第5話 六文字の読者
第5話 六文字の読者
四十二歳になった千尋は、町の印刷工場で週に三日だけ働いていた。白い紙を百枚ずつ数えて帯を巻く仕事だったが、途中で話しかけられると何枚まで数えたか分からなくなるため、十枚ごとに指で紙の角をずらすことにしていた。それでも機械の警告音が鳴ると、六十枚まで数えた束を最初から数え直した。休憩室では、同僚たちが湯気の立つカップ麺をすすりながら、千尋の手が遅いと小声で話していた。
「水城さん、今日の分、まだ三箱残ってるよ」
「あと四十分あるから終わらせます」
「数え直してばかりいたら、終わらないでしょう」
「途中で呼ばれると、どこまで数えたか分からなくなります」
「呼ばれても手を止めなければいいじゃない」
「話を聞くと、数字が消えます」
「また、それ?」
先輩は食べ終えたカップ麺の容器を流し台へ置いた。汁を捨てずに置いたため、醤油と油の匂いが狭い休憩室へ広がった。千尋はアルミ箔に包んだ梅干しのおにぎりを食べ、歯についた海苔を舌で取った。午後は誰に呼ばれても返事だけをして、百枚を数え終わるまで顔を上げないと決めた。
ところが作業場へ戻ると、千尋は紙を数えることへ集中しすぎて、完成した束を運ぶ台車がいっぱいになっていることに気づかなかった。積み上げた紙が傾き、いちばん上の束が床へ滑り落ちた。白い紙が扇のように広がり、何枚かは作業靴の下へ入り込んだ。
「何やってるの!」
「百枚を間違えないように数えていました」
「台車も見てよ。こんなの、商品にできないでしょう」
「紙を見ると、台車が見えません」
「そんなこと言ったって、仕事なんだから」
「拾って、もう一度数えます」
「靴で踏んだ紙は捨てるの。余計なことを増やさないで」
千尋は床へしゃがみ、散らばった紙を一枚ずつ集めた。油のついた作業靴で踏まれた部分には、薄い灰色の跡が残っていた。捨てる紙を腕に抱えると、紙の角が顎へ当たった。近くで働いていた男性が、四十を過ぎてもこんなことをする人がいるんだなと笑った。
帰宅すると、千尋は台所で手を洗った。紙を数え続けた指先は乾いて白くなり、石鹸をつけると細かな傷がしみた。母は数年前に亡くなり、父も介護施設へ入ったため、古い家には千尋一人が暮らしていた。流し台には昨夜使ったラーメンの丼と、朝に飲んだコーヒーのカップが残り、窓辺には洗った牛乳パックが三つ並んでいた。
「ただいま」
返事をする人はいなかったが、千尋は毎日声に出していた。冷蔵庫を開けると、半分に切ったキャベツ、賞味期限の近い卵、透明な容器に入れた冷たい味噌汁があった。味噌汁には豆腐が二切れ残っていたが、温めるのが面倒になり、千尋は冷たいまま飲んだ。
「今日は、何を書こうかな」
冷蔵庫へ向かって尋ねても、低いモーター音が返ってくるだけだった。千尋は薄い茶色のセーターの上へ毛玉のついた紺色のカーディガンを羽織り、二階へ上がった。机には中古のパソコンと新しい液晶画面が置かれ、その周りを求人広告、病院の領収書、空になったのど飴の袋が囲んでいた。
最初に買った灰色のパソコンは十年ほど前に動かなくなった。電源を入れても黒い画面のままになったとき、千尋は中に保存した少女の家まで消えたと思い、店へ本体を抱えていった。修理をした店員は、記憶装置から文章を取り出し、新しいパソコンへ移してくれた。千尋はそれ以来、同じ文章をパソコンと小さな記憶装置の両方へ保存していた。
「今日もいるね」
千尋がファイルを開くと、家族に置いていかれた少女と白い獣が現れた。少女は森の家を完成させ、成長して港町へ移り住んでいた。白い獣は年を取り、以前のように太い枝を運べなくなっている。物語は、少女が海の向こうから来た船乗りを助ける場面で止まっていた。
「名前を決めないとね」
船乗りにはまだ名前がなかった。千尋は「青い目の男」「旅人」「船乗り」と、そのとき思いついた呼び方で書いていた。名前をつければ、そのあとの物語が動き始める気がしたが、どの名前も一日たつと気に入らなくなった。
机の端には、図書館から借りた外国人名の本が置かれていた。返却日は三日前だった。千尋は明日こそ返すと手の甲へ書こうとしたが、赤いペンが見つからなかった。代わりに青いボールペンで「本」と書き、近くにあった食パンを一枚かじった。
「エリアスにしよう」
名前を入力すると、海で倒れていた男が顔を持った。潮風に固まった黒い髪、日に焼けた頬、右手の古い傷まで頭の中に浮かんだ。千尋は食パンを皿へ置き、エリアスが目を覚ます場面を書き始めた。
「ここはどこだ」
「わたしの家です」
「俺の船は?」
「嵐で沈みました。浜に流れ着いたのは、あなたと壊れた箱だけです」
「仲間は見つからなかったのか」
「白い獣が捜しています」
千尋は三人の会話を書き続けた。文章はすでに原稿用紙で五百枚を超えていたが、誰にも読ませたことはなかった。美沙は何度も読みたいと言ってくれたが、仕事と子育てで忙しくなり、会うのは月に一度ほどになっていた。千尋も途中の文章を見せることができず、完成したら渡すと言い続けていた。
ある日、職場の若い女性が休憩室で小説投稿サイトの話をしていた。自分で書いた恋愛小説を公開し、読者から感想をもらったという。千尋は持参した冷たい焼きそばを箸でほぐしながら、二人の会話へ耳を傾けた。
「昨日、またお気に入りが増えたの」
「何人になった?」
「二百三十人。感想も来たよ」
「小説って、本を出してなくても人に読んでもらえるんだね」
「誰でも投稿できるから。無料だし」
千尋は焼きそばに入っていた紅しょうがを一か所へ集めた。話しかけようとして何度も箸を置いたが、二人は芸能人の話へ移ってしまった。休憩の終わりを知らせるベルが鳴る直前、千尋はようやく女性のそばへ行った。
「さっきの小説のところ、誰でも出せるんですか」
「投稿サイトのこと?」
「はい。本になっていなくても?」
「メールアドレスがあれば登録できますよ」
「字を間違えていても出せますか」
「あとから直せます。でも、投稿する前に読み返したほうがいいですよ」
「何回くらい?」
「一回か二回でいいんじゃないですか」
「一回読んでも、違う日に読むとまた間違いが見つかります」
「だったら、気づいたときに直せばいいと思います」
「知らない人が読むんですか」
「公開すれば読みますよ。読まれないこともあるけど」
女性はメモ用紙へ「ノベルフロンティア」とサイトの名前を書いた。フロンティアの小さい「ィ」が抜けていたため、横から書き加えた。その文字を見て、千尋は一度で正しく書けないのは自分だけではないと思った。
帰宅した千尋は、夕食を作る前にパソコンを開いた。冷蔵庫には豚肉とモヤシがあり、炒めて食べるつもりだった。豚肉を冷蔵室から出し、皿へ載せたところで、サイトの名前を検索した。青い文字の画面が現れ、登録というボタンを押すと、いくつもの記入欄が並んだ。
「利用者名は、千尋でいいのかな」
実名を使ってよいか分からず、千尋は「森の家」と入力した。すでに使われていると表示されたため、「白い獣」に変えた。それも使われており、最後に「ちひろの机」と入力すると登録できた。
メールアドレスと暗証文字を入れる途中で、台所から生肉の匂いが漂ってきた。千尋は豚肉を冷蔵庫へ戻そうと立ち上がり、冷蔵庫の前で何を取りに来たのか分からなくなった。開けた扉の明かりの中に皿を見つけ、ようやく思い出した。
「ご飯が先」
声に出して決め、豚肉とモヤシを炒めた。塩と胡椒を振ったが、醤油を入れたかどうか分からなくなり、少しだけ追加した。出来上がった炒め物は舌がしびれるほど塩辛く、千尋は冷たい麦茶を二杯飲んだ。
食後、流し台へ皿を置き、千尋は投稿の準備を始めた。作品の題名は『森の家と白い獣』に決めた。あらすじを書く欄には、家族に捨てられた少女が森で自分の家を建て、成長して港町で暮らす物語だと入力した。分類を選ぶ欄には恋愛、冒険、日常、幻想といくつも並び、どれを選べばよいか分からなかった。
「白い獣がいるから、幻想かな」
一度は幻想を選んだが、港町でエリアスと出会うので恋愛かもしれないと思い直した。少女はまだエリアスを好きになっておらず、将来も好きになるか決めていなかった。結局、千尋は「幻想」を選び、第一話から一話ずつ貼りつけた。
物語は四十二話まであった。一度に全部出すのがよいのか分からず、まず十話を公開した。公開のボタンを押すたびに確認画面が現れ、千尋は間違いがないか読み直した。それでも目が同じ行を飛び越え、読み返しているうちに文章の意味が分からなくなった。
「公開したら、直せるんだよね」
誰もいない部屋で確認し、千尋は十話目の公開ボタンを押した。時計は夜中の一時を過ぎていた。流し台には洗っていない皿とフライパンが残り、モヤシの焦げた匂いが二階まで上がってきた。千尋は画面に表示された自分の作品名を何度も見てから、布団へ入った。
翌朝、作品の閲覧数は十二になっていた。千尋は寝間着のまま椅子へ座り、十二という数字を指でなぞった。自分で開いた回数も含まれているのか分からなかったが、少なくとも誰かが読んだ可能性はあった。仕事へ行く時間が近づいても画面を閉じられず、朝食のバナナを一本だけ鞄へ入れて家を出た。
昼休みに携帯電話から確認すると、最初の感想が届いていた。文字が小さかったため、千尋は画面を顔へ近づけ、一行ずつ指で押さえながら読んだ。
「誤字が多すぎます。公開前に確認したらどうですか」
千尋は食べかけのバナナを机へ置いた。黄色い皮には指の跡がつき、先端から白い果肉が押し出されていた。どの字を間違えたのか書かれていなかったので、直し方が分からなかった。
夕方には二件目の感想が届いた。
「文章が読みにくいです。同じ説明が何度も続いています」
三件目には、主人公の名前が途中で別の名前になっていると書かれていた。千尋が確認すると、少女を「リナ」と名づけたあとも、数か所で「少女」と書き続けていた。しかし名前が違っているわけではなく、同じ人を二通りに呼んでいるだけだった。
「少女って書いたら、だめなのかな」
千尋は翌日の休憩時間に、投稿サイトを教えてくれた女性へ尋ねた。女性はハムサンドの袋を開け、感想の画面を読んだ。
「同じ人なら、名前を統一したほうが読みやすいと思います」
「全部リナにするんですか」
「そうですね。でも、文章によっては『少女』でもいいかもしれません」
「どっちですか」
「読んで自然なほうです」
「自然って、どうしたら分かりますか」
「そこは自分で読んで考えるしかないです」
「読んでも、同じ人だと分かります」
「千尋さんには分かっても、読む人には分からないことがありますから」
「分からなかったら、聞いてくれれば説明します」
「小説は、作者が横で説明できないでしょう」
女性は意地悪を言っている様子ではなかった。ハムサンドから落ちたレタスを指で拾い、袋の中へ戻しながら答えてくれた。それでも千尋には、少女とリナが同じ人であることが、なぜ読者には分からないのか理解できなかった。
帰宅すると、さらに感想が増えていた。
「漢字の使い方を勉強してください」
「台詞の途中で話し手が分からなくなります」
「小学生でも、もう少しましな文章を書きますよ」
「こんな長い話を最後まで読める人がいるのでしょうか」
千尋は一件ずつ読み、間違いを探した。指摘された文字を直すと、別の箇所にも同じ間違いが見つかった。そこを直している途中で、最初に何をしていたのか分からなくなった。修正したつもりの文章を別の話へ貼りつけ、同じ場面が二度続いた。
「また間違えた」
削除キーを押す指へ力が入った。画面の文字は紙のように破れず、何度でも直せた。それでも直すたびに別の間違いが現れ、最初から正しい文章など書けなかったのだと思うようになった。
数日後、感想欄に短い言葉が書かれていた。
「誤字だらけで笑いました」
千尋はその感想を三度読んだ。何が面白かったのか確かめるため、公開した第一話を開いた。「少女は家族に捨てられた」と書くべきところが、「少女は家族に拾てられた」になっていた。小さいころから何度も間違えた字だった。
笑いました、という言葉の横には、口を開けて笑っている顔の記号がついていた。千尋は自分の口元へ手を当てた。夕食に食べたカレーの匂いが指に残り、爪の間にはジャガイモの黄色い欠片が挟まっていた。
「そんなに、おかしいのかな」
冷蔵庫のモーターが低く鳴った。流し台にはカレーを煮た鍋が残り、表面に薄い油の膜が張っていた。洗濯機には朝に入れたタオルが残ったままで、ふたを開けると湿った布の匂いがした。
千尋は作品を削除する方法を探した。管理画面には「編集」「非公開」「削除」というボタンが並んでいた。削除を押せば、四十二歳まで書き続けてきた少女の家も、白い獣も、港町も、読者の画面から消える。パソコンの中には残るのだから、小学校のときのように全部を破られるわけではなかった。
「公開しなければ、笑われない」
千尋は「削除」の文字へ矢印を合わせた。しかしクリックする前に、新しい感想が一件届いた。短い文章だった。
「続き読みたい」
千尋は画面へ顔を近づけた。続、き、読、み、た、いと、一文字ずつ指で数えた。六文字だった。誤字については何も書かれていない。読みにくいとも、小学生より下手だとも書かれていない。
「続き、読みたい」
千尋は声に出して読んだ。誰が書いたのか確かめると、利用者名は「青い鳥」だった。プロフィールには何もなく、ほかにどんな作品を読んでいるのかも分からなかった。それでも、その人は千尋の物語を読み、まだ公開していない先を求めていた。
「どこまで読んだんだろう」
千尋は感想のついた話数を確認した。第十話、少女が森の家を完成させ、白い獣と初めて冬を越す場面だった。画面の向こうにいる一人の読者は、港町もエリアスも知らない。千尋のパソコンの中で待っている人物たちのことを、まだ何も知らなかった。
「エリアスが来るんです。海から流されてくるんです」
千尋は画面へ向かって説明した。青い鳥から返事はなかった。しかし頭の中では、浜辺に倒れていたエリアスが目を開いた。港の酒場では主人が魚のスープを煮込み、船大工は嵐で折れた帆柱を調べていた。年を取った白い獣は、海から近づく黒い帆を見つけて立ち上がった。
冷蔵庫のモーター音が、港へ入る船の汽笛に聞こえた。台所の蛇口から落ちる水滴は、港の石段へ打ちつける波の音になった。洗いかけの食器に残った水は、黒い雲の下で荒れる海へ変わり、その中をエリアスの船が大きく傾きながら進んでいた。
「書かなくちゃ」
千尋は削除の画面を閉じ、保存していた第十一話を開いた。寝間着の上へ薄い紫色のカーディガンを羽織り、髪を後ろで一つに結んだ。椅子の下には昨日脱いだ靴下が片方だけ落ち、机の端には開封したままの食パンが置かれていた。
第十一話では、リナが海岸でエリアスを見つけた。第十二話では、白い獣が岩場から壊れた木箱を引き上げた。第十三話では、木箱の中から王家の紋章がついた短剣が見つかった。第十四話では、港町の役人がその短剣を奪おうとした。
「これは俺のものではない」
「でも、あなたの船に積まれていました」
「俺は荷物の中身を知らなかった」
「だったら、誰が積んだの?」
リナとエリアスが話し始めると、千尋は指を止められなかった。書きかけだった話を直し、その続きを書いた。文章の順番を入れ替え、誤字に気づけば戻ったが、何度も読み返すことはしなかった。読み返せば人物たちが再び止まり、次の台詞を忘れてしまう気がした。
夜中の一時、千尋は空腹に気づいた。冷蔵庫から冷たいカレー鍋を出し、火にかけた。温まるまで待つ間にも台詞を忘れそうになり、台所の広告の裏へ鉛筆で書いた。
「短剣を持って逃げろ。北の灯台で待っている」
鍋から焦げた匂いがして振り返ると、底のカレーが黒くなっていた。千尋は上の部分だけを皿へ移し、冷たいご飯へかけた。スプーンを持ったままパソコンの前へ戻り、一口食べては一行書いた。
「リナは、短剣を持って逃げました」
午前三時には皿のカレーが冷え、表面に膜が張っていた。千尋は半分も食べていなかったが、空腹を感じなくなっていた。第十五話を公開し、続けて第十六話を書いた。白い獣が役人の追っ手を森へ誘い込み、リナとエリアスを逃がした。
「白い獣を死なせないで」
千尋は自分へ言い聞かせた。小学生のころから一緒にいた獣を、物語を盛り上げるためだけに死なせたくなかった。白い獣は足を負傷したが、森に隠した古い家へ戻った。少女だったころのリナが建てた壁は苔に覆われ、それでも倒れずに残っていた。
朝になると、カーテンの隙間から白い光が入った。千尋は仕事の日だと思い、椅子から立ち上がった。しかし曜日を確認すると休日だった。流し台の水にはカレーの皿が沈み、洗濯機の中には昨日のタオルが入ったままだった。
「今日も書ける」
千尋はインスタントコーヒーを入れた。湯を入れすぎて薄くなり、砂糖を二杯入れても苦みだけが残った。食パンを一枚焼いたが、物語の続きを考えているうちにトースターから出すのを忘れた。焦げたパンを流し台の横へ置き、新しい一話を書き始めた。
昼になって、美沙から電話がかかってきた。千尋は鳴っている電話を見たが、エリアスが灯台の地下室を見つけたところだったため、先に一段落だけ書いた。その間に呼び出し音は止まった。すぐにかけ直すつもりで電話を机へ置き、第十八話の続きを打った。
一時間後、再び電話が鳴った。
「千尋、何をしてたの?」
「小説を書いてた」
「昨日の夜から電話してたのよ」
「今、一回しか鳴ってないよ」
「昨日もかけた。留守番電話も入れたでしょう」
「聞いてない」
「ちゃんと寝た?」
「少しだけ」
「ご飯は?」
「カレーを食べた」
「いつ?」
「夜中」
「今はもう午後二時よ」
千尋は画面の隅の時計を見た。部屋には薄いコーヒーと焦げたパンの匂いが残っていた。カーディガンの袖口にはカレーの黄色い染みがつき、髪を結んだゴムはいつの間にか外れていた。
「読者ができたの」
「何人?」
「一人」
「一人のために、昨日から寝てないの?」
「続きを読みたいって」
「それで、何話書いたの?」
「今、八話目」
「少し休みなさい。食べるものはある?」
「パンがある」
「焦がしたパンじゃないでしょうね」
「どうして分かったの?」
「千尋は何かに夢中になると、いつも鍋かパンを焦がすから」
美沙は電話を切らず、千尋が台所へ行くまで待った。冷蔵庫には卵が二つと、しなびたキュウリ、袋の底に少し残ったハムがあった。千尋はハムを食パンへ載せ、マヨネーズをかけた。
「今、食べてる?」
「まだ作ってる」
「パソコンの前に持っていかないで、台所で食べなさい」
「台詞を忘れる」
「紙に書いておけばいいでしょう」
「紙が見つからない」
「冷蔵庫に広告が貼ってあるでしょう」
千尋は広告の余白へ、思いついた台詞を三行書いた。食卓へ座り、ハムを載せただけの食パンを食べた。キュウリも切ろうとしたが、包丁を洗うのが面倒だったので、そのまま一本かじった。皮は少ししなびていたが、中には冷たい水分が残っていた。
「食べたよ」
「今度は寝て」
「十五話書いたら寝る」
「一日で十五話も出すつもり?」
「青い鳥さんが待ってるから」
「その人、今日中に全部出してなんて言ったの?」
「言ってない」
「だったら、一話ずつでいいんじゃない?」
「でも、続きが読みたいんだよ」
「続きが読みたいのと、一度に全部読みたいのは違うでしょう」
「どう違うの?」
「私にも説明しにくいけど、読む人にも生活があるの。千尋だって、一度に十五話読めと言われたら疲れるでしょう」
「一話ずつ読めばいいよ。全部を一度に読まなくても、消えないから」
美沙は電話の向こうで息を吐いた。幼い子どもの声が聞こえ、鍋のふたが鳴る音もした。美沙にも夕食の支度があるのだと分かり、千尋は電話を切ることにした。
「寝るのよ」
「十五話出したら」
「千尋」
「分かった。できるだけ寝る」
「できるだけじゃなくて、布団に入るの」
「うん」
電話を切ると、千尋はパソコンの前へ戻った。美沙に返事をしたときは寝ようと思っていたが、画面には灯台の地下室で扉を見つけたエリアスがいた。扉の向こうには何があるのか、千尋にもまだ分からなかった。
「開けてみよう」
エリアスが扉を開くと、中には航海日誌があった。日誌には、彼の父が二十年前に同じ港へ来たことが書かれていた。リナの母の名前も記されていた。千尋はそれまで考えていなかった二人のつながりを見つけ、椅子の上で足を組み直した。
その晩も、千尋はほとんど眠らなかった。眠気が来ると冷たい水で顔を洗い、塩を振っただけのゆで卵を食べた。卵の殻は流し台へ置いたままにし、鍋の湯も捨てなかった。物語の人物たちが次々に話し、千尋は聞こえてくる言葉を忘れる前に画面へ移した。
二日目の夜、十五話目が完成した。第十一話から第二十五話まで、二日間で書き上げたことになる。千尋は一話ずつ公開のボタンを押した。公開するたびに作品が新着欄の先頭へ戻る仕組みだったが、千尋は新着欄を見ていなかった。
「これで、港町まで読めるよ」
最後の公開ボタンを押すと、画面には第二十五話まで並んだ。千尋は青い鳥からの感想が増えていないか確認したが、新しい言葉は届いていなかった。二日分の眠気が一度に押し寄せ、椅子へ座ったまま目を閉じた。
目を覚ますと、窓の外は明るくなっていた。首の後ろが硬くなり、口の中にはゆで卵の黄身の味が残っていた。机の下にはカーディガンが落ち、片方の靴下がパソコンの線へ引っかかっていた。千尋は画面をつけ、感想を確認した。
新しい感想はなかった。その代わり、サイトの運営から一通の通知が届いていた。赤い文字で「警告」と書かれている。千尋は定規を画面へ当て、一行ずつ読んだ。
「短時間に大量の作品およびエピソードを公開し、新着欄を継続的に占有する行為は、ほかの利用者の迷惑となります。今後、同様の投稿を繰り返した場合、アカウントの利用を制限することがあります」
千尋は最初からもう一度読んだ。大量の作品は公開していない。一つの作品に十五話を追加しただけだった。新着欄を占有するつもりもなく、青い鳥に続きを読んでもらうために、一生懸命書いただけだった。
「どうして、迷惑なの?」
千尋は運営への返信欄を開いた。
「一人の読者から、続きが読みたいと言われたので、二日間寝ずに書きました。十五話できたので全部投稿しました。ほかの人の邪魔をするつもりはありませんでした」
そこまで書いてから、送信してよいのか迷った。警告文には返信をしても個別の回答はしないと書かれていた。千尋は自分が投稿した時間を確認した。十五話は数分おきに公開され、そのたびに新着欄の一番上へ表示されていた。
試しに新着欄を見ると、ほかの作品は千尋の十五話に押され、次のページへ移っていた。そこにも、続きを待っていた読者がいたのかもしれなかった。しかし一話ずつ時間を空けて出すという決まりは、投稿の画面には書かれていなかった。
「書いてないのに、どうして分かるの?」
千尋は運営の規約を開いた。細かな文字が画面いっぱいに並び、何度読んでも途中で行を見失った。「迷惑行為」という項目はあったが、一日に何話までという数字は見つからなかった。千尋は投稿サイトを教えてくれた職場の女性へ電話した。
「朝からすみません。警告が来ました」
「どんな警告ですか」
「十五話を一度に出したら、新着欄を占有したって」
「十五話も一度に出したんですか?」
「二日で書いたから、全部出しました」
「それは多いですよ」
「何話ならいいんですか」
「一日一話か、多くても二、三話じゃないですか」
「どこに書いてありますか」
「書いてなくても、普通は少しずつ出します」
「どうしてですか」
「一度に出すと、ほかの人の作品が新着欄から流れるからです」
「でも、新しい話だから新着です」
「そうなんですけど、十五回も同じ作品が出たら、ほかの人が困るでしょう」
「一生懸命書いたら、困らせるんですか」
「書くことが迷惑なんじゃなくて、出し方の問題です」
「できたのに、出しちゃいけないんですか」
「予約投稿にして、毎日一話ずつ出せばいいんですよ」
「予約投稿って、何ですか」
女性は出勤前だったが、電話で予約投稿の方法を教えてくれた。千尋はメモを取ろうとしたが、昨日までの台詞を書いた広告しか見つからなかった。エリアスの言葉の横へ、「日時指定」「一日一話」「新着」と書き加えた。
「今、公開した分はどうすればいいですか」
「そのままでいいと思います。削除して出し直したら、また新着に載るかもしれないから」
「警告されたら、もう書いちゃだめですか」
「書くのは大丈夫です。投稿する間隔を空ければいいんです」
「書くのと出すのは違うんですか」
「違います。書いたものを保存しておいて、一話ずつ出してください」
「青い鳥さんが待っていたら?」
「一日一話でも、毎日読めるでしょう」
電話を切ったあと、千尋は広告の裏のメモをパソコンの横へ貼った。粘着テープが見つからず、値引きシールの残りを使ったため、「一日一話」という文字の端へ半額と印刷された赤い丸がついた。千尋は警告をもう一度読み、返信欄へ書いた文章を送らずに消した。
流し台には二日分の食器がたまっていた。カレーの皿、コーヒーのカップ、ゆで卵を作った鍋、ハムの脂がついた小皿が重なり、底には濁った水がたまっていた。千尋は紫色のカーディガンの袖を肘までまくり、一枚ずつ洗い始めた。
蛇口から流れる水は、もう嵐の海には見えなかった。冷蔵庫のモーターも、港の汽笛ではなく、古くなった機械の低い音へ戻っていた。千尋はカレーの固まった皿をスポンジでこすりながら、物語の人物たちが遠くへ引いていくのを感じた。
「また止まっちゃうかな」
青い鳥から返事は届いていなかった。十五話も一度に出したため、読むのに時間がかかっているのかもしれない。大量の更新に困り、読むのをやめた可能性もあった。
食器を洗い終えたあと、千尋は冷蔵庫から卵を一つ出した。フライパンへ油を引き、弱い火で目玉焼きを作った。白身の端が少し焦げたが、黄身は壊れなかった。食パンへ載せ、醤油を数滴かけてから食卓へ座った。
「一日一話」
千尋は広告の裏に書いた決まりを声に出した。一話ならよくて、十五話では迷惑になる理由を、まだ全部は理解できなかった。それでも投稿を続けるには、サイトの中でほかの人と場所を分けなければならないらしい。工場で台車を見落としたときも、スーパーで予約商品の札を見落としたときも、千尋は誰も先に教えてくれなかった決まりを、失敗したあとから覚えてきた。
食べ終えると、千尋は二階へ戻った。画面には運営の警告と、その下に並ぶ十五話が残っていた。感想欄を開くと、青い鳥が書いた六文字も消えずに残っていた。
「続き読みたい」
千尋は一文字ずつ、もう一度読んだ。続、き、読、み、た、い。やはり六文字だった。警告文は何行もあり、読み終えるまでに三度も最初へ戻ったが、この六文字なら一度で読めた。
「次は、一話ずつ出します」
千尋は青い鳥へ返信を書いた。
「読んでくださってありがとうございます。たくさん続きを書きました。これからは一日一話ずつ投稿します」
誤字がないか三度読み返し、公開のボタンを押した。それから第二十六話の新しい画面を開いた。白い獣は森の古い家で傷ついた足を休め、リナとエリアスは灯台の地下室にいた。航海日誌には、まだ読まれていない最後のページが残っていた。
「続きを書こう」
千尋がキーボードへ手を置くと、止まっていた人物たちが再び顔を上げた。今度は書き終えても、すぐには全部を投稿しない。一話ずつ名前をつけ、公開する日を決め、青い鳥が読める場所へ置いていくつもりだった。
窓の外では、夜の間に降った雨が物干し竿から落ちていた。洗い直したタオルはまだ洗濯機の中にあり、台所には目玉焼きを食べた皿が一枚残っている。千尋は二十六話目の最初の一文を書いてから、忘れないよう画面の横へ「洗濯物」と大きく入力した。
六文字の読者が、明日も待っているかどうかは分からなかった。もう読みに来ないかもしれず、次の感想も誤字を笑う言葉かもしれなかった。それでも千尋の画面には、続きを求めた六文字が残っている。千尋はその短い言葉を胸の中で読み返しながら、自分のために立てた家へ、新しい壁を一枚加え始めた。




