第三話「公爵家の食卓」
公爵家の朝は、香りから始まる。
厨房から漂うパンの焼ける匂いが、石造りの廊下を伝って東棟まで届く頃、ノワール公爵家の一日は静かに動き出す。使用人たちの足音、食器が並べられる音、庭師が剪定鋏を動かす音。それらが重なって、一つの家の息吹になる。
ヴィオレットはその音の全てを、目を覚ます前から聞いていた。
今朝は、珍しいことがあった。
目覚めた瞬間に、昨夜の夢の残滓があった。
夢を見た記憶が、ある。内容は覚えていない。ただ、暗くはなかった気がする。それだけが、靄のように残っていた。
前世では、夢を見なかった。
厳密には、見ていたのかもしれない。しかし目覚めた瞬間に全てを切り捨てる習慣がついていたから、残ったことがなかった。
今朝は、残っている。
それが何を意味するのか考えかけて、ヴィオレットはやめた。朝から答えの出ない問いに時間を使う趣味はない。
ベッドから起き上がり、窓の外を確認する。
庭師、本物。使用人二名、問題なし。東の生垣の向こう、通りに人影、通行人。
今朝の確認は、二秒だった。
昨日より一秒改善した。
砂糖は今日も一つにしようと、窓の外を見ながら思った。
扉のノックは、今朝は四回だった。
三回がミアの定番だ。四回は違う。
「どうぞ」
入ってきたのは、母だった。
イザベル・ド・ノワール公爵夫人。亜麻色の髪を朝の光の中に揺らして、普段より少し早い時間に、娘の部屋の扉を開けた。手に、白い花が一輪あった。
「おはよう、ヴィオレット。少し早いけれど、いいかしら」
「もちろんですわ、お母様」
ヴィオレットは立ち上がり、椅子を勧めた。母は椅子には座らず、部屋をゆっくりと見渡した。
整然とした部屋だった。本棚には学術書と植物図鑑が並んでいる。机の上には昨夜閉じた手帳がある。窓際には、鉢植えが三つ。
母の視線が、鉢植えで止まった。
見ている、とヴィオレットは思った。
鉢植えの三つは、全て観賞用の植物だ。毒性のあるものは、別の場所に保管してある。この部屋に置いているものは、どれも安全だ。
しかし。
お母様は昨夜、この部屋に来たのだろう。
ミアが廊下を歩く音を聞いた、と昨夜思った。しかしあれは、ミアではなかったのかもしれない。足音の質が、少し違った。気づいていたのに、判断を誤った。
迂闊だった。
「きれいな植物ね」
母が言った。
「ええ、植物学が趣味ですから」
「そう。ヴィオレットはいつから植物に興味を持ったかしら」
「八歳の頃だったと思います。薬草の本を読んで」
「薬草」
「植物の性質を知ることは、教養の一つかと」
母はしばらく鉢植えを見ていた。それから、手の中の白い花に視線を落とした。
「これ、庭から摘んできたの」
母が花を差し出した。小さな白い花だった。名前はヴィオレットにはすぐわかった。スノードロップ。毒性はない。春の初めに咲く、清潔な花だ。
「まあ」
「部屋に飾ろうと思って。よかったら」
「ありがとうございます、お母様」
ヴィオレットは花を受け取った。細い茎が、白い手袋の指先に触れた。
母が、娘の顔を見た。
ヴィオレットは微笑んだ。完璧な令嬢の微笑みで。
母も微笑んだ。しかし母の微笑みは、どこか翳りを含んでいた。娘に似た翳りではなく、母親だけが持つ、柔らかくて少し痛い種類の翳りだった。
「ヴィオレット」
「はい」
「……何でもないわ」
母は首を振った。
「朝食、もうすぐできるから」
「はい、すぐ参ります」
母が部屋を出た後、ヴィオレットは手の中の花を見た。
スノードロップ。花言葉は、希望。慰め。
お母様は、何を言いかけたのだろう。
答えは、わからなかった。
ヴィオレットは花を机の上の小さな花瓶に挿した。部屋の中で、それだけが白かった。
食堂の朝は、いつも通りだった。
父が新聞を読んでいた。コーヒーが湯気を立てている。使用人が音もなく食器を並べていく。窓から朝の光が差し込んで、磨かれたテーブルの上に四角い影を作っていた。
「おはよう、ヴィオレット」
「おはようございます、お父様」
椅子を引いて腰を下ろす。ミアが茶器を準備する。紅茶が注がれる。砂糖を、一つ。
父が新聞越しに娘を見た。何も言わなかった。ただ一瞬、娘の手元を見た。砂糖が一つになったことに気づいたかどうかは、父の表情からは読めなかった。
読めない、のだ、とヴィオレットは密かに思う。
父エドワールは、公爵家の当主として完璧だ。政治的判断も、人脈の管理も、家訓の体現も。しかし娘が最も油断ならないと感じるのは、父のその読めなさだった。
読めない相手は、危険だ。
前世では、そういう相手から先に距離を取っていた。
今世では、同じ食卓に座っている。
それが家族ということなのかもしれない、とヴィオレットは思った。
扉が開いて、母が入ってきた。今朝はすでに帽子を変えていた。青い帽子だ。
「おはようございます!今日は少し冷えるわねえ、エドワール様、上着を一枚追加した方が良くてよ。ヴィオレットは? ちゃんとあったかくして来た?」
「はい、お母様」
「ミアちゃんも?」
「はい、奥様」
「よかった。さあ食べましょう」
朝食が始まった。
パンと、スープと、焼いた魚と、季節の野菜。公爵家にしては質素な朝食だが、エドワール公爵が「朝は胃を労われ」という主義だった。ヴィオレットもその方針を合理的だと思っていた。
しばらく、食器の音だけが続いた。
父が新聞を折り畳んだ。それが「話がある」のサインだということを、ヴィオレットは長年の観察で知っていた。
「今週、ルヴァン公爵家から茶会の招待が来た」
「ルヴァン家」
ヴィオレットは表情を変えなかった。
ルヴァン公爵家。《黄金の枷》第三門閥。司法と貴族院を掌握する、腐敗の一翼を担う家だ。
「行かれるのですか、お父様」
「断った」
「まあ、また?」
母が少し困った顔をした。社交を重視する母にとって、招待を断ることは得策ではない場合が多い。
「今年だけで三度目ですよ、エドワール様。ルヴァン家の方々も気を悪くされるのでは」
「ルヴァン公爵が気を悪くするなら、それは彼の問題だ」
「でも関係を悪化させるのは」
「良好な関係を結ぶ相手を選ぶのも、外交だ」
父は穏やかに、しかし揺るぎなく言った。
母は少し黙った。それ以上は言わなかった。このやり取りも、何度か繰り返されてきたものだということを、ヴィオレットは知っていた。
お父様は知っている、とヴィオレットは思った。ルヴァン家が何者かを、ある程度は。
どこまで知っているかは、わからない。しかし公爵家が三百年にわたって清廉を守ってきた背景に、当主の政治的洞察がなかったとは思えない。
「ヴィオレット」
父が娘を見た。
「茶会には、令嬢クラスの招待も来ていた。お前への招待も断っておいた」
「ありがとうございます」
「異存は?」
「ございません」
父は一度頷いて、コーヒーを飲んだ。それで朝の政治の話は終わった。
母が気を取り直したように明るい声を出した。
「そういえば、学園はどうかしら。お友達は?」
「楽しくやっております」
「アメリ・ソレイユ嬢とは仲良くしてるの? 先日、ソレイユ伯爵夫人とお茶した時に、娘がヴィオレット様と仲良くさせていただいていると嬉しそうに話していたって」
「ええ、アメリ様はよく声をかけてくださいます」
「良かった! ヴィオレットにちゃんとお友達がいるって聞くと安心するわ」
友人の定義が、前世と今世では大きく異なる、とヴィオレットは思った。
前世では、友人という概念が存在しなかった。仕事上の接触対象か、排除すべき相手か、どちらかしかいなかった。
アメリは、どちらでもない。
それが何なのか、まだ言語化できていない。
「昨日、クッキーをいただきました」
「あら! 美味しかった?」
「ええ、とても」
アーモンドが入っていた。予想通りだった。そして前世では知らなかったが、自分はアーモンドが好きらしい。
「よかった! ソレイユ夫人のお菓子は本当に上手なのよ、今度お母様にも持ってきてもらえないかしら」
「伝えておきます」
母が笑った。父が新聞を再び開いた。ミアが紅茶のおかわりを注いだ。
朝の食卓が、ゆっくりと流れていった。
ヴィオレットは自分の皿を見ながら、思う。
これが、家族の朝食だ。
前世では知らなかった。誰かと食卓を囲むとはどういうことか。食事の時間が会話の時間になるとはどういうことか。
不思議だと思う。
前世の自分が最も警戒していたはずのこと——背後に人がいること、無防備になること、感情を持つこと——が、この食卓では当たり前のように起きている。
それに対して、今の自分は。
悪くないと思っている。
進歩なのか、退化なのか。
判断は、まだ留保しておくことにした。
夜は早く来た。
秋の日は短い。夕刻の講義が終わって帰宅したヴィオレットが夕食を済ませた頃には、窓の外はすでに完全な夜になっていた。
父から声がかかったのは、夕食の片付けが終わった後だった。
「ヴィオレット、少し時間があるか」
「はい」
書斎は、公爵家の西棟にある。
分厚い本が壁を埋め、古い地図が額に入って飾られ、暖炉が低く燃えている部屋だ。父の書斎に呼ばれるのは、今世に転生してから数え切れないくらいあった。それでもヴィオレットは、この部屋に入るたびに毎回、入口で一瞬だけ止まる。
出口の確認。死角の確認。暖炉の火が武器になるかどうかの確認。
それが終わってから、椅子に座る。
前世の習慣は、抜けない。
「紅茶でいいか」
「はい」
父が自ら茶器を用意した。この書斎では、使用人を呼ばない。二人きりで紅茶を飲む時間が、父の選んだ方法だった。
茶が注がれた。湯気が上がる。
父が砂糖入れを差し出した。
ヴィオレットは砂糖を、一つ取った。
父は何も言わなかった。
二人で、しばらく黙って紅茶を飲んだ。暖炉が爆ぜる音がした。窓の外で風が鳴った。
この沈黙が、ヴィオレットは嫌いではなかった。
何かを話さなければならない沈黙ではない。何かを期待されている沈黙でもない。ただそこにある、静かな時間だった。
前世では、沈黙は常に警戒を意味した。沈黙している相手は、動く直前の相手だった。
この書斎の沈黙は、違う。
何の前触れでもない。ただの、静けさだった。
「ヴィオレット」
父が口を開いた。
「はい」
「ルヴァン家から連絡が来たのは、今週が初めてではない」
ヴィオレットは紅茶のカップを置いた。
「存じております」
「今年に入って、五度目だ」
「……五度、でしたか」
「朝食の時に言ったのは三度だった。お母様の前で全部話す必要もないからな」
父は暖炉を見ながら言った。その横顔が、食卓での穏やかな当主の顔とは、少しだけ違った。
やはり、お父様はわかっている、とヴィオレットは思った。
「ルヴァン家は、今何を求めているとお思いですか、お父様」
「縁談か、取り込みか、そのどちらかだ」
「縁談」
「お前への、な」
ヴィオレットは黙った。
父も黙った。
暖炉の火が揺れた。
「断り続ける」
父が言った。
「それがお前のためになるかどうか、父にはわからない。社交的には不利益かもしれない。ルヴァン家は貴族院に大きな影響力を持っている。逆らえば、どこかで不便が出てくる可能性もある」
「はい」
「それでも断る。この家の家訓は清廉だ。清廉でない相手と組むことは、家訓への背信だ」
父は暖炉から視線を外して、娘を見た。
「お前はどう思う」
「正しいご判断と思います」
「それだけか」
「はい」
父は少し、目を細めた。
「お前はいつもそうだな」
「何がでしょう」
「問いに対して、正しい答えを返す。的確に、過不足なく。しかし」
父は紅茶を一口飲んだ。
「自分の気持ちを答えない」
ヴィオレットは返答しなかった。
父は責めるような声ではなかった。ただ、静かに言った。それだけだった。
「ルヴァン家の縁談が来ていること、怖いと思わなかったか。あるいは煩わしいと思わなかったか。腹が立ったか。それとも、どうとも思わなかったか」
「……」
「どれが正解か聞いているのではない。ただ、お前がどう思ったか知りたかっただけだ」
どう思ったか、とヴィオレットは思った。
本当に、どう思ったか。
ルヴァン家からの縁談。《黄金の枷》の一角が、公爵令嬢を取り込もうとしている。そこに感情があったか。
あった。
あったのだ。驚いたことに。
「……少し、腹が立ちました」
「そうか」
「ノワール家を取り込めると思っているのかと」
「うん」
「それは、お父様とお母様への侮辱だと思いましたので」
父は、少しだけ表情が動いた。
笑ったわけではない。ただ目元が、わずかに緩んだ。
「そうか」
「はい」
「それは、正直に話してくれてありがとう」
父は新しい紅茶を注いだ。ヴィオレットのカップに、先に注いだ。
「砂糖は?」
「……一つで」
「そうか」
また沈黙が来た。
今度は、少し前の沈黙より、何か柔らかいものが混じっている気がした。
ヴィオレットは紅茶を飲みながら、思う。
腹が立ったのは本当だ。しかし理由が、自分でも少し意外だった。
ルヴァン家への怒りではない。自分が取り込みの対象にされたことへの怒りでもない。
父と母への侮辱だと感じた。
それが怒りの理由だった。
私はいつから、この家の人間に、そういう感情を持つようになったのか。
わからない。
しかし、あった。確かにあった。
「ヴィオレット」
「はい」
父が、今夜初めて、真正面から娘を見た。
「お前は幸せか」
問いが、暖炉の爆ぜる音の中に落ちた。
ヴィオレットは。
答えに、詰まった。
生まれて初めて。
この問いへの正しい答えがわからなかったのではない。正しい答えなら即座に出せる。「はい、お父様のおかげで幸せです」と。それは嘘ではないかもしれない。
しかし父は、正しい答えを求めていない。
どう思ったか、を聞いている。
幸せか。
幸せとは、何か。
前世では考えたことがなかった。今世では、考えたことがあったか。
ある、と思う。
アメリのクッキーを食べた時。砂糖が三つから四つになった夜。ミアが手袋を裏返したまま来た朝。カインが「同意します」と言った夜。
そして今、暖炉の前で父と紅茶を飲んでいるこの時間。
これが幸せかどうか、私にはわからない。
ただ。
「……わかりません」
ヴィオレットは、正直に答えた。
「そうか」
父は何も言わなかった。
ただ、新しい紅茶をもう一度注いだ。
砂糖入れを差し出した。
ヴィオレットは砂糖を、一つ取った。
手が止まった。
もう一つ、取った。
父は見ていなかった。新聞を広げていた。
二つになった砂糖が、紅茶の中に溶けていった。
わからない。
ただ。
悪くはない、と思う。
それだけは、確かだった。
その夜遅く、母はヴィオレットの部屋の前を通った。
扉の向こうは静かだった。娘は眠っているのだろう。
母は立ち止まって、扉を見た。
ノックしようとして、やめた。
何を話すつもりだったかしら、と母は思った。
昨夜、この部屋に来た。娘が眠っている間に、植物標本が並ぶ棚を見た。毒性の植物の本が、何冊もあった。詳細な書き込みがあった。
娘は「植物学の趣味」と言った。
それは嘘ではないかもしれない。
しかし母は、娘の書き込みを一ページだけ見た。その一ページだけで、これは趣味ではないとわかった。
あれは、研究だ。
深く、緻密で、目的を持った研究だ。
この子は何をしているのかしら。
わからない。
わからないまま、今朝スノードロップを持っていった。何かを言おうとして、言えなかった。
もし。
もしあの子が、何か大変なことをしているとしたら。
止めることはできない、と母は思った。
エドワールがルヴァン家を五度断っても揺るがないように、ヴィオレットもまた、一度決めたことを曲げる娘ではない。それはこの十六年で、はっきりわかっていた。
では、何ができるか。
そこにいること、だけかしら。
母は扉から手を離した。
廊下の燈台が、石の壁に影を作っている。
「おやすみ、ヴィオレット」
声には出さずに、唇だけで言った。
そして踵を返した。
扉の向こうで、七割の意識で眠るヴィオレットは、廊下の足音を聞いた。
判断した。
お母様だ。
来て、止まって、去った。
何をしに来たのだろう。
わからなかった。
ただ、扉の前で立ち止まったことは、わかった。
ヴィオレットは眠りの中で、思う。
明日の朝食で、何か話しかけてみようか。
何を話すかは、決まっていない。
しかし、何か話したいと思った。
それだけで十分だと、今夜は思うことにした。
公爵家の夜が、深く、静かに、続いていた。




