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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第二十五話「最後の点」

来週と約束したが、フォルタン子爵からの連絡は三日後に来た。


急いで会いたい、という内容だった。


予定より早い。


何かが動いた、とヴィオレットは判断した。


子爵の側で何かが変化した。その変化が、令嬢との面会を急がせている。


リュカへの連絡を出した。


同日の夜に返信が来た。


応じてください、という内容だけだった。


翌日の午後、同じ図書室で会った。


子爵は先に来ていた。


いつもの愛想のいい表情だったが、今日は目の奥が違った。焦りに近いものがあった。


「令嬢、急なお呼び立てをして申し訳ありませんでした」


「いいえ、お時間が合って良かったです」


席に着いた。


今日の図書室には他に客がいなかった。


それを確認した瞬間に、子爵が先週より早く声を落とした。


「令嬢、実はお伝えしなければならないことがあります」


「なんでしょう」


「私どもの集まりについて、少し状況が変わりました」


「どのように」


「中心にいる方が、令嬢と直接お会いしたいとおっしゃっています」


ヴィオレットは少し驚いた顔を作った。


「直接、ですか」


「はい。令嬢についての話を聞いて、ぜひお会いしたいと。通常はもう少し段階を踏んでからなのですが、特別に早めていただきました」


「どんな方なのですか」


子爵が少し間を置いた。


今日は言う、とヴィオレットは読んだ。


状況が変わったことで、段階を守る余裕がなくなっている。


「ヴェステル様とおっしゃいます」


名前が出た。


ヴィオレットは表情を動かさなかった。


しかし内側で、霧が一気に薄くなった。


ヴェステル。


その名前が、前世の記憶の中にあった。


形のなかった輪郭が、今夜初めて、顔を持った。


「ヴェステル様というのは、どのようなご身分の方ですか」


「地方の小貴族のご出身ですが、長年王都で様々なご活動をされてきた方です。表には出ていらっしゃいませんが、王国の深いところをご存知の方です」


「王国の深いところ」


「令嬢もご承知のはずです。表の顔だけが王国ではないということを」


「そうですね」


「ヴェステル様は、令嬢のような方を長年探しておられました。公爵家という立場と、それにふさわしい知性と志を持つ方を」


「私がその条件を満たすとお思いですか」


「ヴェステル様がそうおっしゃっています」


ヴィオレットは少し考えるような顔をした。


実際には考えていなかった。


ヴェステルという名前が出た瞬間から、全ての計算が始まっていた。


この名前を、今夜リュカに伝える。


それがまず一つ。


次に、ヴェステルとの直接の面会をどうするか。


応じるか、断るか。


応じれば、地図の核心に近づける。しかし同時に、核心にいる人間の視界に入る。


断れば、今夜までの積み上げが無駄になる可能性がある。子爵との繋がりが切れるかもしれない。


応じる、と判断した。


ただし条件をつける。


「フォルタン様」


「はい」


「ヴェステル様とお会いすることは、検討できます。ただし一つだけ条件があります」


「なんでしょう」


「場所はこちらが指定させてください。前回と同じように、公共の場で」


子爵が少し考えた。


「ヴェステル様にお伝えします。ただ、ヴェステル様が別の場所をご希望される場合は」


「その場合はお断りします」


「それは」


「申し訳ありませんが、それは譲れません。父に内緒で動いている以上、万が一の場合のことを考えなければなりませんので」


父に内緒という言葉を出した。


子爵に、令嬢がまだ完全に取り込まれているわけではないと思わせながら、しかし取り込まれかけているという印象を与えるための言葉だった。


子爵が頷いた。


「わかりました。ヴェステル様にお伝えします」


「ありがとうございます。いつ頃お返事いただけますか」


「二日以内には」


「承知しました」


会話をそこで区切った。


今日は短い面会だった。子爵も急いで伝えることを伝えた、という様子だった。


文献の話を少しして、図書室を出た。


馬車に乗った。


カインが御者台から振り返った。


今日は頷かなかった。


少し違う意味の確認の目だった。


ヴィオレットは小さく首を振った。


問題なし、ではなく、後で話す、という意味だった。


カインが頷いた。


理解した、という頷き方だった。


屋敷に戻って、すぐリュカへの連絡を書いた。


今夜会いたい、という内容にした。


二時間後に返信が来た。


茶館で待つ、という内容だった。


夜の茶館は、今夜も空いていた。


リュカが席についていた。


「ヴェステルという名前を知っていますか」


ヴィオレットが席に着きながら言った。


リュカが少し動いた。


動いた、ということが答えだった。


「知っています」


「影廷の監視リストにある名前ですね」


「はい。三十年以上前から」


「今日、フォルタン子爵から名前が出ました」


リュカが目を閉じた。


今夜は少し長く閉じていた。


「集まりの中心にいる人物として」


「はい」


「直接の面会を求めてきましたか」


「はい。場所はこちらが指定することを条件に、応じると答えました」


「危険です」


「わかっています」


「それでも応じますか」


「応じます。ヴェステルと直接会うことでしか、見えないものがあります」


「前世の記憶との関係がありますか」


「あります。名前が出た瞬間に、霧が薄くなりました」


リュカが目を開けた。


「どこまで見えましたか」


「顔が見えました。前世の記憶の中に、ヴェステルの顔があります」


「どんな場面で」


「依頼を受けた場面だと思います。最後の依頼を」


「守る側として動いた依頼ですか」


「はい」


「ヴェステルが依頼人だった」


「そう思います。ただし確定ではありません」


リュカが少し間を置いた。


「ヴェステルが依頼人だったとして、その依頼が何だったかは」


「まだ見えません。ただ今夜、もう一つ見えたことがあります」


「何ですか」


「依頼を受けた時に、ヴェステルの顔を見て、何かを感じました。前世の自分が」


「何を感じましたか」


ヴィオレットは少し間を置いた。


「信用してはいけない、と感じていました」


リュカが動かなかった。


「信用してはいけない相手から、守る側として動く依頼を受けた」


「はい」


「なぜ受けたかは」


「わかりません。まだ霧の中です。しかし受けた。そして失敗した」


二人で少し黙った。


暖炉が燃えていた。


「ヴェステルとの面会、影廷として支援できることがあります」


リュカが言った。


「場所の確認と、周辺の監視を」


「場所の確認はカインに任せます。周辺の監視は、お願いできますか」


「します。ただし目立たない形で」


「それで十分です」


「日時が決まったらすぐ教えてください」


「わかりました」


ヴィオレットは席を立ちかけた。


「一つだけ」


リュカが言った。


「なんでしょう」


「ヴェステルと会う前に、カインとミアに話すつもりですか」


ヴィオレットは少し考えた。


「はい。話します」


「なぜ今まで待っていたのですか」


「地図が完成してから話したかった。断片的な情報を伝えることで、二人が早まった行動を取ることを避けたかった」


「地図が完成したと判断しますか」


「ヴェステルの名前が出た時点で、主要な点は揃いました。線の一部はまだ引けていませんが、全体の形は見えています」


「そうですか」


リュカが少し間を置いた。


「話した後の二人の反応を、教えていただけますか」


「なぜですか」


「彼らのことを、少し心配しています」


ヴィオレットはリュカを見た。


計算から出た言葉ではなかった。


「伝えます」


扉に向かった。


夜の路地を歩きながら、ヴィオレットは今夜決まったことを整理した。


ヴェステルという名前が出た。


前世の記憶の霧が、顔の輪郭を見せた。


信用してはいけない相手だと、前世の自分が感じていた。


しかし今世では、直接会う必要がある。


前世と今世の違いは何か。


一人ではないことだ。


カインとミアがいる。リュカがいる。


前世の失敗が一人だったから起きたなら、今世では起きない。


そう決めた。


公爵家の門が見えてきた。


今夜は窓の明かりを確認した。


母の部屋。父の書斎。カインの部屋。ミアの部屋。


全部ついていた。


全部ついていることが、当然のことだと思えた。


以前は当然だと思えなかった。


その変化が今の自分の中にある、ということを、今夜改めて確認した。


門をくぐった。


玄関でカインとミアが二人で待っていた。


珍しかった。いつもはどちらかだけだ。


二人の顔を見た。


話せる、と思った。


「今夜、時間がありますか」


二人が頷いた。


「書斎に来てください。話します」


カインが少し目を細めた。


ミアが少し息を吸った。


三人で書斎に向かった。


今夜、地図を全部広げる。


前世で守れなかったものを、今世で守るための地図を。


それを二人に見せる。


一人ではないことを、今夜はっきりと形にする。


書斎の扉を開けた。


暖炉に火が入っていた。


誰かが先に用意していたのだろう。


三人で中に入った。


扉が閉まった。


ヴィオレットは椅子に座った。


二人も座った。


しばらく、誰も何も言わなかった。


それからヴィオレットが口を開いた。


「話します。全部」


カインが頷いた。


ミアが頷いた。


今夜の二人の目は、静かだった。


待っていた、という目だった。


ヴィオレットは話し始めた。


影廷との接触から始めた。


フォルタン子爵のことを話した。


ルーベン商会のことを話した。


クレヴァン伯爵夫人のことを話した。


セダンのことを話した。


子供たちのことを話した。


カインの部族との繋がりの可能性を話した。


そしてヴェステルという名前を話した。


話している間、カインは一度も表情を変えなかった。


ミアは途中で一度だけ、手を握った。声は出さなかった。


全部話し終えた。


静けさがあった。


カインが先に口を開いた。


「部族を売った商人と、ヴェステルは繋がっていると思いますか」


「可能性が高いと思っています。確定ではありません」


「ヴェステルと会う時、俺たちに何かできることがありますか」


「周辺の待機をお願いするかもしれません。リュカが監視をつけますが、近くに二人がいる方が動きやすい」


「わかりました」


ミアが言った。


「子供たちは今もどこかにいるんですか」


「わかりません。行方不明のままです」


ミアが少し間を置いた。


「間に合いますか」


ヴィオレットはミアを見た。


この問いへの正直な答えは、わからない、だ。


しかしミアが聞いたのは、可能性ではなかった。


決意を聞いていた。


「間に合わせます」


ミアが頷いた。


今夜の頷き方は、これまでで一番静かだった。


深いところで受け取った頷き方だった。


三人でしばらく黙った。


暖炉が燃えていた。


カインが言った。


「全部話してくださってありがとうございます」


「遅くなりました」


「いいえ。揃ってから話してくださった方が、俺たちには良かった」


「そうですか」


「断片で聞いていたら、早まっていたかもしれません」


ヴィオレットは少し考えた。


リュカが同じことを言った理由がわかった気がした。


この従者のことを、リュカも同じように見ていた。


「もう一つ話します」


「はい」


「前世のことです」


カインが少し止まった。


「前世の記憶が、今夜ヴェステルの名前が出たことで、少し見えてきました。まだ全部ではありません。ただ、前世の最後の仕事がヴェステルと関係していた可能性があります」


「どんな関係ですか」


「ヴェステルから依頼を受けた。守る側として動いた。失敗した。それだけしかまだ見えていません」


「守る側として」


「はい。前世の最後だけが、守る側でした」


カインが少し間を置いた。


「お嬢様は前世でも、誰かを守ろうとしていたんですね」


ヴィオレットは答えなかった。


答えが出なかった。


しかし否定しなかった。


ミアが小さく言った。


「今世でもそうですよね」


ヴィオレットは二人を見た。


カインとミアが、並んで座っていた。


スラム街で生き延びた二人が、今夜この書斎にいる。


前世では、こういう場面が存在しなかった。


誰かと並んで、同じ方向を向いていることが。


「そうかもしれません」


ヴィオレットが言った。


それだけだった。


それだけで十分だった。


三人で少し黙った。


暖炉の音だけがした。


カインが立ち上がった。


「準備をしておきます。ヴェステルとの面会の日時が決まったら教えてください」


「はい」


ミアも立ち上がった。


「お嬢様」


「なんですか」


「今夜話してくれてありがとうございます」


「遅くなりました」


「そう思っていません」


ミアが微笑んだ。


珍しい種類の笑顔だった。


いつもの直情径行な笑顔ではなく、静かで深いところから来る笑顔だった。


二人が書斎を出た。


一人になった。


暖炉が燃えていた。


ヴィオレットはしばらく、その火を見ていた。


今夜話した全部が、部屋の空気の中にまだあった。


前世で一人だった。


今世では一人ではない。


それが今夜、言葉だけでなく、形になった。


形になったものは、簡単には崩れない。


ヴェステルとの面会がどうなるかは、まだわからない。


前世で見えた霧の輪郭が、何を意味するかは、まだ全部見えていない。


しかし今夜は、それでよかった。


全部が見えなくても、進める。


一人ではないから。


書斎を出た。


廊下を歩いた。


自室への階段を上がりながら、ふと思った。


明日の朝食で、母に話しかけることを、もう意識しなくなっていた。


話すことが、当然になっていた。


それがいつからかは、わからない。


ただ、当然になっていた。


それで十分だった。


自室に入った。


引き出しを開けた。


スノードロップの押し花を見た。


白いままだった。


閉じた。


眠った。


今夜の意識は、五割だった。

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