第八話「カインの過去」
植物学会の三日前の夜、カインが珍しく書斎の扉をノックした。
用件があってノックすることはある。しかしその時間帯は違った。夜の十一時を過ぎていた。ヴィオレットが手帳を書き終えて、そろそろ眠ろうとしていた頃だった。
「入りなさい」
カインが入ってきた。いつも通りの表情だった。しかし立ち方が、わずかに違った。用件を持って来る時の立ち方ではなかった。
「何ですか」
「少し、話してもよいですか」
ヴィオレットは手帳を閉じた。
「どうぞ」
カインは椅子を勧められる前に、床に片膝をついた。跪く形だった。公爵令嬢に仕える従者としての正式な姿勢だが、カインがこの形を取るのは珍しかった。普段は立ったまま話す。
「改まりましたね」
「今夜の話は、改まる必要があると思いましたので」
「聞きます」
カインは少し間を置いた。
「先日、お嬢様がミアを連れずに一人で外出された夜のことです」
「はい」
「ミアが心配していました」
「それはミアから聞きなさいと言っておきました」
「はい。ただ、心配しているのはミアだけではありませんでした」
ヴィオレットはカインを見た。
この従者が自分の感情を言葉にすることは滅多にない。言葉にする前に行動で示す。それがカインという人間だった。
「貴方も心配していましたか」
「はい」
「それを今夜話しに来たのですか」
「半分は」
「もう半分は」
カインが顔を上げた。銀色の瞳が、燭台の光を受けていた。
「お嬢様が一人で外出される時、お嬢様が何をしているかを、俺たちは知らない。知らなくていいと思っています。聞く権利もない」
「そうですね」
「ただ」
カインが続けた。
「お嬢様が一人で動く理由があるなら、俺たちに話してもらえなくてもいい。その代わりに、俺たちのことを信用してほしい」
ヴィオレットは少し考えた。
「信用していないとは思っていませんか」
「思っていません。ただ、お嬢様が俺たちをどこまで信用しているかを、俺たちは知らない。それを確認したかった」
「確認して、どうするつもりですか」
「どこまで踏み込んでいいかを、判断したい」
ヴィオレットは立ち上がった。
窓の方へ歩いた。夜の庭が暗く広がっている。生垣の向こうに街灯の光が見えた。
「カイン」
「はい」
「貴方たちが私のそばにいる理由を、私はどう理解していると思いますか」
「わかりません」
「貴方は私に負けたから従っているのではありません」
カインが少し動いた気配がした。振り返らなかった。
「貴方が跪いた時、私は選んだのです。貴方を」
沈黙があった。
「貴方が刃を向けてきた時、貴方の目の中に何があったか覚えていますか」
「覚えています」
「何がありましたか」
「死ぬつもりでした」
「そうです」
ヴィオレットは窓の外を見たまま言った。
「死ぬつもりで刃を向けてくる人間は、たくさん見てきました。その中で、私が殺さなかった人間は少ない」
「なぜ俺を殺さなかったのですか」
「貴方の目に、死ぬつもりと一緒に、別のものがあったから」
「別のもの」
「ミアを守ることと引き換えに死ぬつもりだった。そういう目でした」
カインが何も言わなかった。
「誰かのために死ぬつもりで刃を向けてくる人間を、私は殺したくなかった。それだけです」
「それだけで、拾っていただいたのですか」
「それが理由の全部です」
窓の外で風が鳴った。生垣が揺れた。
「話してもいいですか」
カインが言った。
「聞きます」
カインが話し始めた。
戦闘部族の出身だった。王国の南東、山岳地帯に暮らす少数の部族で、代々厳しい環境の中で生き延びてきた。戦闘技術を持つことが誇りで、族長を頂点とした強固な共同体だった。
ミアはカインの実の妹ではなかった。
部族の慣習で、力のある者が弱い子を引き取ることがあった。ミアは別の親から生まれたが、幼い頃に両親を失い、当時十歳のカインが引き取った。それ以来、二人は兄妹だった。
「部族が滅びたのは五年前です」
「原因は」
「王国の東側から来た商人です。最初は取引の話でした。部族の若者を傭兵として都市に送る。対価として食料と資材を受け取る。族長は断りましたが、若い衆の一部が賛成した。意見が割れた」
「内側から崩れたのですか」
「賛成派が族長を殺しました。その夜、俺はミアを連れて逃げました」
「他に逃げた者は」
「いません。俺が逃げる前に、賛成派がまとめて商人に引き渡されるのを見ました。その後どうなったかは知りません」
ヴィオレットは振り返った。
カインはまだ片膝をついていた。話しながら、姿勢を崩さなかった。
「座りなさい」
「しかし」
「座りなさい、カイン」
カインが椅子に座った。床に座るよりも、椅子の方が居心地が悪そうだった。この従者は床の方が慣れているのだろう。
「スラム街には何年いましたか」
「二年です。ミアと二人で。食えない日が多かった」
「生き延びた方法は」
「喧嘩です。スラム街で喧嘩が強ければ、食い物にありつける。俺はそれをやりました。ミアに食わせるために」
「ミアも戦いましたか」
「させようとしましたが、ミアの方が先に動いていました。止める間もなく」
ヴィオレットは少し考えた。
「ミアが私に拾われたいと言ったのですか」
「違います。俺が交渉しました」
「交渉」
「スラム街に公爵令嬢が来ることは滅多にありません。お嬢様が一人で路地を歩いていた時、俺は刃を向けました。金目の物を取るつもりでした」
「それが最初でしたか」
「はい。次の瞬間、地面にいました」
ヴィオレットは声を出さずに、少し笑った。
カインがそれを見て、少し目を細めた。主人が笑うことが珍しいという顔ではなかった。ただ、静かに見ていた。
「地面で、お嬢様が言いました。死にたいなら今すぐ死なせてあげると」
「言いましたね」
「生きたいなら傍に来なさいとも言いました」
「言いました」
「迷いませんでした」
カインが真っ直ぐに言った。
「なぜですか」
「お嬢様の目が、今まで見たことのない種類の目でした」
「どんな」
「怒っていない。軽蔑していない。試しているわけでもない。ただ、見ていた。俺という人間を、ちゃんと見ていた。スラム街では、誰もそういう目をしません。俺たちは風景か、障害物か、道具か、そのどれかでした」
ヴィオレットは窓際から机の方へ戻った。椅子に座った。カインと向かい合う形になった。
「私の目が、見ていると感じましたか」
「はい」
「私が何を見ていたか、わかりますか」
「わかりません」
「殺すかどうかを測っていました」
カインが少し固まった。
「ただ、測りながら、もう一つ別のことを考えていました」
「何を」
「この人間は使えるかどうか、ではありません」
ヴィオレットは少し間を置いた。
「この人間は、誰かのために死ぬつもりで立っている。それがどういうことかを、考えていました」
カインが黙った。
「私には前世の記憶があります」
カインが顔を上げた。
それが何を意味するかを、カインがどこまで理解しているかはわからない。しかしこの従者に、今夜その言葉を言ってもいいと思った。
「前世では、誰かのために死ぬという選択を、したことがありませんでした。する必要がなかったし、する相手もいなかった。貴方の目を見た時、初めてそういう人間がいるのだということを、目の前で見た気がしました」
「それで、拾ったのですか」
「好奇心かもしれません」
カインが少し、表情を動かした。笑ったわけではない。何かが解けたような顔だった。
「今夜、話してよかったですか」
「よかったです。貴方が話してくれたから、私も話しました」
「お嬢様が話してくださることは珍しい」
「そうですね」
「なぜ今夜は」
ヴィオレットは少し考えた。
「貴方が改まって話しに来たからです。それに応えてもいいと思いました」
「それだけですか」
「もう一つあります」
「はい」
「最近、少し話したいと思うことが増えました。理由はわかりません」
カインが何も言わなかった。
それでいいと、ヴィオレットは思った。言葉にならないことを、言葉にする必要はない。この従者はそれを理解している。
「一つだけ聞きます」
ヴィオレットが言った。
「はい」
「私が今、影廷の仕事に関わっていることを、どこまで把握していますか」
カインが少し考えた。
「詳細は知りません。ただ、お嬢様が外に出る時の目が、学園に行く時と違います。それだけで、普通の外出ではないとわかります」
「それを知った上で、今まで何も言わなかった」
「お嬢様が話してくださるまで待つつもりでした」
「今夜聞きに来たのは待ちきれなくなったからですか」
「違います。ミアが泣いていたからです」
ヴィオレットは少し止まった。
「泣いていたのですか」
「昨夜、部屋で。声は出していませんでしたが、わかりました。心配しているのに何もできないと言っていました」
ヴィオレットは手帳を見た。
机の上に置いてある、暗号で書かれた記録帳。この中に影廷との接触の記録がある。フォルタン子爵の件がある。リュカとの会話がある。
「カイン」
「はい」
「明日、ミアを連れてきなさい。三人で話します」
「よろしいのですか」
「影廷の詳細は話しません。ただ、私が今何をしているかの輪郭は話します。泣かせておく理由がありません」
カインが立ち上がった。
床に片膝をついた。最初に入ってきた時と同じ姿勢だった。しかし今度は意味が違う気がした。礼ではなく、何か別のものだった。
「顔を上げなさい」
カインが顔を上げた。
銀色の瞳が、燭台の光の中でまっすぐこちらを見ていた。
「一つだけ」
カインが言った。
「なんでしょう」
「お嬢様が何をしていても、俺たちはここにいます。それだけは知っておいてほしかった」
ヴィオレットは答えなかった。
答えが出なかったのではない。
答えが出たのだが、どの言葉を使えばいいかが、わからなかった。
しばらくして、言った。
「わかりました」
それだけだった。
カインが立ち上がり、扉の方へ向かった。
「カイン」
「はい」
「部族の商人の件、名前を覚えていますか」
カインが止まった。
「覚えています」
「いつか、調べます」
カインが振り返った。
その顔に何があったか、ヴィオレットは見た。言葉にするつもりはなかった。ただ、見た。
カインは何も言わなかった。
頷いて、扉を出た。
一人になった部屋で、ヴィオレットは手帳を再び開いた。
新しいページに、一行書いた。
戦闘部族の滅亡に関わった商人の名前。カインが話してくれた名前だ。
それだけ書いて、閉じた。
窓の外で、夜が深くなっていた。
誰かのために死ぬつもりで立つ人間を、今の自分は二人知っている。カインとミアだ。
前世では知らなかったことだ。
そういう人間が傍にいるということが、何を意味するのか。
まだ言葉にならない。
ただ、手帳に商人の名前を書いた自分のことは、わかった。
これは仕事ではない。
それだけは、確かだった。




