、廉からもう一通届いた。
「君の発想には、ときどき驚かされます。だから放っておけない。ただ、才能だけでは作品になりません。君にはまとめる力がないので、僕の助言を信じてください」
千尋はその言葉をノートへ書き写した。「放っておけない」のところへ青い線を引いた。学校でも職場でも、千尋は迷惑をかける人として置いていかれた。廉だけが、間違いの多い原稿を読み、夜中まで質問してくれた。
「ありがとうございます。廉さんが初めてできた作家の仲間です」
送信したあと、「仲間」と書いたことがなれなれしかったかもしれないと思った。取り消す方法を探していると、廉から返事が届いた。
「仲間だと思ってもらって構いません。これからも力になります」
千尋はその一文を印刷した。プリンターから出てきた紙はまだ温かく、インクの匂いがした。机の前の壁には、学校で赤い線を引かれた進路希望調査票の代わりに、人気作家から届いた「仲間」という言葉が貼られた。
翌朝、千尋は仕事へ行く前に未発表原稿の続きを廉へ送った。結末までの詳しい予定表もつけ、人物の秘密を書いたファイルには、間違えないよう「廉さん用」と名前をつけた。水色のブラウスへ着替え、紺色のズボンをはいたあとも、画面から離れられなかった。
「送ってくれてありがとう。よく考えられています。ただ、このままでは読者に伝わらないでしょう。君にはまとめる力がないから、僕が整理してみます」
千尋はその返事を読み、通勤鞄へ弁当箱を入れた。弁当には昨夜の残りのコロッケと、少ししなびたキャベツが入っていた。玄関へ向かう途中で携帯電話を忘れたことに気づき、二階へ戻ったため、いつものバスには間に合わなかった。
次のバスを待つ停留所には、冷たい風が吹いていた。千尋は薄いコートの前を両手で押さえ、廉の言葉を頭の中で繰り返した。才能はある。けれど、まとめる力がない。だから、成功した作家に教えてもらわなければならない。
バスが来るまで、千尋は白い息を吐きながら、廉へ送った結末を思い出していた。森に残る一枚の古い壁、白い獣が運んだ重い石、母が名前を縫った青い花の服、壊れた羅針盤を海へ投げるエリアス。そのすべてを知っているのは、千尋のほかには廉だけだった。
「仲間だから、大丈夫」
千尋は自分へ言い聞かせ、到着したバスへ乗った。鞄の中では弁当箱が傾き、コロッケのソースがキャベツへ流れていた。家のパソコンには未発表の物語が残り、その写しは、初めてできた仲間のもとへ渡っていた。




