第九話「王女と黒百合」
植物学会は、王都の中央区にある学術会館で開かれた。
貴族と学者が混在する珍しい場だった。爵位を持つ者が植物学の講義を聴きに来ることは、社交としても教養としても成立する。そのため毎年それなりの数の貴族が顔を出す。
ヴィオレットは今年が初めての参加だった。
会館の入口で案内を受け取りながら、室内を確認した。出口二箇所。窓四枚。参加者は四十名ほど。学者が半数、貴族が半数。
フォルタン子爵はすでに来ていた。
前回の茶会より表情が柔らかかった。社交の場ではなく、本当に興味のある場所にいる時の顔だった。それを見て、ヴィオレットは一つ確認した。
この男の植物学への関心は、本物だ。
実用と趣味が混在しているが、趣味の部分は本物だった。
講演が始まった。今年の演題は薬用植物の新しい分類法についてだった。講師は王立学院の植物学者で、年齢の割に話が平易でわかりやすかった。
ヴィオレットは前列から三番目の席に座った。
隣の席が空いていた。
講演が十分ほど進んだところで、その空席に誰かが静かに座った。
気配で気づいていたが、顔を向けるのを少し待った。自然に向ける角度と時間を計算した。
横を見た。
少女がいた。
年齢はヴィオレットより少し下に見えた。金色の髪を簡素に結い上げ、目立たない淡い色のドレスを着ている。宝石の類は何もつけていない。護衛らしい人間も見当たらない。
しかしその顔を見た瞬間に、ヴィオレットはわかった。
王家の顔だった。
第一王子オスカルの面影がある。第二王子レインとは違う種類の似方だが、骨格と目元に王家の血が出ていた。
第一王女、セリア・ヴェルナ。
資料で顔を確認したことがあった。しかし実物を見たのは今日が初めてだった。
少女はヴィオレットに気づいて、少し驚いた顔をした。驚きを隠さなかった。それが計算ではなく素直な反応だということが、一瞬でわかった。
「ノワール公爵令嬢ですか」
「はい。セリア王女殿下でいらっしゃいますね」
「ご存知でしたか」
「はい」
王女が少し困った顔をした。
「護衛もなしに来てしまって、あまり顔を知られたくなかったのですが」
「こっそり来られたのですか」
「はい。侍女には書庫に行くと言いました」
ヴィオレットは前を向いたまま、小声で言った。
「今日の講演に興味がおありで」
「薬用植物の分類は以前から勉強していて。一人で来た方が気楽なので」
「護衛の方は困っておられるのでは」
「戻ったら謝ります」
王女が小さく笑った。
その笑い方が、王族らしくなかった。計算のない、素直な笑い方だった。
王は王女を「価値なし」と《枷》が評価していると、リュカから聞いていた。しかし今目の前にいる少女は、価値がないのではなく、価値を見せることをしていないだけだとわかった。
この少女は賢い。
賢さを隠している。
隠すことを選んでいる。
講演が続いた。二人は並んで講師の話を聞いた。王女は時折小さなノートに何かを書き取っていた。書き方が速く、正確だった。
講演の途中で、講師が薬草の毒性について触れた。
「ベラドンナ属の植物は微量であれば鎮痛効果を持ちますが、用量を誤れば幻覚や錯乱を引き起こします。古来より薬と毒は表裏一体であり」
ヴィオレットは視界の端でフォルタン子爵を確認した。
子爵が前のめりになった。
わずかな動作だったが、ヴィオレットは見た。
隣で王女も同じ部分を書き取っていた。
講演が終わって、質疑応答の時間になった。フォルタン子爵が一番に手を挙げた。ベラドンナの希釈について具体的な質問をした。講師が丁寧に答えた。子爵が満足そうに頷いた。
ヴィオレットは今日の子爵の行動で、一つ仮説が固まった。
しかし今日は接触しない。
前回の茶会で十分に印象を与えた。次は相手から来させる。そのための間を置く。
質疑が終わり、参加者が席を立ち始めた。
王女が立ち上がりながら言った。
「少しお時間をいただいていいですか」
「はい」
二人で人の流れから外れた。窓際の静かな場所に移動した。
王女がヴィオレットを見た。
真っ直ぐな目だった。
父王に似ていると思った。見えすぎる目だった。
「ノワール令嬢は以前から植物学がご趣味と伺っていました」
「ご存知でしたか」
「少し調べました」
「まあ」
「失礼をお許しください。ただ、今日令嬢がここに来た理由が、植物学だけではない気がして」
ヴィオレットは王女を見た。
この少女は、観察している。
茶会でのアメリの感覚とは違う種類の観察だった。アメリは感じ取る。この王女は分析する。
「殿下は鋭くていらっしゃいますね」
「違いましたか」
「植物学への興味は本物ですよ」
「それは信じます。ただ、それだけでもないと思いました」
ヴィオレットは少し考えた。
この王女に対してどう動くか。
今日の出会いは偶然だった。計画していなかった。しかしここで王女を無下にすることも、逆に必要以上に関係を作ることも、どちらも今は得策ではない。
「殿下はなぜ一人でいらっしゃるのですか」
「聞いてもいいですか」
「先に私が聞きました」
王女が少し笑った。今度は先ほどの笑い方と少し違った。この令嬢は話せる、と思った時の笑い方だった。
「王女という立場でいると、周りが全部変わってしまうんです。護衛がいると、話す人間の言葉が変わる。だから時々一人になりたくて」
「護衛の方は大変ですね」
「本当に申し訳ないとは思っています。でもやめられない」
「本音が聞きたいのですか、周りの」
「そうです」
「それは難しい望みですわ」
「わかっています」
王女がヴィオレットを見た。
「令嬢はどうですか。本音が聞けていますか、周りの」
ヴィオレットは少し間を置いた。
「私の場合は逆です。周りの本音は大体わかります。それが必ずしも良いことでもありませんが」
「わかってしまうんですか」
「そのようで」
「羨ましいような、そうでないような」
「そうでない部分の方が多いですよ」
王女がまた笑った。
この笑い方は、先ほどとも違う種類だった。共感した時の笑い方だった。
「令嬢と話せてよかった」
「私もです」
「また話せますか」
ヴィオレットは少し考えた。
この王女との接点は、影廷の仕事とは直接関係がない。しかしリュカが王女を「保護対象」としてマークしていることは聞いていた。《枷》が「価値なし」としながらも「放置すると危険かもしれない」と評価している存在だ。
どちらの評価も正しい可能性がある。
この少女は賢さを隠している。しかし完全には隠せていない。それがいつか、誰かに利用されるか、誰かに排除されるかの理由になり得る。
「学園に来られることはありますか」
「兄たちとは別の家庭教師についているので、学園には通っていません。ただ、学術会館にはまた来ます」
「では次にここで会えるかもしれませんわね」
「令嬢も来られますか」
「植物学への興味は本物ですので」
王女が、今日一番の顔で笑った。
計算のかけらもない、ただ嬉しいという顔だった。
ヴィオレットはその顔を見て、何かを思った。
何かが、とは言えなかった。ただ、この少女と話すことが今日初めて、仕事と全く関係のない何かだったということだけが、わかった。
人波が引いてきた頃、王女が会館の出口を見た。
入口の柱の陰に、明らかに困り果てた顔の騎士が立っていた。護衛らしかった。王女を見つけて、安堵と焦りが混在した表情をしていた。
「見つかりました」
王女が苦笑した。
「お帰りになった方がよいですわ」
「そうします。令嬢、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
王女が騎士の方へ向かいかけて、振り返った。
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「令嬢は、怖くないのですか」
「何がでしょう」
王女が少し目を伏せた。
「この王国が、いつか壊れることが」
ヴィオレットは王女を見た。
この少女は知っている。全部ではないが、何かを知っている。王家の中で最も父王に似た目を持つこの少女が、見えている景色がある。
「壊れる前に直せばよいのです」
王女が顔を上げた。
「直せると思いますか」
「思います」
「根拠はありますか」
「今のところはまだ、ありません」
王女が、ゆっくりと笑った。
先ほどまでとは違う笑い方だった。嬉しいのでも、共感したのでもなく、何か深いところで安堵したような笑い方だった。
「今のところは、という言い方が好きです」
「そうですか」
「希望があるということですから」
ヴィオレットは何も言わなかった。
王女が護衛の騎士の方へ歩いていった。騎士が深く頭を下げながら何か言っている。王女が申し訳なさそうに答えている。
その背中を見ながら、ヴィオレットは思った。
今のところは、という言葉を、自分はリュカにも使った。根拠はまだないが、希望があるという意味で使った。
王女はそれを正確に読んだ。
この少女は、本当に賢い。
賢さを隠しているが、隠しきれていない。そしてその賢さが、この王国では彼女を守ることにならない可能性がある。
リュカが保護対象としてマークしていることは、正しい判断だとヴィオレットは思った。
会館を出た。
秋の風が顔に当たった。
今日は収穫が二つあった。
フォルタン子爵に関する仮説の確認と、第一王女との初接触。
どちらが今日の本来の目的だったかは、もはやわからなくなっていた。
馬車を待ちながら、ヴィオレットは今日最後に王女が言った言葉を思い返した。
希望があるということですから。
前世では、希望という言葉を使う必要がなかった。
今世では、使っていた。
気づいていなかったが、使っていた。
それがどういう変化かを考えかけて、やめた。
馬車が来た。
カインが御者台から一度こちらを見た。無言の確認だった。
ヴィオレットは小さく頷いた。
問題なし、という意味だった。
馬車に乗り込みながら、ヴィオレットは思った。
次に学術会館に来る時も、王女がいるかもしれない。
その時また話せると、いいかもしれない。
そう思ったことが、今日一番、仕事と関係のない何かだった。




