第3話 夢を書く資格
第3話 夢を書く資格
中学校へ入学して最初の朝、千尋は紺色の制服の襟を何度も指で直した。白いブラウスには母が昨夜かけた洗濯のりの硬さが残っており、首を動かすたびに襟の角があごへ当たった。朝食の食卓には焼いた塩鮭と豆腐の味噌汁が並んでいたが、千尋は新しい教室のことを考えると喉が狭くなり、ご飯を半分しか食べられなかった。姉の美沙が使っていた革の通学鞄は金具の塗装がはげ、持ち手の裏には青いインクの染みが残っていた。
「お姉ちゃん、この鞄、重いね」
「まだ教科書を入れてないから、今日は軽いほうだよ」
「これで軽いの?」
「中学生は教科書が増えるの。置いてきたら先生に怒られるからね」
高校生になった美沙は、千尋のスカートの後ろについていた糸くずを取った。以前のように忘れ物を学校まで届けることはなくなったが、朝になると時間割だけは確認してくれた。千尋は国語、数学、英語と書かれた新しい教科書を鞄へ入れ、教科ごとに表紙の色を覚えようとした。文字を読むと頭の中が混み合っても、国語は赤、数学は青、英語は黄色と決めれば、少しは間違えずに済むかもしれなかった。
「教科書に色の紙を貼ってもいい?」
「どうして?」
「字を読まなくても、色で分かるようにしたいの」
「いいんじゃない。透明なカバーの内側なら、先生にも何も言われないと思う」
「美沙ちゃん、黄色い紙、持ってる?」
「あとであげる。でも今日は入学式だから、教科書はいらないよ」
千尋は鞄の中を見下ろした。昨夜、母と一緒に三度確認したのに、入学式には教科書がいらないことを忘れていた。取り出した教科書をどこへ置けばよいか迷い、そのまま全部持っていくことにした。玄関で黒い革靴を履くと、かかとの硬い部分が靴下を通して皮膚へ食い込んだ。母から渡された新しいハンカチはポケットへ入れたが、ちり紙は食卓に置いたままだった。
中学校の教室には、床のワックスと新しい教科書の匂いが混ざっていた。窓際からは冬の名残の冷たい風が入り、後ろの席では男子生徒が椅子を揺らして床を鳴らしている。黒板に書かれた担任の名前は読めたが、その下に並んだ長い連絡事項は、目で追っているうちに行が入れ替わった。千尋が一行目をもう一度読み直している間に、ほかの生徒たちは連絡帳へ三行目まで写していた。
「水城さん、まだ一行目ですか」
担任の高瀬先生が千尋の机の横で立ち止まった。灰色の背広からは、たばこと整髪料の匂いがした。千尋は短く削った鉛筆を握り直し、黒板と連絡帳を交互に見た。
「二行目を読んでいたら、一行目が分からなくなりました」
「分からなくなったら、もう一度読めばいいでしょう」
「もう一度読むと、みんなが先に行きます」
「では、急いで書きなさい」
「急ぐと字を間違えます」
高瀬先生は返事をせず、次の机へ移った。千尋は黒板の文字を一つずつ、声に出さないよう口の中で読み、連絡帳へ写した。「保護者会」を「保護社会」と書いてしまい、消しゴムで何度もこすると紙が毛羽立った。後ろの男子がのぞき込んで小さく笑ったため、千尋は腕で連絡帳を隠した。
授業が始まると、小学校のころより教科書の文字が急に小さくなったように見えた。国語の教科書には見開きいっぱいに文章が並び、漢字の横へ振り仮名がついていないものも多かった。千尋は一つの文を読み終えて次の行へ移るたびに、どこまで読んだか分からなくなった。指で行を押さえると見失わずに済んだが、前の席の女子が教科書の上を滑る千尋の指を振り返って見た。
「水城さん、続きを読んでください」
国語の教師に指名され、千尋は立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、教室の全員がこちらを向く気配がした。読み始める場所を探している間に、耳の後ろから汗が流れた。
「どこからですか」
「三十二ページの五行目です。先ほど、前田さんが読んだ続きです」
「五行目……」
「早くしてください」
千尋はページの上から一、二、三と指で数えた。しかし題名の下の空白を一行に含めるのか分からず、違う場所から読み始めてしまった。教室のあちこちで笑い声が上がり、隣の席の女子が鉛筆の先で正しい場所を示してくれた。
「そこじゃないよ。こっち」
「ありがとう」
「声、小さいよ。先生に聞こえないよ」
千尋は示された行を読んだ。「少年は橋を渡った」と書かれているはずなのに、「橋」と「渡」の間で視線が下の行へ落ち、「少年は橋を忘れた」と読んだ。再び笑い声が聞こえた。文字を知らないのではない。教師が朗読すれば物語の内容も理解できる。それなのに自分の目で追うと、文章の中からいくつもの言葉が飛び出し、別の場所へ紛れ込んだ。
「水城さん、ふざけないで読みなさい」
「ふざけていません」
「『渡った』を『忘れた』と読む人がありますか」
「下の行に『忘れた』があったから、混ざりました」
「落ち着いて見れば、混ざりません」
「落ち着いて見ています」
教師は教科書を机へ置くように言い、代わりに別の生徒を指名した。千尋が座ると、膝の上で両手が細かく震えていた。白いブラウスの袖口には、朝食でこぼした味噌汁の薄茶色い点が残っている。千尋はその染みを爪でこすりながら、教師の朗読に耳を傾けた。
耳から入ってくる文章は、千尋の頭の中で景色になった。少年が渡った木の橋、その下を流れる濁った川、向こう岸で待っている犬まで見えた。教師が読み終えたあとに内容を尋ねると、千尋は少年が橋を渡った理由も、その前日に犬とはぐれたことも答えられた。教師は少し意外そうに眉を上げた。
「話は分かっているのですね」
「先生が読んだから分かりました」
「では、自分で読んでも同じでしょう」
「同じじゃありません」
「どう違うのですか」
「耳から聞くと、橋が見えます。目で読むと、字ばかりになります」
教師は困ったように出席簿を閉じた。教室の後ろでは、誰かが消しゴムを小さくちぎり、千尋の椅子の近くへ投げていた。白い欠片が紺色のスカートに載ったが、千尋は授業が終わるまで気づかなかった。
昼休みになると、千尋はアルミの弁当箱を開けた。母が詰めた俵形のおにぎりが二つ、甘い卵焼きが三切れ、昨夜の残りのひじき煮が入っていた。弁当箱が鞄の中で傾いていたため、ひじきの汁が卵焼きへ染み、黄色い表面に黒い筋がついている。隣の席の理恵は、購買で買った焼きそばパンの袋を開け、紅しょうがだけを先に指でつまんだ。
「千尋ちゃん、さっきの話、本当に分かってたの?」
「分かってたよ。犬を捜しに行く話でしょう」
「じゃあ、なんで読めないの?」
「読めるけど、遅いの」
「漢字が分からないとか?」
「漢字も分かる。けど、字がたくさんあると、どこを見てたか分からなくなる」
理恵は焼きそばパンをかじりながら、千尋の国語の教科書を開いた。鉛筆を横に置き、一行だけ見えるように上下を隠してみせた。千尋が読んでみると、先ほどより文字が逃げなかった。
「こうしたら?」
「読みやすい」
「定規を置けばいいんじゃない?」
「試験でもやっていいのかな」
「先生に聞けば?」
「聞いたら、また落ち着いて読めって言われるよ」
千尋はおにぎりを一つ食べ、もう一つを弁当箱へ残した。海苔はご飯の水分を吸って前歯に貼りつき、話すと黒いところが理恵に見えそうだった。理恵は自分の口元を指さして教えてくれたが、千尋はハンカチを家へ忘れたことに気づいた。仕方なく弁当を包んでいた布の端で口を拭くと、ひじきの匂いが鼻の下へついた。
「放課後、図書室に行かない?」
「本を読むの、遅いよ」
「早く読む競争じゃないんだから、いいじゃん」
「借りても返す日を忘れるかもしれない」
「返す日に私が言うよ」
「理恵ちゃんも忘れたら?」
「二人で怒られよう」
理恵が笑い、千尋も口元を緩めた。放課後に二人で図書室へ行くと、古い紙と床用ワックスの匂いがした。書棚には背表紙が隙間なく並び、題名を見ているだけで目の奥が熱くなった。それでも千尋は、一冊ずつ手に取って中を開いた。文字が大きく、行と行の間が広い本なら、時間をかければ読むことができた。
「これ、面白そう」
理恵が差し出したのは、白い狼と赤い服の少女が表紙に描かれた物語だった。千尋は小学校の作文に書いた白い獣を思い出した。破られた紙は今も菓子箱に入っており、セロハンテープが黄色くなっている。
「白い獣が出てくる」
「狼じゃないの?」
「わたしが書いた話にも、白い獣がいたの」
「千尋ちゃん、お話を書くの?」
「小学生のときは書いてた」
「今は?」
「ノートに少しだけ」
「読ませて」
「だめ。字を間違えてるから」
「字の試験じゃなくて、お話を読むんでしょう」
千尋はその言葉を帰宅してからも覚えていた。家へ帰ると、母が台所で夕食の支度をしており、油を引いたフライパンから玉ねぎの甘い匂いが漂っていた。美沙は居間で英単語を覚えながら、冷えた麦茶を飲んでいた。千尋が借りた本を食卓へ置くと、美沙は表紙を見て手を伸ばした。
「狼の話?」
「白い獣かもしれない」
「狼って書いてあるよ」
「題名を読んでも、中身はまだ分からないよ」
「それはそうだけど、たぶん狼だと思う」
「読んで確かめる」
夕食は豚肉と玉ねぎのしょうが焼きだった。千尋は肉よりも、たれを吸って茶色くなった千切りキャベツを先に食べた。父は新聞を読みながら味噌汁をすすり、母は明日の弁当に入れる分を小皿へよけている。美沙が図書室の本を読むのにどれくらいかかるのか尋ねると、千尋は一週間あれば半分くらい読めると思うと答えた。
「一冊読むのに二週間もかかるのか」
父が新聞の上から顔を上げた。千尋は口の中の玉ねぎを飲み込み、水を一口飲んだ。
「早く読むと、同じところを何度も読んじゃうから」
「学校の勉強についていけているのか」
「先生が話したことは分かるよ」
「教科書を読めなければ、試験で困るだろう」
「ゆっくりなら読める」
「世の中は、千尋が読み終わるまで待ってくれないぞ」
父はそれだけ言うと、新聞へ目を戻した。千尋は皿の端に残ったしょうが焼きのたれへご飯を押しつけた。しょうがの辛さが舌に残り、借りた本の表紙が味噌汁の湯気の向こうでかすんだ。美沙は箸で玉ねぎを一切れつまみ、父に聞こえないほどの声で話しかけた。
「読み終わらなかったら、私が読んであげようか」
「自分で読みたい」
「じゃあ、分からない字だけ聞いて」
「美沙ちゃん、前に読んでくれたよね」
「何を?」
「小学生のときの、白い獣の話」
「ああ、紙をテープでつないだやつ。まだ持ってるの?」
「持ってる」
「あれ、家の屋根はできたの?」
「できたよ。煙突もつけた」
その晩、千尋は桃色のカーディガンを寝間着の上に羽織り、借りた本を開いた。定規を一行ずつ下へ動かし、声に出さずに読んだ。十ページ読むだけで一時間近くかかったが、白い狼が雪原で少女の足跡を見つけたところまで進んだ。台所では母が明日の米をとぎ、洗濯機の中では制服のブラウスが水に打たれていた。
それから三年の間に、千尋は読むための小さな工夫をいくつも覚えた。教科書には透明な定規を当て、重要な行の横へ赤い点をつけた。宿題のページは手の甲へ数字を書き、忘れないようにした。それでも風呂へ入れば数字が消え、濡れた手で教科書を触ってページを波打たせ、母から叱られることもあった。
中学三年生の一学期、最初の国語の試験が行われた。窓の外では梅雨の雨が校庭を濡らし、湿った制服が生徒たちの体温で蒸れていた。千尋の白いブラウスは朝から袖口が乾かず、机に腕を置くたびに冷たい布が皮膚へ貼りついた。試験用紙が配られると、一枚目から長い文章が紙いっぱいに印刷されていた。
「始めてください」
教師の声と同時に、紙をめくる音が教室中で鳴った。千尋は最初の問題文へ定規を置こうとしたが、試験中は筆記用具以外を机に出してはいけないと言われた。指で行を押さえると、監督の教師が近づいてきた。
「水城さん、問題用紙から手を離しなさい」
「指で押さえないと、行が分からなくなります」
「ほかの生徒は、そのような読み方をしていません」
「定規を使ってもいいですか」
「許可できません。早く始めなさい」
千尋は一行目から読み始めた。三行目まで進んだところで二行目の意味が抜け落ちたため、最初へ戻った。登場人物の名前を丸で囲みたかったが、問題用紙へ印をつけると叱られる気がして手を止めた。教室では鉛筆の音が絶え間なく続き、壁の時計の秒針だけが千尋を置いて先へ進んだ。
物語文の内容は面白かった。港町に暮らす少年が、病気の母へ食べさせる魚を捕りに行く話だった。魚市場の生臭い匂い、濡れた石畳、少年が履いている穴の開いた長靴まで頭の中に浮かんだ。千尋は続きを読みたかったが、設問を一つ読むたびに本文へ戻り、答えの場所を探しているうちに時間を失った。
「あと十分です」
教師の声を聞き、千尋は答案用紙の裏側を見た。まだ半分以上が白かった。答えが分からない問題ばかりではない。本文を最後まで読むことさえできれば、少年が魚を逃がした理由も、母へ本当のことを言わなかった理由も説明できる。しかし、その答えが書かれている場所へ目がたどり着く前に、時間がなくなっていった。
「あと五分です」
千尋は最後の作文問題を先に書こうとした。ところが設問には三行の条件があり、何について書けばよいのか理解するだけで時間がかかった。焦るほど文字の並びが崩れ、「少年の行動をどう思うか」が「少年はどう動くか」に見えた。千尋は鉛筆を強く握りすぎ、芯を折った。
「やめてください。答案を後ろから集めなさい」
「まだ書けます」
「時間です」
「答えは分かるんです」
「水城さん、鉛筆を置きなさい」
「少年は、お母さんに魚を食べさせたくなかったんじゃありません。弱った魚を見たら、病気のお母さんと同じに見えて、逃がしたんです」
「今、口で答えても点にはなりません」
教師は千尋の答案用紙を机から取った。空欄の多い紙の端には、折れた鉛筆の芯が黒い粉になってついていた。千尋は指先でそれをぬぐい、濡れたブラウスの袖へこすりつけた。試験が終わると、周囲の生徒たちは最後の問題が簡単だった、時間が余ったと話していた。
「千尋、最後の作文、何て書いた?」
理恵が机を寄せてきた。三年間同じクラスにはならなかったが、今年は再び隣の列になっていた。千尋は筆箱を閉じ、床へ落ちた鉛筆の芯を拾った。
「書いてない」
「時間がなかったの?」
「まだ本文の途中だった」
「でも、先生に言った答え、合ってると思うよ」
「口で言っても点にならないって」
「別に時間を増やしてもらえないのかな」
「みんなと同じ試験だから、だめだよ」
「同じ問題を分かってるのに、答える前に終わるのは同じじゃないよ」
千尋は理恵の言葉を聞きながら、昼食用のパンを鞄から出した。母が寝坊したため弁当はなく、購買であんパンと牛乳を買っていた。あんパンは鞄の底で国語の教科書に押され、丸い形が半月のようにつぶれている。袋を開けると甘い小豆の匂いが広がったが、試験中に噛んだ唇の内側へあんが触れ、ひりひりした。
「千尋、高校はどこを受けるの?」
「まだ決めてない」
「進路希望、今日までだよ」
「忘れてた」
「先生、朝に言ってたじゃん」
「試験のことを考えてたから、聞いたけど消えた」
「用紙は?」
「たぶん、鞄にある」
二人で鞄の中を探すと、進路希望調査票は体育着の下から出てきた。端が牛乳瓶の水滴で湿り、少し曲がっている。第一希望、第二希望、将来希望する職業という欄が並んでいた。千尋はあんパンを食べながら鉛筆を持ち、最後の欄で手を止めた。
「何て書くの?」
「小説家」
「やっぱり、まだ書いてるんだ」
「毎日じゃないよ。宿題が終わらない日もあるし、ノートをなくす日もあるから」
「どんな話?」
「今は、家族に置いていかれた女の子が、大人になって家をつくる話」
「白い獣も出る?」
「もう年を取ってるけど、出るよ」
「読みたい」
「終わったらね」
千尋は進路希望欄へ「小説家」と書いた。小の字は右へ傾き、説の言偏は狭くなり、家の最後の払いは用紙の枠から少しはみ出した。それでも三文字を読み返すと、自分の書きたかったものがそこにあった。千尋は答案に残った空欄を思い出すと胃のあたりが硬くなったが、その三文字の上だけは消しゴムを使わなかった。
放課後、高瀬先生との進路面談が行われた。教室には雨に濡れた傘が並び、黒板の隅には前の授業で使った英単語が消え残っていた。窓を閉め切っているため、給食で出たカレーと男子生徒の汗の匂いがまだ残っていた。千尋は椅子へ浅く座り、膝の上でスカートのひだを一本ずつ整えた。
「水城さん、第一希望の高校は空欄ですね」
「どこに行けるか、分からないからです」
「この成績では、選べる学校は多くありません。特に国語の点数が問題です」
「今日の試験の話は分かりました」
「試験の結果で判断します。分かっていると言うだけでは、学校は評価できません」
「時間があれば、最後まで書けました」
「高校へ行けば、試験はもっと難しくなります。いつまでも時間が足りなかったという言い訳は通用しません」
高瀬先生は赤いボールペンを持ち、調査票へ目を移した。将来希望する職業の欄で手が止まり、「小説家」という三文字を二度読み直した。千尋は先生が興味を持ってくれたのかと思い、膝の上で組んでいた手をほどいた。
「小説を書いています」
「そうですか」
「小学校のときから書いています。読むのは遅いけど、自分で書くときは、頭の中の話を一つずつ字にできます」
「水城さん、ここは夢を書く欄ではありません」
「将来希望する職業って書いてあります」
「現実に就くことのできる仕事を書く欄です」
「小説家も仕事です」
「本を読むことさえ苦手な人が、どうやって小説家になるのですか」
高瀬先生は赤いボールペンの先を用紙へ当てた。千尋が止める間もなく、「小説家」の上へ一本の線を引いた。赤い線は小の字から家の字までを横切り、最後だけ枠の外へはみ出した。
「消さないでください」
「書き直しなさい」
「どうしてですか」
「進路指導は遊びではありません。あなたにもできる仕事を書きなさい」
「わたしにできる仕事って、何ですか」
「それを自分で考えるための調査です」
「先生は、小説家はできないって決めたでしょう」
「適性を考えなさいと言っているのです。読み書きにこれだけ時間がかかるのに、文章を書く仕事を選ぶのは現実的ではありません」
千尋は調査票を見た。赤い線の下にも「小説家」の三文字は残っていた。読むことはできるのに、先生にはもう存在しないものとして扱われている。千尋は筆箱から消しゴムを出したが、赤いインクはこすっても薄くならず、紙の表面だけがざらざらになった。
「ほかに、何がありますか」
「家で手伝っていることは?」
「お風呂を洗います。ごみも集めます」
「掃除はきちんとできますか」
「時間はかかります。途中で古い雑誌を読むことがあります」
「手順を覚えればできるでしょう。清掃関係の仕事などもあります」
「清掃員なら、わたしにもできますか」
「文章を書く仕事よりは現実的でしょう」
「分かりました」
千尋は赤線を引かれた三文字の下へ「清掃員」と書いた。清の字の右側を間違え、一度横線で消した。掃の字は部首と旁の間が開き、員の下の二本の足は長さが違った。高瀬先生は書き直した言葉を確認すると、調査票をほかの書類の上へ重ねた。
「第一希望の高校は、お母さんと相談して来週までに書きなさい」
「はい」
「それから、今日の試験で時間が足りなかったのは練習不足です。毎日、教科書を音読してください」
「音読したら、速くなりますか」
「努力しなければ、何も変わりません」
「努力しても遅かったら、どうしたらいいですか」
「やる前から、できない理由を探さないことです」
面談が終わり、千尋は教室を出た。廊下の窓には雨粒が張りつき、校庭の白線は水に流されて見えなくなっていた。下駄箱で革靴へ履き替えると、右足の靴下の親指に穴が開いていることに気づいた。朝はなかったはずの穴から爪が見え、濡れた靴の内側へ触れるたびに冷たかった。
「遅かったね」
昇降口では、先に面談を終えた理恵が待っていた。透明な傘の内側には細かな水滴がつき、手には購買で買った紙袋を持っている。理恵は袋から揚げパンを一つ出し、千尋へ差し出した。
「売れ残りだって。半額だった」
「もう冷たいね」
「でも砂糖はいっぱいついてるよ。面談、どうだった?」
「小説家を消された」
「誰に?」
「先生に。夢を書く欄じゃないって」
「将来の仕事を書く欄でしょう?」
「小説家は、わたしにできる仕事じゃないって」
千尋は揚げパンを一口かじった。表面の砂糖が湿気を吸い、指へべたべたとついた。油は冷えて少し硬くなっていたが、噛むと中のパンは柔らかかった。理恵は傘を肩へ立てかけ、千尋の顔をのぞき込んだ。
「それで、何て書き直したの?」
「清掃員」
「掃除、嫌いじゃなかった?」
「嫌いじゃないよ。でも、始めると別のことをして、終わらなくなる」
「じゃあ、先生は千尋のこと、あんまり分かってないね」
「清掃員もできなかったら、何を書けばいいのかな」
「小説家でいいじゃん」
「赤い線で消されたよ」
「赤い線があっても、三文字とも読めるでしょう」
理恵はそう言い、残った揚げパンを自分の口へ押し込んだ。二人は一本の傘へ入り、駅前の商店街まで歩いた。雨水が歩道のくぼみにたまり、車が通るたびに制服の裾へ細かな泥が飛んだ。千尋は右の靴下へ水が染み込む感触を確かめながら、先生の赤い線を何度も思い出した。
帰宅すると、母は居間で洗濯物をたたんでいた。座卓には父の肌着、美沙の白い靴下、千尋の寝間着が山になっている。台所の鍋には昼の残りのうどんがあり、汁を吸った麺が太く膨らんでいた。母は千尋の濡れた制服を見ると、先に着替えるよう言った。
「靴下に穴が開いた」
「脱いで洗濯籠へ入れておきなさい。捨てる前に縫えるか見ます」
「進路希望も書いたよ」
「高校は決めたの?」
「まだ。仕事は清掃員って書いた」
母の手が父の肌着の上で止まった。千尋は濡れたスカートを脱ぎ、黄色いトレーナーと灰色のジャージーへ着替えた。トレーナーは美沙のお下がりで、胸に印刷された熊の顔が洗濯で薄くなっている。台所へ戻ると、母がうどんの鍋を火にかけていた。
「どうして清掃員なの?」
「先生が、それならできるって」
「千尋は掃除が得意だったかしら」
「小説家って書いたら、消されたの」
「先生が?」
「夢を書く欄じゃないって。読むのが遅い人は、小説家にはなれないって」
母は菜箸でうどんをほぐしたが、麺は何本も切れて鍋の底へ沈んだ。冷蔵庫から長ねぎを出し、端がしなびた部分を包丁で落とす。千尋は食卓へ座り、揚げパンの砂糖が残った指をなめた。
「先生は、現実の仕事を書いてほしかったんでしょう」
「小説家は現実にいないの?」
「いるわよ。でも、小説家だけで食べていける人は少ないでしょうね」
「少なかったら、書いちゃだめなの?」
「だめとは言っていないでしょう」
「お母さんも、できないと思ってる?」
母は答える前に、沸騰した鍋の火を弱めた。醤油の匂いが台所へ広がり、窓ガラスが白く曇った。小さな丼へうどんを盛り、昨夜の天ぷらの残りを一つ載せる。衣は汁を吸うとすぐに崩れ、中から薄いかぼちゃが見えた。
「お母さんには分からないわ。小説家になったことがないもの」
「じゃあ、できないって決めない?」
「決めない。でも、漢字の勉強と学校の勉強はしなさい」
「小説を書いたら、漢字も覚えるよ」
「宿題より先に書くのはだめです」
「宿題が終わらなかったら、書く時間がなくなる」
「それは、自分で時間をつくりなさい」
千尋は箸で切れたうどんをすくった。煮直した汁は濃くなり、かぼちゃの天ぷらから甘い油が溶け出していた。母は洗濯物の山へ戻り、美沙の靴下を左右そろえて畳んだ。千尋の穴の開いた靴下だけは、裁縫箱の横へよけられた。
夜、父が帰宅すると、母は進路面談の話をした。父は紺色の作業服を脱ぎ、白い肌着のまま食卓へ座った。夕食のサバのみそ煮は骨が多く、千尋は身を崩しながら一本ずつ取り除いた。父は湯飲みの茶をすすり、清掃員なら資格がなくても始められる仕事があると言った。
「資格がなくてもできるの?」
「仕事によってはな。ただし、朝が早いところも多いぞ」
「小説家には資格がいるの?」
「試験を受けて取る資格なら、いらないだろう」
「じゃあ、わたしにも小説を書く資格はある?」
「書くだけなら、誰にでもできる」
「書くだけじゃなくて、小説家になる資格」
「本を出して金をもらえれば小説家だ。それまでは趣味だろう」
「お金をもらわないと、小説家って言っちゃだめなの?」
「言うだけなら勝手だが、仕事の欄へ書く話とは別だ」
父はサバの骨を皿の端へきれいに並べた。千尋の皿には細かな骨と皮が混ざり、どれが食べられる部分なのか分からなくなっている。美沙は千尋の皿から太い骨を取り、身だけを小皿へ移してくれた。
「千尋の話、私は好きだったよ」
美沙が言うと、父は味噌汁の椀を置いた。
「好き嫌いの話をしているんじゃない。将来、自分で生活できるかどうかの話だ」
「仕事をしながら書く人もいるでしょう」
「だったら先に、できる仕事を探せばいい」
「できる仕事って、誰が決めるの?」
「本人が何でも決められるなら、学校の進路指導はいらない」
「先生が全部決めるなら、進路希望を書く意味もないよ」
「美沙、お前の話ではない」
「千尋の話だから言ってるの」
母が二人を止め、冷蔵庫から麦茶を出した。ガラスのポットには氷が残っておらず、茶は生ぬるかった。千尋は姉と父が自分のことで言い争うのを聞きながら、サバの身を一口ずつ食べた。味噌の甘さのあとに小さな骨が舌へ触れるたび、指で取り出して皿へ置いた。
「もういいよ。清掃員って書いたから」
「千尋がそれでいいなら、いいけど」
「先生が、それならできるって言った」
「千尋は、何がしたいの?」
「書きたい」
「だったら書けばいいじゃない」
「書いても、小説家じゃないんだって」
美沙はしばらく黙り、千尋の皿からもう一本骨を取った。父は新聞を開き、母は空いた皿を流し台へ運んだ。蛇口から水が流れる音で、食卓の会話は終わった。千尋は食べ終えた皿を重ね、自分の分だけ台所へ運んだ。
風呂から上がると、千尋は水色の寝間着を着て、桃色のカーディガンを羽織った。袖口のココアの染みは何度洗っても消えず、以前より茶色く広がっている。勉強机には英語の辞書、削りかけの鉛筆、菓子の包み紙、返却期限を過ぎた図書室の本が積まれていた。千尋は宿題の数学プリントを端へ寄せ、引き出しの奥から一冊の大学ノートを取り出した。
表紙には何も書かれていなかった。途中まで書いた物語のノートは別にあったが、今夜はその続きを書く気になれなかった。千尋は新しいページを開き、鉛筆で「小説家」と書いた。先ほど父が使った「資格」という言葉が、頭の中から離れなかった。
「小説家」
一度目は、小の字が大きくなりすぎた。二度目は、説の字を間違えて横線を引いた。三度目は家の屋根が傾き、四度目は最後の払いが隣の文字へぶつかった。それでも千尋は、次の行にも同じ三文字を書いた。
「小説家。小説家。小説家」
隣の部屋から美沙が顔を出した。髪を洗ったばかりで、肩に古いバスタオルを掛けている。石鹸と母の椿油の匂いが、開いた扉から入ってきた。
「何してるの?」
「小説家って書いてる」
「見れば分かるよ。どうして何回も書くの?」
「赤い線を引かれても、なくならないように」
「紙がもったいないって、お母さんに言われるよ」
「裏も使う」
「そういう問題じゃないと思うけど」
美沙は机の横へしゃがみ、ノートをのぞいた。大きさも形も違う三文字が、罫線の上に何列も並んでいる。千尋は「説」の言偏を書き忘れたことに気づき、あとから狭い隙間へ押し込んだ。
「全部、字の形が違うね」
「同じに書こうとしてる」
「でも、どれも小説家って読めるよ」
「先生は消した」
「赤い線が一本あっても、私は読めたよ」
「理恵ちゃんも同じことを言った」
「じゃあ、二人には読めたんだから、消えてないでしょう」
「でも、仕事の欄からは消えたよ」
「仕事の欄は一枚しかないけど、ノートには何枚もあるよ」
千尋は鉛筆を止めた。美沙の濡れた髪から落ちた水滴が、ノートの端へ小さな丸い染みをつくった。美沙は慌ててバスタオルで押さえたが、紙は少し波打った。
「ごめん。濡らしちゃった」
「いいよ。そこには書いてないから」
「今度の話はどこまでできたの?」
「置いていかれた女の子が、大人になったところ」
「家はできた?」
「小さい家を借りた。でも、お金がなくて、机が買えないの」
「じゃあ、何に書くの?」
「ミカンの箱を机にする」
「腰が痛くなりそう」
「座布団を二枚重ねる」
「一枚はぺちゃんこだから、三枚にしたほうがいいよ」
千尋は別のノートを引き寄せ、物語の続きを開いた。美沙は机の横へ座り、濡れた髪を拭きながら待っていた。千尋は、少女が八百屋からミカン箱をもらう場面を書き始めた。箱の底には乾いた葉と腐ったミカンの皮が残り、少女は雑巾で二度拭いてから窓のそばへ置いた。
「その部屋、カーテンはあるの?」
「ない。お金がないから」
「外から見えるよ」
「古いシーツを洗って、カーテンにする」
「洗濯ばさみで留めるの?」
「針と糸で縫う。でも、真っすぐ縫えない」
「真っすぐじゃなくても、窓は隠れるよ」
美沙の言葉を聞き、千尋は少女が縫った曲がったカーテンのことを書いた。少女はミカン箱の前へ座り、安売りの食パンへマーガリンを塗って食べる。冷蔵庫がないので牛乳は買えず、水道の水をコップへくんだ。隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえても、少女は鉛筆を止めなかった。
「何を書いてるの?」
物語の中で、隣人が少女へ尋ねた。千尋はそこで一度手を止め、最初のノートに並べた三文字を見た。形の違う「小説家」は、どれも同じ意味でそこに残っていた。
「小説を書いています」
「あなたは小説家なの?」
少女はすぐには答えなかった。まだ本を出しておらず、お金も受け取っていない。学校の先生から認められたこともなければ、正しい漢字を一度で書くこともできなかった。けれど、少女のミカン箱には、今夜も書きかけの紙が載っていた。
「まだ分かりません。でも、明日も書きます」
千尋はその台詞を書き終え、鉛筆を置いた。中指には硬い筆だこができ、鉛筆の木の匂いが指先へ残っていた。美沙は書き終わったところまで黙って読み、曲がったカーテンの場面で小さく笑った。
「この女の子、小説家になれるかな」
「なるよ」
「まだ本を出してないよ」
「これから出せばいいでしょう」
「誰にも読んでもらえなかったら?」
「私が読む」
「美沙ちゃん一人だけだよ」
「最初の読者が一人いれば、次の人にも読んでもらえるじゃない」
美沙は立ち上がり、濡れたバスタオルを肩へ掛け直した。廊下へ出る前に、机の端へ寄せられた数学プリントを指さした。
「でも、それもやりなよ。明日また先生に怒られるよ」
「忘れてた」
「知ってる。三問だけ一緒にやる?」
「全部じゃなくていいの?」
「全部やったら夜中になるでしょう。残りは朝、私が起こすから」
「朝になったら、美沙ちゃんが忘れるかもしれないよ」
「じゃあ、私の手にも書いておく」
美沙は千尋の赤いペンを取り、自分の手の甲へ「千尋、数学」と書いた。最初の尋の字を間違え、二人で笑った。千尋は数学プリントを広げ、三問だけ解いた。一問目は計算を間違え、二問目は問題文を美沙に読んでもらい、三問目は自分で正しい答えを書いた。
美沙が部屋を出たあと、千尋は新しいノートを閉じなかった。最後の行へ、もう一度「小説家」と書いた。今度も家の字が少し傾き、三文字の大きさはそろわなかった。それでも、その上に赤い線は引かれていなかった。
「書く資格は、誰にも消せない」
声に出してみると、少し大げさな台詞に聞こえた。千尋は恥ずかしくなり、誰も聞いていないことを確かめるため廊下を見た。台所には夕食のサバの匂いが残り、洗面所では洗濯機が明日の制服を回していた。父のせきと母が戸締まりを確かめる音も聞こえ、家族は誰もいなくなってはいなかった。
千尋はノートの余白へ、先生に消された三文字をもう一度書いた。次に、ミカン箱で物語を書く少女の続きを一行だけ加えた。少女が小説家になれたかどうかは、まだ決めなかった。明日の千尋にも書くことを残しておきたかった。
「明日も書けば、続きになる」
千尋は鉛筆を筆箱へ入れ、二冊のノートを机の引き出しへしまった。数学プリントは忘れないよう通学鞄の上へ載せたが、その上に脱いだ寝間着を置けば見えなくなるかもしれないと思い、鞄の中へ入れ直した。布団へ入る前にもう一度引き出しを開けると、形の違う「小説家」が何十個も並んでいた。
どの三文字も上手には書けていなかった。どの三文字にも、学校の成績を変える力はなかった。それでも千尋が一つずつ書いたものを、今度は誰も破らず、赤い線で消すこともできなかった。千尋はノートを閉じ、明日の朝まで逃げないように、引き出しの一番奥へ大切にしまった。




