表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒百合の仮面  作者: 翡翠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/32

第十二話「王との邂逅」

呼び出しは、突然来た。


朝の登校前、カインが王家の紋章入りの封書を持ってきた。開封すると、簡潔な文面だった。


本日午後、王城にて謁見の機会を設ける。ノワール公爵令嬢の出席を望む。


署名は王家の礼典官だった。しかし封蝋の脇に、小さな手書きの文字があった。


非公式にて。


ヴィオレットは封書を二度読んだ。


父に見せた。


父は封書を持ったまま、しばらく黙った。その沈黙は考えているのではなく、確認している沈黙だった。


「非公式というのが引っかかる」


「私もです」


「令嬢単独の謁見を、非公式で求めてきた」


「はい」


「断る理由がない」


「ありません」


父が封書をテーブルに置いた。


「行ってきなさい」


「はい」


「ただし」


父がヴィオレットを見た。


「何かあれば帰ってくること」


「わかりました」


その一言に、父が込めたものを、ヴィオレットは受け取った。何かあれば、の意味は広かった。危険があれば、ではなく、何かあれば、だった。


学園を欠席して、午後に王城へ向かった。


ミアが馬車の中で終始落ち着かない様子だった。


「お嬢様、王城への謁見というのは」


「普通ではありませんね」


「なぜ突然」


「わかりません」


「危なくないですか」


「王城の中で令嬢を危険な目に合わせれば、王家の問題になります。それをするほど愚かな相手ではないと思います」


「王様が愚かではないということですか」


「王城にいる全ての人間が、という意味です」


ミアが少し考えた。


「それでも心配です」


「わかっています」


馬車が王城の正面に近づいた。白い石造りの門が、午後の光の中にあった。近衛騎士が二名、門の両脇に立っている。


門をくぐった。


案内の礼典官が待っていた。年配の男で、表情を作らない種類の顔をしていた。長年王城に仕えてきた人間の顔だった。


「ノワール公爵令嬢をお待ちしておりました。こちらへどうぞ」


ミアは入口で待機するよう言われた。ミアが一瞬だけヴィオレットを見た。ヴィオレットは小さく頷いた。


礼典官の後について廊下を歩いた。


王城の廊下は長く、天井が高かった。両側に絵画と彫刻が並んでいる。歴代の王の肖像が順番に並んでいる廊下を通った時、ヴィオレットは足を止めずに全員の顔を確認した。


現王アルベルト三世の肖像は、廊下の最も奥にあった。


絵の中の王が、少し疲れた目をしていた。


画家がそこまで描いたのか、それとも描かずにはいられなかったのかは、わからなかった。


案内された部屋は、謁見室ではなかった。


広い部屋だったが、謁見室の荘厳さとは違う種類の広さだった。書棚が壁を埋め、中央に大きな机が置かれている。窓が二枚、庭に向かって開いていた。


王の執務室に近い部屋だった。


礼典官が一礼して下がった。


部屋に一人になった。


ヴィオレットは部屋を確認した。出口一箇所。窓二枚。書棚の配置。机の上の書類。暖炉の位置。


全部で四秒だった。


それから、待った。


十分ほどして、扉が開いた。


アルベルト三世が入ってきた。


護衛も侍従も連れていなかった。


王は五十代半ばだった。金色の髪に白が混じり、体格は細身だった。肖像画より少し老けて見えた。しかし肖像画より、目が生きていた。


ヴィオレットは礼をした。


「お目にかかれて光栄です、陛下」


「楽にしてください」


王が言った。声は穏やかだった。しかし力がないのではなく、力を使わないことを選んでいる声だった。


「座ってください」


机を挟んで向かい合う形で座った。


王が静かにヴィオレットを見た。


その目を、ヴィオレットは見た。


肖像画の疲れた目とは違う。今目の前にいる王の目は、疲れていたが同時に、何かを測っていた。人を測ることに慣れた目だった。長年、誰が敵で誰が味方かを見分け続けてきた人間の目だった。


「突然の呼び出しで驚かれたでしょう」


「いいえ」


「驚かなかったのですか」


「少し驚きましたが、伺う理由がないわけではありませんでしたので」


王が少し目を細めた。


「聡明な答えです」


「恐縮です」


「ノワール公爵令嬢とは一度話してみたかった。理由はいくつかあります」


「お聞かせいただけますか」


「一つは、公爵家のことです。エドワール公爵には長年、余が直接感謝を伝えられずにいた」


「父が何かいたしましたか」


「何もしなかった、ということが、この王国では大変難しいことなのです」


ヴィオレットは少し考えてから、答えた。


「父は家訓に従っているだけかと存じます」


「その家訓を、三百年守り続けてきた家がどれだけあるか」


王が窓の外を見た。庭に、枯れ始めた木々が見えた。


「余は王として多くのことができない。それを知っています。知っていながら、できない。その中で、ノワール公爵家だけは余が何もしなくても清廉でいてくれた。それがどれだけ、余の支えになってきたか」


ヴィオレットは王を見た。


この王は本音を話している、とわかった。計算がないわけではない。しかしその奥に、本音がある。


「父に伝えます」


「お願いします」


王が視線を窓から戻した。ヴィオレットを見た。


「二つ目の理由は、令嬢自身のことです」


「私のことですか」


「社交界での評判はよく耳に入ってきます。黒百合令嬢、と呼ばれているそうですね」


「恥ずかしながら」


「恥ずかしいことではない」


王が少し笑った。疲れた顔の中に、笑いが混じると、少しだけ別の顔が出た。


「令嬢が学園に通っていることは知っています。レイン王子と同学年だそうですね」


「はい」


「レインとは、どんな印象ですか」


ヴィオレットは少し間を置いた。


この質問は、探りだ。父親として聞いているのか、王として聞いているのか。おそらく両方だった。


「聡明な方です。状況を素早く読まれます」


「それだけですか」


「本心と計算の境界が見えにくい方です。それが強さでもあります」


王が静かに頷いた。


「正直な答えですね」


「失礼があれば申し訳ありません」


「いいえ、正直な答えが欲しかった。余の周りには、正直に話す人間が少ない」


その言葉に、重さがあった。


王が長年、何を聞かされ続けてきたかが、その一言に含まれていた。


「オスカルとは」


「誠実な方です。善意が本物です。ただ」


「ただ」


「善意が本物であることを、利用する人間がいます」


王の目が、一瞬動いた。


「知っていますか、令嬢は」


「社交の場で、少し感じることがありました」


「そうですか」


王が机の上に手を置いた。何も持っていない手だった。王として何かを持つ手ではなく、ただそこに置かれた手だった。


「余には、限られたことしかできません。それを令嬢に話すことも、本来は王として適切ではないかもしれない」


「それでも話してくださっているのはなぜですか」


王が少し考えた。


「ノワール公爵家を信頼しているからです。そしてもう一つ」


「はい」


「令嬢の目が、余と似た目をしているからです」


ヴィオレットは止まった。


表情は動かなかった。しかし内側で、何かが止まった。


「どういう意味でしょうか」


「見えすぎる目です。見えてしまうから、見えていないふりをしなければならない時がある。そういう目です」


王が穏やかに、しかし真っ直ぐに言った。


ヴィオレットは何も答えなかった。


答えが出なかった。


この王は、自分の目を見えすぎると言った。その言葉が何を意味するかを、ヴィオレットは理解した。


しかしそれを認めることが、今この場で正しいかどうかを、計算する前に何かが先に動いた。


「陛下は、どうやって見えていないふりをされているのですか」


自分で言ってから、少し驚いた。


計算した言葉ではなかった。


聞きたかったから、聞いた。


王が、今夜最も深い笑い方をした。


笑いの中に、疲れと、それでも何かが残っている複雑なものが混じっていた。


「うまくできていないかもしれません。しかし一つだけ、続けてきたことがあります」


「何ですか」


「見えてしまうことを、恥じないことです。見えることは、罰ではない。そう思い続けることです」


ヴィオレットは王を見た。


この王が、この言葉を自分に向けて言っているかどうかは、わからなかった。


しかし受け取った。


「ありがとうございます」


「何のお礼ですか」


「わかりません」


王が少し笑った。


「正直ですね」


「陛下も正直でいらっしゃいます」


「そうでしょうか。正直でいられる相手が、少ないだけかもしれません」


二人で少し黙った。


窓の外の庭で、風が木の葉を落とした。枯れ葉が一枚、空中をゆっくりと落ちていった。


「一つ、お願いがあります」


王が言った。


「はい」


「エドワール公爵に、余から直接連絡することは、様々な事情で難しい。しかし令嬢が父君に言葉を伝えることは自然なことです」


「伝言ですか」


「一言だけ。余はまだ諦めていない、と」


ヴィオレットは王を見た。


その言葉の意味を、受け取った。


諦めていない、とは何を諦めていないのか。


王国のことだ。


包囲された王が、まだ諦めていない。


「伝えます」


「ありがとうございます」


王が立ち上がった。謁見の終わりだった。


ヴィオレットも立ち上がり、礼をした。


「ノワール公爵令嬢」


「はい」


「父君によろしく」


「はい」


扉に向かった。


扉を開ける直前に、ヴィオレットは振り返った。


普段はしないことだった。


なぜしたか、自分でもわからなかった。


王が机の前に立っていた。ヴィオレットが振り返ったことに、少し驚いた顔をした。しかしすぐに、静かな顔に戻った。


「陛下」


「はい」


「諦めていない方が、他にもいらっしゃいます」


王は何も言わなかった。


ただ、その目が少し動いた。


ヴィオレットは礼をして、扉を出た。


廊下に出て、扉が閉まった。


礼典官が待っていた。


来た廊下を戻りながら、ヴィオレットは先ほどの自分の言葉を思い返した。


諦めていない方が他にもいらっしゃいます。


計算した言葉ではなかった。


言うつもりがなかった言葉だった。


影廷のことを示唆した。リュカのことを。自分のことも、含まれているかもしれなかった。


王がどう受け取ったかは、わからない。


ただ、言わずにはいられなかった。


それが何故かは、今もまだわからなかった。


歴代の王の肖像画の廊下を戻った。


アルベルト三世の肖像画の前を通る時に、もう一度見た。


絵の中の王の目が、先ほど部屋で見た目と重なった。


疲れた目と、諦めていない目が、同じ顔の中にある。


そういう目をしている人間を、ヴィオレットは他に知っているか、と思った。


考えて、やめた。


入口でミアが待っていた。


ヴィオレットを見て、表情が緩んだ。


「お怪我はありませんでしたか」


「当然です」


「でも心配で」


「馬車に戻りましょう」


歩きながら、ミアが小声で聞いた。


「どんな方でしたか、王様は」


ヴィオレットは少し考えた。


「疲れていました」


「そうですか」


「でも、まだ疲れ切っていませんでした」


ミアがそれを聞いて、何かを感じた顔をした。言葉にはしなかった。


馬車に乗った。


カインが御者台から確認の視線を送ってきた。


ヴィオレットは頷いた。


問題なし。


馬車が動き出した。


王都の午後が、窓の外を流れた。


ヴィオレットは目を閉じた。


父に伝える言葉を、頭の中で整理した。


余はまだ諦めていない。


その言葉を父が聞いた時、どんな顔をするか。


わからなかった。


しかし父が何かを言うとしたら、何と言うか。


考えながら、別のことも考えた。


今日の謁見は、影廷との仕事とは直接関係がない。リュカは知らない。報告する必要があるかどうか。


ある、と思った。


王が動こうとしている可能性がある。まだ諦めていないという言葉は、行動の意思を含んでいるかもしれない。それはリュカが知るべき情報だった。


ただ、その前に父に話す。


父への伝言が先だった。


馬車が公爵家の門に差し掛かった。


秋の夕暮れが、門の向こうに広がっていた。


屋敷に入ると、父がいつもより早く書斎から出てきた。馬車の音を聞いて出てきたのだろう。


父がヴィオレットを見た。


無事だったか、と目が言っていた。


「お父様、少しよろしいですか」


「書斎へ」


二人で書斎に入った。


父が扉を閉めた。茶の用意をしようとした。


「そのままで構いません」


父が振り返った。


「伝言があります」


「誰からの」


「陛下から」


父の表情が、わずかに変わった。


「余はまだ諦めていない、と」


部屋が静かになった。


暖炉の音だけがした。


父は長い間、黙っていた。


ヴィオレットはその沈黙を待った。


やがて父が、椅子に座った。いつもの椅子だった。書斎で紅茶を飲む時の椅子だった。


しかし今夜は茶を用意しなかった。


ただ座って、暖炉を見た。


「そうか」


それだけだった。


ヴィオレットも椅子に座った。


二人で暖炉を見た。


しばらくして、父が言った。


「砂糖は」


「今夜は自分で入れます」


「そうか」


父が立ち上がり、茶の用意を始めた。


ヴィオレットは暖炉を見続けた。


父が一言だけ言った伝言への反応の意味を、考えた。


そうか、だけだった。


しかしその二文字の中に、何かがあった。


安堵とも、覚悟とも、悲しみとも取れる何かが、その二文字の中にあった。


茶が用意された。


砂糖入れが差し出された。


ヴィオレットは砂糖を二つ取った。


少し考えて、三つ目を取った。


父は見ていなかった。


三つの砂糖が、紅茶の中に溶けていった。


窓の外で、夜が来ていた。


深く、静かに。


しかし今夜の暗さは、いつもと少し違う気がした。


暗い中に、何かがある夜だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ