第六話「影廷という組織」
最初の依頼が来たのは、リュカとの会談から一週間後だった。
名刺ではなかった。今度は小さな封筒で、中に一枚の紙が入っていた。紙には暗号が書かれていた。単純な換字式だが、影廷が使う系統のものだった。
ヴィオレットは五分で解読した。
場所と時刻だけが書かれていた。
同じ茶館だった。
その夜、ヴィオレットは一人で出かけた。カインが玄関で待機していたが、目が合った瞬間に何も言わずに引いた。この一年で身につけた判断だった。主人が一人で行くと決めた時に何を言っても無駄だと、カインは学習していた。
茶館に入ると、リュカはすでにいた。
前回と同じ席。同じ姿勢。本は持っていなかった。
「お早い」
「いつもこうです」
「習慣ですか」
「先に場を確認したい性質で」
「同じですわ」
ヴィオレットが座った。給仕を呼ばなかった。リュカも呼ばなかった。今夜は茶を飲みに来たのではない。
「早速ですが」
リュカが薄い書類を出した。
「最初の件です」
ヴィオレットは書類を受け取った。
対象の名前、年齢、家名、行動記録、影廷が把握している情報の概要。ページを繰りながら、内容を頭に入れた。
対象はフォルタン子爵。四十七歳。貴族院の下位議員。表向きは清廉な政治家だが、スラム街の子供を売買する組織と繋がっている疑いがある。影廷は半年前から内偵しているが、決定的な証拠が掴めていない。
「なぜ掴めないのですか」
「フォルタン子爵は用心深い。直接取引に関わらず、必ず中間を挟みます。その中間が使い捨てで、繋がりを辿る前に消えてしまう」
「消える、というのは」
「死体で発見されるか、行方不明になるかです」
「尻尾切りが徹底している」
「はい。糸口が見つかりません」
ヴィオレットは書類の最後のページを見た。フォルタン子爵の社交記録があった。どの晩餐会に出席したか、どの茶会に顔を出したか。
「この男は社交を好みますか」
「好みます。特に若い令嬢との会話を好む傾向があります」
「なるほど」
「令嬢に近づく際、どんな話題を使いますか」
「芸術と文学が多いようです。それと植物学」
ヴィオレットは書類を閉じた。
「一つ確認します。影廷として望む結末は何ですか。証拠を収集して公的機関に引き渡すことですか、それとも別の形ですか」
「理想は証拠を揃えた上での公的な処理です。しかし」
「しかし」
「フォルタン子爵は貴族院と司法に人脈があります。証拠を持っていっても、握り潰される可能性が高い」
「ルヴァン家の影響圏ですか」
「はい」
ヴィオレットは少し考えた。
公的な処理が難しいなら、別の方法がある。しかしその方法については、今夜は言わなかった。まず動いてみてから判断する。
「わかりました。少し時間をください」
「どのくらい」
「場合によります。一週間かもしれないし、一日かもしれない」
「了解しました」
「それとこれは」
ヴィオレットは書類をリュカに返した。
「お返しします。手元に置かない方が良いので」
「記憶しましたか」
「全部」
リュカは一瞬だけ書類を見た。それからヴィオレットを見た。何も言わなかったが、目が少し動いた。
「影廷の情報共有の件ですが」
ヴィオレットが続けた。
「《黄金の枷》について、現在影廷が把握している全体像を教えていただけますか。フォルタン子爵がその構造のどこに位置しているかを知りたい」
「フォルタン子爵は《枷》の正式な構成員ではありません。外縁部です。《枷》の構成員が持つ利権の末端で動いている業者に近い」
「つまり、今回の件を処理しても《枷》の本体には直接届かない」
「その通りです」
「では今回は何のためですか」
リュカが少し間を置いた。
「二つの目的があります。一つは、実際に子供の売買を止めること。もう一つは、フォルタン子爵を通じて《枷》の外縁部の地図を作ること。外縁から中心に向かって、少しずつ構造を明らかにしていく」
「時間がかかる方法ですわね」
「急いで中心を突けば、気づかれます。気づかれれば全て消えます。三百年かけて根を張ったものは、慎重に掘り起こさなければならない」
ヴィオレットは頷いた。
合理的な判断だと思った。根を断つとは言ったが、焦る理由はない。丁寧に、確実に進める方が最終的な成果は大きい。
「わかりました。では外縁部の地図を作るという観点から、フォルタン子爵の周辺を整理します」
「よろしくお願いします」
ヴィオレットは立ち上がりかけて、思い出したように言った。
「もう一つ確認です。今夜の書類に、影廷が半年前から内偵していると書いてありました」
「はい」
「その半年の間に、内偵していた工作員の報告内容は正確でしたか」
リュカが少し表情を変えた。
「どういう意味でしょうか」
「情報に、意図的な欠落や歪みがなかったかということです」
沈黙があった。
短い沈黙だったが、ヴィオレットには十分だった。
「懸念があるのですか、影廷内部の件について」
「以前、申し上げましたわね。情報漏洩の可能性があると」
「はい」
「今回の内偵担当は誰ですか」
「それは」
「お答えいただけないなら構いません。ただ、今回の件を進める際に内偵担当の工作員と情報を共有することは避けていただきたい。少なくとも私が動いている間は」
リュカは少し考えた。
「わかりました」
「ありがとうございます」
今度こそ立ち上がった。
「一つ伺っていいですか」
リュカが言った。
先週と同じ聞き方だった。帰り際に聞く習慣があるのかもしれない、とヴィオレットは思った。
「なんでしょう」
「影廷の内部に懸念を持つということは、私自身を信用しているということですか。それとも、私も疑っているということですか」
ヴィオレットは振り返らなかった。
「両方です」
「正直な答えですね」
「貴方が正直を好むようなので、合わせました」
「では私も正直に言います。それで構いません」
「ご理解いただけて助かります」
扉を開けた。夜の冷たい空気が入ってきた。
「《黒百合》」
リュカが呼んだ。今夜初めて、その名前を使った。
「はい」
「フォルタン子爵の件、子供たちについては急いでいます」
一拍あった。
リュカの声から計算が消えて、何か別のものが出てきた瞬間だった。
ヴィオレットはそれを聞いた。
「わかりました」
扉が閉まった。
夜の路地を歩きながら、ヴィオレットは考えた。
リュカが最後に言った言葉。子供たちについては急いでいます。
計算ではなかった。
あれは本心だった。
影廷の統括者が、任務の外で感情を持っている。それは弱点にもなり得るが、同時にこの男が信用できる可能性を示してもいた。
道具として動く人間は、本心で急がない。
ヴィオレットは星のない夜空を一瞬見上げた。
子供の売買。
スラム街の子供。
カインとミアが拾われる前にいた場所を思った。あの兄妹が、もし別の日に別の路地にいたら。
考えるだけ無駄だ、と思った。
しかし考えた。
急ぐ理由ができた、と思った。
リュカの感情からではなく、自分の中の何かから。
それが何かは、まだわからない。
ただ、帰宅したヴィオレットは自室の机に向かった。
フォルタン子爵の社交記録を頭の中で広げた。植物学に興味を持つ令嬢との会話を好む男。
植物学。
ヴィオレットは引き出しから手帳を取り出した。
そして静かに、最初の一手を考え始めた。
窓の外では、王都の夜がまだ深く続いていた。




