第十二話「王との邂逅」
呼び出しは、突然来た。
朝の登校前、カインが王家の紋章入りの封書を持ってきた。開封すると、簡潔な文面だった。
本日午後、王城にて謁見の機会を設ける。ノワール公爵令嬢の出席を望む。
署名は王家の礼典官だった。しかし封蝋の脇に、小さな手書きの文字があった。
非公式にて。
ヴィオレットは封書を二度読んだ。
父に見せた。
父は封書を持ったまま、しばらく黙った。その沈黙は考えているのではなく、確認している沈黙だった。
「非公式というのが引っかかる」
「私もです」
「令嬢単独の謁見を、非公式で求めてきた」
「はい」
「断る理由がない」
「ありません」
父が封書をテーブルに置いた。
「行ってきなさい」
「はい」
「ただし」
父がヴィオレットを見た。
「何かあれば帰ってくること」
「わかりました」
その一言に、父が込めたものを、ヴィオレットは受け取った。何かあれば、の意味は広かった。危険があれば、ではなく、何かあれば、だった。
学園を欠席して、午後に王城へ向かった。
ミアが馬車の中で終始落ち着かない様子だった。
「お嬢様、王城への謁見というのは」
「普通ではありませんね」
「なぜ突然」
「わかりません」
「危なくないですか」
「王城の中で令嬢を危険な目に合わせれば、王家の問題になります。それをするほど愚かな相手ではないと思います」
「王様が愚かではないということですか」
「王城にいる全ての人間が、という意味です」
ミアが少し考えた。
「それでも心配です」
「わかっています」
馬車が王城の正面に近づいた。白い石造りの門が、午後の光の中にあった。近衛騎士が二名、門の両脇に立っている。
門をくぐった。
案内の礼典官が待っていた。年配の男で、表情を作らない種類の顔をしていた。長年王城に仕えてきた人間の顔だった。
「ノワール公爵令嬢をお待ちしておりました。こちらへどうぞ」
ミアは入口で待機するよう言われた。ミアが一瞬だけヴィオレットを見た。ヴィオレットは小さく頷いた。
礼典官の後について廊下を歩いた。
王城の廊下は長く、天井が高かった。両側に絵画と彫刻が並んでいる。歴代の王の肖像が順番に並んでいる廊下を通った時、ヴィオレットは足を止めずに全員の顔を確認した。
現王アルベルト三世の肖像は、廊下の最も奥にあった。
絵の中の王が、少し疲れた目をしていた。
画家がそこまで描いたのか、それとも描かずにはいられなかったのかは、わからなかった。
案内された部屋は、謁見室ではなかった。
広い部屋だったが、謁見室の荘厳さとは違う種類の広さだった。書棚が壁を埋め、中央に大きな机が置かれている。窓が二枚、庭に向かって開いていた。
王の執務室に近い部屋だった。
礼典官が一礼して下がった。
部屋に一人になった。
ヴィオレットは部屋を確認した。出口一箇所。窓二枚。書棚の配置。机の上の書類。暖炉の位置。
全部で四秒だった。
それから、待った。
十分ほどして、扉が開いた。
アルベルト三世が入ってきた。
護衛も侍従も連れていなかった。
王は五十代半ばだった。金色の髪に白が混じり、体格は細身だった。肖像画より少し老けて見えた。しかし肖像画より、目が生きていた。
ヴィオレットは礼をした。
「お目にかかれて光栄です、陛下」
「楽にしてください」
王が言った。声は穏やかだった。しかし力がないのではなく、力を使わないことを選んでいる声だった。
「座ってください」
机を挟んで向かい合う形で座った。
王が静かにヴィオレットを見た。
その目を、ヴィオレットは見た。
肖像画の疲れた目とは違う。今目の前にいる王の目は、疲れていたが同時に、何かを測っていた。人を測ることに慣れた目だった。長年、誰が敵で誰が味方かを見分け続けてきた人間の目だった。
「突然の呼び出しで驚かれたでしょう」
「いいえ」
「驚かなかったのですか」
「少し驚きましたが、伺う理由がないわけではありませんでしたので」
王が少し目を細めた。
「聡明な答えです」
「恐縮です」
「ノワール公爵令嬢とは一度話してみたかった。理由はいくつかあります」
「お聞かせいただけますか」
「一つは、公爵家のことです。エドワール公爵には長年、余が直接感謝を伝えられずにいた」
「父が何かいたしましたか」
「何もしなかった、ということが、この王国では大変難しいことなのです」
ヴィオレットは少し考えてから、答えた。
「父は家訓に従っているだけかと存じます」
「その家訓を、三百年守り続けてきた家がどれだけあるか」
王が窓の外を見た。庭に、枯れ始めた木々が見えた。
「余は王として多くのことができない。それを知っています。知っていながら、できない。その中で、ノワール公爵家だけは余が何もしなくても清廉でいてくれた。それがどれだけ、余の支えになってきたか」
ヴィオレットは王を見た。
この王は本音を話している、とわかった。計算がないわけではない。しかしその奥に、本音がある。
「父に伝えます」
「お願いします」
王が視線を窓から戻した。ヴィオレットを見た。
「二つ目の理由は、令嬢自身のことです」
「私のことですか」
「社交界での評判はよく耳に入ってきます。黒百合令嬢、と呼ばれているそうですね」
「恥ずかしながら」
「恥ずかしいことではない」
王が少し笑った。疲れた顔の中に、笑いが混じると、少しだけ別の顔が出た。
「令嬢が学園に通っていることは知っています。レイン王子と同学年だそうですね」
「はい」
「レインとは、どんな印象ですか」
ヴィオレットは少し間を置いた。
この質問は、探りだ。父親として聞いているのか、王として聞いているのか。おそらく両方だった。
「聡明な方です。状況を素早く読まれます」
「それだけですか」
「本心と計算の境界が見えにくい方です。それが強さでもあります」
王が静かに頷いた。
「正直な答えですね」
「失礼があれば申し訳ありません」
「いいえ、正直な答えが欲しかった。余の周りには、正直に話す人間が少ない」
その言葉に、重さがあった。
王が長年、何を聞かされ続けてきたかが、その一言に含まれていた。
「オスカルとは」
「誠実な方です。善意が本物です。ただ」
「ただ」
「善意が本物であることを、利用する人間がいます」
王の目が、一瞬動いた。
「知っていますか、令嬢は」
「社交の場で、少し感じることがありました」
「そうですか」
王が机の上に手を置いた。何も持っていない手だった。王として何かを持つ手ではなく、ただそこに置かれた手だった。
「余には、限られたことしかできません。それを令嬢に話すことも、本来は王として適切ではないかもしれない」
「それでも話してくださっているのはなぜですか」
王が少し考えた。
「ノワール公爵家を信頼しているからです。そしてもう一つ」
「はい」
「令嬢の目が、余と似た目をしているからです」
ヴィオレットは止まった。
表情は動かなかった。しかし内側で、何かが止まった。
「どういう意味でしょうか」
「見えすぎる目です。見えてしまうから、見えていないふりをしなければならない時がある。そういう目です」
王が穏やかに、しかし真っ直ぐに言った。
ヴィオレットは何も答えなかった。
答えが出なかった。
この王は、自分の目を見えすぎると言った。その言葉が何を意味するかを、ヴィオレットは理解した。
しかしそれを認めることが、今この場で正しいかどうかを、計算する前に何かが先に動いた。
「陛下は、どうやって見えていないふりをされているのですか」
自分で言ってから、少し驚いた。
計算した言葉ではなかった。
聞きたかったから、聞いた。
王が、今夜最も深い笑い方をした。
笑いの中に、疲れと、それでも何かが残っている複雑なものが混じっていた。
「うまくできていないかもしれません。しかし一つだけ、続けてきたことがあります」
「何ですか」
「見えてしまうことを、恥じないことです。見えることは、罰ではない。そう思い続けることです」
ヴィオレットは王を見た。
この王が、この言葉を自分に向けて言っているかどうかは、わからなかった。
しかし受け取った。
「ありがとうございます」
「何のお礼ですか」
「わかりません」
王が少し笑った。
「正直ですね」
「陛下も正直でいらっしゃいます」
「そうでしょうか。正直でいられる相手が、少ないだけかもしれません」
二人で少し黙った。
窓の外の庭で、風が木の葉を落とした。枯れ葉が一枚、空中をゆっくりと落ちていった。
「一つ、お願いがあります」
王が言った。
「はい」
「エドワール公爵に、余から直接連絡することは、様々な事情で難しい。しかし令嬢が父君に言葉を伝えることは自然なことです」
「伝言ですか」
「一言だけ。余はまだ諦めていない、と」
ヴィオレットは王を見た。
その言葉の意味を、受け取った。
諦めていない、とは何を諦めていないのか。
王国のことだ。
包囲された王が、まだ諦めていない。
「伝えます」
「ありがとうございます」
王が立ち上がった。謁見の終わりだった。
ヴィオレットも立ち上がり、礼をした。
「ノワール公爵令嬢」
「はい」
「父君によろしく」
「はい」
扉に向かった。
扉を開ける直前に、ヴィオレットは振り返った。
普段はしないことだった。
なぜしたか、自分でもわからなかった。
王が机の前に立っていた。ヴィオレットが振り返ったことに、少し驚いた顔をした。しかしすぐに、静かな顔に戻った。
「陛下」
「はい」
「諦めていない方が、他にもいらっしゃいます」
王は何も言わなかった。
ただ、その目が少し動いた。
ヴィオレットは礼をして、扉を出た。
廊下に出て、扉が閉まった。
礼典官が待っていた。
来た廊下を戻りながら、ヴィオレットは先ほどの自分の言葉を思い返した。
諦めていない方が他にもいらっしゃいます。
計算した言葉ではなかった。
言うつもりがなかった言葉だった。
影廷のことを示唆した。リュカのことを。自分のことも、含まれているかもしれなかった。
王がどう受け取ったかは、わからない。
ただ、言わずにはいられなかった。
それが何故かは、今もまだわからなかった。
歴代の王の肖像画の廊下を戻った。
アルベルト三世の肖像画の前を通る時に、もう一度見た。
絵の中の王の目が、先ほど部屋で見た目と重なった。
疲れた目と、諦めていない目が、同じ顔の中にある。
そういう目をしている人間を、ヴィオレットは他に知っているか、と思った。
考えて、やめた。
入口でミアが待っていた。
ヴィオレットを見て、表情が緩んだ。
「お怪我はありませんでしたか」
「当然です」
「でも心配で」
「馬車に戻りましょう」
歩きながら、ミアが小声で聞いた。
「どんな方でしたか、王様は」
ヴィオレットは少し考えた。
「疲れていました」
「そうですか」
「でも、まだ疲れ切っていませんでした」
ミアがそれを聞いて、何かを感じた顔をした。言葉にはしなかった。
馬車に乗った。
カインが御者台から確認の視線を送ってきた。
ヴィオレットは頷いた。
問題なし。
馬車が動き出した。
王都の午後が、窓の外を流れた。
ヴィオレットは目を閉じた。
父に伝える言葉を、頭の中で整理した。
余はまだ諦めていない。
その言葉を父が聞いた時、どんな顔をするか。
わからなかった。
しかし父が何かを言うとしたら、何と言うか。
考えながら、別のことも考えた。
今日の謁見は、影廷との仕事とは直接関係がない。リュカは知らない。報告する必要があるかどうか。
ある、と思った。
王が動こうとしている可能性がある。まだ諦めていないという言葉は、行動の意思を含んでいるかもしれない。それはリュカが知るべき情報だった。
ただ、その前に父に話す。
父への伝言が先だった。
馬車が公爵家の門に差し掛かった。
秋の夕暮れが、門の向こうに広がっていた。
屋敷に入ると、父がいつもより早く書斎から出てきた。馬車の音を聞いて出てきたのだろう。
父がヴィオレットを見た。
無事だったか、と目が言っていた。
「お父様、少しよろしいですか」
「書斎へ」
二人で書斎に入った。
父が扉を閉めた。茶の用意をしようとした。
「そのままで構いません」
父が振り返った。
「伝言があります」
「誰からの」
「陛下から」
父の表情が、わずかに変わった。
「余はまだ諦めていない、と」
部屋が静かになった。
暖炉の音だけがした。
父は長い間、黙っていた。
ヴィオレットはその沈黙を待った。
やがて父が、椅子に座った。いつもの椅子だった。書斎で紅茶を飲む時の椅子だった。
しかし今夜は茶を用意しなかった。
ただ座って、暖炉を見た。
「そうか」
それだけだった。
ヴィオレットも椅子に座った。
二人で暖炉を見た。
しばらくして、父が言った。
「砂糖は」
「今夜は自分で入れます」
「そうか」
父が立ち上がり、茶の用意を始めた。
ヴィオレットは暖炉を見続けた。
父が一言だけ言った伝言への反応の意味を、考えた。
そうか、だけだった。
しかしその二文字の中に、何かがあった。
安堵とも、覚悟とも、悲しみとも取れる何かが、その二文字の中にあった。
茶が用意された。
砂糖入れが差し出された。
ヴィオレットは砂糖を二つ取った。
少し考えて、三つ目を取った。
父は見ていなかった。
三つの砂糖が、紅茶の中に溶けていった。
窓の外で、夜が来ていた。
深く、静かに。
しかし今夜の暗さは、いつもと少し違う気がした。
暗い中に、何かがある夜だった。




