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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第十話「《枷》の視線」

植物学会から四日後、ノワール公爵家に客が来た。


午前の中頃だった。ヴィオレットが自室で植物学の文献を読んでいた時、カインが扉をノックした。


「お嬢様、来客です」


「誰ですか」


「ドレヴァン侯爵家の使者と名乗っています。エドワール様へのご用件とのことですが、令嬢のご同席を希望されているようです」


ヴィオレットは文献を閉じた。


令嬢の同席を希望する来客。


ドレヴァン家。


先日の晩餐会でベルナールが言っていた。ノワール公爵と話がしたい、と。その続きだろう。


「父は」


「応接間でお待ちです。令嬢にも来てほしいと」


父が呼んでいる。父が同席を認めた、ということだ。


「すぐ参ります」


手袋を整えて、部屋を出た。


廊下を歩きながら、来客の目的を考えた。ドレヴァン家が公爵家に使者を送ることは珍しい。晩餐会でベルナールが接触を試みた。その次の手が、使者だ。


正面から来た。


リュカが名刺で来たことを思い出した。正面から来ることが最も安全な接触方法だ、という判断は、腐敗貴族にとっても変わらない。


ただし意図は真逆だ。


応接間の扉を開けた。


父が上座に座っていた。その向かいに、三十代半ばの男が座っていた。ドレヴァン家の紋章が入ったバッジを胸につけている。背筋が良く、愛想のいい笑顔を作っていた。


「ヴィオレットが参りました」


父が頷いた。


「こちらはドレヴァン侯爵家のグレン様。侯爵の秘書官をされているそうだ」


「はじめまして、ヴィオレット・ド・ノワールです」


「これはご丁寧に。グレン・サルバと申します。先日の晩餐会でもお見かけしましたが、ご挨拶できず残念でした」


晩餐会にいたか、とヴィオレットは考えた。


顔を確認した記憶がある。給仕の列の近くにいた男だった。ベルナールの側近だと思っていたが、秘書官だったか。


ミアが茶を運んできた。


グレンが礼を述べて、茶杯を受け取った。受け取り方を確認した。作法が正確だった。それなりの教育を受けている。


「本日はどのようなご用件で」


父が静かに聞いた。穏やかな声だったが、その穏やかさの中に芯があった。エドワール公爵が応接間で来客に使う声だった。


「はい。先日の晩餐会でベルナール様がノワール公爵令嬢とお話しする機会がございまして、その際に令嬢が大変聡明でいらっしゃるという印象を受けたとのことで。ぜひ今後もお付き合いを深めさせていただければと」


「お付き合い、ですか」


「はい。具体的には、来月ドレヴァン家が主催する文化事業に令嬢をご招待させていただければと思いまして。王都の若い貴族の方々が芸術と学術について語らう場で、令嬢のご参加があれば会が一層豊かになるかと」


父が少し間を置いた。


「文化事業」


「はい。堅苦しいものではございません。音楽の演奏と、学術の講演が中心で、晩餐会よりずっと気楽な集まりです」


「ヴィオレットを名指しでお招きということですか」


「さようです。令嬢の植物学へのご造詣が深いとうかがっておりましたので、講演の演者として短いお話をいただけないかとも思っておりまして」


ヴィオレットは微笑んだ。


完璧な令嬢の微笑みで。


講演の演者。


なるほど、と思った。


晩餐会で令嬢を会場に引き込んだ。今度は演者として引き込もうとしている。演者という立場は客よりも立場が弱い。主催であるドレヴァン家の庇護下に入る形になる。


丁寧に段階を踏んでいた。


「ヴィオレットに聞いてもいいか」


父が娘を見た。


「はい、お父様」


父が目で聞いた。お前はどう思うか、という目だった。


ヴィオレットは父を見て、それからグレンを見た。


グレンが微笑んでいた。令嬢の返答を待っている笑顔だった。しかしその笑顔の奥に、小さな計算があった。令嬢が前向きな反応を示せば、公爵も強く断りにくくなる。令嬢を経由して公爵を動かす。そういう設計だった。


「ありがたいお話ですわ」


グレンが少し表情を明るくした。


「ただ」


ヴィオレットが続けた。


「植物学については私はまだ学ぶ立場ですので、講演の演者はとても務まりません。学者の先生方の前でお話しするには、まだ研鑽が足りませんわ」


「いえ、そんなことは」


「それと」


ヴィオレットが穏やかに遮った。


遮ったことを感じさせない速度と声量で、しかし確実に遮った。


「私はどのような催しでも、父の許可なく参加の返答はいたしません。ですからグレン様のご用件は、私ではなくお父様へのものになります」


グレンが一瞬、止まった。


令嬢を経由して公爵を動かす設計が、令嬢本人によって否定された。


グレンが立て直した笑顔で父を見た。


「エドワール公爵、いかがでしょうか」


「ヴィオレットが言った通りです。返答は私がいたします」


「はい」


「お断りします」


グレンが表情を保ったまま、少し固まった。


「理由をお聞かせいただいても」


「理由は申し上げる必要がないと思っております。お断りする理由を説明することは、受ける可能性があることを示唆します。我が家にその可能性はありませんので、理由も必要がない」


父の声は穏やかだった。


怒っていない。軽蔑もしていない。ただ、岩のように動かない。


グレンが笑顔を保ちながら、次の言葉を探していた。ヴィオレットにはその思考の動きが見えた。角を立てずに再度打診する言葉を選んでいる。


「公爵家はどのお誘いもお断りになるとうかがっておりまして、今回もそういったご事情でしょうか。決してご無理にとは申しませんが、若い令嬢のご交流という意味でも」


「ヴィオレットの交友関係については、本人が判断します。我々が口を出すことはありません」


「では令嬢のご意向は」


「先ほど申し上げました。父の許可なく返答はしないと」


グレンがヴィオレットを見た。


ヴィオレットは微笑んでいた。完璧な令嬢の微笑みで。何も言わなかった。


グレンが小さく息を吸った。


「わかりました。本日はお時間をいただきありがとうございました。またの機会にぜひ」


「ご遠慮なく」


父が言った。


遠慮なく来ていい、という意味ではなかった。お世辞の返し方としての言葉だった。グレンはそれをわかった上で頭を下げた。


ミアが玄関まで案内した。


馬車が出ていく音がした。


応接間に父と二人になった。


父がコーヒーを飲んだ。


「どう見た」


「秘書官というよりは、交渉役として訓練された人間です。笑顔の作り方と、断られた後の立て直し方が、秘書官のものではありませんでした」


「私もそう思った」


「令嬢を経由して父を動かす設計でしたが、令嬢が乗らなかった場合の代案も持っていました。ただ代案の方が薄かった。今日の主な狙いは令嵜の方でしたね」


「そうなるな」


父がコーヒーを置いた。


「ヴィオレット」


「はい」


「ドレヴァン家が令嬢単独を狙ってくる可能性がある。今後の招待は全て私を通せ。お前が一人で対応する必要はない」


「はい」


「一人で対応できないわけではないのはわかっている。ただ」


父が少し間を置いた。


「家の問題は家で対処する。お前一人に背負わせる必要はない」


ヴィオレットは父を見た。


この言葉の重さを、今日の父がわかって言っているかどうか。わかっているとしたら、どこまでわかっているか。


「ありがとうございます、お父様」


「それだけか」


「はい」


父が少し目を細めた。


「砂糖は何個だ、最近」


「二つです」


「そうか」


それだけだった。


父がまた新聞を取り出した。応接間での父は、書斎と少し違う。書斎の方が柔らかい。応接間ではまだ当主の顔が残っている。


ヴィオレットは立ち上がった。


「お父様、一つだけ」


「うん」


「グレン様が帰り際に馬車の番号を確認しました。我が家の馬車の台数を数えていました」


父が新聞から顔を上げた。


「そうか」


「ドレヴァン家の屋敷への道が二つあります。グレン様が帰る際にどちらを選ぶかを、カインに確認させます。寄り道するかもしれません」


「どこへ」


「わかりません。ただ、確認する価値はあると思いまして」


父は娘を見た。


長い時間ではなかった。しかしいつもより少し長く見た。


「わかった」


「失礼します」


部屋を出た。


廊下でカインが待っていた。


「聞いていましたか」


「玄関の外まで送った後、戻りました」


「グレン様の馬車を追えますか。目立たず」


「できます」


「寄り道するかもしれません。どこへ向かうかだけ確認して、追うのはそこまでにしなさい。深入りは不要」


「わかりました」


カインが玄関の方へ向かった。


ヴィオレットは廊下に一人残った。


今日の来客で確認できたことがいくつかある。


ドレヴァン家が公爵令嬢を直接取り込もうとし始めた。晩餐会での接触が最初の手で、今日の使者が二手目だ。三手目は令嬢の単独を狙ってくる可能性が高い。


リュカへの報告に加える必要がある。


それとは別に、もう一つ確認できたことがあった。


父が今日、ヴィオレットに情報を求めた。どう見たか、と聞いた。


これは初めてのことではない。しかし今日の聞き方は、以前と少し違った。娘の観察を、参考として聞いていた。


父はどこまで知っているのか。


それを確かめる方法は、今のヴィオレットには一つしかない。


父が先に話してくれるまで待つことだ。


書斎での紅茶の時間に、父は問いかけてくる。ヴィオレットが幸せかどうかを聞いてきた。腹が立ったかどうかを聞いてきた。


次に何を聞いてくるかは、わからない。


しかし、来るとわかっている。


ヴィオレットは自室への廊下を歩いた。


窓の外、秋の庭が風に揺れていた。


来月、ドレヴァン家の文化事業がある。断った。しかし向こうは引かない。三手目が来る。その時の対応を考えながら、同時に別のことを考えた。


王女セリアが言っていた。この王国が壊れることが怖くないか、と。


壊れる前に直せばいいと答えた。


直す、とはどういうことか。


《黄金の枷》の根を断つことだけではない。断った後に何が残るか。断った後の王国がどういう形になるか。


フォルタン子爵一人を処理することは、外縁の一点を消すだけだ。給仕の紙片の件も、枝の一本を折るだけだ。


根はまだある。


土壌はまだ腐っている。


ヴィオレットは自室の扉を開けた。


机の上に、植物学の文献が開いたまま置いてある。


読みかけだった頁を見た。


薬草の再生力についての章だった。根を断たれても、条件が揃えば再生する植物の話が書いてあった。


再生させないためには、根だけではなく土壌を変えなければならない。


それをリュカに言った。土壌ごと入れ替えると。


その言葉を、今改めて思った。


土壌を変えるためには、今自分がやっていることより、もっと深いところまで手を入れる必要がある。


それがいつになるか。


どういう形でそこに至るか。


まだわからない。


ただ、今日来客があったこと。父が同席を求めたこと。家の問題は家で対処すると言ったこと。


それらが、何かの始まりのような気がした。


理由を言葉にすることはできなかった。


ただ、そう感じた。


窓の外で風が鳴った。


秋が、深くなっていた。

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