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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第三十話「古書店の答え」

東区の古書店は、大通りから細い路地を二度曲がった場所にあった。


看板に書かれた店名は、古びて読みにくかった。ガラスの小さな窓から内部が見えた。本棚が並んでいて、埃の積もった背表紙が並んでいる。客の姿はなかった。


カインの下見の報告では、裏口が一箇所、窓が三枚、周辺の路地は複数の方向に抜けられる構造だった。逃げ道は確保されている。ただし、人を隠しやすい場所も多い、という報告だった。


ヴィオレットは店の前で少し止まった。


一秒で確認した。


周辺の気配。路地の奥。屋根の上。


異常はなかった。


リュカの監視が周辺にいることは、わかっていた。カインとミアが路地の別の場所にいることも。


扉を開けた。


鐘の音がした。


古書店の内部は、外から見えた通りだった。本棚が三方の壁を埋め、中央にも棚が置かれていた。天井が低く、自然光が少なかった。燭台が棚の間に置かれていた。


奥に、人影があった。


ヴェステルだった。


本棚の前に立ち、一冊の本を手に持っていた。


ヴィオレットが入ったことに気づいて、顔を上げた。


「来てくださいましたね」


「はい」


「フォルタンを通さずに連絡したことを、不審に思いましたか」


「少し」


「理由を申し上げましょう。今日の話は、フォルタンに聞かせる内容ではないからです」


ヴェステルが本を棚に戻した。


「こちらへ」


奥の小部屋に案内された。


机が一つ。椅子が二つ。窓が一枚。


こちらも出口を確認した。来た扉と窓。二箇所。


椅子に座った。


ヴェステルが向かいに座った。


前回と同じ向かい合い方だったが、今日は空気が違った。


前回は測り合っていた。


今日は違う。


ヴェステルが最初から、何かを渡す顔をしていた。


「先日の話の続きから始めましょう」


ヴェステルが言った。


「はい」


「令嬢は、暗殺者に依頼をしたことがあるかと聞きました」


「覚えています」


「私は覚えていないと言いました」


「言いましたね」


「嘘をつきました」


ヴィオレットは表情を動かさなかった。


「覚えていますか」


「覚えています。三十年以上前のことです。しかし覚えています」


「どんな依頼でしたか」


ヴェステルが少し間を置いた。


「その前に、令嬢に確認したいことがあります」


「なんでしょう」


「令嵜は、自分が何者かを、どこまで知っていますか」


ヴィオレットは少し考えた。


「前世で暗殺者だったことは知っています。最後の依頼が守る側として動くものだったことも。失敗したことも。ただし守ろうとしたものが何だったかと、なぜ失敗したかは、まだ霧の中です」


「霧の中に」


「はい。見えかけているが、まだ形にならない部分があります」


ヴェステルが窓の外を見た。


夕刻の光が、細い路地に差し込んでいた。


「三十数年前、私はある人物の護衛を依頼しました」


「誰の護衛ですか」


「子供の護衛です」


ヴィオレットは動かなかった。


「子供」


「はい。七歳の子供でした。ある事情から、命を狙われていた」


「その子供は誰でしたか」


ヴェステルが、ヴィオレットを見た。


「王家の血を引く子供でした」


沈黙があった。


燭台の炎が揺れた。


「その子供の護衛を、貴女の前世に依頼しました。世界最高の暗殺者に、守る側として動いてもらった」


「その子供はどうなりましたか」


「失敗した、と令嬢はおっしゃっていました」


「私の前世が失敗した」


「はい」


「子供は」


「生きています」


ヴィオレットは少し止まった。


「生きているのですか」


「はい。ただし、令嬢の前世は失敗したと思い込んで死にました。守れなかったと思ったまま」


「なぜですか」


ヴェステルが少し表情を変えた。


後悔に近い何かだった。


「私が情報を隠していたからです。子供が生きていることを、令嬢の前世に伝えなかった。伝える前に、令嬢の前世は死にました」


ヴィオレットは窓の外を見た。


路地の影が長くなっていた。


守れなかった、と思ったまま死んだ。


しかし子供は生きていた。


「なぜ伝えなかったのですか」


「危険だったからです。子供が生きていることを知る人間が増えるほど、子供の命が危うくなる。令嬢の前世には、知らせない方が安全だと判断しました」


「その判断は正しかったですか」


「間違っていました」


ヴェステルがはっきりと言った。


「正しいと思っていましたが、間違っていました。令嬢の前世は、失敗したと思ったまま死んだ。それは私の責任です」


ヴィオレットは少し間を置いた。


「その子供は今、どこにいますか」


「この王国にいます」


「今も命を狙われていますか」


「今も、です。三十年以上経っても、その子供を狙う者がいます」


「誰が狙っていますか」


「《黄金の枷》の核心にいる人物です」


ヴィオレットはヴェステルを見た。


「リストの一番上の名前ですか」


ヴェステルが少し止まった。


「令嬢はそれを知っていましたか」


「クレヴァン伯爵が残した記録から」


「なるほど」


ヴェステルが少し考えた。


「令嬢は、私が思っていたより多くを知っている」


「把握していることと、把握できていないことがあります」


「どちらが多いですか」


「今日の話を聞くまでは、把握できていない方が多かったです」


「今は」


「逆になりました」


ヴェステルが少し笑った。


前回も見た、人間に近い笑い方だった。


「令嬢に聞きます」


「はい」


「なぜ今世でここにいると思いますか」


ヴィオレットは少し考えた。


「前世で守れなかったと思ったまま死んだ。しかし実際には守れていた。その事実を知らないまま終わった。それを、今世でやり直すために来たのかもしれません」


「やり直す、とは」


「守ることを、今度は完全に。失敗したと思わずに、終えるために」


ヴェステルが静かに言った。


「その子供が、今世でどこにいるか、知りたいですか」


「はい」


「教えましょう」


ヴィオレットは動かなかった。


ヴェステルが名前を言った。


ヴィオレットの全身に、何かが走った。


霧が、完全に消えた。


前世の記憶が、今この瞬間に全部見えた。


七歳の子供。小さな手。泣いていない目。ヴィオレットの前世を見上げた目。


その目の色が、今世で一度見た色だった。


「王女殿下ですか」


ヴィオレットが言った。


「はい」


「セリア殿下が、その子供の」


「直系の子孫です。三十年前に守ろうとした子供の、今世での子孫」


ヴィオレットは少し間を置いた。


「前世で守った子供の血脈が、今世でもまだ狙われている」


「はい。《枷》の核心にいる人物にとって、その血脈は排除すべき存在です。理由は長くなりますが、その血脈が正当な王位継承の証明を持っているからです」


「正当な」


「現王家とは別の、古い正当性です。それが表に出れば、《枷》が積み上げてきた構造が根から崩れる」


ヴィオレットは窓の外を見た。


路地の光が、夕暮れの色になっていた。


前世で守った子供の血脈が、今世にいる。


今世の自分が、その血脈と接触していた。


学術会館で出会った王女が、自分のことを覚えていて、もう一度会いたいと言っていた。


全部が、繋がった。


「ヴェステル様」


「はい」


「貴方は今世で、私が転生していることを知っていましたか」


ヴェステルが少し間を置いた。


「知っていました」


「いつから」


「令嬢がフォルタンの勉強会に来た時から、可能性を感じていました。確信したのは、直接お会いした時です」


「なぜ確信しましたか」


「目です。令嵜の目が、三十年前と同じ目をしていた」


三十年前と同じ目。


父が言っていた。近い目になってきた、と。


アメリが言っていた。遠くを見ている目、と。


レインが言っていた。遠すぎる目、と。


みんな、この目を見ていた。


「ヴェステル様は、私に今世でもセリア殿下を守ってほしいと思っていますか」


「はい」


「それが、フォルタンを通じて私に近づいた本当の理由ですか」


「はい」


「王国の構造を作り直すという話は」


「本当のことです。ただし、令嬢に伝える必要がある部分と、そうでない部分がありました。段階的に話すつもりでした」


「《枷》の核心にいる人物を、どうするつもりですか」


「排除する必要があります。しかしその人物は三十年以上、影廷の監視をすり抜けてきた。表の力では届かない」


「だから私が必要だ」


「はい」


ヴィオレットは少し間を置いた。


「ヴェステル様、一つだけ申し上げます」


「はい」


「私は誰かの道具にはなりません。前回の面会でも申し上げました」


「覚えています」


「セリア殿下を守ることは、考えます。しかしそれは貴方の依頼を受けるからではありません」


「では、なぜ考えるのですか」


「守りたいと思うからです。自分で、そう思うから」


ヴェステルが静かに言った。


「それで構いません」


「本当にですか」


「三十年前も同じでした。令嬢の前世は、依頼を受けたが、依頼だから動いたわけではなかった。あの目を見てわかりました」


「それでも失敗した」


「情報を隠した私の責任です。今回は全部話します。何も隠しません」


ヴィオレットはヴェステルを見た。


この人間を信用するかどうか。


前世で、信用してはいけないと感じた相手だ。


しかし今日、その感覚の意味がわかった。


信用してはいけない、と思ったのは、この人間が嘘をつく人間だからではなかった。


この人間が、正しいと思ったことを優先する人間だからだ。


令嬢の前世に情報を隠したのも、正しいと判断したからだった。


その判断が間違っていたと、今日ヴェステルは認めた。


認められる人間は、少ない。


「一つだけ条件があります」


ヴィオレットが言った。


「なんでしょう」


「今後、私に関係する情報は全て話してください。判断は私がします。何が必要で何が不要かを決めるのは、私です」


「わかりました」


「約束できますか」


「約束します」


ヴィオレットは少し間を置いた。


「では、もう一つ聞かせてください」


「はい」


「《枷》の核心にいる人物の、本当の目的は何ですか」


ヴェステルが答えた。


その答えを聞いて、ヴィオレットは今日二度目の、全身に何かが走る感覚を覚えた。


霧は完全に消えていた。


前世の記憶が全部見えた今、ヴェステルの答えが何を意味するかが、完全にわかった。


「わかりました」


ヴィオレットが立ち上がった。


「令嬢、今後の動き方を相談させてください」


「はい。ただし今日はここまでにします」


「なぜですか」


「整理する時間が必要です。今日聞いたことを、一人で考えてから、次に話します」


「いつ頃に」


「二日以内には連絡します」


「了解しました」


扉に向かった。


「令嬢」


ヴェステルが呼んだ。


「なんでしょう」


「三十年前、令嬢の前世に謝る機会がありませんでした」


ヴィオレットは振り返らなかった。


「今日、謝ってください」


「申し訳ありませんでした」


ヴィオレットは少し間を置いた。


「受け取りました」


扉を開けた。


古書店の外へ出た。


夕暮れの路地が、橙色に染まっていた。


カインが路地の入口にいた。


ヴィオレットを見て、近づいてきた。


顔を見た瞬間に、何かを察した顔をした。


何も言わなかった。


ただ、隣に立った。


ミアが反対側から来た。


同じく何も言わなかった。


反対側に並んだ。


三人で、少しの間、夕暮れの路地に立っていた。


ヴィオレットは前を見ていた。


前世の記憶が全部見えた。


守ろうとした子供の手が、見えた。


失敗したと思ったまま死んだ。


しかし子供は生きていた。


その血脈が、今世にいる。


今度は、失敗したと思わずに終える。


「行きましょう」


ヴィオレットが言った。


二人が頷いた。


三人で路地を歩いた。


夕暮れが、王都を橙色に染めていた。


馬車に乗った。


カインが御者台に座った。


ミアが隣に座った。


馬車が動き始めた。


ミアがしばらく黙ってから、小さく言った。


「お嬢様、大丈夫ですか」


ヴィオレットは少し考えた。


「大丈夫です」


「本当ですか」


「本当です。ただ、少し整理が必要です」


「時間がかかりますか」


「今夜中には終わります」


ミアが頷いた。


馬車が石畳の上を走った。


公爵家の灯りが見えてきた。


全部ついていた。


今夜も、全部ついていた。


それが当然だと思えた。


そして今夜初めて、その当然を守るために、自分が動いているのだと、はっきりと思った。


前世で守った子供の血脈を守ることと、この灯りを守ることが、今の自分の中で同じ場所にあった。


それが今夜の答えだった。


門をくぐった。

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