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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第二十七話「ヴェステルとの対面」

図書室に入った瞬間、空気が違った。


いつもの羊皮紙と古紙の匂いは同じだった。光の入り方も同じだった。しかし人の配置が違った。


閲覧席に三人いた。


学者風の老人。若い女性。そして、奥の席に一人。


奥の席の人間が、ヴェステルだとすぐわかった。


年齢は六十代に見えた。白髪で、小柄だった。地味な色の外出着を着ている。宝石もなく、装飾もない。どこにでもいる老紳士の外見だった。


しかし。


ヴィオレットが入室した瞬間に、その人物が顔を上げた。


上げ方が違った。


気配を感じて上げた顔だった。


訓練された人間の反応だった。


ヴィオレットは表情を作りながら、同時に全員を再確認した。


学者風の老人と若い女性は、今日初めて見る顔だった。カインの下見の報告にはいなかった。


今日のために配置された人間の可能性がある。


ヴェステルが立ち上がった。


小柄な体が、動きに無駄がなかった。


「ヴィオレット・ド・ノワール令嬢ですね」


「はい。ヴェステル様でいらっしゃいますか」


「そうです。お時間をいただいてありがとうございます」


声は穏やかだった。


穏やかな声は、前世でも今世でも、最も注意が必要な声だ。


向かい合って座った。


ヴェステルがヴィオレットを見た。


その目を、ヴィオレットは受け取りながら同時に分析した。


測っている。


令嬢の表面だけでなく、その下を見ようとしている目だった。


長年、人を見てきた目だった。


前世の記憶の霧の中にある顔と、今目の前にある顔が、重なった。


同じ人間だった。


確定した。


「フォルタンから聞いています。植物学に深い関心をお持ちだと」


「趣味程度ですが」


「謙遜なさらなくていい。フォルタンが感心していましたよ。あの男が植物学で誰かに感心することは珍しい」


「フォルタン様は本当にお詳しいですから」


「そうです。あの男の知識は本物です。ただし使い方が、いつも私とは少し違う」


使い方が違う、という言葉を選んだ。


フォルタン子爵との距離を示した言葉だった。子爵と自分は別だ、という意味を含ませている。


「ヴェステル様は、どのような使い方をされるのですか」


「長い目で見た使い方です。植物の力は、短期的に使えば痕跡が残る。長期的に使えば、何も残らない」


「なるほど」


「令嬢はどちらがお好みですか」


ヴィオレットは少し考えるような顔をした。


「私はまだ、どちらかを選べるほど経験がありません」


「正直な答えだ」


ヴェステルが少し笑った。


笑い方が、穏やかだった。


穏やかなままで、目が笑っていなかった。


「令嬢、単刀直入に話しましょう」


「はい」


「私はノワール公爵家と、長い付き合いを作りたいと思っています」


「長い付き合い、とは」


「一代限りではない付き合いです。令嬢の代だけでなく、その先の代まで続くような」


「なぜノワール公爵家と」


「三百年、清廉を守ってきた家です。そういう家は、この王国に今ほとんどない。残っている清廉な家と、私は繋がりたい」


清廉な家と繋がりたい。


フォルタン子爵が語った言葉と同じ方向だった。しかし子爵より直接的で、より長期的な視点を持っていた。


「繋がることで、何を求めていらっしゃるのですか」


「令嬢の家の名前です」


「名前だけですか」


「今のところは」


今のところは、という言葉を使った。


先がある、という意味だった。


「ヴェステル様の集まりについて、フォルタン様から少し聞きました。王国をより良くしたいとお考えの方々の集まりだと」


「そう聞きましたか」


「はい」


「フォルタンはそう説明しましたか」


ヴェステルが少し笑った。


今度の笑い方は、先ほどと違った。


フォルタン子爵を少し見下ろす種類の笑い方だった。


「令嬢、私はもう少し正確にお話しします」


「お願いします」


「私の集まりは、王国をより良くしようとしているわけではありません」


ヴィオレットは表情を動かさなかった。


「では何を目指しているのですか」


「秩序を作ることです。より良くするのではなく、正しい秩序を作る。今の王国の秩序は歪んでいる。歪みを正すのではなく、正しい秩序を最初から作り直す」


「作り直すとは」


「今ある構造を、一度壊す必要があるということです」


ヴィオレットは少し間を置いた。


「一度壊す、というのは」


「令嬢はおわかりのはずです。腐った根を持つ木は、剪定では直らない。根ごと抜いて、新しく植え直す必要がある」


根ごと抜く。


ヴィオレットがリュカに言った言葉と同じだった。


しかし意味が違う。


ヴィオレットが言った根とは、《枷》の腐敗だった。


ヴェステルが言う根とは、王国の構造そのものだ。


「王国の構造を作り直すということは、王家も含めてということですか」


「含まれます」


はっきりと言った。


ヴィオレットはヴェステルを見た。


六十代の小柄な老紳士が、王家を含む王国の構造を作り直すと言っている。


三十年以上、表に出ずに動いてきた人間が。


「令嬢、驚きましたか」


「少し驚きました」


「正直ですね。フォルタンは最初にこれを聞いた時に、顔を青くしていました」


「フォルタン様はご存知なかったのですか」


「表向きの説明しか知らなかった。令嬢には最初から本当のことを話しています」


「なぜ私には最初から」


「令嬢は、隠した話をする必要がない相手だと思ったからです」


その言葉の意味を、ヴィオレットは受け取った。


ヴェステルは、令嬢が普通の令嬢ではないと思っている。


どこまで知っているかは、まだわからない。


しかし何かを見ている。


「ノワール公爵家は、王家と血縁があります。その家に、王家を含む構造の作り直しを求めることは、矛盾しませんか」


「矛盾しません。王家の血を引く家だからこそ、新しい秩序の正当性を担えます」


「正当性を担う、というのは」


「新しい秩序の顔として、ノワール公爵家の名前が必要です。革命ではなく、正当な変革として見せるために」


顔として使う。


フォルタン子爵が言っていたことと同じだったが、規模が全く違った。


「ヴェステル様は、その新しい秩序の中で、どういう立場になるのですか」


ヴェステルが少し笑った。


今日一番、本心に近い笑い方だった。


「その質問をしたのは、令嬢が初めてです」


「そうですか」


「みんな、そこを聞かない。自分がどうなるかは聞くが、私がどうなるかを聞かない」


「私は知りたいので」


「なぜ知りたいのですか」


「ヴェステル様が何を望んでいるかを知らなければ、この話が本当かどうか判断できません」


ヴェステルが少し間を置いた。


目が、先ほどとまた違う光を持った。


「令嬢、一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「令嬢は今、何を考えていますか」


「ヴェステル様のことを考えています」


「どんなことを」


「どんな人間かを、確認しています」


「確認して、どうするつもりですか」


「確認できてから、決めます」


ヴェステルが静かに笑った。


今日の笑い方の中で、最も深いところから来る笑い方だった。


「令嬢、率直に申し上げます」


「はい」


「私はノワール公爵令嬢が、影廷と接触していることを知っています」


ヴィオレットは表情を動かさなかった。


動かさなかった、ということが全力だった。


「どこでお聞きになりましたか」


「影廷の内部に、私の話を聞いてくれる人間がいます」


セダンだ、とヴィオレットは思った。


「影廷と接触していることを、問題とお考えですか」


「問題とは思いません。むしろ、令嬢が影廷と接触していることで、この話がより意味を持ちます」


「どういう意味ですか」


「影廷は王国の影です。その影と繋がっている公爵令嬢が、新しい秩序の顔になる。表と影の両方に足を持つ存在が、変革を担う」


「それがヴェステル様のお望みですか」


「はい」


「私が断った場合は」


「残念に思います」


「それだけですか」


ヴェステルが少し間を置いた。


「令嵜が影廷と接触していることを、《黄金の枷》に伝えることもできます」


脅しだった。


穏やかな声で、穏やかな顔で、脅した。


ヴィオレットは少し考えるような顔をした。


考えた、のではなかった。


考え終わっていた。


この瞬間のために、ここまで来た。


「ヴェステル様」


「はい」


「一つ確認させてください」


「どうぞ」


「ヴェステル様は、今から三十年ほど前に、ある暗殺者に依頼をされましたか」


ヴェステルが止まった。


一秒だった。


しかしその一秒が、全てを答えた。


「何のことでしょう」


「覚えていませんか」


「覚えていないことをお聞きになるのは」


「覚えていると思って聞いています」


ヴェステルがヴィオレットを見た。


今日初めて、測るのをやめた目だった。


見ている目だった。


何かを、真剣に見ようとしている目だった。


「その暗殺者は、守る側として動いた。そして失敗した」


ヴィオレットが続けた。


「失敗した理由は、依頼人が本当のことを話さなかったからだと思っています」


ヴェステルの顔が、今日初めて変わった。


穏やかさが、少しだけ崩れた。


「令嬢は、何を知っているのですか」


「私が知っていることは、ヴェステル様も知っていることだと思います」


「どういう意味ですか」


ヴィオレットは少し間を置いた。


「私が何者かは、ヴェステル様が最もよくご存知のはずです」


沈黙があった。


図書室の中の空気が、変わった気がした。


ヴェステルが長い時間、ヴィオレットを見た。


その目の中に、最初にはなかったものが出てきた。


驚きではなかった。


認識だった。


何かを認識した目だった。


「まさか」


小さく言った。


ヴィオレットは何も言わなかった。


ヴェステルが少し息を吸った。


「本当に、貴女は」


「確認は、ヴェステル様にしていただく必要があります。私には、まだ全部は見えていません」


「全部は、ということは」


「一部は見えています」


ヴェステルが机の上に手を置いた。


さっきまでの計算された動きではなかった。


ただ、置いた。


「令嬢が影廷と接触している理由が、わかりました」


「そうですか」


「フォルタンを通じて私に近づいた理由も」


「はい」


「では、私に何を求めているのですか」


ヴィオレットはヴェステルを見た。


「答えを求めています」


「何の答えですか」


「前世で何が起きたかの答えです。そして今世で、何を守るべきかの答えです」


ヴェステルが少し間を置いた。


「前世で失敗した、とおっしゃいました」


「はい」


「その失敗を、今世で取り戻そうとしている」


「そうかもしれません」


「私が答えを持っているとお思いですか」


「持っていると思います」


ヴェステルが窓の外を見た。


秋の終わりの光が、図書室の床に長い影を作っていた。


「令嬢、今日のところはここまでにしましょう」


「答えをいただけますか」


「考える時間が必要です。私も、今日は想定していなかった話になりました」


「いつ頃、お返事いただけますか」


「一週間以内に連絡します」


ヴィオレットは少し考えた。


一週間。


ヴェステルが考える時間を求めている。


断る理由はなかった。


「わかりました」


「一つだけ、確認させてください」


ヴェステルが言った。


「なんでしょう」


「令嬢は今、私を敵だと思っていますか」


ヴィオレットは少し間を置いた。


正直に答えた。


「まだ決めていません」


「なぜですか」


「全部が見えていないからです。全部が見えてから、決めます」


ヴェステルが少し笑った。


今日の笑い方の中で、最も人間に近い笑い方だった。


「公平な答えです」


「ヴェステル様は、私を敵だと思っていますか」


ヴェステルが少し考えた。


「まだ決めていません」


「なぜですか」


「全部が見えていないからです」


同じ言葉が返ってきた。


二人で少し黙った。


その沈黙は、今日一番、奇妙な種類のものだった。


敵か味方かわからない二人が、同じ言葉を使って向かい合っている沈黙だった。


「では一週間後に」


ヴィオレットが立ち上がった。


「はい。連絡します」


図書室を出た。


外の空気が冷たかった。


東側の路地を見た。


カインの姿が見えた。


頷いた。


カインが頷き返した。


問題なし、という意味だった。


馬車に乗った。


ミアが後から乗り込んできた。


「どうでしたか」


ヴィオレットは少し考えた。


「想定していなかった話になりました」


「良い方向ですか悪い方向ですか」


「どちらでもない方向です」


ミアが少し首を傾けた。


「わからない方向ですか」


「まだ、わからない方向です」


馬車が動き始めた。


ヴィオレットは窓の外を見た。


ヴェステルが影廷との接触を知っていた。


セダンからの情報だとしたら、どこまで知っているか。


リュカへの報告が必要だった。


ただしその前に、今日ヴェステルが言ったことを全部整理する必要があった。


王国の構造を作り直す。王家も含めて。正当な変革として見せるためにノワール公爵家の名前が必要。


その目的のために、三十年以上動いてきた。


そして前世の暗殺者への言及。


まさか、と言った。


認識した目で見た。


何を認識したか。


前世の暗殺者と、今のヴィオレットが同一だということを、認識した可能性がある。


その認識が正しければ、ヴェステルは前世の自分のことを知っている。


知っているなら、前世で何が起きたかも知っている。


一週間以内の連絡の中に、その答えがある可能性がある。


公爵家が見えてきた。


カインに飯をおごる約束をした、と思い出した。


今夜、その約束を果たす。


それだけのことが、今この瞬間、頭の中で一番鮮明だった。


前世の答えが見えかけている夜に、約束した夕食のことが頭にある。


前世では、そういうことがなかった。


今世では、ある。


それが今の自分だ、と思った。


門をくぐった。

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