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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第七話「最初の仕事」

フォルタン子爵が次に顔を出す社交の場は、三日後の茶会だった。


主催はサーシェン伯爵家の夫人。出席者はおよそ三十名。貴族の夫人と令嬢が中心だが、縁者の男性貴族も数名招かれている。フォルタン子爵はその数名の一人だ。


ヴィオレットは招待状を持っていた。


サーシェン伯爵家とノワール公爵家は友好的な関係ではないが、敵対的でもない。茶会への参加は不自然ではなかった。問題は、これまでヴィオレットがこの茶会を欠席していたことだ。


理由が必要だった。


前日の午後、ヴィオレットはアメリに会った。学園の中庭で、いつものように突撃してきたアメリに、今度は自分から話しかけた。


「アメリ様、サーシェン夫人の茶会に出席されますか」


アメリが目を丸くした。


「出席します! ヴィオレット様はいつも欠席されているのに、今年は行かれるんですか」


「ええ、少し植物学の話を伺いたい方がいらっしゃいまして」


「植物学! 誰ですか」


「フォルタン子爵がお詳しいと伺いました」


「ああ、フォルタン様。確かに植物の話をよくされますよね。ちょっと話しかけてくるのが得意な感じで、私はあまり好きじゃないですけど」


アメリが素直に言った。


ヴィオレットはその言葉を聞いて、内心でアメリの観察眼を少し見直した。好きじゃない、という言語化は大雑把だが、感じ取っているものは正確だ。


「では一緒に出席しましょうか。アメリ様がいらっしゃる方が、私も気が楽です」


「もちろんです! 嬉しい!」


アメリが笑った。


この娘を巻き込むことへの躊躇はあった。しかし一人で出席するより自然だ。アメリはヴィオレットに話しかけることを恐れない数少ない令嬢として知られている。その二人が並んで茶会に出席することは、社交として何の不自然もない。


アメリは何も知らないまま、ヴィオレットの隠れ蓑になる。


それを申し訳ないとは思わなかった。


少しだけ、思った。


茶会の当日、ヴィオレットはアメリと並んでサーシェン伯爵家に到着した。


広間は花で飾られていた。春の花が各所に置かれ、香りが室内に満ちている。ヴィオレットは入室した瞬間に全てを確認した。出口三箇所。窓六枚。給仕七名。客三十一名。


フォルタン子爵は、部屋の中央付近にいた。


五十に近い年齢だが、清潔感のある身なりで、愛想よく周囲と話している。遠目には感じの良い紳士に見える。


ヴィオレットはその男を見て、書類で読んだ情報と照合した。


立ち方。視線の動かし方。笑い方のタイミング。


計算されている、とわかった。感じの良さが、自然ではなく作られている。それが見える人間と見えない人間がいる。アメリは見えないが、感じ取っている。その差が何から来るかは、また別の話だ。


「ヴィオレット様、お席はどちらにしますか」


「中央の方にしましょう」


アメリと連れ立って移動した。


席に着くと、すぐにサーシェン夫人が挨拶に来た。社交的な会話を数分交わした。夫人はヴィオレットの出席を喜んでいたが、その喜びに少し計算の色があった。ノワール公爵令嬢を自分の茶会に呼んだという事実が、夫人にとって価値を持つのだろう。


有用に使われているが、今はそれで構わない。


茶が運ばれてきた頃、フォルタン子爵が近づいてきた。


予想より早かった。


「これはノワール公爵令嬢ではありませんか。お初にお目にかかります、フォルタンと申します」


「存じております。ヴィオレット・ド・ノワールです」


「噂通りのご令嬢だ。いや、噂を超えていらっしゃる」


愛想の良い笑顔だった。視線が一瞬、計算している色を見せた。公爵令嬢という肩書きへの反応だ。


「フォルタン様は植物学にお詳しいと伺いました」


「ほう、よくご存知で。趣味程度ですが」


「私も少し齧っております。薬草を中心に」


「薬草! それはまた珍しい。令嬢が薬草をお勉強とは」


「植物の効能に興味がありまして。特に毒性を持つ植物の医学的な応用について」


フォルタン子爵の表情が、わずかに動いた。


警戒ではない。興味だった。


毒性植物という言葉に、この男が反応した。


ヴィオレットは内心で確認した。書類には書かれていなかった情報だ。子供の売買に関わる人間が、毒性植物に興味を持つ。それが何を意味するかは、まだわからない。しかし記憶した。


「これはまた学術的なご興味で。どのような文献をお読みで」


「ヴェルナ植物誌の第三巻と、先年出版されたアルカン先生の毒草論考を。フォルタン様はいかがですか」


「アルカン先生の論考は私も読みました。あれは素晴らしい。特に第四章の、ベラドンナの希釈用量についての記述は」


ヴィオレットは微笑んだ。


完璧な令嬢の微笑みで。


ベラドンナの希釈用量。


ドレヴァン侯爵家の晩餐会で、広間の空気に混じっていたものだ。


この男がその記述に特別な関心を持つことは、偶然ではないかもしれない。


「第四章ですか。私はどちらかというと第七章の方が興味深く思いました。植物由来の成分が人の判断力に与える影響についての考察で」


「ああ、あそこも面白い。令嬢はずいぶんと深くお読みになる」


「夢中になると止まれない質で」


会話が続いた。


フォルタン子爵は植物学について知識があった。本物の趣味があるのか、あるいは趣味として偽装しているのか、どちらかはまだわからない。ただ会話の端々に、学術的な興味と実用的な興味が混在していた。前者は本物で、後者に何かが隠れている可能性があった。


三十分ほど会話をして、自然な流れで話題が変わった。


フォルタン子爵は別の客との会話に移っていった。


アメリが小声で言った。


「フォルタン様、植物の話になったら目が輝いてましたね」


「そうですね」


「でもなんか、ヴィオレット様との会話、楽しそうじゃなかったですか。フォルタン様が」


「そうでしたか」


「うーん、なんというか。楽しんでいる感じと、計算している感じが混ざってる、というか」


ヴィオレットはアメリを見た。


この娘の観察は、侮れない。


「アメリ様は観察眼がおありですね」


「そうですか? なんとなくそう感じただけですけど」


なんとなく、ではないだろうとヴィオレットは思った。しかし今はそれを指摘しない。


「フォルタン様とはこれから親しくなれそうですか」


アメリが少し顔を曇らせた。


「私はちょっと苦手で。なんか、視線が気持ち悪いというか。うまく言えないんですけど」


「無理に近づかなくていいですよ、アメリ様」


「そうします。ヴィオレット様は大丈夫ですか」


「私は大丈夫です」


アメリが少し考える顔をした。


「ヴィオレット様って、怖いものないですよね」


「そんなことはありませんよ」


「何が怖いですか」


ヴィオレットは少し考えた。


本当に考えた。


「答えが出ない問いを前にした時、でしょうか」


アメリが少し首を傾けた。


「それは怖いですね。私は虫が怖いです」


「虫ですか」


「特に足が多いやつ」


ヴィオレットは、前世で蜘蛛の巣を使って罠を作ったことを思い出した。


「そうですか」


「ヴィオレット様は平気そう」


「慣れています」


「なんで令嬢が虫に慣れてるんですか」


「植物学の研究で、野外に出ることがありますから」


アメリが納得した顔をした。


嘘ではなかった。虫に慣れた理由の一つではある。


茶会はその後、二時間ほど続いた。


ヴィオレットはその間、フォルタン子爵の行動を観察し続けた。誰と話したか。どの話題で表情が変わったか。給仕に何を頼んだか。退室のタイミングでどちらへ向かったか。


全て記憶した。


一つだけ、気になることがあった。


茶会の終盤、フォルタン子爵が給仕の一人と短く言葉を交わした。給仕が頷いて、厨房の方へ向かった。その後、別の給仕がフォルタン子爵に小さな紙片を渡した。子爵はそれをすぐに上着の内側にしまった。


一連の動作は自然だった。気づいた人間は、おそらくヴィオレットだけだ。


紙片の内容はわからない。


しかし、気になった。


帰り道、馬車の中でアメリが眠そうにしながら言った。


「今日は楽しかったです。ヴィオレット様と一緒だと、茶会も面白いですね」


「私もアメリ様がいて助かりました」


「また一緒に行きましょうよ」


「ええ」


「約束ですよ」


「約束します」


アメリが嬉しそうに笑った。


ヴィオレットは窓の外を見た。


約束という言葉を、前世では使わなかった。使う意味がなかった。明日自分が生きているかどうか、確かめる術がなかったから。


今世では、使える。


それが何か、まだうまく言葉にならない。


ただ、アメリと交わした約束は果たすつもりだった。


その夜、自室に戻ったヴィオレットは手帳を開いた。


今日の観察を書き留めた。フォルタン子爵の言動、ベラドンナへの反応、給仕との紙片のやり取り。


書き終えてから、少し考えた。


影廷の書類には書かれていなかった情報が今日だけでいくつか出た。半年間内偵していた工作員が掴めなかった情報だ。


なぜ掴めなかったか。


工作員として潜入することの限界がある。令嬢との植物学の会話の中で出てくるものは、工作員には出てこない。フォルタン子爵は社交の場で、自分と近い関心を持つ相手にだけ、少し本音を見せる。


それが今日わかったことだった。


もう一度、社交の場で接触する必要がある。


次の機会を考えた。


フォルタン子爵の社交記録によれば、来週、王立植物学会の小規模な講演会がある。一般貴族も参加できる公開の場だ。


ヴィオレットは手帳に書き込んだ。


それからもう一枚、別の紙を取り出した。


今日の茶会で給仕と交わした紙片のことを書いた。これはリュカへの情報提供になる。影廷が半年間掴めなかった糸口が、この紙片にあるかもしれない。


次の接触まで待つか、それとも早急に伝えるか。


少し考えて、早急に伝えることにした。


リュカが子供たちのことを急いでいると言った。その言葉を思い出した。


ヴィオレットは封筒を取り出した。


名刺を一枚書いた。ヴィオレット・ド・ノワール。ただそれだけを書いた。封筒に入れて封をした。


翌朝、カインに渡した。


「これを」


「どちらへ」


「東区の茶館に。マスターに渡してください。宛先はわかります」


カインは何も聞かなかった。


頷いて、受け取った。


この従者の有用さは、聞かないことにある。とヴィオレットは思った。


その日の夜、茶館からカインが戻ってきた。


「受け取ったと」


「ありがとう」


翌日の夜、同じ茶館に同じ時刻に、リュカが来た。


ヴィオレットは今日の茶会で観察した全てを話した。ベラドンナへの反応。給仕との紙片のやり取り。植物学会の講演会。


リュカは黙って聞いた。


全て話し終わった後、リュカが言った。


「給仕の件ですが」


「はい」


「サーシェン伯爵家の茶会に出入りする給仕の一人に、以前から目をつけていた者がいます」


「影廷で確認していましたか」


「していましたが、決定的なものがなかった。今日の件で、線がつながるかもしれない」


「その給仕を動かすのは影廷ですか」


「はい」


「私は関わりません」


「わかりました」


ヴィオレットは立ち上がりかけた。


「植物学会の件はどうされますか」


「行きます。フォルタン子爵とまだ話が足りない」


「何を探っていますか」


「ベラドンナへの反応が気になっています。子供の売買と毒性植物の知識に、関係があるかもしれない」


リュカが少し考えた。


「その可能性は影廷でも考えていませんでした」


「断定ではありません。ただ確認したい」


「わかりました」


ヴィオレットは席を立った。


今夜はここまでだった。


扉に向かいながら、ヴィオレットは思った。


前世では、依頼を受けて対象を殺した。確認もなく、周辺情報を集めることもなく、ただ依頼通りに動いた。


今世では、確認している。


周辺を見ている。対象の背後を見ている。対象自身の輪郭を、丁寧に描き直している。


それが必要だから、という理由だけではなかった。


何かを知りたいと思っている。


その感覚が前世にはなかった。


扉を開ける前に、リュカが言った。


「今夜も一つ、伺っていいですか」


「どうぞ」


「茶会で、アメリ・ソレイユ嬢と一緒でしたね」


ヴィオレットは少し止まった。


「把握していましたか」


「情報として入りました。ご友人ですか」


「そう呼んでいいのかもしれません」


「一緒に行ったのは理由がありますか」


「一人より自然でしたので」


「なるほど」


リュカが少し間を置いた。


「ソレイユ嬢を利用した、ということですか」


ヴィオレットは振り返らなかった。


少しだけ、答えが遅れた。


「結果としてはそうなります」


「それは貴女にとって問題がありましたか」


また、少しだけ遅れた。


「少し」


リュカが何も言わなかった。


ヴィオレットは扉を開けた。


「次の接触は植物学会の後になります」


「わかりました」


夜の路地に出た。


少し、と言った言葉が、歩きながらも残っていた。


前世では、誰かを隠れ蓑にすることに何も感じなかった。それが仕事だった。


今世では、少し感じた。


アメリが今日、また一緒に行きましょうと言った。約束しましょうと言った。


その約束が、今夜の自分の行動と並んで存在している。


どう折り合いをつけるかは、まだわからない。


ただ、折り合いをつけたいと思っている自分がいることは、わかった。


それだけで今夜は十分だ、とヴィオレットは思った。


公爵家の灯りが見えてきた。


今夜も二階の窓に明かりがついていた。


母の部屋だった。


明日の朝食で、と思った。


話したいことが、少しずつ増えていく気がした。

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