第十一話「影廷の裏切り者」
カインが戻ってきたのは、夕刻だった。
ヴィオレットは書斎で文献を読んでいた。カインが扉をノックして入ってきた時、その顔が普段と少し違った。情報を持って来る時の顔だった。
「グレン様の馬車は、ドレヴァン家の屋敷には向かいませんでした」
「どこへ」
「王都の北区です。古い商館が並ぶ通りに入って、その中の一軒に立ち寄りました。十分ほどで出てきて、それからドレヴァン家の屋敷へ戻りました」
「商館の名前は」
「看板はありましたが、社名だけで扱う商品の記載がありませんでした。ルーベン商会という名前です」
ヴィオレットは手帳を取り出した。
ルーベン商会。
書き留めた。
フォルタン子爵の件と繋がるかどうかは、まだわからない。しかし北区の商館に立ち寄ることを使者が使者として来た日に行う理由が、普通の取引ではない可能性がある。
「よくやりました」
「深入りは一軒確認したところで止めました」
「正解です」
カインが下がった。
その夜、ヴィオレットはリュカへの連絡を出した。
翌日の夜、茶館で会った。
ヴィオレットがグレンの件とルーベン商会の名前を伝えると、リュカが少し間を置いた。
「ルーベン商会は知っています」
「影廷が把握していましたか」
「はい。ただ、ドレヴァン家との繋がりは把握していませんでした」
「どういう商会ですか」
「表向きは輸入品の卸売です。香料や薬草を扱っています。ただ」
リュカが少し止まった。
「その商会に出入りする人間の中に、影廷の工作員がいます」
ヴィオレットは茶杯を置いた。
「現役の工作員ですか」
「はい」
「その工作員の担当業務は」
「フォルタン子爵の内偵です。半年間担当していた」
沈黙があった。
暖炉の音だけがした。
「つまり」
ヴィオレットが言った。
「フォルタン子爵の内偵担当が、ドレヴァン家と繋がっている商会に出入りしている」
「そうなります」
「それを今まで把握していなかった」
「していませんでした」
リュカの声が、今夜は少し違った。普段の計算された静けさとは違う、何か削られたような響きがあった。
「その工作員の名前を教えていただけますか」
「なぜですか」
「確認したいことがあります」
リュカが少し考えた。
「セダン。コードネームです。本名は教えられません」
「構いません」
ヴィオレットは手帳に書いた。セダン。
「フォルタン子爵の件で、その工作員が提出した報告書はありますか」
「あります」
「内容を確認させてもらえますか」
「全部は難しいですが、概要は話せます」
「お願いします」
リュカが半年分の報告書の内容を話した。ヴィオレットは黙って聞いた。
聞きながら、いくつかの点を確認した。
フォルタン子爵がどの晩餐会に出席したか。どの人物と接触したか。どの時間に何をしたか。
リュカが話し終えた後、ヴィオレットが言った。
「一つ、報告書に含まれていないことがあります」
「何ですか」
「先日の茶会で、フォルタン子爵が給仕と紙片を交わしました。私が以前お伝えした件です」
「はい」
「その件について、セダンの報告書には記載がありますか」
リュカが少し止まった。
「確認します」
翌日、リュカから連絡が来た。
茶館ではなく、今度は手紙だった。暗号で書かれていた。解読した。
記載はなかった。
それだけが書かれていた。
ヴィオレットは手紙を燃やした。
茶会でのあの場面を、セダンが報告書に書いていない。
理由は二つ考えられる。
見ていなかったか、意図的に書かなかったか。
あの場面は目立たなかった。ヴィオレット以外に気づいた人間はいないと判断した。では訓練された工作員が見逃した可能性はあるか。
ある。あの動作は本当に自然だった。
しかし。
ルーベン商会との繋がりが同時に出てきた。
偶然の一致と取るか、そうでないと取るか。
ヴィオレットは自分の判断を確認した。
偶然の一致ではない、と思った。
その夜、もう一度リュカへ連絡した。
翌日の夜、茶館で会った。
「セダンについて、独自に調べます」
ヴィオレットが言った。
「影廷で対処します」
「影廷の内部の問題を、影廷で対処する場合の問題がわかりますか」
リュカが黙った。
「調査をすれば気づかれる可能性があります。気づかれれば、繋がっている全ての情報が《枷》に流れる。今まで流れた情報も含めて、全部整理される」
「わかっています」
「では」
「ただ、外部の人間に影廷の内部工作員の調査を頼むことは」
「規則として難しい」
「はい」
ヴィオレットは茶を飲んだ。
「一つ提案があります」
「聞きます」
「私はセダンを調査しません。ただ、フォルタン子爵の件を進める中で、副次的にセダンに関する情報が出てくる可能性があります。その場合、その情報を貴方に渡します」
「副次的に、ということは」
「私の主な目的はフォルタン子爵の外縁の地図を作ることです。その過程でセダンが何をしているかが見えてくることがあるかもしれない。それだけです」
リュカが少し考えた。
「了解しました」
「ただし条件があります」
「何ですか」
「私が情報を渡した後の対処は、貴方が単独で行ってください。影廷の組織的な動きは使わないでほしい」
「それは」
「組織を動かせばセダンが気づきます。今の段階では、気づかせない方がいい」
リュカが頷いた。
「わかりました」
二人で少し黙った。
暖炉の火が揺れていた。外の風が窓を鳴らした。
「一つ聞いていいですか」
リュカが言った。
「どうぞ」
「セダンが内通者だと、いつ確信しましたか」
「確信はまだしていません」
「しかし動いている」
「可能性が高いと判断しています。確信は証拠が揃ってからです」
「その判断の根拠を教えていただけますか」
ヴィオレットは少し考えた。
「ルーベン商会は香料と薬草を扱っている。フォルタン子爵はベラドンナの希釈に強い関心を持っている。ドレヴァン家の晩餐会でベラドンナが使われていた。これらの点が一本の線に見えます」
「見えます、というのは」
「まだ線ではありません。ただ、点の位置が近すぎる。そしてセダンがその商会に出入りし、かつ茶会の紙片を報告書に記載していない」
「状況証拠だけですね」
「はい。だから動きます。状況証拠を実証拠に変えるために」
リュカが静かに言った。
「貴女と組むのは、正解だったと思います」
「結果が出てから言ってください」
「そうします」
ヴィオレットは席を立った。
「植物学会でフォルタン子爵に接触します。そこから次の手を考えます」
「了解しました」
「一つだけ」
「はい」
「セダンに、フォルタン子爵の担当から外れてもらえますか。自然な形で」
リュカが少し考えた。
「他の案件に回すことはできます。理由をつければ不自然ではない」
「お願いします。セダンがいない状態でフォルタン子爵の周辺を動きたい」
「わかりました」
扉に向かった。
外の空気が冷たかった。
夜の路地を歩きながら、ヴィオレットは今夜の会話を整理した。
セダンが内通者かどうかは、まだわからない。しかし動く前提で動くことを選んだ。前世での経験から、可能性が高い時に慎重すぎることが最も危険だと知っていた。
慎重すぎた結果、機会を失った場面をいくつか知っている。
ただ今世では、前世と違う点がある。
失敗が自分だけに返ってこない。
カインとミアがいる。父と母がいる。王女がいる。アメリがいる。リュカがいる。
自分の判断が、他の人間に影響を与える。
それが重いとは思わなかった。
ただ、重さの種類が前世と違った。
前世の重さは、失敗すれば死ぬという重さだった。
今世の重さは、失敗すれば誰かに影響が出るという重さだった。
どちらが重いかは、まだわからなかった。
しかし今世の重さの方が、慎重にさせる力が強い気がした。
公爵家が見えてきた。
母の部屋の明かりが、今夜もついていた。
ヴィオレットは足を止めて、少し見た。
明日の朝食で何か話そうと思い続けて、何日経ったか。
思い続けているのに、まだ話せていない。
話したいことが何かを、まだうまく言葉にできていないからだ。
ただ、話したいという気持ちは、日ごとに少しずつ大きくなっている気がした。
それが何を意味するかは、今夜も答えが出なかった。
門をくぐって、屋敷に入った。
玄関でカインが待っていた。
何も聞かなかった。
ただ、外套を受け取った。
「ミアは」
「部屋にいます」
「明日の朝、三人で話す時間を取りなさい。先日話した件の続きを」
「わかりました」
「それと」
「はい」
「ルーベン商会を調べてほしい。表の情報だけで構いません。何を扱っているか、いつから営業しているか、主な取引先がわかれば」
「どのように調べますか」
「商会周辺の市場で聞いてみてください。商人の間では評判が出回っているはずです。深入りはしないように」
「わかりました」
カインが頷いて、下がった。
ヴィオレットは自室への階段を上がりながら、手帳を思い浮かべた。
今夜書き加えることがいくつかある。
セダンのこと。ルーベン商会のこと。リュカへの依頼のこと。
全部書いてから眠る。
階段の途中で、廊下の向こうに明かりが見えた。
母の部屋の扉が少し開いていた。
中から、本のページをめくる音がした。
ヴィオレットは足を止めた。
ノックしようとした。
手を上げた。
それから、下げた。
今夜は遅い。母を起こすべきではない。
階段を上がり続けた。
自室の扉を開けながら、思った。
明日の朝食で、と。
今度こそ。




