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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第十三話「母の涙」

翌朝、母が珍しく朝食に遅れてきた。


父はすでに新聞を読んでいた。ヴィオレットは紅茶を飲んでいた。ミアが台所と食堂を往復していた。


扉が開いて、母が入ってきた。


いつもと違う顔だった。


化粧はしてある。髪も整っている。しかし目の下に、薄く疲れの色があった。よく眠れなかったか、あるいは泣いたか。どちらかだった。


「おはようございます、お母様」


「おはよう」


母が座った。いつもの席だった。しかし座り方が、少しだけ違った。力が抜けすぎていた。


父が新聞から顔を上げた。母を見た。何も言わなかった。ただ、使用人に目で合図をした。母の好きな茶が用意された。


朝食が始まった。


しばらく、誰も話さなかった。


いつもは母が話し始める。今朝は違った。母が静かなまま、スープを飲んでいた。


父が新聞を折り畳んだ。


「イザベル」


「はい」


「昨夜は遅かったか」


「少し、本を読んでいたら遅くなってしまって」


「そうか」


父はそれ以上聞かなかった。


ヴィオレットはパンを取りながら、母を見た。


昨夜、廊下を歩く音がした。母の部屋の明かりがついていたのを見た。それより早い時間に、別の足音も聞こえた気がした。


母が自室ではない場所を歩いていた可能性がある。


どこへ行ったか。


考えた。


食堂での会話がないまま、朝食が進んだ。皿が片付けられて、父が仕事の話を一つ済ませて、席を立った。


「ヴィオレット、今日は学園か」


「はい」


「気をつけて」


父が出ていった。


母とヴィオレットの二人になった。ミアは食器の片付けで別室にいる。


母が茶杯を両手で持って、窓の外を見ていた。庭の木が、朝の光の中で枝を揺らしていた。


「お母様」


「なあに」


「昨夜、よく眠れませんでしたか」


母が少し止まった。


「そんなに顔に出てたかしら」


「少し」


「ごめんなさい。心配させてしまったわね」


「何かありましたか」


母が茶杯を置いた。窓の外を見続けた。


「昨夜ね、ヴィオレットの部屋の前を通ったの」


「はい」


「扉の前で止まって、ノックしようとして、やめたのよ」


「知っています」


母が振り返った。少し驚いた顔をした。


「気づいていたの?」


「足音で」


「そう」


母が少し笑った。しかし笑いの中に、痛いものが混じっていた。


「ヴィオレットはいつもそうね。気づいている。全部気づいている。私が何を感じているかも、たぶんわかっているんでしょう」


「すべてはわかりません」


「でも大体は」


ヴィオレットは答えなかった。


否定も肯定もしなかった。


母が窓の方へ視線を戻した。


「昨夜、ヴィオレットの部屋に入ったの。あなたが眠っていると思って」


「はい」


「植物の標本が並んでいる棚を、もう一度見ました」


ヴィオレットは手を膝の上で止めた。


表情は動かなかった。


「以前にも見たことがありましたか」


「一度だけ。少し前に。昼間に、あなたがいない時に」


「何を見ましたか」


「本が何冊もあったわ。植物の本。書き込みが細かくて」


「はい」


「趣味の書き込みではなかった」


母が静かに言った。


責める声ではなかった。断定でもなかった。ただ、見えたものを言葉にした声だった。


「どう見えましたか」


「目的がある調べ方だと思った。でも何の目的かは、私にはわからない」


ヴィオレットは少し考えた。


母にどこまで話すか。


何も話さないことは、今この瞬間にはできなかった。昨夜の父の言葉が残っていた。家の問題は家で対処すると言った。それとは別に、何か話したいと思い続けていた日々があった。


「お母様」


「はい」


「私は、人を傷つけるために植物を調べているのではありません」


母が振り返った。


「そう」


「誰かを守るために必要な知識です」


母が、ゆっくりと目を細めた。


「誰を守るために」


「たくさんの人を。名前を言える人も、言えない人も」


母が黙った。


長い沈黙だった。


ヴィオレットはその沈黙を待った。前世では、沈黙は動きの前兆だった。今世では、沈黙は言葉が来る前の時間だとわかっていた。


母が言った。


「ヴィオレットが赤ちゃんだった時のことを覚えているかしら。もちろん覚えていないわよね。でも私は覚えているの」


「はい」


「あなたは本当に泣かない子で。夜中に起きても泣かないで、ただ天井を見ていた。私が気づいて行くと、目が合って。泣きもしないで、じっとこっちを見るの」


「そうでしたか」


「最初は、育てやすい子だと思っていたの。手がかからないって、嬉しかった。でも」


母が少し俯いた。


「ある時から思い始めたの。泣かないことと、泣けないことは違うんじゃないかって」


ヴィオレットは何も言わなかった。


「あなたが大人になっていくのを見ながら、ずっと思っていたの。この子は完璧な令嬢で、何も問題がなくて、でも何かが違う。母親として、どこかで育て方を間違えたのかもしれないって」


「お母様は間違えていません」


「でも」


「私が泣かなかったのは、お母様のせいではありません」


母が顔を上げた。


目が少し赤かった。泣いていたのではなく、泣くのをこらえている目だった。


「じゃあ何のせいなの」


ヴィオレットは少し考えた。


前世のせいだ、とは言えない。


しかし嘘もつきたくなかった。


「生まれつき、少し違うのだと思います」


「違う」


「見えすぎるのです。いろんなことが。それが良いことかどうかは、今もわかりません」


母が止まった。


昨日の王の言葉を思い出した。見えすぎる目です、と王が言った。今自分が母に言った言葉と、同じだった。


「見えすぎるから、泣かないの?」


「泣く理由がわかりすぎると、泣き方がわからなくなることがあります」


母が少し眉を動かした。


「それは、辛くない?」


ヴィオレットは答えを探した。


辛いかどうか。


前世では辛いという概念がなかった。今世では、あるかどうかを考えたことがなかった。


「わかりません」


「わからないの」


「ただ、最近は」


ヴィオレットが続けた。


「辛いかどうかより、別のことを考える時間が増えました」


「別のこと」


「アメリ様のクッキーのこと。父と飲む紅茶の砂糖の数のこと。そういうことを、考えます」


母が黙った。


その沈黙は、先ほどのものと違った。


何かが入ってきた時の沈黙だった。


「そう」


小さく言った。


「それなら、よかった」


母の目から、一粒だけこぼれた。


止めようとした跡があった。しかしこぼれた。母は拭かなかった。拭くことで気づかれたくなかったのかもしれない。


しかしヴィオレットは見ていた。


何も言わなかった。


母が視線を窓の外に向けた。


「昨夜、ノックしなかったのはね」


「はい」


「何を言えばいいかわからなかったから」


「はい」


「ただ、顔を見たかっただけだったの。それだけでよかったの。でも扉を開けたら何か言わなければいけない気がして、何を言えばいいかわからなくて、やめたのよ」


ヴィオレットは立ち上がった。


テーブルを回った。


母の隣に座った。


母がヴィオレットを見た。驚いた顔だった。隣に来るとは思っていなかったのだろう。


「お母様」


「なあに」


「顔を見に来てくれて、よかったです」


母の目から、また一粒こぼれた。


今度は拭いた。丁寧に、ハンカチで。


「泣いてしまった。恥ずかしいわ」


「恥ずかしくありません」


「ヴィオレットの前で泣くなんて」


「泣ける方が、羨ましいです」


母が少し止まった。


それからまた泣いた。今度はこらえずに。声を出さずに、静かに泣いた。


ヴィオレットは隣に座ったまま、何も言わなかった。


何か言おうとして、やめた。


前世では、誰かが泣いている場面に立ち会ったことがなかった。立ち会うべき場面もなかった。


今世では、隣にいる。


どうすればいいかわからなかった。


しかし、その場を離れようとは思わなかった。


しばらくして、母が息を吸った。


「ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったのに」


「構いません」


「ヴィオレットが変なことを言うから」


「何ですか」


「泣ける方が羨ましいって。そんなことを言う子じゃなかったのに」


「そうでしたか」


「最近、少し変わったの」


母がハンカチで目元を押さえながら言った。


「気づいていましたか」


「変わったのかしら、それとも戻ってきたのかしら」


「戻ってきた、とは」


「あなたが赤ちゃんの時、じっと天井を見ながら私と目が合ったでしょう。その目の中に、何かがあったのよ。当時はうまく言葉にできなかったけれど、今思えば」


母が少し考えた。


「見ている目だったの。ちゃんと、そこにいる目だった。それが最近また見える気がして」


ヴィオレットは母を見た。


赤ちゃんの時の自分。前世の記憶を持ったまま転生した自分。その目を、母が覚えていた。


「見えていますか、今も」


「見えているわ」


母が、泣いた後の顔で微笑んだ。


化粧が少し崩れていた。それでも母は綺麗だった。泣いた後の方が、何かが透けて見えて、より本物に近い顔をしていた。


「ヴィオレット、一つだけ聞いていいかしら」


「はい」


「あなたが守ろうとしている人たちのことを、いつか話してくれる日が来るかしら」


ヴィオレットは少し考えた。


正直に答えた。


「わかりません。でも、話したいと思う日が来るかもしれません」


「それで十分よ」


「十分ですか」


「来るかもしれない、というのは、今は来ていないということでしょう。今話せないことを、無理に話さなくていい。ただ、いつか来るかもしれないなら、その時まで私はここにいます」


ヴィオレットは何も言わなかった。


答えが出なかった。


出なかったのではなく、出た答えをどう言葉にするかがわからなかった。


しばらくして、ミアが食器を持って戻ってきた。


二人が隣に座っているのを見て、一瞬止まった。


空気を読んで、音を立てずに片付けを始めた。この従者もこの一年で、読むべき空気を学んでいた。


母が立ち上がった。


「そろそろ着替えないと。今日は午後にソレイユ夫人とお茶があるのよ」


「アメリ様のお母様ですか」


「そうよ。ヴィオレットがアメリちゃんと仲良くしているって、夫人がとても喜んでいて」


「そうですか」


「ヴィオレットも今日、学園でアメリちゃんに会うでしょう。よろしく伝えてあげてね」


「伝えます」


母が食堂を出ようとして、扉の前で振り返った。


「ヴィオレット」


「はい」


「昨夜ノックしなかったこと、正解だったかしら」


ヴィオレットは少し考えた。


「わかりません」


「そう」


「ただ、今朝話せてよかったです」


母が今日一番の顔で笑った。


泣いた後の、少し疲れた、しかし何かが軽くなった顔で。


扉が閉まった。


ヴィオレットは食堂に一人残った。


ミアが片付けを終えて、静かに出ていった。


窓の外の庭が、朝の光の中にあった。


昨日の王の言葉を思い出した。


見えることは罰ではない。


そして今朝の母の言葉を思い出した。


戻ってきたのかもしれない、と。


戻ってきた、とは何が戻ったのか。


前世の暗殺者にはなかったものが、今世の十六年の中に少しずつ積もってきたのか。


それとも、転生する前から自分の中にあったものが、少しずつ表に出てきているのか。


わからなかった。


ただ、今朝母の隣に座ったことは、計算ではなかった。


したいからした。


それだけだった。


馬車の準備ができたとカインが呼びに来た。


ヴィオレットは立ち上がり、食堂を出た。


廊下を歩きながら、今日学園でアメリに会ったら、お母様からよろしくと伝えると言われたことを思い出した。


よろしくと伝える。


それだけのことが、今日の自分には少し、楽しみな気がした。


前世には存在しなかった感覚だった。


今世では、ある。


馬車に乗り込んだ。


カインが御者台から一度振り返った。


今朝の顔は、確認の顔ではなかった。


ただ、主人を見た顔だった。


ヴィオレットは窓の外を見た。


秋の王都が、朝の光の中を動いていた。

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