第二十六話「ヴェステルの返答」
二日後の朝、フォルタン子爵から返信が来た。
ヴェステル様が条件を受け入れてくださいました、という内容だった。
場所はこちらに一任する、とも書かれていた。
あっさりと受け入れた。
ヴィオレットはその一点を、しばらく考えた。
条件を出した。相手が即座に受け入れた。
二つの読み方がある。
一つは、ヴェステルが令嬢を手放したくないほど急いでいるという読み方だ。条件を拒否して面会が流れることを避けた。
もう一つは、場所がどこであっても構わないという読み方だ。令嬢が指定する場所で動けるだけの準備がある。
どちらかによって、ヴェステルの状況が大きく違う。
リュカへの連絡を出した。
その日の夜に茶館で会った。
「条件を受け入れました」
「どう見ますか」
「二つの可能性があります。急いでいるか、どこでも対応できるかです」
「どちらだと思いますか」
「後者だと思います」
「理由は」
「三十年以上、表に出ずに動いてきた人間が、今更急く理由が思い当たりません。急ぐ必要がある状況を、自分では作らないはずです。一方で、場所を選ばない準備ができている人間なら、条件を飲むことにコストがない」
リュカが少し考えた。
「どこでも対応できるということは、どの場所にも人間を置いているということです」
「はい。王立植物学会の図書室にも、すでに誰かがいる可能性があります」
「では場所を変えますか」
「いいえ」
「なぜですか」
「変えれば、こちらが警戒していることを示します。警戒していることを知られれば、ヴェステルが慎重になります。慎重になれば、引き出せるものが減る」
「同じ場所で会う」
「はい。ただし、リュカの監視の人員を増やしていただけますか」
「どのくらい」
「図書室の周辺全体をカバーできる人数で」
「手配します」
「カインとミアも近くに待機させます」
「わかりました」
日時を決めた。
三日後の午後だった。
フォルタン子爵への返信を書いた。
三日後の午後、同じ図書室で、という内容だった。
翌日、子爵から了解の返事が来た。
三日間、ヴィオレットは普段通りに過ごした。
学園へ行き、アメリとタルトを食べ、レインの探りを受け流し、帰宅して夕食を食べ、父と紅茶を飲んだ。
父との書斎の時間に、砂糖を四つ入れた。
父は見ていなかった。
しかし今夜の父は、少し別のことを考えているような顔をしていた。
「ヴィオレット」
「はい」
「最近、お前の顔が変わってきた」
「そうですか」
「以前より、近い」
「近いというのは」
「前にも言ったな」
「はい」
「今はさらに近い。何かが、解けてきているような顔だ」
ヴィオレットは紅茶を見た。
砂糖が四つ溶けていた。
「もう少しで、お話しできることが増えます」
「急がなくていい」
「でも、近いうちに」
父が少し間を置いた。
「楽しみにしている」
それだけだった。
父は新聞を広げた。
ヴィオレットは紅茶を飲んだ。
甘かった。
前世では、甘さを必要と思ったことがなかった。
今世では、必要だと思っている。
それがいつからかは、わからない。
ただ、今は必要だ。
面会の前日の夜、ヴィオレットは自室で装備の確認をした。
ミアが手伝った。
細針三本。扇子。香水瓶。ヘアピン二本。
全部確認した。問題なかった。
「お嬢様」
ミアが言った。
「なんですか」
「明日、私はどこで待機しますか」
「図書室の東側の路地です。カインと二人で」
「カインはどこですか」
「同じ路地です。ただし別の場所に分かれて」
「リュカの人間はどこに」
「図書室の周辺全体に散らせます。ミアとカインはリュカの人間とは別に動いてください」
「わかりました」
ミアが装備の確認を続けた。
手が丁寧だった。一つ一つを、時間をかけて確認した。
「ミア」
「はい」
「手が丁寧ですね」
「お嬢様の装備ですから」
「普段の手入れと同じ手でいいです」
「普段の手入れの時も、丁寧にしています」
ヴィオレットは少し考えた。
「そうでしたか」
「見ていませんでしたか」
「見ていませんでした」
「今夜気づいてくれたので良かったです」
ミアが少し笑った。
いつもの笑い方だった。
装備の確認が終わった。
ミアが下がった。
ヴィオレットは机に向かった。
手帳を開いた。
明日の想定を書いた。
ヴェステルがどんな人間かを考えた。
三十年以上、表に出ずに動いてきた。影廷の監視リストにいるが、三十年間動かれなかった。理由を書かずにリストに入れた統括者が若くして亡くなった。
つまりヴェステルは、自分を監視している相手を無力化する力を持っている。
その人間と、明日直接会う。
前世で、信用してはいけないと感じた人間と。
しかし今世では一人ではない。
カインとミアが近くにいる。リュカの人間が周辺にいる。
前世との違いは、それだけで十分だ。
手帳を閉じた。
引き出しを開けた。
スノードロップの押し花を見た。
白いままだった。
明日が終われば、夫人に伝えられる。
夫人の三年間の怒りに、答えを渡せる。
引き出しを閉じた。
眠った。
今夜の意識は、四割だった。
六割が眠っていた。
前世では考えられなかった数字だった。
翌朝、朝食の食堂に降りた。
父が新聞を読んでいた。母がまだ来ていなかった。
席に着いた。
紅茶が注がれた。
砂糖入れを引き寄せた。
一つ取った。
もう一つ取った。
手が止まった。
今日は二つにした。
理由は言葉にならなかった。
ただ、今日は二つでいいと思った。
母が来た。
「おはよう、ヴィオレット。今日は顔色がいいわね」
「ありがとうございます、お母様」
「何かいいことでもあるの」
「さあ」
「そうなの」
母が席に着いた。
父が新聞を折り畳んだ。
三人で朝食を食べた。
会話があった。母が最近読んだ本の話をした。父が短く相槌を打った。ヴィオレットが一度、その本について感想を言った。
母が嬉しそうな顔をした。
その顔を見た。
今日、この場所に帰ってくる。
当然のこととして思った。
朝食が終わった。
学園へ行く時間ではなかった。今日は午後の面会に備えて、午前から準備をする。
馬車が出る前に、カインに今日の配置を確認した。
カインが頷いた。
「東側の路地、確認しました。昨日下見をしました」
「ミアと分かれる位置は」
「路地の入口と出口です。二人で挟む形にします」
「リュカの人間との連絡は」
「合図を決めました。昨日、リュカからの使者と確認しました」
「よくやりました」
「お嬢様」
「なんですか」
「今日が終わったら、飯をおごってください」
ヴィオレットは少し考えた。
「わかりました」
「本当ですか」
「約束します」
カインが少し目を細めた。
笑ったわけではなかった。しかし笑いに近い何かが、目の端にあった。
午後になった。
馬車で王立植物学会へ向かった。
馬車の中でミアが静かだった。
「ミア」
「はい」
「怖いですか」
ミアが少し考えた。
「怖いです」
「正直ですね」
「お嬢様は怖くないんですか」
ヴィオレットは少し考えた。
「怖い、という感覚が前世とは変わってきています」
「どう変わりましたか」
「前世の怖さは、失敗すれば自分が死ぬという怖さでした。今世の怖さは、失敗すれば誰かに影響が出るという怖さです」
「どちらが怖いですか」
「今世の方が怖いです」
ミアが少し間を置いた。
「それって、大切なものができたってことですよね」
ヴィオレットは答えなかった。
しかし否定しなかった。
馬車が植物学会の前に止まった。
ミアが先に降りた。
カインが御者台から降りた。
二人が無言で視線を交わした。
それから、二人ともヴィオレットを見た。
何も言わなかった。
しかし全部が、その視線に含まれていた。
ヴィオレットは二人を見た。
「行ってきます」
二人が頷いた。
今夜の夕食のことを考えた。
カインに飯をおごる約束をした。
その約束は今日中に果たす。
それだけのことが、今この瞬間、前に進む理由の一つになっていた。
前世ではなかったことだ。
今世にはある。
ヴィオレットは図書室の扉を開けた。




