第二十八話「約束した夕食」
屋敷に戻ったのは、夕暮れ前だった。
玄関でカインとミアが待っていた。二人とも、今日の配置から戻ってきたばかりだった。
「お疲れ様でした」
ミアが言った。
「二人もお疲れ様でした」
カインが言った。
「飯の約束、覚えていますか」
「覚えています」
カインが少し目を細めた。
笑ったわけではなかった。しかし笑いに近い何かが、今日二度目に目の端に出た。
「どこへ行きますか」
「カインが決めていいです」
「俺が決めるんですか」
「約束した相手が決める方が自然です」
カインが少し考えた。
「王都の南区に、肉料理の店があります。スラム街にいた頃、いつか行きたいと思っていた店です」
「そこにしましょう」
ミアが少し目を丸くした。
「カインが行きたい店に連れて行ってもらえるんですか」
「一緒に来ますか」
「行きます」
三人で馬車に乗った。
御者は今日だけ別の者に頼んだ。カインが御者台ではなく、馬車の中に乗る必要があったからだ。
南区の店は、外観が素朴だった。看板に肉の絵が描いてあるだけで、店名らしいものがなかった。
「名前がないんですか」
ミアが言った。
「ないです。ずっとそのままらしい」
カインが扉を開けた。
中は狭かった。テーブルが六つ。半分が埋まっていた。客は全員、平民だった。
公爵令嬢がこういう店に来ることは、普通ではない。
しかしヴィオレットには関係なかった。
テーブルに着いた。
給仕が来た。若い男だった。三人を見て、少し戸惑った顔をした。カインとミアは見慣れない顔ではないかもしれないが、ヴィオレットは明らかに場違いな装いだった。
「何がありますか」
ヴィオレットが聞いた。
給仕が少し固まった。
「今日は、羊の煮込みと、豚の串焼きと、鶏のパイ包みがあります」
「全部ください」
「全部、ですか」
「はい、三人分ずつ」
給仕が厨房の方を一度見た。それから頷いた。
「少しお待ちください」
カインがヴィオレットを見た。
「食べきれますか」
「残ったら持ち帰ります」
「令嬢が持ち帰りをするんですか」
「しない理由がありません」
ミアが少し笑った。
「お嬢様って時々そういうこと言いますよね」
「どういうこと、ですか」
「当たり前のことを当たり前として言う感じ。でもなんか、普通の令嬢はそう言わない気がする」
「そうですか」
「そういうところが好きです」
ヴィオレットは少し考えた。
好き、という言葉を向けられることに、まだ慣れていない部分がある。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ミアが満足そうに水を飲んだ。
料理が来た。
羊の煮込みが最初に来た。
香草の香りが立った。
ヴィオレットは一口食べた。
柔らかかった。肉が長時間煮られていた。味が深かった。貴族の料理とは違う深さだった。素材と時間だけで作られた深さだった。
「美味しいですね」
「でしょう」
カインが言った。
この従者が料理について得意そうな顔をすることは、初めて見た気がした。
「スラム街にいた頃、この店の匂いが路地まで流れてきていました。食えない日に嗅ぐ匂いが、一番きつかった」
「そうでしたか」
「ミアに、いつか食わせてやりたいと思っていました」
ミアが羊の煮込みを食べながら言った。
「美味しい。すごく美味しい」
「良かった」
カインが短く言った。
その短さの中に、たくさんのものが入っていた。
ヴィオレットはそれを聞きながら、食べ続けた。
豚の串焼きが来た。
鶏のパイ包みが来た。
三人で食べた。
話しながら食べた。
ミアが今日の待機中に路地で鳩に餌をやってしまった話をした。カインが呆れた顔をした。ヴィオレットは鳩が何羽来たかを聞いた。七羽だったとミアが答えた。七羽に餌をやりながら待機していた、という場面を想像して、ヴィオレットは少し口元が動いた。
「また笑いかけましたよ」
ミアが言った。
「気のせいです」
「気のせいじゃないです。カイン、見ましたか」
「見た」
「二人とも見ていたんですか」
「いつも見ています」
カインが静かに言った。
「なぜですか」
「お嬢様が笑う時の顔が、俺たちには大事だからです」
ヴィオレットは答えなかった。
答えが出なかった。
しかし今夜、それでいいと思った。
答えが出ない問いが、今の自分の中にいくつかある。
出ないまま抱えていることが、以前は不快だった。今は、不快ではない。
出る時が来れば出る。
それだけのことだと思えるようになっていた。
食事が終わった。
予想通り、全部は食べ切れなかった。
残りを包んでもらった。
給仕が包みながら、少し笑っていた。悪い意味ではない笑い方だった。
店を出た。
夜の南区が、静かだった。
馬車が来るまで少し待った。
カインが言った。
「ありがとうございました」
「約束しましたから」
「約束だけではないと思います」
「どういう意味ですか」
「約束は理由です。でも、来てくださったのは約束だけじゃないと思っています」
ヴィオレットは少し考えた。
「他に何がありますか」
「俺が行きたかった場所だから、来てくださった」
「それは約束の内容です」
「約束をその内容にしてくださったことが、約束だけではない部分です」
ヴィオレットはカインを見た。
この従者は、時々こういうことを言う。
言葉は少ないが、含まれているものが多い。
「そうかもしれません」
「はい」
ミアが二人を見ながら言った。
「なんか難しい話になってますけど、私は単純に今日楽しかったです」
「それでいいです」
ヴィオレットが言った。
「え、いいんですか」
「難しく考える必要はありません」
「でもカインは難しいこと言いましたよ」
「カインはそういう人間です」
「私は違うんですか」
「貴女はそういう人間ではありません」
「それって馬鹿ってことですか」
「違います。貴女は感じたことを直接持っている人間です。それは難しく考える人間より、時に正確です」
ミアが少し考えた。
「褒めてもらったということにします」
「そうしてください」
馬車が来た。
三人で乗り込んだ。
帰り道は、行きより話が少なかった。
疲れていたのかもしれない。あるいは、必要な言葉は全部話し終えたのかもしれない。
どちらでも良かった。
屋敷に着いた。
玄関で三人が降りた。
「今夜は早く休みなさい」
ヴィオレットが言った。
「お嬢様は」
「少し考えてから休みます」
「考えることがありますか」
「今日の面会の整理をリュカに伝える必要があります」
「今夜ですか」
「今夜中に連絡だけ出します。明日の夜に会います」
カインが頷いた。
「わかりました」
「それと」
「はい」
「今日のことを、ありがとうございました」
カインが少し止まった。
「こちらこそです」
「二人が近くにいてくれたことで、落ち着いて動けました」
「それが俺たちの仕事です」
「仕事だけではないと思います」
カインが先ほど言った言葉を、そのまま返した。
カインが少し目を細めた。
今夜三度目の、笑いに近い何かだった。
「そうかもしれません」
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
ミアが言った。
カインが頷いた。
自室に戻った。
机に向かった。
リュカへの連絡を書いた。
今日の面会の概要を書いた。ヴェステルが影廷との接触を知っていたこと。セダンからの情報である可能性が高いこと。王国の構造を作り直す意図を持っていること。前世の暗殺者への言及があったこと。一週間以内に連絡が来ること。
全部書いた。
封をした。
明朝カインに渡す。
手帳を開いた。
今夜のことを書いた。
面会の記録を書いてから、別のページを開いた。
今夜の夕食のことを書いた。
羊の煮込みが美味しかったこと。カインがスラム街から見ていた店だったこと。ミアが鳩に餌をやりながら待機していたこと。
書いてから、少し考えた。
こういうことを手帳に書くようになったのは、いつからだろうか。
最初の頃は、仕事の記録しか書かなかった。
今は、両方書いている。
それが変化だと思った。
手帳を閉じた。
引き出しを開けた。
スノードロップの押し花を見た。
白いままだった。
一週間以内に、ヴェステルから連絡が来る。
その連絡の中に、前世の答えがあるかもしれない。
怖いかどうかを考えた。
今夜は、怖くなかった。
今夜カインとミアと食べた夕食が、まだ体の中にあった。
それだけで、今夜は十分だった。
引き出しを閉じた。
眠った。
今夜の意識は、四割だった。
六割が、深く眠っていた。




