第2話 忘れる子は嘘をつく
第2話 忘れる子は嘘をつく
月曜日の朝、千尋は母に三度起こされても布団から出られなかった。昨夜、つなぎ合わせた作文の続きを考えているうちに眠るのが遅くなり、白い獣が森の中を歩く夢を見ていた。薄い花柄の掛け布団から出した足に朝の冷たい空気が触れ、千尋は膝を曲げてもう一度丸くなった。台所からは魚を焼く匂いと、包丁がまな板をたたく音が届いていた。
「千尋、七時半よ。今日は月曜日でしょう」
「起きてる」
「目を閉じている人は、起きているとは言いません」
母がカーテンを開けると、白い朝日が畳の上に散らばった服を照らした。昨日脱いだ靴下は勉強机の下に片方だけ落ち、洗濯した白いブラウスは椅子の背もたれに掛かっていた。千尋は布団から出て、紺色のつりスカートを手に取った。前後を確かめたはずなのに、着てみるとポケットが後ろに回っていた。
「お母さん、これ、変になった」
「昨日も教えたでしょう。いったん脱いで、ポケットが右に来るようにしなさい」
「右って、お箸を持つほう?」
「今、それを聞いている時間はありません」
千尋はスカートを脱ぎ直し、今度は肩ひもをねじれさせた。台所では味噌汁が煮立ち、母が慌てて火を弱めている。姉の美沙はすでに制服へ着替え、食卓で卵焼きを食べていた。白いブラウスの襟は左右がきれいにそろい、紺色のスカートにも糸くず一つ付いていない。
「千尋、今日の時間割は入れたの?」
「入れたよ」
「本当に?」
「昨日、見ながら入れた」
美沙は箸を止め、千尋のランドセルを引き寄せた。中から国語、算数、理科の教科書を取り出し、時間割表と見比べる。月曜日の三時間目は社会なのに、千尋は理科の教科書を入れていた。薄緑色の表紙に描かれたタンポポを見ているうちに、春に綿毛を飛ばしたことを思い出し、そのままランドセルへ入れたらしい。
「また違ってる。今日は社会だよ」
「でも、昨日は理科だった」
「昨日は日曜日。学校は休みだったでしょう」
「その前の日」
「その前は土曜日」
美沙が息を吐き、理科と社会の教科書を入れ替えた。千尋は食卓につき、味噌汁へ口をつける。母が火を止めるのを忘れたため、豆腐は角が崩れ、わかめは黒く広がっていた。それでも汁は熱く、舌の先をやけどした千尋は、口を開けて息を吸った。
「熱いなら、冷ましてから飲みなさい」
「急げって言ったの、お母さんだよ」
「口答えをしている暇があるなら、食べなさい」
皿には卵焼きが二切れと、昨夜の残りのアジの開きが載っていた。アジの皮は冷えて硬くなり、箸で持ち上げると銀色の部分が皿に残った。千尋は卵焼きを先に食べ、甘い味を舌の上に置いたまま味噌汁を飲んだ。母は流し台で弁当箱を洗い、美沙は牛乳瓶の底に残った白い膜を何度も振っている。
「連絡帳は?」
母の声を聞いた瞬間、千尋の手が止まった。金曜日、先生が黒板に書いた連絡を写すはずだったが、千尋は鉛筆を削っている間に掃除の時間になってしまった。途中まで書いた気もするし、何も書かなかった気もする。机の中に連絡帳を置いてきたことだけは、今になって分かった。
「書いたよ」
「では、見せなさい」
「学校にある」
「どうして学校にあるの?」
「置いてきたから」
「書いたのに、置いてきたの?」
母が手を拭きながら振り返った。布巾には洗剤の泡が残り、しずくが床へ落ちていた。千尋はご飯茶碗の縁についた米粒を箸でつぶした。書いたと言ったのは、書いたかったからであり、母をだまそうとしたわけではない。しかし、その違いを説明する前に玄関で父の咳が聞こえた。
「朝から何を騒いでいる」
父は灰色の作業着を着て、玄関で革靴のひもを結んでいた。髪には整髪料の甘い匂いがあり、口元には剃り残したひげが見えた。母から話を聞くと、父は靴べらを下駄箱の上へ置き、千尋を見た。千尋は椅子から立つこともできず、つぶした米粒を指先で丸めた。
「連絡帳を書いたのか、書かなかったのか、どっちだ」
「書こうとした」
「聞いていることに答えなさい」
「鉛筆を削って、それで、先生が黒板に書いていて、途中でチャイムが鳴って――」
「つまり、書かなかったんだな」
「忘れただけ」
「忘れたのではない。最初からやる気がなかっただけだ」
父の声は大きくなかったが、食卓の上の箸箱が震えたように見えた。千尋は書こうと思っていたことを伝えたかった。金曜日に使った鉛筆は芯が折れ、削り器の中で何度回しても先が崩れた。その間に先生が黒板を消してしまったのだから、やる気がなかったわけではない。
「やる気はあったよ」
「やる気がある人間は、やるべきことを忘れない」
「でも、忘れちゃったの」
「またそうやって嘘をつく」
父は腕時計を見て、玄関へ向かった。千尋の中で、「忘れた」という言葉と「嘘」という言葉がぶつかり、どちらを口から出せばよいのか分からなくなる。美沙は空になった牛乳瓶を食卓へ置き、千尋のランドセルのふたを閉めた。母は連絡帳の代わりに小さな便箋へ何かを書き、茶色い封筒へ入れた。
「美沙、悪いけれど、この手紙を千尋の先生へ渡して。千尋に持たせたら、またなくすから」
「私、朝練があるんだけど」
「少し早く出れば間に合うでしょう」
「千尋の学校、反対方向だよ」
「お姉ちゃんなんだから、お願い」
美沙の手が封筒の端を強くつかんだ。白い紙が指の形にへこみ、角が曲がる。美沙は何も言わず、千尋の社会の教科書まで自分の手提げ袋へ入れた。千尋が持てば、教室へ着くまでにどこかへ置いてくると思われたのである。
学校へ着くと、千尋は朝の会で連絡帳を出すよう言われた。机の中を探すと、算数のプリント、折れた定規、昨日拾った銀杏、包装紙に包んだままの消しゴムが出てきた。連絡帳は一番奥で、図工の画用紙に挟まれていた。金曜日の欄には、日付だけが書かれている。
「水城さん、宿題を出してください」
「宿題は家にあります」
「持ってくるのを忘れたのですか」
「やりました。でも、机の上に置いて、そのあとお母さんが洗濯物をたたんで、猫が窓のところに来て――」
「聞いているのは猫の話ではありません」
佐伯先生が手を差し出した。千尋は何も持っていない両手を机の上へ置いた。昨日、計算ドリルをしたことは覚えている。鉛筆の跡を消しゴムでこすりすぎて紙に穴が開き、その穴を指で広げて母に叱られたことも覚えていた。しかし、ドリルを最後にどこへ置いたのかだけが消えている。
「また忘れましたね。昨日の作文のことも、もう忘れたのですか」
「忘れてない」
「では、どうして同じことをするのですか」
「同じにしようと思ってない」
教室の後ろの扉が開き、美沙が立っていた。自分の中学校の制服を着たまま、千尋の社会の教科書と母の封筒を抱えている。急いで走ったのか、短く切りそろえた前髪が額に貼りつき、白い靴下の片方が下がっていた。
「水城千尋の姉です。母から、これを先生に渡すように言われました」
「いつもすみませんね。お姉さんはしっかりしているのに」
佐伯先生は封筒を受け取り、美沙へ笑いかけた。美沙は頭を下げたが、千尋のほうを見なかった。手提げ袋から社会の教科書を出すと、千尋の机へ置き、そのまま教室を出ていった。千尋は追いかけようとしたが、朝の会が終わっていないため椅子から立てなかった。
昼休みになり、千尋は校庭へ出ずに机の中を片づけた。銀杏からは青臭い匂いがし、算数のプリントには給食のカレーが一滴ついていた。なくしたと思っていた赤鉛筆は筆箱の裏地の破れ目から出てきた。千尋は見つけた物を机の上へ並べたが、どう分ければ二度となくさないのか分からなかった。
「それ、全部捨てたら?」
真由が小さな牛乳パックを持って隣へ来た。ストローを噛む癖があるため、先が平たくつぶれている。千尋は銀杏を捨てようとしたが、茶色くなれば中から実が出てくるかもしれないと思い、手を止めた。
「これは要る」
「算数の紙は?」
「まだ使うかもしれない」
「カレーついてるよ」
「拭けば使える」
「じゃあ、何を捨てるの?」
千尋は答えられず、全部を机の中へ戻した。真由は牛乳パックを振り、まだ残っていた一口を吸った。中身がなくなると、ストローから空気の音が鳴った。千尋には、その音が白い獣の小さなくしゃみに聞こえた。
放課後、家へ戻ると、居間の座卓に見覚えのある計算ドリルが置かれていた。千尋が昨日使ったあと、新聞の下へ入り込んでいたらしい。母はパートへ出ており、台所の鍋には朝の味噌汁が残っていた。表面にわかめが固まっていたが、千尋は火を使ってはいけないと言われているので、そのまま椀へ移した。
冷蔵庫には、皿に載せた卵焼きが三切れ残っていた。ラップの端がめくれ、表面が少し乾いている。千尋は一切れを指でつまみ、冷たいまま口へ入れた。朝は甘かった卵焼きが、今は冷蔵庫のネギとたくあんの匂いを吸っていた。
玄関の戸が強く開き、美沙が帰ってきた。千尋の学校へ寄ったため朝練に遅れ、顧問から全員の前で注意されたらしい。しかも午後に友人と商店街の文房具店へ行く約束にも遅れ、待っていた友人は先に帰ってしまった。美沙は制鞄を廊下へ置き、紺色の制服の袖で額の汗を拭いた。
「お姉ちゃん、ドリル、ここにあった」
「そんなこと、今言わないで」
「新聞の下にあったの。やったけど、持っていくのを忘れただけだった」
「だから何?」
「お父さん、嘘だって言ったけど、嘘じゃなかった」
「私には関係ない!」
美沙は食卓の椅子を引き、座ろうとしたが、鞄を置いたまま立っていた。唇を強く結び、こぼれたものを見られないように顔を横へ向ける。窓の外では隣家の洗濯物が風に揺れ、赤い子ども用の靴下が物干し竿から落ちそうになっていた。
「千尋が忘れるたびに、私が届けるんだよ。千尋が宿題をなくすたびに、私が一緒に探すんだよ。今日だって、朝練に遅れて先生に怒られた」
「ごめんね」
「文房具屋にも行けなかった。由紀ちゃん、ずっと待ってたんだから」
「明日、行けばいいよ」
「明日じゃだめなの!」
美沙の声が台所の窓を震わせた。千尋は卵焼きの二切れ目を持ったまま、口へ運ぶことができなかった。指の熱で卵の油がにじみ、指先がぬるぬるした。美沙が何を失ったのか全部は分からなくても、それが明日では代わりにならないものだということだけは分かった。
「私は千尋のお母さんじゃない。どうして私が、いつも千尋の面倒を見なきゃいけないの」
「お母さんに頼まれたから」
「千尋がちゃんとすれば、お母さんだって私に頼まないよ」
「ちゃんとしようとしてる」
「してない。何度言っても同じじゃない」
千尋は卵焼きを皿へ戻した。謝ればよいのか、ちゃんとしようとしたことを説明すればよいのか、分からなかった。謝れば、最初から悪いことをしようとしたと認めるような気がした。説明すれば、また言い訳だと言われるに決まっている。
美沙は制服のポケットから白いハンカチを出し、目元へ押しつけた。朝にはきれいだったハンカチの角に、鉛筆の黒い汚れがついている。肩が何度も動き、息を吸うたびに喉から小さな音が漏れた。
「千尋なんか、いなければよかった」
美沙は鞄をつかみ、階段を駆け上がった。二階の扉が閉まる音のあと、家の中には冷蔵庫のモーター音だけが残った。千尋は椅子へ座り直し、皿の卵焼きを見た。三切れあったものは、一切れを食べ、もう一切れには指の跡が残っている。
鍋から移した冷たい味噌汁には、豆腐の小さな欠片が沈んでいた。千尋は箸でそれをすくおうとしたが、何度も椀の底へ逃げられた。やっと口へ入れると、味噌の味より冷えた水の味が強かった。卵焼きは噛むたびに甘さが戻ったが、飲み込むまでひどく時間がかかった。
夕方、母が帰宅し、座卓に置かれた計算ドリルを見つけた。美沙は部屋から出てこず、千尋も文房具店の話をしなかった。母は買い物袋から大根と油揚げを出し、流し台へ置いた。袋の底では、特売で買ったミカンが一つ潰れている。
「ドリル、やっぱり家にあったのね。明日は忘れずに持っていきなさい」
「うん」
「返事だけではだめよ。今すぐランドセルへ入れなさい」
「あとで入れる」
「あとでは、また忘れるでしょう」
千尋は椅子から立ち、ドリルをランドセルへ入れた。ふたを閉めてから、明日の時間割を確認しようと思った。しかし母が潰れたミカンをむき始め、甘酸っぱい汁が指から垂れているのを見ているうちに、何をしようとしていたのか分からなくなった。千尋は母からミカンを一房もらい、薄皮を歯で破った。
「時間割を見なさい」
「分かってる」
「今、忘れていたでしょう」
「忘れてない。ミカンを食べてから見ようと思ったの」
「そういうのを言い訳というのよ」
千尋はミカンを急いで飲み込み、時間割表を取り出した。火曜日の欄を人さし指で一つずつ押さえ、国語、算数、体育、図工の教科書を入れる。母が横で見ていると間違えない代わりに、指先が固くなった。確認を終えた母は夕食の支度に戻り、千尋はランドセルのふたを二度開けて中身を確かめた。
夜になっても、美沙は夕食を食べに下りてこなかった。母は焼いた油揚げと大根の煮物を皿へ盛り、美沙の分だけラップをかけて冷蔵庫へ入れた。父は帰宅すると、姉妹げんかの理由を聞かず、千尋に明日は忘れ物をするなとだけ言った。千尋は白いご飯へ煮汁をかけ、箸で大根を小さく崩した。
布団へ入る時間になっても、千尋の胸の内側では、父と美沙と母の声が順番を守らず走り回っていた。「嘘をつく」「同じことをする」「いなければよかった」という言葉が何度も追い越し合い、目を閉じても止まらない。千尋は枕元に置いた菓子箱を開け、昨日つないだ作文を取り出した。セロハンテープには細かなほこりがつき、破れ目の一つがまた開きかけている。
千尋は寝間着の上に桃色のカーディガンを羽織り、勉強机へ向かった。袖口は以前こぼしたココアの染みで茶色くなっていた。鉛筆を持ち、作文の続きではなく、新しい紙へ物語を書き始める。今度の少女は、朝起きると家族全員に置いていかれていた。
「みんな、どこへ行ったの」
少女は寝室、台所、物置を順番に探した。父の革靴も、母の買い物袋も、姉の白いハンカチもなくなっている。食卓には冷たい卵焼きだけが三切れ残されていた。
「わたしが忘れたから、みんな出ていったのかな」
千尋はそこで鉛筆を止めた。物語の少女が何を忘れたのか、決められなかった。宿題でも、時間割でも、家族に謝ることでもよかったが、どれを選んでも家族全員が出ていく理由にはならない気がした。千尋は一度書いた文に横線を引き、その下へ書き直した。
「みんなが出ていった理由は、わたしには分かりませんでした」
空になった家で、少女は卵焼きを一切れ食べた。二切れ目は表面が乾いて硬く、三切れ目は端が黒く焦げていた。少女は焦げた部分を捨てようとしたが、捨てれば食べるものが減るので、全部を口へ入れた。
少女は自分でも卵を焼こうと考えた。冷蔵庫から卵を一つ出し、背伸びをしてフライパンを取る。殻が一つ入ったが、箸で取ろうとするうちに黄身が潰れた。火が強すぎて裏側は黒くなり、表側には生の白身が残った。
「上手にできなくても、わたしが食べるからいい」
少女は焦げた卵を皿へ移し、食卓へ座った。誰も褒めず、誰も叱らず、誰も食べ方を教えなかった。それでも少女は、水を一杯くんでから箸を持った。焦げたところは苦く、焼けていないところはぬるぬるしていたが、少女は最後まで食べた。
千尋は鉛筆を置き、書いたばかりの文章を指でなぞった。胸の中を走っていた声はまだ残っていたが、先ほどより遠くへ移っている。隣の部屋から父のいびきが聞こえ、二階では美沙が寝返りを打つ音がした。台所の冷蔵庫が止まり、家の中が一瞬だけ静かになった。
「明日は、ちゃんと持っていくから」
千尋は誰にともなく言った。ランドセルを開け、時間割をもう一度確認すると、社会の教科書が入っていることに気づいた。明日は社会ではなく体育だったので、千尋は教科書を取り出し、代わりに体操着を入れた。白い体操着からは、母が使った洗濯石鹸の匂いがした。
机へ戻ると、物語の少女が空の家でまだ座っていた。家族は戻ってこなかったが、少女は明日の朝に食べる卵を一つ残している。千尋は最後の一行を書き、紙を菓子箱へしまった。
「明日は、焦がさないように弱い火で焼きます」
カーディガンを脱いで布団へ戻るころには、夜中の十二時を過ぎていた。千尋は書き終えた話を枕の下へ入れ、両手で端を押さえた。明日の朝になれば、また何かを忘れるかもしれない。それでも今夜書いた少女のことだけは、忘れないつもりだった。




