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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第四話「晩餐会という戦場」

その夜の晩餐会は、ドレヴァン侯爵家が主催だった。


王都の中心に建つドレヴァン侯爵邸は、外観だけで権力を主張する種類の建物だ。白亜の柱が正面に並び、夜には無数の燈台が灯されて、遠くからでも光の塊として見える。招待状を持つ者だけが入れる光の中に、この王国の腐敗の相当な部分が集まっていた。


馬車が邸の正面に止まった。


ヴィオレットは窓から外を見た。すでに十数台の馬車が並んでいる。御者の紋章を流し見る。ルヴァン家。サーシェン家。カスタール家。


一台で《黄金の枷》の三門閥が揃っている。


「お嬢様」


ミアが扉を開けた。ヴィオレットは手袋の指先を整えて、降車した。


夜の空気が頬に触れた。秋の終わりの冷たさだった。


正面の階段を上りながら、ヴィオレットは入口、窓の位置、警備の人間の立ち場所、庭への抜け道を三秒で把握した。


今夜ここにいる人間の中で、何人が本当の警備で、何人が《枷》の私兵かを考える。制服が同じでも、立ち方が違う。本職の警備は重心が安定している。私兵は心なしか、招待客を見る目に値踏みの色がある。


私兵は六人、と踏んだ。


「ヴィオレット嬢」


階段の上から声がかかった。


ドレヴァン侯爵の嫡男、ベルナール・ドレヴァン。二十二歳。父の跡を継ぐべく貴族院で研鑽中の、愛想のいい男だった。金髪を丁寧に整え、にこやかに手を差し伸べてくる。


その笑顔の裏で何を計算しているか、ヴィオレットには見えた。


「ベルナール様、お招きありがとうございます」


「いえいえ、来てくださって嬉しいですよ。ノワール公爵令嬢がいらっしゃるだけで、会が華やぎます」


「まあ、過分なお言葉ですわ」


手を取り、階段を上る。この男の手の力加減が、わずかに計算されていた。強すぎず弱すぎず、令嬢が不快にならない絶妙な力で、しかし確実に誘導している。


訓練された手だ、とヴィオレットは思う。


社交の訓練か、それとも別の種類の訓練か。


「今夜はご父君はご一緒でないのですか」


「父は別の先約がございまして」


「残念ですね。ぜひエドワール公爵ともゆっくりお話ししたかったのですが」


「機会がございましたら」


「ええ、ぜひ」


社交の言葉は、全て二重構造だ。表の意味と、裏の意図がある。ベルナールの「残念ですね」は本心だろう。ノワール公爵を引き込みたい《枷》にとって、当主が来なかったことは計算が外れたことを意味する。


今夜の招待の目的が、公爵家の取り込みにあるなら。


標的は、令嬢になる。


ヴィオレットは微笑みを崩さないまま、宴会場へ入った。


広間は人で満ちていた。色とりどりのドレス、燕尾服、宝石の光。シャンデリアが頭上で煌めき、弦楽四重奏が壁際で演奏している。香水と蝋燭と食べ物の匂いが混ざって、広間独特の空気を作っていた。


その中に、一つ、異質な匂いがあった。


微かだった。花の香水に紛れて、ほとんど誰も気づかない程度に。


しかしヴィオレットは気づいた。


ベラドンナ。


希釈されている。薄い。直接的な毒性を発揮する濃度ではない。しかし長時間この空間にいれば、判断力が鈍る。気が大きくなる。本音が漏れやすくなる。


なるほど、と思った。


殺すためではなく、話させるための毒だ。


精巧な仕事だった。こういう使い方を知っている人間は少ない。《枷》の中に、毒に通じた者がいる。


ヴィオレットは呼吸を浅くした。肺に取り込む空気を最小限にする。前世で身につけた技術だった。毒霧の中を進む時に使った呼吸法だ。今夜これが役立つとは思わなかったが、準備していなかったとしても気づいた瞬間に切り替えられた。


その間、表情は変わらない。微笑みは完璧だった。


「ヴィオレット様」


別の声がした。


振り返る前に、声の主がわかった。


レイン第二王子が、ワインのグラスを片手に立っていた。学園で見る制服姿ではなく、今夜は深緑の夜会服を纏っている。それが似合う男だった。


「殿下、本日はご出席でしたか」


「貴女がいらっしゃるとは思いませんでしたよ。ノワール公爵家はドレヴァン家とは距離を置いていると思っていましたが」


「招待を受けることと、距離を置くことは矛盾しませんわ」


「なるほど。では今夜は何をしに?」


「晩餐をいただきに」


「それだけですか」


「殿下こそ」


レインは少し笑った。今夜の笑顔は、学園で見るものとやや違う。場が違えば人も違う。この男はその切り替えが速い。


「私は義務です。第二王子が主催の晩餐を断れば、それ自体が政治的なメッセージになる」


「正直なお言葉ですわ」


「貴女には正直でいた方が、長持ちしそうですので」


ヴィオレットはグラスを一つ取った。ワインを、口元に運ぶ。飲んでいない。唇が濡れる程度だ。今夜のワインに何が入っているかを確認しないうちに飲む習慣は、前世から持っていない。


確認した。問題なかった。


一口、飲んだ。


「空気が少し重いと思いませんか、殿下」


「重い?」


「この広間、お花の香りが強すぎますわ。私は少し苦手で」


レインが一瞬、目を細めた。


この男は気づいているかもしれない、とヴィオレットは思った。気づいた上で、どう動くかを測っているのかもしれない。


「そうですね、少し窓の近くへ移動しますか」


「ご親切に、ありがとうございます」


二人で窓際へ移動した。窓が一枚、わずかに開いている。夜の空気が細く入ってくる。ここは広間の中で最も薄い場所だった。


レインが選んだのか、それとも偶然か。


判断を留保した。


窓の外の庭に、人影が二つあった。警備のふりをした私兵だ。会話の内容を外から確認する役目を担っている可能性がある。


「ヴィオレット様は、ドレヴァン家とどのようなご関係で」


「関係はございません。今夜が初めての晩餐会参加ですわ」


「ノワール公爵家はどの家とも関係を結ばない主義でしたか」


「清廉が家訓ですので」


「清廉ですか」


レインがワインを飲んだ。本当に飲んだ。この男は今夜のワインを信用しているか、あるいは体質的に耐性があるか、それとも別の何かがあるか。


「清廉というのは、孤独ですね」


「孤独には慣れています」


「それは寂しいことだ」


「そうでしょうか」


ヴィオレットは窓の外の庭を一瞬見た。


「孤独でいることを選んでいるなら、寂しくはありませんわ」


「ではノワール家は、孤独を選んでいる」


「どの家とも等しく、礼節をもってお付き合いしているつもりですが」


「それを孤独と言うのですよ」


レインは静かに言った。


その声に、初めて計算ではない何かが混じった気がした。ヴィオレットは相手の目を見た。金色の瞳が、今夜は少し違う色をしていた。


「私も似たようなものかもしれません」


「殿下が?」


「第二王子という立場は、どの派閥とも真の意味では組めない。組んだふりをしながら、常に距離を測っている」


「……」


「貴女とは、そういう意味で話がしやすい」


ヴィオレットは何も言わなかった。


この発言が本心か、計算か。あるいはその両方か。レイン・ヴェルナという人間は、本心と計算が区別できないほど混ざり合っている。それがこの男の強さであり、最も判断が難しい部分でもある。


「光栄ですわ」


「社交的なお返事だ」


「晩餐会ですから」


レインが今度は声を出して笑った。


その笑い声が広間に広がった瞬間、周囲の何人かが視線を向けた。第二王子と黒百合令嬢が窓際で会話をしている。それだけで明日の社交界の話題になる。


ヴィオレットは内心でため息をついた。


面倒なことになった。


「殿下、本日は主賓のドレヴァン様へのご挨拶はお済みですか」


「まだですが」


「では私も一緒にご挨拶に伺いましょうか。ご一緒する方が自然かと」


レインが少し考えて、頷いた。


二人でベルナールのいる方へ移動する。レインと並んで歩くことで、今夜これ以上の余計な会話を防げる。第二王子の隣にいる令嬢に、他の貴族は容易に近づかない。


計算通りだった。


ベルナールは二人を見て、明らかに予想外という顔をした。しかしすぐに笑顔を作り直した。


「これは殿下、そしてヴィオレット嬢。お二人でご一緒とは」


「学園の同級生ですから」


レインが先に答えた。


「なるほど、ご縁がおありで」


「本日はお招きありがとうございます、ベルナール様。素晴らしい会でございます」


「ありがとうございます。ヴィオレット嬢、よろしければ後ほどお父君についてお話しする機会をいただけますか。エドワール公爵と一度ぜひ懇意にさせていただきたく」


「父に伝えておきます」


「ぜひ。ノワール公爵家には、我々としても色々とご相談したいことが」


「そうでございますか。父は多忙ですが、機会があれば」


会話が続く。ベルナールは丁寧に、しかし確実に距離を詰めようとしてくる。ヴィオレットは柔らかく、しかし一歩も近づかないまま会話を続けた。


礼節を持って距離を保つことを、この十六年で完璧に身につけていた。


テーブルの方から、给仕が料理を運び始めた。晩餐の始まりの合図だった。


着席の案内が始まる中、ヴィオレットは自分の座席を確認した。


壁際ではなかった。広間の中央寄りだった。


席を変えることを考えた。しかし理由なく席を変えれば、それ自体が不自然になる。今夜は、この席でいい。背後の確認を怠らなければいい。


着席した。


隣の席の貴族が挨拶してきた。サーシェン伯爵家の次男だった。愛想のいい笑顔の下に、観察の目があった。


「ヴィオレット嬢はお初にお目にかかりますね」


「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」


「いえいえ、黒百合令嬢のお名前は以前から。学園でもご優秀とうかがっています」


「過分なお言葉です」


テーブルの上に料理が並んでいく。スープ、前菜、魚料理。ヴィオレットはそれぞれを一瞬で確認した。


スープは問題なかった。


前菜の一品、燻製肉の上にかかっているソースに、わずかな違和感があった。


確認した。ハーブの配合が、一つ過剰だった。ヴァレリアンだ。睡眠を誘う効果がある。毒ではない。ただし大量に摂取すれば、判断力が鈍る。


今夜の広間は、周到だった。


空気に薄くベラドンナ。ワインに何もなし。料理にヴァレリアン。


全て単体では害がない。しかし組み合わさることで、緩やかに思考を柔らかくする。


これが今夜の晩餐会の設計だ。


ヴィオレットは前菜のソースを残して、燻製肉だけを食べた。理由は「ソースが少し濃いですわ」と隣の次男に微笑みかけながら言えば、それで十分だった。


晩餐が進む。


会話が弾む。笑い声が上がる。徐々に広間全体の空気が、入室直後より柔らかくなっていった。


ヴィオレットだけが、正確に素面だった。


そのまま広間全体を観察した。


誰が今夜の設計を知っているか。


ベルナールは知っている。表情が、時折緩む人々を確認する目をしている。


サーシェン次男も知っている。隣の席から、ヴィオレットの料理の残し方を観察していた。


では知らない人間は誰か。


第一王子オスカルが、テーブルの向こう側に座っていた。今夜も穏やかな顔をして、周囲と会話をしている。時折笑う。その笑い方が、少しずつ普段より大きくなっていた。


知らないのだ、とヴィオレットは思った。


第一王子は今夜の仕掛けを知らない。知らないまま、空気とソースに緩められている。


このまま晩餐が終われば、オスカルは何かを話す。話すべきでないことを、話してしまうかもしれない。


ヴィオレットはオスカルを見た。


善人だ、とまた思った。


善人が道具にされる場面を、介入すべきかどうか。


介入すれば、今夜の設計に気づいていることがベルナールにわかる。それは今夜明かすべき情報ではない。


介入しなければ、オスカルが何かを喋る。その内容によっては、回収不可能な損害が生まれる。


二秒、考えた。


決めた。


ヴィオレットは席を立った。テーブルを回って、オスカルの近くに移動した。


「殿下、先ほどの政治学の話の続きを伺えますか。学園での授業でご意見を聞きそびれていたもので」


オスカルが顔を上げた。


「ヴィオレット嬢、ああ、えーと、政治学というと」


「貴族院の役割についてですわ。先日の授業で殿下が仰っていた、貴族の義務という観点から」


政治学の授業の話など、した覚えがオスカルにはないはずだ。しかしこの状況の彼には、そこまで思い至らない。


「そうですね、貴族の義務というのは」


オスカルが話し始めた。ヴィオレットは相槌を打ちながら、話題を政治学の一般論に誘導し続けた。無害な方向に、ただ流し続けた。


その間、ベルナールがこちらを見ていた。


ヴィオレットは気づかないふりをした。


晩餐会は、二時間後に終わった。


テーブルの上の全てが片付けられ、招待客たちが次第に帰路についていく。


ヴィオレットもベルナールに礼を述べて、外へ出た。


夜の空気が冷たかった。


大きく、一度、息を吸った。


ミアが馬車の傍で待っていた。ヴィオレットを見て、微妙な表情をした。


「お嬢様、何かありましたか」


「晩餐会でしたよ、普通の」


「その割に、お帰りが少し遅かったですが」


「料理が多かったのです」


馬車に乗った。扉が閉まった。


カインが御者台から一度振り返った。言葉はなかった。ただ、確認の視線だった。


ヴィオレットは小さく首を振った。


異常なし、という意味だ。


馬車が動き出した。


石畳の上を蹄が叩いていく。夜の王都が、窓の外を流れていく。


「お嬢様」


ミアが小声で言った。


「晩餐会、楽しかったですか」


ヴィオレットは窓の外を見ながら、少し考えた。


「急所が多すぎて、数えるのが追いつかなかったですわ」


ミアが一瞬黙った。


「……楽しくなかった、ということですね」


「晩餐の魚料理は美味しかったです」


「それが一番の感想ですか」


「ソースを残したのが惜しかった」


ミアはもう何も聞かなかった。


ヴィオレットは夜の王都を見続けた。


今夜の件は、リュカへの報告に加える必要がある。《枷》が晩餐会の場で緩やかな薬物を使用したこと。対象に第一王子も含まれていたこと。


そして。


ヴィオレットは窓から目を離した。


今夜の自分がオスカルに介入したこと。


それが正しい判断だったかどうかは、まだわからない。


しかし。


善人が知らぬうちに道具にされる場面を、見過ごすことが自分にはできなかった。


それが感情なのか、判断なのか。


前世の自分にはなかったものだ。


今世の自分には、あった。


馬車が公爵家の門に差し掛かった。


ヴィオレットは一度目を閉じた。


今夜の晩餐会で収集した情報を整理した。《枷》の手口、薬物の種類、私兵の人数、ベルナールの目的、オスカルの無防備さ、レインの本心と計算の境界線。


全て、記憶した。


全て、手帳に書き落とす。


馬車が止まった。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


カインが扉を開けた。


ヴィオレットは降車した。夜の公爵家の庭が、静かに広がっていた。


屋敷の二階の窓に、明かりがついていた。


母の部屋だった。


まだ起きているのだ、とヴィオレットは思った。


そういえば今朝、何か話しかけようと思っていた。朝食で、何かを。


結局、何も言わなかった。


明日の朝食で、と思った。


何を話すかは、まだ決まっていない。


ただ、話したいと思った。


それだけは変わらなかった。


黒百合は今夜も、静かに屋敷へ戻る。


仮面はまだ、完璧だった。


ただその内側で、今夜初めて知ったことがあった。


善人が道具にされる場面を、見過ごせない自分がいる。


それが何を意味するのか。


答えは、まだ先にある。

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