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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第二十三話「図書室の面会」

王立植物学会の図書室は、午後の光が差し込む静かな場所だった。


天井まで届く書棚が並び、羊皮紙と古い紙の匂いが満ちている。閲覧席は十二あったが、平日の午後に使っている者は三人だけだった。学者風の老人が一人、若い書記が一人、そして奥の席でノートを広げている女性が一人。


ヴィオレットは入室した瞬間に全員を確認した。


三人とも、今日の面会に関係のない人間だと判断した。


窓際の席を選んだ。


出口に近く、窓からの逃げ道も確保できる席だ。カインの下見の報告通り、この席が最も選択肢が広かった。


待つ間、本棚から薬草の文献を一冊取り出して開いた。読むためではない。令嬢として自然に見えるためだ。


十分ほどで、フォルタン子爵が来た。


入室した瞬間に室内を見渡した。その視線の動き方が、ヴィオレットには見えた。出口を確認していた。それから人を確認した。自分を見つけて、表情を作った。


愛想のいい笑顔だった。


「お待たせしました、令嬢」


「いいえ、私も今来たところです」


子爵が向かいの席に座った。


今日の装いは、勉強会の時より少し格を落としていた。植物学の議論に来た貴族の男性として自然な装いだった。この男は場に合わせた装いができる。


「この場所を選ばれたのは令嬢らしいですね。確かに植物学の話をするには申し分ない」


「落ち着いて議論できると思いまして」


「全くその通りです」


子爵が書棚を一度見渡した。それから、声を少し落として言った。


「先日の勉強会の後半、いかがでしたか。あれから考えていただけましたか」


「考えていました」


「どのようなことを」


ヴィオレットは少し間を置いた。


引き込まれているふりをする。しかし急ぎすぎない。急ぎすぎれば不自然だ。令嬢として、少し迷っている様子を見せる。


「怖いと思いました」


「怖い」


「知らない間に誰かに使われていたら、という話でしたから。でも同時に、知識として持っていることの意味も考えました」


「どんな意味ですか」


「守るために使える知識と、傷つけるために使える知識は、同じ知識だと思いました。使い方の問題だと、フォルタン様もおっしゃっていましたし」


子爵の目が、少し変わった。


取り込める、という光が戻ってきた。


「まさにその通りです。令嵜は本質をよくご理解されている」


「ただ、私には守りたいものが具体的にあるわけでもないので、実用的にどう考えればいいかが、まだわからないのです」


「守りたいものがない、とおっしゃいますが」


子爵が少し前傾みになった。声がさらに低くなった。


「公爵家という立場は、守るに値するものではないですか」


「公爵家ですか」


「この王国の現状を、令嬢はどうお思いですか。表向きは平和に見えますが、水面下では様々なことが動いています」


「社交の場でそれを感じることはあります」


「感じているなら、わかるでしょう。ノワール公爵家のような清廉な家が、今の王国では孤立しやすい立場にある」


「そうかもしれません」


「孤立しないためには、信頼できる仲間が必要です。令嬢、私たちは同じ方向を向いている人間の集まりを持っています」


ヴィオレットは少し驚いた顔を作った。


「集まりですか」


「王国をより良くしたいと思っている人間の集まりです。表の派閥とは違う。特定の貴族家に縛られない、志を同じくする者たちの繋がりです」


王国をより良くする。


その言葉を、子爵が選んだ。


「どんな方々がいらっしゃるのですか」


「様々な立場の方がいます。貴族もいますし、商人もいます。学者もいます。共通しているのは、今の王国の歪みを知っていて、それを正したいと思っていることです」


「歪みを正す、というのは具体的にどういうことですか」


子爵が少し考えた。


ここで慎重になっている、とヴィオレットは読んだ。全部は話さない。ただ、令嬢が乗ってくるかどうかを測っている。


「腐敗した権力から、本来あるべき秩序を取り戻すことです。今の王国では、一部の家が権力を独占しすぎている。それを是正したい」


「腐敗した権力というのは」


「令嵜もご存知のはずです。社交の場でそれを感じると、先ほどおっしゃっていた」


「感じてはいますが、具体的に何がとは」


「たとえば、《黄金の枷》というものをご存知ですか」


ヴィオレットは表情を動かさなかった。


知らない顔をした。


「存じません。どういったものですか」


「一部の権力者が作った、非公式の結束です。王国の財政、司法、軍事を事実上掌握している。そこに抵抗できる立場の家は、今の王国では多くない」


「ノワール公爵家もそのひとつですか」


「そうです。だからこそ、令嬢のような方に声をかけたい」


ヴィオレットは少し俯いた。


考えているふりをした。


実際は考えていた。子爵が《枷》を腐敗として語った。しかし子爵自身が《枷》の外縁にいる人間だ。《枷》に対立する集まりを装いながら、その集まり自体が何かに利用されているのか。それとも子爵自身が《枷》を裏切って独自に動いているのか。


どちらかによって、子爵の位置が変わる。


「フォルタン様はその集まりの中で、どういう役割をされているのですか」


「連絡役のようなものです。志を同じくする人間を見つけて、繋げる」


「その集まりの中心には、誰がいるのですか」


子爵が少し止まった。


ここが、子爵にとっての判断の分岐点だ、とヴィオレットは思った。名前を言うかどうかを測っている。


「令嬢がご一緒いただけるなら、順番にご紹介します。まず私と、もう少し話を深めてから」


言わなかった。


予想していた答えだった。今日の段階で名前を出すほど、この男は焦っていない。ただし急いでいる。


「具体的には、私に何をしてほしいのですか」


「今はまず、存在を知っていただくことです。令嬢が私たちと繋がっているということ自体が、意味を持ちます」


「なぜですか」


「ノワール公爵家は清廉です。その令嬢が繋がっているという事実が、集まりの正当性を高めます」


名前と顔だ、とヴィオレットは思った。


この集まりは、公爵令嬢という名前と顔を使いたい。実際に動かすためではなく、看板として使いたい。


「難しいお話ですね」


ヴィオレットが言った。


「どの点が」


「父は、どんな繋がりも作ることに慎重な人間です。家訓が清廉ですから、裏の繋がりとなれば、なおさら」


「ご父君には内密にしていただければ」


「父には内密にできません。そういう人間ではないので」


子爵が少し表情を変えた。


そうか、という顔だった。令嬢を単独で動かすことへの難しさを、今初めて実感した顔だった。


「ただ」


ヴィオレットが続けた。


「父を説得する可能性がないとは言っていません。父が信頼できると判断できる情報があれば、違うかもしれない」


「信頼できる情報とは」


「この集まりが本当に王国のためになっているという証拠です。具体的に何をしているかを見れば、父も判断できます」


子爵が少し考えた。


「具体的な活動ですか」


「はい。言葉だけでは、父は動きません。私もそうです」


「それは、もう少し関係を深めてからお見せできるものがあります」


「何がありますか」


「今は言えませんが、令嬢が驚くような実績があります」


実績という言葉を使った。


実績。


この集まりが何かをしている。その何かが、今夜最も引き出したいことだった。


「驚くような、というのは」


「王国の歪みを実際に是正した実例があります。表には出ない形で」


「たとえば、どんな」


子爵が少し笑った。


「令嵜、今日は随分と踏み込んでこられますね」


「知りたいのです。本当のことを」


ヴィオレットは少し前傾みになった。


令嬢として自然な範囲で、好奇心と期待が混じった顔をした。


子爵がそれを見て、少し判断した顔をした。


話す、という判断をした顔だった。


「一つだけ、例をお話しします」


「はい」


「三年前に、王国の内部情報を外部に漏らしていた人物がいました。王国に害をなす人物でした。表の法では証拠が不十分で裁けなかった。しかし私たちは、その人物が動けなくなるよう手を打ちました」


「動けなくなるよう」


「病で倒れました。それ以来、その人物は公的な活動ができていません」


ヴィオレットは表情を動かさなかった。


しかし内側で、今夜最も重要な情報が来た、と確認した。


三年前。病で倒れた。公的な活動ができなくなった。


クレヴァン伯爵だ。


子爵が語った実績は、クレヴァン伯爵を倒したことだった。


「それは、その方のためにもなったのですか」


「王国のためになりました。個人のためかどうかは、また別の話です」


「その方の家族は」


「令嬢、細かいことを気になさいますね」


子爵が少し笑った。


「知りたいのです。そういうことの結果がどうなるかを」


「ご家族は今も生活されています。それで十分でしょう」


十分、という言葉を選んだ。


夫人への配慮ではなく、それで十分という言葉だった。


ヴィオレットは今夜、子爵への評価を一段下げた。


計算はある。しかし人への想像力がない。それがこの男の限界だった。


「なるほど」


「令嬢、どうお思いになりますか」


「すごいことをされているんですね」


「王国のためです。そのような実績が積み重なっています」


「他にも、そういう例がありますか」


「あります。ただし今日は一つだけにしておきましょう。令嬢には段階的にお知らせする方が、理解が深まると思いますので」


段階的に。


まだ全部話す気はない。次の機会を作ろうとしている。


「次はいつお会いできますか」


子爵が少し表情を明るくした。


令嬢の方から次を聞いてきた、という反応だった。


「令嬢のご都合に合わせます。いつでも」


「では来週の同じ時間に、ここでお会いしましょうか」


「喜んで」


会話をそこで一度区切った。


文献の話に戻した。薬草の新しい分類についての話を二十分ほど続けた。


子爵が楽しそうに話した。


植物学への興味は本物だ、とヴィオレットは再確認した。それだけが、この男の中で本物だった。


図書室を出た。


外の空気が冷たかった。


馬車でカインが待っていた。


乗り込んだ。


扉が閉まった。


カインが御者台から振り返った。


ヴィオレットは頷いた。


問題なし。


馬車が動き出した。


今夜の収穫を整理した。


子爵が語った集まりの正体は、まだ全容が見えない。しかし《枷》の外縁にいる人間が、《枷》に対抗する集まりを装いながら何かをしている可能性が出てきた。


あるいは、《枷》自体がその集まりを使って、外から見えない形で動いている可能性もある。


三年前にクレヴァン伯爵を倒したことを、実績として語った。


その言葉を証言として受け取った。証拠にはならない。しかしリュカへの報告として価値がある。


来週、もう一度会う。


次の面会で、集まりの中心にいる人間の名前を引き出す。


そこまでできれば、地図の主要な点が全て揃う。


公爵家の門が見えてきた。


ヴィオレットは窓の外を見ながら、もう一つのことを考えた。


子爵が語った実績の中に、クレヴァン伯爵への言及があった。


夫人に伝えるべきかどうか。


夫人は、主人が病以外の理由で倒れた可能性があると言っていた。今夜、その可能性が確信に近づいた。


しかし今夫人に伝えることが、夫人にとって何をもたらすかを考えた。


確信が、夫人を動かすかもしれない。動いた結果、夫人が危険にさらされる可能性がある。


今は伝えない。


根を断った後に、伝える。


その時に、全部話せる。


門をくぐった。


玄関でミアが待っていた。


「二時間以内でしたね」


「はい」


「よかった」


「心配させましたか」


「毎回します」


「そうですね」


屋敷に入りながら、ヴィオレットは言った。


「近いうちに、カインとミアに話せることがかなり増えます」


ミアが少し止まった。


「かなり、ですか」


「かなり」


「いつですか」


「もう少しだけ待ってください」


ミアが頷いた。


今夜の頷き方は、穏やかだった。待てる、という頷き方だった。


自室に戻った。


リュカへの連絡を書いた。


今夜の面会の内容を、全部書いた。


子爵が語った集まり。実績として語ったクレヴァン伯爵の件。来週また会う約束。


書き終えてから、最後に一行付け加えた。


次の面会で、中心人物の名前を引き出す。それが地図の最後の点になる。


手紙を封じた。


明朝カインに渡す。


手帳を開いた。


今夜書くことを書いた。


書き終えてから、手帳を閉じる前に少し考えた。


子爵が実績として語ったこと。人を病で倒したことを、実績と呼んだ。


その言葉の軽さを、今夜ずっと引きずっていた。


前世では、自分も人を殺してきた。


しかし実績と呼んだことはなかった。


仕事と呼んでいた。


仕事と実績の違いが何かを考えた。


仕事は、目的のために行う行為だ。


実績は、自分を示すために語る成果だ。


子爵は、人を傷つけたことを、自分を示すために語った。


その差が、今夜の子爵への評価を決定づけていた。


手帳を閉じた。


引き出しを開けた。


スノードロップの押し花を見た。


白いままだった。


根を断った後に、夫人に全部話す。


そう決めた。


引き出しを閉じた。


窓の外で、冬の風が鳴っていた。


もう少しだ、と思った。


地図の最後の点まで、もう少しだ。

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