第1話 赤い文字の作文
第一部 破られた紙
第1話 赤い文字の作文
三時間目の国語が始まるころには、千尋の背中に汗がにじんでいた。九月に入ったばかりの教室には夏の熱が残り、半分まで開けた窓から校庭の土と刈った草の匂いが流れ込んでいた。千尋は白い半袖ブラウスに紺色のつりスカートを着ていたが、朝、急いで留めた一番下のボタンだけが隣の穴に入っている。机の横には、母が昨夜洗った上履き袋がかかっていた。まだ乾ききっていない布から洗濯石鹸の匂いがして、触ると底のあたりが少し冷たかった。
黒板の前に立った担任の佐伯先生が、教科書を片手で持ち上げた。給食前の教室では、誰かの机の中に入っているみかんの皮の匂いと、朝の牛乳を拭いた雑巾の酸っぱい匂いが混じっていた。千尋は昨日の夕食で残したアジの開きを思い出した。母に小骨まできれいに取るよう言われたのに、途中で窓の外の猫を見てしまい、ご飯だけ食べて席を立ったのである。
「それでは、昨日の続きから読みます。水城さん、二段落目を読んでください」
千尋は椅子の上で膝をそろえ、教科書を両手で持った。文字は黒く印刷されているのに、同じ大きさで同じ間隔に並びすぎていて、どこを読んでいるのか分からなくなる。指で行を押さえると先生に怒られるので、右手の人さし指を机の下へ隠したまま動かした。一つ目の文をどうにか読み終えたところで、次に進んだつもりの目が、また同じ行の初めへ戻っていた。
「山の向こうから、白い雲が――」
前の席に座っている男の子が、肩を揺らした。千尋は違う場所を読んだことに気づき、慌ててその下の行を探した。しかし、焦れば焦るほど文字の列が傾き、黒い蟻が紙の上を歩いているように見えた。唇の端を舐めると、朝に飲んだ甘い麦茶の味がまだ残っていた。
「山の向こうから、白い雲が――」
「そこ、さっき読んだぞ」
男の子の声をきっかけに、あちこちから笑い声が上がった。千尋は次の行を見つけたつもりで息を吸ったが、口から出たのは三度目の同じ文章だった。机を指でたたく音や、椅子をきしませる音まで笑っているように聞こえる。耳の奥が熱くなり、教科書を持つ手に力が入った。
「山の向こうから、白い雲が……」
「水城さん、いつまで同じところを読むつもりですか」
佐伯先生が教科書を閉じた。乾いた音が教室の隅まで響き、笑っていた子どもたちも口を閉じた。千尋は謝ろうとしたが、何について謝ればよいのかを先に考えてしまい、声を出すのが遅れた。今度はその沈黙を、先生は反省していない態度だと思ったらしい。
「ふざけているのですか。それとも、みんなの授業を止めたいのですか」
「ふざけていません。ちゃんと次を読もうとしたんです」
「読もうとしたのではなく、読んでください。三年生なら、それくらいできるでしょう」
千尋は唇を結び、教科書を机へ戻した。表紙の角が折れていたので爪で何度も押したが、白くなった筋は元には戻らない。昨日までは読めたはずの文章だった。母にも一度聞いてもらったが、そのとき母は鍋の味噌汁を温めながら聞いていたため、千尋が同じところを二度読んだことに気づかなかった。
佐伯先生は教卓の上から一枚の原稿用紙を取り上げた。昨日提出した「わたしの家族」という作文だった。千尋は題名の「族」という字が分からず、教室の後ろに貼られた漢字表を見て書いたつもりだったが、返された作文には赤い丸がいくつもついていた。昼休みに直すのだろうと思っていた千尋は、先生がその紙を持って黒板へ向かったのを見て、スカートのひだを両手で握った。
「ちょうどいいですから、水城さんの作文を使って確認しましょう。皆さんも同じ間違いをしないようにしてください」
「先生、それ、読まないでください」
「どうしてですか。きちんと書いていれば、困ることはありません」
佐伯先生は作文を磁石で黒板に貼った。白い紙には赤い丸や線が増えており、千尋が書いた黒い文字よりも赤い文字のほうが目立っていた。先生は赤鉛筆の先で、一つ目の間違いをたたいた。カツンという音がするたび、千尋の指がつりスカートの布を深くつかんだ。
「『日ようび』の『よう』が違います。それから、『お母さんと買い物にいきました』の『い』が抜けています。ここでは、お母さんが魚を焼いたはずなのに、次の行では水城さんが焼いたことになっていますね。いったい誰が焼いたのですか」
「お母さんが焼きました。でも、わたしもお皿を出しました」
「作文には書いてありません。書いていないことを、読む人には分かってもらえません」
後ろの席から、誰かが「魚くらい分かるだろ」と小声で言った。別の子が笑いをこらえ、机の下で上履きをこすり合わせている。千尋は昨日の食卓を思い出した。アジの皮が銀色に光り、大根おろしにはしょうゆが多くかかっていた。母は魚を焼き、千尋は青い皿を三枚出したが、一枚には洗い残した油がついていたので、もう一度水ですすいだ。そのことまで書けば分かってもらえたのかもしれないが、原稿用紙は途中で足りなくなっていた。
「それから、同じことが何度も出てきます。買い物へ行った話の途中で、去年の遠足の話が始まっています。なぜ、ここで遠足が出てくるのですか」
「スーパーに行く道が、遠足で歩いた道と同じだったからです」
「それなら、そう書かなければ分かりません」
「書こうと思いました。でも、その前に犬がいて、犬の首輪が赤かったから、赤い水筒を持っていったときのことを思い出して――」
「今も話がそれています」
教室にまた笑い声が広がった。千尋には、どこからが余計な話なのか分からなかった。赤い首輪を見たから赤い水筒を思い出し、水筒の中に母が入れた麦茶がぬるかったから、昨日飲んだ麦茶のことを書いたのである。千尋の中では全部が一本の道でつながっていたが、ほかの人には途中の道が見えないらしい。
佐伯先生は大きく息を吐き、作文の一番下へ赤い線を引いた。赤鉛筆の芯が途中で折れ、小さな欠片が黒板の受け皿へ落ちた。先生は折れた芯を気にするほうが大切だというように、筆箱から鉛筆削りを取り出した。教室には木を削る乾いた匂いが漂った。
「誤字が多い。話の順番もばらばら。同じことを繰り返して、書く必要のない話まで入っている。これでは、何が言いたいのか分かりません」
「家族で買い物に行って、アジを食べたことを書きました」
「それだけのことが、どうして原稿用紙三枚にもなるのですか」
千尋は答えを探した。スーパーの魚売り場は冷たく、発泡スチロールの箱には砕いた氷が入っていた。父はアジよりサンマがよいと言い、母はサンマは昨日も食べたと言った。千尋は氷の中に埋まった魚が雪の下で眠っているように見え、その魚が目を覚まして海へ帰る話まで書きたくなった。だが、それを説明すれば、また話がそれていると言われる。
「水城さんの作文は、はしにも棒にもかかりません。皆さんは、思いついたことを何でも書くのではなく、読む人に分かるように書きましょう」
先生の言葉が終わると、教室の中が静かになった。千尋は「はしにも棒にもかからない」の意味を知らなかったが、先生の顔と、誰も笑わなくなったことから、よくない意味だと分かった。黒板に貼られた作文は、自分の服を教室中に広げられたように見えた。隣の席の女の子は消しゴムの角をちぎり、机の端に白い粒を並べていた。
やがて、窓から吹いた風がチョークの粉を舞い上げた。白い粉は陽の光を受け、千尋の目の前で細かな雪へ変わった。黒板の緑色は深い森の色になり、教室の壁は高い針葉樹に隠れていく。ごみ箱の陰から、長い毛を持つ白い獣が顔を出した。
獣の鼻は黒く濡れ、息を吐くたびに白い湯気が上がった。その背後には、薄いワンピースを着た少女が立っている。少女の靴には穴が開き、片方の靴下がずり落ちていた。家族に置いていかれた少女は泣かずに、白い獣の背中へ手を置いた。
「迎えに来たの?」
「水城さん」
佐伯先生の声で、森が消えた。白い獣も少女もいなくなり、千尋の目の前には黒板と作文だけが残っている。先生は腕を組み、千尋が返事をするのを待っていた。
「聞いていましたか」
「はい。白い獣が来ました」
「何の話をしているのですか」
教室中が笑った。千尋も一緒に笑えば、変なことを言ったのをごまかせる気がした。しかし頬は動かず、乾いた唇だけが少し開いた。先生は作文を黒板から外し、赤鉛筆と一緒に教卓へ置いた。
四時間目が終わると、給食当番が白い割烹着を着て廊下へ並んだ。その日の献立はコッペパン、クリームシチュー、キャベツのサラダ、牛乳だった。千尋はパンを小さくちぎり、シチューにつけて食べた。冷えかけたシチューの表面には薄い膜が張り、スプーンで触ると端へ寄った。
向かいの席の男の子が牛乳瓶のふたを指ではじいた。
「はしにも棒にもかからないって、どういう意味か知ってる?」
「知らない」
「何をしてもだめって意味だよ。うちのお父さんが言ってた」
「何をしても?」
「何をしても」
千尋はシチューの中のニンジンをスプーンで半分に切った。何をしてもだめなら、作文を書き直してもだめなのだろうか。それでも、白い獣が少女を迎えに来たあとのことが気になった。少女は獣についていくのか、それとも森に残るのか、まだ千尋にも分からなかった。
放課後になると、教室から子どもたちの声が消えた。校庭ではサッカーボールを蹴る音が響き、廊下の水道からは掃除用のバケツへ水を入れる音が聞こえた。千尋は帰る支度をするふりをしながら、佐伯先生が職員室へ行くのを待った。机の中には、給食で残したコッペパンが紙ナプキンに包んである。母に残したことを知られると叱られるので、帰り道で少しずつ食べるつもりだった。
先生がいなくなると、千尋は教卓へ近づいた。赤い丸をつけられた作文は、出席簿の下に置かれていた。千尋は自分の作文を引き抜き、ランドセルから短くなった鉛筆を出した。消しゴムは昨日なくしてしまったので、間違えた文字には横線を引けばよいと決める。
作文の裏には、まだ何も書かれていなかった。千尋は白い獣のそばにいた少女を思い出し、一文字ずつ書き始める。少女は白い獣についていかなかった。誰かに連れていってもらえば、また置いていかれるかもしれないからである。
「わたしは、ここに家をつくる」
千尋は少女の台詞を書き、その下に森の様子を続けた。少女は落ちている枝を集め、雪を手で掘り、家を建てる場所を決める。斧も釘も持っていなかったが、白い獣が太い枝を運んでくれた。少女は枝の曲がった部分を柱に使い、雪が入らないよう隙間へ枯れ葉を詰めた。
「先生に見つかったら、また怒られるよ」
声に驚いて振り返ると、給食の牛乳瓶を運んでいた女の子が後ろの扉に立っていた。消しゴムの角をちぎっていた隣の席の真由だった。割烹着の袖にはシチューの黄色い染みがついている。
「まだ終わってないから」
「作文は終わってたじゃん」
「その裏の話が終わってないの」
真由は教卓まで来て、千尋の肩越しに紙をのぞいた。千尋は手で隠そうとしたが、真由はからかわなかった。窓の外では、洗った雑巾が物干し竿に並び、風に吹かれて端から水を落としていた。
「その白い犬、何を食べるの?」
「犬じゃない。獣だよ」
「獣って、何を食べるの?」
「まだ決めてない」
「給食のパンでいいんじゃない。千尋、残してたでしょ」
千尋は机の中から、紙ナプキンに包んだコッペパンを取り出した。少し潰れ、シチューのついた指で触ったところが黄色くなっている。物語の少女にも、このパンを半分持たせようと思った。少女が半分を食べ、残りを白い獣へ渡せば、次の日まで二人とも森で暮らせる。
「パンを半分こした。これで明日までだいじょうぶ」
「明日になったら、またおなかがすくよ」
「それは明日、考える」
千尋が答えたとき、廊下から佐伯先生の靴音が聞こえた。真由は牛乳瓶の箱を抱え直し、慌てて教室を出ていった。千尋は作文を隠そうとしたが、佐伯先生はすでに扉の前まで来ていた。
「水城さん、まだ帰っていなかったのですか」
「作文の続きを書いていました」
「授業で出した作文は、もう終わっています」
「でも、女の子の家がまだできていません」
佐伯先生は千尋の手から作文を抜き取った。裏側を読み、眉間にしわを寄せる。赤い鉛筆で直すこともなく、紙を真ん中から二つに破った。さらにもう一度重ね、四つに破る。
「こういう落書きをしているから、必要なことができないのです。今やるべきことを考えなさい」
「落書きじゃありません」
「家族の作文に、白い獣も森の家も必要ありません」
「これは、裏のお話です」
「言い訳をしないで帰りなさい」
破られた紙は、ごみ箱の中へ落ちた。朝に削った鉛筆のかす、丸めた計算用紙、黒くなったティッシュの上に、少女の家がばらばらになっている。佐伯先生は教卓の引き出しを閉めると、千尋を残して職員室へ戻った。
教室の時計が四時を告げた。千尋はランドセルを背負ったが、肩ひもがねじれて首に食い込んだ。それを直さないまま、ごみ箱の前へしゃがむ。チョークの粉が膝につき、紺色のスカートに白い跡が残った。
千尋は一枚目を拾い、次に少女の台詞が書かれた紙を探した。鉛筆のかすが指の汗に貼りつき、爪の間が黒くなる。四枚目は濡れた雑巾の下に入り、端が灰色ににじんでいた。それでも、書いた文字はまだ読むことができた。
ランドセルの奥から工作の時間に使ったセロハンテープを取り出した。芯にはわずかな量しか残っていない。千尋は必要な長さを指で測り、歯で切ろうとして唇に貼りつけた。何度か失敗したあと、四枚の紙を机の上へ並べる。
「ここが先で、こっちが次」
線は少しずれ、紙の端も重なった。赤い丸の上を透明なテープが横切り、白い獣の名前の一部が隠れた。それでも、少女は再び森の中へ立っていた。家の柱も、白い獣も、半分にしたコッペパンも戻ってきた。
千尋はつないだ作文を胸に抱えた。窓の外から夕方の風が入り、黒板の受け皿に残ったチョークの粉を舞い上げる。今度の雪はすぐには消えず、机の間をゆっくりと流れていった。
「明日になったら、屋根をつくろうね」
千尋は誰もいない教室で少女へ話しかけた。返事は聞こえなかったが、頭の中では白い獣が太い枝をくわえて歩き始めている。千尋は破れた作文をランドセルの一番奥へしまい、潰れたコッペパンをかじりながら家へ帰った。




