第4話 普通になれない大人
第4話 普通になれない大人
高校を卒業した春、千尋は駅からバスで二十分ほど離れた食品工場へ勤め始めた。初出勤の日は母に買ってもらった白いブラウスと紺色のスカートを着て、弁当箱には梅干しのおにぎりと甘い卵焼きを詰めてもらった。工場へ着くと、私服の上から白い作業着を着せられ、髪を帽子の中へ入れるよう言われた。消毒液と蒸したジャガイモの匂いが混じった更衣室で、千尋は鏡を見ながら帽子の端から出た髪を何度も指で押し込んだ。
「水城さん、朝礼が始まるよ」
「この髪、入っていますか」
「それで大丈夫。早く並んで」
「前から何番目ですか」
「どこでもいいから、空いているところ」
先輩の女性に背中を押され、千尋は白い作業着の列へ入った。班長は今日の作業内容を口頭で説明し、ベルトコンベヤーの速度と、形の悪いコロッケを取り除く基準を続けて話した。千尋は胸ポケットから小さなメモ帳を出したが、「右側の列を確認する」と書いている間に説明は次の手順へ進んでいた。顔を上げると、班長は油の温度について話しており、千尋は何を聞き逃したのかも分からなかった。
「質問はありますか」
「最初のところを、もう一度お願いします」
「最初のどこですか」
「コロッケを見るところです」
「今、全部説明したでしょう」
「書いていたら、次が聞けませんでした」
「メモはあとで取ればいいんです。まず話を聞いてください」
「あとで書くと、忘れます」
周囲の作業員が千尋を見た。誰かが小さく息を吐き、別の誰かは手袋の指先を引っ張っていた。班長は壁の時計を見てから、作業を始めるよう全員へ指示した。千尋は結局、途中までしか書けなかったメモ帳を胸ポケットへ戻した。
千尋の仕事は、ベルトコンベヤーで運ばれてくるコロッケを見て、衣のはがれたものや形の崩れたものを取り除くことだった。揚げたての油の匂いが鼻と髪へまとわりつき、機械の音は耳の内側まで震わせた。最初の十分間、千尋は右側の列だけを見ていたが、反対側にも崩れたコロッケが流れていることに気づいた。慌てて左側へ手を伸ばすと、今度は右側から黒く焦げた一個が通り過ぎた。
「水城さん、焦げを流さないで」
「はい」
「今度はこっち。衣が割れてるでしょう」
「どのくらい割れていたら取るんですか」
「見れば分かるでしょう」
「これは取りますか」
「それは大丈夫。そんなのまで取ったら商品がなくなるよ」
千尋は手にしたコロッケを戻そうとしたが、置く場所を迷っている間にも次の商品が流れてきた。戻したコロッケがほかのものへぶつかり、二個の衣が欠けた。先輩が横から手を伸ばし、欠けた二個を素早く取り除いた。
「一つ失敗すると、二つ、三つと増えるから。落ち着いてやって」
「落ち着いています」
「だったら、ちゃんと見て」
「見ています」
「口答えする前に手を動かして」
昼休みになると、千尋は休憩室の隅で弁当を開いた。作業着を脱いでも髪と指に油の匂いが残り、梅干しのおにぎりまでコロッケのように感じられた。卵焼きの下には昨夜の残りのひじき煮が入っており、汁を吸った卵の端が黒くなっていた。向かいの席では先輩たちが缶入りのミルクコーヒーを飲みながら、午前中に流れた不良品の数を話していた。
「水城さん、午後はもう少し速く見てね」
「はい。右と左を交互に見ます」
「交互じゃなくて、全体を見るの」
「全体を見ると、一個ずつ見えません」
「一個ずつ見てたら間に合わないよ」
「じゃあ、どこを見ればいいんですか」
「だから、全体だってば」
千尋は箸で卵焼きを半分に切った。全体を見るという言葉の意味は分かったが、目をどう動かせばよいのかが分からなかった。右を見れば左が見えず、左を見れば右から焦げたものが流れていく。誰かに目の動かし方を見せてもらいたかったが、もう一度尋ねれば、また同じ答えが返ってくる気がした。
午後になると、千尋は左右を見落とさないことだけを考えた。その代わり、取り除いた不良品を入れる箱が満杯になっていることに気づかなかった。山になったコロッケが箱の縁から床へ落ち、乾いた衣が白い長靴の周りへ散らばった。機械を止めるための赤いボタンを押そうとして、千尋は隣にある非常停止のボタンへ手を伸ばした。
「それは押さないで!」
先輩が千尋の手首をつかんだ。驚いて一歩下がると、床のコロッケを踏み、油で足を滑らせた。尻もちをついた千尋の作業着には、つぶれたコロッケの黄色い中身がついた。機械が止まり、班長が走ってきた。
「何をしているんですか」
「箱がいっぱいになっていました」
「いっぱいになる前に交換するんです」
「箱を見るようには聞いていませんでした」
「それくらい、自分で気づいてください」
「コロッケを見ていたら、箱が見えませんでした」
「子どもでもできる仕事ですよ。いちいち全部教えなければ分からないんですか」
作業場にいた人たちは何も言わなかった。機械の止まった工場には換気扇の音だけが残り、油と消毒液の匂いがいつもより濃く感じられた。千尋は床へ落ちたコロッケを一つずつ拾い、つぶれたものを廃棄用の袋へ入れた。手袋には黄色いジャガイモが貼りつき、何度こすってもきれいに取れなかった。
その仕事は三か月で終わった。母には自分から辞めたと言ったが、工場から渡された封筒には、契約を更新しないと書かれていた。最後の日、千尋は油の匂いが染みついた作業着を返し、更衣室の棚に残っていた飴玉と短い鉛筆を鞄へ入れた。昼食に持ってきた鮭のおにぎりは食べる時間を逃し、帰りのバスの中で冷たいままかじった。
「次は、もっと静かな仕事を探せばいいわ」
夕食の支度をしながら、母が言った。台所ではアジの開きが焼け、焦げた皮の匂いが換気扇へ吸い込まれていた。千尋は工場で使っていた紺色のズボンを洗濯籠へ入れ、食卓に並べられた冷ややっこの水を箸の先で切った。
「工場なら、同じことを繰り返せばいいと思ったの」
「初めての仕事だったから、仕方がないでしょう」
「子どもでもできるって言われた」
「子どもは工場では働けないわよ」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってる。でも、千尋に合う仕事はほかにあるかもしれないでしょう」
「合う仕事って、どこにあるのかな」
母は焼けたアジを皿へ載せ、大根おろしを添えた。千尋の皿だけは骨を取りやすいよう、尾に近い小さな部分が置かれていた。高校を卒業したのだから、自分で骨くらい取れると言おうとしたが、千尋は黙って大根おろしへ醤油をかけた。
次に働いたのは、駅前のスーパーだった。赤いエプロンと三角巾を身につけ、総菜売り場で弁当に値引きシールを貼る仕事を任された。店内には焼き鳥のたれと揚げ物の油、青果売り場から流れてくる熟したバナナの匂いが混ざっていた。工場より機械の音は小さかったが、店内放送と客の話し声とレジの電子音が重なると、呼ばれた自分の名前を聞き逃した。
「水城さん、五時になったら二割引き。六時半になったら半額です」
「五時が二割で、六時半が半額ですね」
「ただし、消費期限が明日の商品には貼らないでください。今日までのものだけです」
「明日の商品には貼らない」
「おすしは別です。おすしは六時から半額にします」
「おすしだけ六時ですね」
「刺身も六時です。それから、店長が指示した日は時間が変わります」
「今のを、もう一度お願いします」
千尋はポケットからメモ帳を出した。五時、二割、六時半、半額と書いている間に、主任は別の日の手順まで説明していた。聞くために手を止めると数字を忘れ、書こうとすると次の指示を聞き逃した。主任は腕時計を見て、売り場へ出るよう千尋を急がせた。
「分からなかったら、勝手に判断しないで聞いてください」
「何が分からないのか分からないときは、どうすればいいですか」
「商品を見れば分かります」
「どこを見ればいいですか」
「消費期限です。今、説明したでしょう」
五時になると、千尋は弁当へ二割引きのシールを貼り始めた。消費期限の日付を一つずつ読んでいるうちに、客が後ろから弁当へ手を伸ばした。千尋は通路を空けようとして台車を動かし、貼り終えた商品とまだの商品を混ぜてしまった。同じ弁当を何度も持ち上げて確認し、値引き済みのものにもう一枚シールを貼った。
「これ、二枚ついてるけど四割引きになるの?」
買い物籠を下げた年配の女性が、から揚げ弁当を見せた。千尋は二割引きのシールを二枚見つめ、どう答えればよいか迷った。
「二割引きです」
「二枚あるじゃない」
「二割を二回引くのかもしれません」
「かもしれませんって、あなたが貼ったんでしょう?」
「主任に聞いてきます」
「早くしてね。バスが来ちゃうから」
千尋が主任を呼びに行っている間に、別の客が値引き台車から弁当を取った。主任は戻ってくると、二重に貼られたシールをはがし、千尋に貼った商品をすべて確認するよう言った。焦って日付だけを見ることに集中すると、今度は値引きしてはいけない予約商品へ半額のシールを貼った。
「水城さん、これはお客様が取り置きした商品です」
「消費期限は今日です」
「予約済みの札がついているでしょう」
「日付を見るように言われたので、日付を見ていました」
「札も見てください。商品には日付しか書いていないわけじゃないでしょう」
「両方見ると、どっちかを忘れます」
「そんなことを言われても困ります」
後ろで品出しをしていた若い男性が、段ボール箱を抱えたまま笑った。隣にいた女性へ、小学生の手伝いでももう少しましだと話しているのが聞こえた。千尋は聞こえなかったふりをして、予約商品のシールをはがした。粘着剤がラップに残り、何度指でこすっても白く丸まるだけだった。
その日の帰り、千尋は売れ残ったクリームパンを従業員割引で買った。更衣室で赤いエプロンを脱ぐと、ポケットから値引きシールが三枚出てきた。一枚はメモ帳へ貼りつき、書いた数字が読めなくなっていた。千尋はシールをはがそうとして紙まで破り、破れたページを折り畳んで鞄の底へ入れた。
スーパーでは半年働いた。レジに異動すれば商品を一つずつ扱えると考えたが、客から話しかけられると、受け取った金額を忘れた。五千円札を預かってからポイントカードを探されると、千円札だったのか五千円札だったのか分からなくなった。レジの横へ預かった紙幣を置くよう教えられたが、次の客のかごを引き寄せたときに紙幣が床へ落ちた。
「水城さん、また金額が合いません」
閉店後、主任がレジの帳面を見ながら言った。千尋は赤いエプロンの裾を両手で握り、何度も数え直される硬貨を見ていた。床を掃除する機械が遠くで動き、洗剤にぬれたタイルから冷たい匂いが上がっていた。
「今日は気をつけました」
「気をつけて、どうして間違えるの?」
「お札を置くことに気をつけたら、ポイントカードを返すのを忘れました」
「一つ気をつけたら、ほかを忘れるんですか」
「全部を一緒に気をつけられません」
「みんな一緒にやっています」
「どうやってやっているんですか」
「普通にやっているんです」
普通に、という言葉を聞くと、千尋はそれ以上質問できなかった。普通にできる人が説明できないことを、千尋は何度説明されても同じようにはできなかった。主任から事務所へ来るよう言われ、次の勤務表には千尋の名前がなかった。最後の給料で母へ小さな羊羹を買い、自分には駅の自動販売機で温かいココアを買った。
「また辞めたの?」
美沙が羊羹の包みを開けながら尋ねた。すでに結婚して家を出ていたが、その日は洗濯物を届けるため実家へ来ていた。千尋は灰色のトレーナーと毛玉のついたジャージーを着て、冷めたココアの缶を両手で包んでいた。
「辞めたんじゃなくて、次から来なくていいって」
「お金が合わなかったの?」
「三百円足りなかった」
「千尋が取ったわけじゃないでしょう?」
「取ってないよ」
「分かってる。そんな顔しないで」
「どんな顔?」
「分からないけど、羊羹を半分あげる」
美沙は包丁を使わず、羊羹を付属の小さなへらで二つに分けた。片方が大きくなったため、少し迷ってから大きいほうを千尋の皿へ置いた。羊羹は歯へ貼りつくほど甘く、飲み込んだあとも小豆の香りが口に残った。
「工場もスーパーも、子どもでもできる仕事なんだって」
「子どもにレジを任せる店はないよ」
「お母さんも同じことを言った」
「だって、本当だもの」
「みんなができることを、わたしだけできない」
「みんなって誰?」
「工場の人と、スーパーの人」
「その人たち、小説を書けるの?」
「知らない」
「千尋ができることを、その人たちが全部できるとは限らないでしょう」
「小説は仕事じゃないって、お父さんが言った」
「まだ書いてる?」
「少しだけ。疲れた日は書けない」
「見せてよ」
「途中だから、だめ」
「千尋の話は、いつも途中だね」
「終わらせたら、その人たちがいなくなるから」
美沙は羊羹を食べる手を止めた。窓の外では近所の家の布団が風に揺れ、物干し竿の金具がきいきいと鳴っていた。美沙は何も言わず、羊羹の包み紙を折って小さな四角にした。
次に勤めた小さな事務所では、電話の取り次ぎと伝票の整理を任された。千尋は薄い水色のブラウスと黒いスカートを着て、毎朝八時四十分に出勤した。机には電話機、朱肉、伝票の束、先輩が飲み残したインスタントコーヒーが置かれ、窓際の植木鉢には乾いた土がひび割れていた。電話のベルが鳴るたびに胸元のボタンが震えるように感じたが、受話器を取る前に一度息を吐くことに決めた。
「お電話ありがとうございます。東明商事でございます」
「営業二課の田辺さん、お願いします」
「田中ですね」
「田辺さんです」
「田辺。少々お待ちください」
千尋は田辺という名前をメモしようとした。しかし電話番号を尋ねている間に会社名を忘れ、会社名を書いている間に相手の名前が抜けた。もう一度尋ねると、相手の声が少し硬くなった。
「先ほど申し上げましたが、北山工業の佐藤です」
「北山工業の佐藤様ですね」
「田辺さんはいらっしゃいますか」
「田中ですね」
「田辺さんです」
「申し訳ありません。少々お待ちください」
保留ボタンを押したつもりで受話器を机へ置き、隣の先輩へ田辺を呼んでほしいと頼んだ。先輩は電話機を見て、保留になっていないと小声で教えた。受話器からは相手のせき払いが聞こえていた。
「水城さん、相手に全部聞こえてるよ」
「すみません」
「私に謝るんじゃなくて、先方に謝って」
「どこから聞かれていましたか」
「それを先方に聞くつもり?」
「聞かないと分かりません」
「もういい。私が代わるから」
電話の仕事を外されると、千尋は伝票を日付順に並べるよう言われた。紙の右上に印刷された数字を読み、古いものからファイルへ入れる仕事だった。千尋は一枚ずつなら間違えなかったが、電話が鳴ったり誰かに声をかけられたりすると、どこまで並べたか分からなくなった。途中の場所へ付箋を貼るよう教えられたが、付箋をどこへ置いたかを忘れた。
「水城さん、三月十二日の次が三月二十一日になってる」
「一がついているから、十二日の次だと思いました」
「日付の順番くらい分かるでしょう」
「見直します」
「こっちは四月と五月が混ざってるよ」
「月も見るんですか」
「当たり前でしょう。何を見て並べたの?」
「日にちです」
「子どもでも、カレンダーの順番くらい分かるよ」
先輩は伝票を机へ落とした。紙の角が千尋の指へ当たり、細い傷から赤い血がにじんだ。千尋はティッシュを巻き、輪ゴムで留めてから、もう一度伝票を並べ始めた。今度は月と日付の両方を見ることに集中し、取引先ごとに分ける決まりを忘れた。
気をつけようとすればするほど、失敗は別の場所から出てきた。電話の名前を忘れないよう復唱すると、保留ボタンを押し忘れた。伝票の日付を確かめると、取引先を混ぜた。湯飲みを倒さないよう机の端から離すと、肘が朱肉へ当たり、白いブラウスの袖を赤くした。
「どうして毎日、違うことを間違えるの?」
「昨日と同じ間違いをしないようにしています」
「それで今日は別の間違いをするの?」
「全部を覚えようとしているんです」
「だったら、全部覚えてください」
「どうしたら、全部を同時に覚えられますか」
「そんなこと、自分で考えてよ。あなたの世話だけしていられないの」
千尋は返事をしようとしたが、口を開くと息だけが出た。昼休みに食べた鮭のおにぎりの海苔が、奥歯へ貼りついたままだった。事務所の窓からは向かいのビルの灰色の壁しか見えず、室外機から落ちた水が一定の間隔で金属板をたたいていた。
事務所も一年続かなかった。最後の日、千尋は机の引き出しから自分のメモ帳を取り出した。電話の受け方、伝票の並べ方、コピー機の紙の補充方法が、ページごとに違う文字で書かれていた。あとから加えた矢印が何本も交差し、赤い丸と青い線が重なって、千尋自身にも読めないところがあった。
千尋は二十代の間に、工場、スーパー、倉庫、食堂、事務所を転々とした。倉庫では品番を一桁読み違え、食堂では注文を二つ聞くと最初の一つを忘れた。清掃の仕事では決められた順番を守ろうとして、廊下にこぼれた水を後回しにし、通りかかった職員を転ばせそうになった。中学生のときに高瀬先生から勧められた清掃員も、千尋なら普通にできる仕事ではなかった。
三十歳を過ぎたころには、実家の二階にある千尋の部屋へ、勤め先ごとの制服がたまっていた。赤いエプロン、油の染みたズボン、袖に朱肉のついたブラウスが、洗濯して畳んだまま衣装箱へ押し込まれている。処分すればよいと分かっていても、どの職場へ何を返し、どれが自分で買ったものなのか思い出せなかった。机の上には書きかけのノートと求人広告が積み重なり、下から出てきた菓子の袋には、いつ食べたのか分からないビスケットの粉が残っていた。
「千尋、また求人広告を切り抜いたの?」
結婚して家を出た美沙が、子どもを連れて実家へ来た。美沙は薄いベージュのセーターと茶色いスカートを着て、台所でリンゴの皮をむいていた。小学一年生になった娘の真奈は、居間の畳へ色鉛筆を広げ、白い犬と赤い屋根の家を描いている。
「応募しようと思って」
「どこの仕事?」
「印刷会社。紙をそろえる仕事だって」
「手順は難しくないの?」
「同じ大きさの紙をそろえるだけって書いてある」
「前の倉庫も、箱をそろえるだけって書いてなかった?」
「でも、今度は紙だから」
「紙なら間違えないの?」
「分からない」
美沙はむいたリンゴを塩水へ入れた。真奈は赤い色鉛筆を探し、畳の上へ腹ばいになった。千尋の足元には赤い鉛筆が転がっていたが、すぐに拾わず、真奈がいつ気づくのか見ていた。
「千尋おばちゃん、赤、知らない?」
「ここにあるよ」
「早く言ってよ。ずっと探してた」
「ごめんね」
「お母さん、千尋おばちゃん、見つけてたのに言わなかった」
「真奈も自分の近くを見なさい。おばちゃんの足の下にあったでしょう」
美沙はリンゴを皿へ盛り、爪楊枝を三本添えた。塩水に長くつけたリンゴは少ししょっぱくなっていたが、真奈は気にせず二切れ続けて食べた。千尋は一切れをかじり、冷たい果汁を飲み込んでから、求人広告を裏返した。
「みんな、どうやって普通に働いてるのかな」
「私だって失敗するよ」
「美沙ちゃんは同じ会社に十年いるでしょう」
「十五年。結婚する前からだから」
「わたしは一番長くても一年」
「病院で相談してみたら?」
「どこが病気なの?」
「病気かどうかを調べてもらうの。昔から、字を読むのにも時間がかかってたでしょう」
「読めるよ。遅いだけ」
「忘れ物も多かったし、話を聞きながら書けなかったじゃない」
「努力が足りないって言われた」
「誰に?」
「みんなに」
「みんなって言うと、話が分からなくなるよ。先生と、お父さんと、働いていた人たち?」
「それだけいたら、みんなだよ」
千尋はリンゴの芯に残った実を前歯でかじった。真奈は白い犬の横へ、窓のない四角い家を描いている。美沙が病院の名前を紙へ書いたが、千尋はその紙を財布へ入れたまま、数か月間予約の電話をかけなかった。
そのころ、父は仕事を退き、居間で一日中テレビを見るようになっていた。母は膝を痛め、重い洗濯籠を二階まで運べなくなった。千尋は実家で洗濯と風呂掃除を手伝いながら、短い期間の仕事を探した。洗濯物を干している途中で物語の続きを思いつくと、濡れた靴下を持ったまま机へ向かい、夕方になってから洗濯機の中へ残った肌着に気づくこともあった。
「千尋、洗濯は終わったの?」
「干したよ」
「洗濯機の中に、まだお父さんのシャツがあるわよ」
「あとから洗った分だと思った」
「一緒に洗ったの。どうして靴下だけ持っていったの?」
「女の子が森で家をつくるところを思いついたから」
「何の話をしているの?」
「小説の話」
「洗濯の途中でしょう」
母は洗濯機から重いシャツを取り出し、両手で水を絞った。脱水まで終わっているはずだったが、千尋が途中で停止ボタンを押したらしく、袖から水が垂れた。千尋は雑巾を取りに行き、廊下の水を拭いた。雑巾を洗面所へ戻す途中で、机に置いたノートが目に入り、また洗濯物のことを忘れそうになった。
ある冬の日、千尋は駅前のリサイクルショップで中古のパソコンを見つけた。灰色の本体と小さな画面が一緒に並び、値札には二万九千八百円と書かれていた。店内では石油ストーブが燃え、古い家具とほこりの匂いがしていた。千尋は茶色いダウンジャケットのポケットから財布を出し、何度も数えた貯金をもう一度確かめた。
「これで文章を書けますか」
店員は画面を拭いていた布を置き、千尋が指さしたパソコンを見た。
「ワープロソフトが入っていますから、書けますよ」
「間違えた字は消せますか」
「もちろんです。削除キーを押せば消えます」
「紙みたいに、消しゴムで黒くなりませんか」
「なりませんよ」
「書く順番を間違えたら、入れ替えられますか」
「切り取って移動できます」
「紙を切らなくても?」
「パソコンの中で切り取るんです。紙は使いません」
千尋はキーボードへ触れた。黒いキーには白い文字が並び、いくつかは長く使われたため表面が光っていた。店員が椅子を勧め、文字の打ち方を見せてくれた。千尋が「しょうせつか」と入力すると、画面に「小説家」と表示された。
「三文字とも同じ大きさです」
「パソコンですからね」
「家の屋根も曲がっていません」
「字を書くのが苦手なんですか」
「読むのも遅いです」
「文字を大きくすることもできますよ」
店員が操作すると、画面の「小説家」が大きくなった。千尋は顔を近づけなくても、三文字を一度に見ることができた。さらに一文字を消し、もう一度元へ戻してみせた。
「今、消したのに戻りました」
「間違えて消しても、元に戻せます」
「何回でも?」
「何回でも、というわけではありませんが、普通に使う分には困らないと思います」
「紙みたいに破れませんか」
「本体を壊さなければ、文章は破れません。ただ、保存はしてくださいね」
「保存って、どこへしまうんですか」
「まず、そこから説明しますね」
店員は苦笑せず、メモ用紙へ電源の入れ方から書いてくれた。千尋が一つ書き写す間、次の説明を待ってくれた。電源、ソフトを開く、文字を書く、名前をつけて保存する。四つの手順は一行ずつ離して書かれ、横には店員が小さな絵を添えた。
「分からなくなったら、この紙を見てください」
「この紙をなくしたら?」
「同じものをもう一枚書きましょうか」
「お願いします」
千尋はパソコンを買った。代金を払うと、財布には電車賃と千円札が一枚だけ残った。店員が本体と画面を二つの箱へ入れたため、一人では持てず、配送を頼んだ。送料がかかったので、その日の昼食に食べる予定だった天ぷらそばを諦め、駅の売店であんパンを一つ買った。
パソコンが届いた日、千尋は机の上を片づけた。求人広告、菓子の包み紙、書きかけのノート、インクの出なくなったペンを床へ移すと、畳の半分が見えなくなった。母は片づけたとは言わないと注意したが、千尋にはパソコンを置く場所ができたので、それで十分だった。灰色の本体から伸びた線をつなぎ、店員の紙を一行ずつ読みながら電源を入れた。
「ついた?」
母が湯飲みを二つ持って部屋へ入ってきた。千尋は毛玉のついた緑色のセーターを着て、画面の前へ座っていた。夕食の鍋に入れる春菊の匂いが、母の割烹着から漂っていた。
「ついたけど、何か聞かれてる」
「何て?」
「名前を入れてくださいって」
「千尋でいいんじゃない?」
「わたしの名前? パソコンの名前?」
「お母さんに聞かれても分からないわよ」
「間違えたら壊れるかな」
「壊れないでしょう。お店の人に電話したら?」
「もう閉まってる」
「だったら、今日は夕飯を食べて、明日にしたらどう?」
「今やめたら、次にどこから始めるのか分からなくなる」
千尋は「ちひろ」と入力した。画面に平仮名の名前が表示され、次のボタンを押すと机の絵が現れた。何も壊れなかった。千尋は肩を下ろし、母から受け取った番茶を一口飲んだ。茶は熱く、舌の先をやけどした。
「小説を書くの?」
「うん」
「仕事も探しなさいよ」
「分かってる」
「電気代もかかるんだから、一晩中つけておかないでね」
「一晩中は書けないよ」
「昔はノートに朝まで書いていたでしょう」
「パソコンなら、もっと書けるかもしれない」
夕食は鶏肉と白菜の鍋だった。父はポン酢へ七味唐辛子を入れすぎてせき込み、母は春菊を煮すぎると苦くなると言いながら鍋へ全部入れた。千尋は柔らかくなった豆腐をれんげですくい、熱い湯気で曇った眼鏡をセーターの裾で拭いた。食べ終えると、自分の椀だけ流し台へ運び、急いで二階へ戻った。
千尋は店員に教えてもらったワープロソフトを開いた。白い画面が現れ、左上で細い縦線が点滅していた。何を書けばよいのかは、すでに決まっていた。小学生のころから何度も書き直し、途中で止まり、ノートをなくし、それでも頭の中に残っていた物語だった。
「家族に捨てられた少女は、朝から何も食べていませんでした」
千尋は一文字ずつキーボードを押した。最初は「家族」が「華族」になり、少女が貴族の娘のようになった。削除キーを押すと、間違えた二文字は消えた。消しゴムのかすも出ず、紙が薄くなることもなかった。
「消えた」
千尋は声に出し、もう一度「家族」と入力した。今度は正しい文字が現れた。次の文を先に書いてから、その前に一行加えたいと思い、矢印のキーで場所を戻した。文字と文字の間に新しい文章が入り、あとから書いた言葉でも最初からそこにあったように並んだ。
少女は家族のいなくなった家で、冷たい卵焼きを食べた。端の焦げた部分も捨てず、薄い水を飲みながら最後まで噛んだ。そのあと少女は、白い獣と一緒に森へ入った。森には家も店もなく、雨を防ぐ屋根さえなかった。
「わたしは、ここに家をつくる」
千尋は少女の台詞を打ち込んだ。小学生のころ、佐伯先生に破られた作文にも書いた言葉だった。あの紙は菓子箱の中で黄色くなり、セロハンテープの端にはほこりがついている。それでも台詞だけは、千尋の中から消えていなかった。
少女は落ちている枝を集め、壁をつくる場所を決めた。白い獣は太い枝をくわえて運び、少女は枝の間へ枯れ葉と泥を詰めた。最初の壁は重さに耐えられず、夜中に倒れた。少女は倒れた枝を捨てず、朝になると一本ずつ泥を落とした。
「また使えるよ」
白い獣は返事をしなかったが、少女の隣へ座った。腹が減っていたので、二人は残っていた黒パンを半分ずつ食べた。パンは硬く、少女は水へ浸してから歯でちぎった。白い獣は自分の分を早く食べ終え、少女の手元を見ていた。
「これは、わたしの半分だからね」
少女はそう言いながら、最後の一口をさらに半分に割った。小さいほうを白い獣の前へ置き、大きいほうを自分で食べた。腹はいっぱいにならなかったが、二人は再び枝を運んだ。
千尋はそこまで書いてから、机の時計を見た。夜中の二時を過ぎていた。台所から持ってきた番茶は冷たくなり、表面に細かなほこりが浮いていた。隣の部屋から父のいびきが聞こえ、廊下には母が干した洗濯物の湿った匂いが残っていた。
「保存しなくちゃ」
店員にもらった紙を見ながら、千尋は文章に名前をつけた。「森の家」と入力するつもりが、「森の毛」と変換された。千尋は笑い、家へ直した。保存のボタンを押してから一度画面を閉じ、もう一度開くと、書いた文章がそのまま現れた。
「なくなってない」
紙のように破られていなかった。赤い線も引かれていなかった。文字の大きさはそろい、間違えたところだけを何度でも直すことができた。千尋は直したはずの箇所をもう一度読み返し、同じ言葉が二度続いているところを見つけた。
「ここも直せる」
千尋は文章を一度切り取り、別の場所へ移した。少女がパンを食べる場面は、壁が倒れる前より、倒れた壁を直す前に置いたほうがよいと思った。紙のノートなら矢印を引き、余白へ小さな文字を書き込まなければならない。画面の中では、文章が新しい順番へ静かに並び直した。
窓の外が薄く明るくなったころ、少女の家には壁が一枚だけ立っていた。屋根はなく、二枚目の壁もまだ途中だった。森に朝の雨が降り、少女の服は肩からぬれた。白い獣の毛にも水滴がつき、焚き火は消えていた。
「朝になったのに、家ができなかったね」
千尋は少女にそう言わせた。続きの言葉を考え、キーボードの上で指を止めた。完成しなかった家を見て少女が森から逃げる話にはしたくなかった。誰かが立派な家を持ってきて、少女へ与える話にもしたくなかった。
「今日も、壁をつくろう」
少女は地面へ落ちていた枝を拾った。昨日失敗したため、今度は同じ長さの枝を先に並べた。全部を同時に立てようとせず、一本目が倒れないことを確かめてから、二本目を土へ差した。白い獣は鼻先で短い枝枝を転がし、少女の足元まで運んだ。
階段の下から、母が朝食を作る音が聞こえてきた。包丁がまな板へ当たり、味噌汁の鍋のふたが小さく鳴った。千尋は画面を消す前に、もう一度保存のボタンを押した。机の周りには求人広告と脱いだ靴下と空になった菓子袋が散らばり、昨日着た緑色のセーターは椅子の背もたれから床へ落ちかけていた。
「千尋、起きているの?」
母が階段の下から呼んだ。
「起きてる」
「一晩中、パソコンをつけていたんじゃないでしょうね」
「ずっと書いてた」
「少しは寝なさい。朝ご飯はどうするの?」
「食べる。何?」
「昨日のお鍋に、うどんを入れたの。卵も一つ落としたわよ」
「すぐ行く」
千尋は返事をしたが、すぐには立たなかった。画面には、森の中に立つ一枚の壁があった。横から雨が吹けば役に立たず、屋根がなければ眠る場所にもならない。それでも少女は、自分の手で立てた壁へ背中をつけ、次に必要な枝を数えていた。
「あと三本あれば、二枚目ができるよ」
千尋は最後の台詞を入力した。少女の家は、朝になっても完成しなかった。千尋の物語も、まだ最初の数ページしかできていなかった。それでも紙を破る音はせず、赤い線を持った教師も現れなかった。
千尋は文章を保存し、パソコンの電源を切った。黒くなった画面には、寝間着の上から毛玉のついたカーディガンを羽織った自分の姿が映った。髪は片側だけつぶれ、頬にはキーボードへ伏せたときについた四角い跡が残っていた。
階下へ行くと、鍋の残りで作ったうどんが食卓に置かれていた。汁を吸った麺は柔らかく、卵の黄身は鍋の底で固まっていた。父は新聞を読み、母は洗濯物を籠へ入れている。千尋は湯気の薄くなった丼を両手で引き寄せ、七味唐辛子を少しだけ振った。
「小説は書けたの?」
母が洗濯籠を持ち上げながら尋ねた。
「まだ途中」
「何枚書いたの?」
「画面だから、何枚か分からない」
「終わりそう?」
「家の壁が一枚できた」
「何の家?」
「女の子が自分で建ててる家」
「一晩かけて、一枚だけ?」
「一枚できたから、次の壁もつくれるよ」
母は首をかしげたが、それ以上は尋ねなかった。千尋はうどんをすすり、柔らかくなった白菜を箸で集めた。窓の外では、冬の朝日が物干し竿へ当たり、昨夜から干されたままの白いシャツを照らしていた。
普通に働くことが何なのか、千尋にはまだ分からなかった。説明を一度で覚え、いくつものことへ同時に気を配り、間違えずに一日を終える方法も見つかっていなかった。けれど、画面の中なら、間違えた文字を消して書き直せた。順番を間違えても移動でき、途中で止まっても、保存した場所からまた始められた。
朝食を終えた千尋は、洗濯籠を持つ母のあとについて廊下へ出た。今日は仕事探しのため、午後から職業相談所へ行くことになっていた。その前に二時間だけ眠り、起きたら履歴書を書くつもりだった。二階へ戻る途中、千尋は自分の部屋の閉じた扉を見上げた。
扉の向こうには、中古のパソコンが置かれていた。その中では、家族に捨てられた少女が、白い獣と一緒に二枚目の壁をつくろうとしている。千尋は階段の手すりを握り、自分にも聞こえる声で言った。
「帰ってきたら、続きを書こう」
少女の家はまだ完成していなかった。千尋も、誰かが言う普通の大人にはなれなかった。それでも少女は一本ずつ枝を立て、千尋は一文字ずつ物語を残していく。朝になっても終わらなかったものを、終わらなかったという理由だけで捨てる必要はなかった。




