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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第五話「影の宰相は正面から来た」

名刺が届いたのは、晩餐会の三日後だった。


朝の郵便物をカインが仕分けていた時のことだ。他の書状と同じように封蝋が押された、一見なんの変哲もない白い封筒だった。しかし差出人の名前がなかった。代わりに、封蝋に小さな紋様が押されていた。


カインはその封筒をヴィオレットの元へ持ってきた時、いつもと違う顔をしていた。無表情に近いが、目の奥に何かが宿っていた。


「これを」


「見ましたか」


「封蝋だけ」


「わかりました」


ヴィオレットは封筒を受け取った。封蝋の紋様を確認した。影廷の印だ。公式のものではない。影廷の正式な文書に押される印とは微妙に異なる、個人の印だった。


開封した。


中には一枚の名刺だけが入っていた。


リュカ・ヴェルサ。


それだけが書かれていた。肩書きも、所属も、住所も、何もなかった。ただ名前だけが、細く整った筆跡で記されていた。


裏には、日付と時刻と場所だけがあった。


三日後の夜。王都の東区にある、貴族御用達の茶館の名前。


ヴィオレットはしばらく名刺を見ていた。


正面から来た、と思った。


影廷が、正面から名刺を送ってきた。


影廷の歴史でそういうことがあったとは聞いたことがない。工作員を送り込み、情報を集め、必要なら排除する。それが影廷のやり方だ。名刺など、概念として存在しないはずの組織だった。


それが名刺を送ってきた。


つまり。


この接触を主導した人間は、頭が良い。


正面から来ることが最も安全な接触方法だと判断した。その判断は正しい。夜に屋敷へ忍び込めば四人目以降の対応になる、とヴィオレット自身が伝言を送った。ならば名刺を送る。茶館で会う。それが現状で最も損失の少ない選択だ。


会う理由がある。


会わない理由もある。


ヴィオレットは名刺を折り畳んで、机の引き出しに入れた。


返事はしなかった。返事をする手段も書かれていなかった。


行くか行かないか、当日になるまで決めなくていい。それも含めて、この接触は周到だった。


三日間、ヴィオレットは普段通りに過ごした。


学園へ行き、授業を受け、アメリのくだらない話を聞き、レインの探りを受け流し、帰宅して夕食を食べ、父と紅茶を飲み、眠った。


ただ、その三日間で影廷について知っていることを全て整理した。


リュカ・ヴェルサという名前については、以前から把握していた。影廷の実質的な統括者。年齢不詳。素性不明。王家直属の影。この王国で最も多くの秘密を知っている可能性がある人間だ。


名刺の筆跡を思い出した。細く、整っていた。力みがない。書き慣れた手だ。しかし字体に癖がない。訓練された筆跡だ。出自を消している人間の書き方だった。


三日目の夜、ヴィオレットはミアに言った。


「今夜は少し外出します」


「お供を」


「いりません」


「お嬢様」


「カインも、です」


ミアが何か言いかけた。言葉になる前に、ヴィオレットが先に言った。


「問題があれば自分で対処できます。問題がなければ護衛は不要です。どちらにしても、二人は屋敷にいなさい」


ミアは口を閉じた。


一拍おいて、頷いた。


「お気をつけて」


「ええ」


ヴィオレットは夜会用のドレスではなく、落ち着いた色の外出着を選んだ。目立たず、しかし公爵令嬢として不自然でない装いだ。黒いケープを羽織り、手袋をつけた。


一人で屋敷を出た。


夜の王都を歩くのは、それほど珍しいことではなかった。令嬢が一人で夜道を歩くことは社交的に望ましくないが、ヴィオレットにとって夜道ほど安全な場所はない。


東区は王都の中でも落ち着いた地区だった。貴族と上流市民が住み、清潔な石畳が続いている。茶館は大通りから一本入った路地に面していた。


扉を開けると、温かい空気と茶の香りが迎えた。


客は数組いた。貴族らしい老夫婦、若い商人二人組、窓際で一人本を読む男。


ヴィオレットは窓際の男を見た。


歳の頃は三十代半ば、と見えた。しかし顔立ちは年齢の判断を難しくする種類の整い方をしていた。暗い色の外出着を纏い、本を持っているが、視線が文字を追っていない。入口を確認していた。こちらを見た。


目が合った。


男が本を閉じた。


ヴィオレットは席へ向かった。


向かいに座った。


男は先に口を開かなかった。ヴィオレットも先に口を開かなかった。


給仕が来た。ヴィオレットは茶を頼んだ。給仕が去った。


沈黙が続いた。


暖炉の爆ぜる音が聞こえた。他の客の話し声が遠くにある。


先に口を開いたのは、男だった。


「お越しいただけるとは思っていませんでした」


「名刺を送っておいて、来ないとお思いでしたか」


「五分五分とは思っていました」


「ずいぶん正直な方ですわね」


「貴女に対して計算した言葉を使っても意味がないと思いましたので」


ヴィオレットは相手を見た。


リュカ・ヴェルサ。近くで見ると、遠くから観察した印象とほぼ変わらなかった。それが訓練の証拠だ。距離によって印象が変わる人間は、どこかに作りものがある。この男はどの距離でも同じ顔をしている。


「名刺の件ですが」


「はい」


「影廷の歴史で初めてのことだと、自分でもわかっています」


「そのようですわね」


「他に方法がなかった」


「三人では足りませんでしたか」


「一人目が帰還した時点で、足りないとわかっていました」


ヴィオレットの茶が運ばれてきた。茶杯を手に取り、一口飲んだ。問題なかった。


「確認させてください」


男が言った。


「はい」


「一人目の工作員の持ち物から、影廷の身分証を見つけた。それで我々の所属を確認した、ということで間違いありませんか」


「はい」


「その時点で、排除しなかった」


「はい」


「理由を伺えますか」


ヴィオレットは茶杯を置いた。


「排除すれば、次が来ます。次を排除すれば、またその次が来る。それでは終わりがありません。どこかで対話をする必要があると判断しました」


「対話を、望んでいた」


「状況として、その方が合理的と思いましたので」


「なるほど」


男は少し間を置いた。


「では、我々が接触してくることは予測していた」


「いつかは、と」


「三人目の工作員への伝言もそのためですか。四人目以降は対応が変わると」


「催促のつもりでした」


男が初めて、わずかに表情を動かした。笑ったわけではない。ただ、何かが目の奥で動いた。


「催促」


「このままではいつまでも工作員が来続けます。埒が明かない。ですから少し急かしました」


「影廷を、催促した」


「迷惑でしたか」


「いいえ」


男は首を振った。


「合理的な判断です。ただ、影廷の三百年の歴史の中で、我々を催促した人間がいたとは」


「初めてでしたか」


「おそらく」


ヴィオレットは窓の外を一瞬見た。夜の路地に人影はない。茶館の外に気配も感じない。今夜の接触は本当に二人だけのつもりらしかった。


それも計算のうち、と思った。護衛を置けば警戒させる。一人で来ることで誠実さを示す。周到な男だ。


「本題に入りましょうか」


ヴィオレットが言った。


「ええ」


「影廷が私に接触した理由は、勧誘ですか」


「そうです」


「どのような」


男は姿勢を変えずに、静かに話し始めた。


影廷が三百年間やってきたこと。腐敗を排除し続けながら、腐敗が死ななかったこと。《黄金の枷》という構造の存在。王が包囲されている現状。影廷内部にも腐敗の手が伸びている可能性。


ヴィオレットは黙って聞いた。


知っていることも、知らないこともあった。知っていることは確認になり、知らないことは新しい情報になった。この男が嘘をついているかどうかを、話しながら確認し続けた。


今のところ、嘘はない。


「我々には、できないことがあります」


男が言った。


「《黄金の枷》の全容を掴めていない。内部に情報漏洩がある可能性があるため、精緻な諜報が難しい。また、貴族社会の内側に完全に溶け込むことができない」


「工作員では限界がある」


「はい。貴族の本音は、貴族にしか見せない」


「それで公爵令嬢が必要だと」


「貴女でなければならない理由がある」


男は続けた。


「公爵令嬢という身分。ノワール家の中立という立場。《黄金の枷》がまだ手を出していない家。どの派閥にも属さないがゆえに、どの派閥の者とも対等に接触できる」


「表向きの理由はそうでしょう」


「はい」


「裏向きの理由は」


男が少し黙った。


「貴女の実力です」


「もう少し具体的に」


「三人の工作員を、傷一つなく制圧した。影廷の身分証を発見した。伝言を送ってきた。この一連の行動が示すのは、実力だけではありません。判断力と、自制心です」


「自制心」


「排除できたはずです。しかししなかった。感情ではなく、状況を見て動いた。我々が必要としているのは、そういう人間です」


ヴィオレットは茶を飲んだ。


この男は観察眼がある。三人の工作員の件だけで、かなりのことを読んでいる。


「条件を申し上げます」


ヴィオレットが言った。


「はい」


「一つ。私は誰の指揮も受けません。協力はする。しかし命令系統には入らない」


「承知しました」


「二つ。私が不要と判断した依頼は断ります。理由は説明しない場合もあります」


「承知しました」


「三つ。カインとミアは影廷に登録しません。私の私事として扱う」


「承知しました」


「四つ」


ヴィオレットは男を見た。


「情報の共有は双方向でなければなりません。私が情報を提供する代わりに、影廷が持つ情報も適切に共有していただく。一方的な提供関係では動きません」


男は少し間を置いた。


「それは影廷の規則として、難しい部分があります」


「では結構です」


「ただし」


男が続けた。


「私の判断で共有できる範囲では、共有します。影廷の規則に縛られない形で」


「貴方個人の判断で、ということですか」


「そうなります」


「それは、貴方が相当の権限を持っていなければ成立しない話ですわね」


「影廷の統括として、判断できる範囲は広い」


ヴィオレットは男を見た。


この男が影廷の統括であることは知っていた。しかし自分の口からそれを言った。身分を明かした、ということだ。


「わかりました」


「受けていただけますか」


「もう一つ、聞かせてください」


「はい」


「王国の腐敗を排除することが目的と理解しています。しかし影廷が本当に望んでいることは何ですか」


男は即答しなかった。


少し考えた。


「王国を、守ることです」


「もう少し具体的に」


「三百年、この国は平和でした。その平和の上に、今の民の暮らしがある。腐敗がいかに深くとも、戦争にはなっていない。飢えて死ぬ民は、まだそれほど多くない。その均衡を、これ以上崩したくない」


「均衡を保つために、影廷は動いてきた」


「はい」


「しかし限界が来ている」


「はい」


ヴィオレットは窓の外を見た。


夜の路地は静かだった。遠くで馬車の音がした。


「一つだけ、申し上げます」


「はい」


「均衡を保つことと、根を断つことは、時に矛盾します」


「わかっています」


「根を断つためには、一時的に均衡が崩れる可能性がある。それを許容できますか」


男は答えなかった。


すぐには。


窓の外を見て、茶杯を一度手に取り、置いた。


「それが今、私に答えられる問いかどうか、わかりません」


「正直な答えですわね」


「貴女に嘘をついても意味がないと、最初に申し上げました」


ヴィオレットは少し考えた。


この男は正直だ。今夜わかったことの中で、それが最も重要だった。計算はある。しかし嘘はない。嘘をつかないことを選んでいる。それは信念か、あるいは戦略か。どちらにせよ、今夜の段階では信用に足ると判断できた。


「わかりました」


「受けていただけますか」


「条件が全て承認されることを前提に」


「はい」


「協力します」


男の表情が、わずかに変わった。安堵、とは少し違う。何かが解けたような、静かな変化だった。


「ありがとうございます」


「お礼はまだ結構です」


ヴィオレットは立ち上がった。


「成果が出てから言ってください」


「そうします」


「それと」


ヴィオレットは男を見下ろした。


「私のことは《黒百合》と呼んでいただければ十分です。本名は、仕事に不要です」


男は一拍おいて、頷いた。


「では、《黒百合》と」


「はい」


ヴィオレットはケープを整えた。伝票を取り、茶の代金を置いた。


「次の接触はどのように」


「同じ方法で構いません。名刺であれば受け取ります」


「わかりました」


ヴィオレットは茶館の出口へ向かった。扉に手をかけたところで、後ろから声がした。


「一つだけ、伺ってもよいですか」


振り返らなかった。


「なんでしょう」


「なぜ、受けていただけたのですか」


ヴィオレットは扉を少し開けた。夜の冷たい空気が入ってきた。


「根を断つ仕事に、興味があります」


「それだけですか」


少し間があった。


「今のところは」


扉が開いた。


夜の路地へ出た。


扉が閉まった。


リュカは茶館の中で、しばらく扉を見ていた。


それから、今夜初めて、声を出さずに笑った。


今のところは、という言葉を反芻した。


先があることを示唆している。しかし何かは言わなかった。


この令嬢は、全てを話さない。話す必要があることだけを、必要な分だけ話す。


三百年、影廷はこの国の影を担ってきた。数え切れない人間と接触してきた。


しかし、こういう人間には、初めて会った。


リュカは茶杯を手に取った。茶はすっかり冷めていた。


それでも一口飲んで、静かに思った。


これで、初めて根に届く可能性ができた。


夜の王都はまだ深く、しかしどこかに光の気配があった。


一方ヴィオレットは、夜の路地を一人で歩いていた。


帰り道を歩きながら、今夜の会話を整理した。


リュカ・ヴェルサという人間の評価。観察眼がある。判断が速い。嘘をつかないことを選んでいる。感情がないわけではないが、感情で動かない。


信用できるかどうかは、まだわからない。


しかし、仕事ができるかどうかは、わかった。


できる人間だ。


それで十分だった。


今夜の接触で決めたことは一つだった。


根を断つ。


《黄金の枷》の根を、その先にあるものまで含めて、断つ。


それが今世のヴィオレットの仕事になった。


前世では、依頼があって動いた。


今世では、自分で決めて動く。


その違いが何を意味するのか、まだ言葉にはならない。


ただ、悪くないと思った。


公爵家の灯りが、夜の向こうに見えてきた。


二階の窓に、明かりがついていた。


母の部屋だった。


明日の朝食で、何か話しかけよう、とまた思った。


何を話すかは、まだ決まっていない。


黒百合は今夜、一人で夜の王都を歩く。


仮面は完璧だった。


ただその内側で、今夜から何かが始まった。

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