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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第二十話「五年前の南東」

翌朝の朝食が終わった後、ヴィオレットは父を引き止めた。


「お父様、少しよろしいですか」


父が振り返った。


「書斎へ」


二人で書斎に入った。今朝は茶の用意をしなかった。父も促さなかった。今朝は茶を飲む時間ではない、という空気を、父も感じ取っていた。


「ルーベン商会の件で、何かわかりましたか」


「少し」


父が机の引き出しから一枚の紙を取り出した。


「王都の商業組合に古い知人がいる。そこに当たってもらった」


「ありがとうございます」


「ルーベン商会は七年前に現在の経営者が買い取った。買い取る前の商会は別の名前だった。小さな薬草の卸売で、三代続いた家族経営だったが、突然売りに出された」


「突然、ですか」


「売りに出す直前まで、商売は順調だったそうだ。なぜ急に売ったかを当時の番頭に聞いたところ、主人が突然恐ろしくなったと言い残して去ったと言っていたそうだ」


「恐ろしくなった」


「理由は話さなかったらしい。家族ごと王都から出て行って、今どこにいるかは知人も把握していない」


ヴィオレットは父から紙を受け取った。


商会の旧名と、旧経営者の名前が書いてあった。


旧経営者の名前は、ヴィオレットの知らない名前だった。しかし商会の旧名には、見覚えがあった。


フォルタン子爵の書類の中で、一度だけ目にした取引先の名前だった。


繋がった。


「お父様」


「うん」


「これを調べてくださったことを、どなたにも話さないでいただけますか」


父が少し間を置いた。


「構わない。しかし理由を聞いていいか」


「この商会に関わっている人間の中に、情報の漏洩を起こす可能性がある者がいます。広がると困る情報です」


父が娘を見た。


長くは見なかった。一秒ほど見て、頷いた。


「わかった」


「ありがとうございます」


「他に必要なことがあれば言え」


「はい」


書斎を出た。


廊下でカインが待っていた。


「今朝、ミアに話しました」


「どんな様子でしたか」


「泣きませんでした。ただ、朝から剣の手入れをしています」


「そうですか」


「お嬢様、ミアに何か言ってやってもらえますか。俺が言っても、ああいう時は届かないので」


ヴィオレットは少し考えた。


「今日の学園からの帰り道に、話します」


「ありがとうございます」


学園の馬車の中で、ミアは窓の外を見続けていた。


話しかけてくることも、手袋を裏返してくることも、今朝はなかった。


「ミア」


「はい」


「今朝、カインから聞きましたか」


「聞きました」


「どう思いましたか」


ミアが窓から視線を外した。


「私、スラム街でいなくなった子を、何人も知っています。名前を知っている子も、顔だけ知っている子も。みんな気づいたらいなくなっていて、誰も探さなかった」


「はい」


「それが、そういうことだったんだって、今朝初めてわかりました」


ミアの声は静かだった。泣いていなかった。泣くより深いところに何かがある時の声だった。


「カインのお兄ちゃんの部族のことも、同じかもしれないって聞いて」


「可能性があります」


「お嬢様は、それをどうするつもりですか」


「根を断ちます」


「根ごと」


「はい」


ミアが窓の外を見た。


しばらく黙った。


それから言った。


「私にも手伝わせてください」


「今もしてもらっています」


「もっと、直接的な意味で」


ヴィオレットはミアを見た。


この娘が直接的という言葉を使う時の意味を、ヴィオレットは知っていた。


「時期が来たら言います」


「約束ですか」


「約束します」


ミアが頷いた。


今日のミアの頷き方は、カインに似ていた。何かを決めた人間の頷き方だった。


兄妹ではないが、兄妹だと思った。


学園に着いた。


午前の講義が終わった昼食の時間に、アメリが来た。


今日は菓子を持っていなかった。


「ヴィオレット様、少しいいですか」


「どうぞ」


「昨日のお茶会のことなんですが」


「はい」


「クレヴァン夫人が帰り際にお母様に言っていたんです。ヴィオレット嬢にもう一度会いたい、できれば近いうちに、と」


「そうですか」


「なんか、急いでいる感じがしたってお母様が言っていて。ヴィオレット様、クレヴァン夫人と何を話したんですか」


「植物学の話をしました」


「植物学でそんなに急ぎますか」


アメリが不思議そうな顔をした。


的を射た疑問だったが、今は答えられなかった。


「アメリ様のお母様に、夫人のご連絡先を教えていただけますか。私から連絡します」


「わかりました。今日帰ったら聞いておきます」


「ありがとうございます」


アメリが少し考えた。


「ヴィオレット様」


「なんですか」


「私、何か手伝えることがありますか」


ヴィオレットはアメリを見た。


「なぜそう思うのですか」


「なんとなく、最近ヴィオレット様が急いでいる感じがして。一人で急いでいる感じがして。それが少し気になっています」


この娘の感覚は、いつも正確だ。


「今のところは大丈夫です」


「今のところ、ということは将来的には」


「その時は言います」


「本当に言ってくれますか」


「約束します」


アメリが今度は、真剣な顔で頷いた。


いつもの笑顔ではなかった。本気で受け取った顔だった。


その夜、クレヴァン夫人との会合の段取りをリュカに伝えた。


翌日の昼過ぎ、夫人から使いが来た。明後日の午後、夫人の邸宅で会いたいとのことだった。


明後日。


フォルタン子爵からの連絡はまだ来ていなかった。夫人の方が先に動いた。


明後日、ヴィオレットは午後の学園の講義を早退する理由を整えた。体調不良という理由は使いたくなかった。植物学の研究で王立図書館に行くという理由を選んだ。担任の教師に事前に伝えた。教師は黒百合令嬢の申し出を断れなかった。


明後日の午後、ヴィオレットは一人でクレヴァン伯爵家の邸宅へ向かった。


邸宅は王都の南区にあった。


外観は手入れが行き届いていたが、使用人の数が少ない印象だった。経済的な余裕が以前より落ちているか、あるいは人を減らすことを意図的に選んでいるか。


玄関でマリエル夫人が待っていた。


お茶会の時と違い、今日の夫人は装いが簡素だった。社交のための装いではなく、話すための装いだった。


「来てくださってありがとうございます」


「お時間をいただいてありがとうございます」


案内された部屋は小さな応接室だった。


使用人は一人も呼ばれなかった。夫人が自ら茶を用意した。


二人で向かい合って座った。


「主人が調べていたことをお話しします」


夫人が言った。


「はい」


「主人がクレヴァン伯爵家の財務を見直した時期がありました。八年ほど前です。収入の一部がどこへ流れているかわからない項目がありまして、それを辿ったのが始まりでした」


「どこへ流れていましたか」


「南東の山岳地帯への定期的な送金でした。主人の先代が始めたもので、主人自身は理由を知らなかった。先代はすでに亡くなっていましたので、調べるしかなかった」


「調べた結果は」


「南東の山岳地帯に、複数の戦闘部族が住んでいます。その部族との間に、ある種の取引があったようです」


ヴィオレットは茶杯を置いた。


「取引」


「部族が持つ、特定の植物の採取権です。その山岳地帯にしか生えない薬草がある。それを採取する権利を、先代が買っていた」


「先代はその薬草を何に使っていましたか」


「最初は医療目的だったようです。しかし途中から、別の用途で使われるようになった。先代は途中でそれを知って、送金をやめようとしたが、やめられなかった」


「やめられなかった理由は」


夫人が少し間を置いた。


「脅されていたようです。先代が別の件で、法的に問題のあることに関わっていた。それを知られていた」


「弱みを握られていた」


「はい。それで送金を続けるしかなかった。先代が亡くなり、主人が引き継いで初めて気づきました」


「主人様はその送金をやめましたか」


「やめようとしました。しかしやめる前に、同じように脅されました。主人が先代とは別の件で、関わりを持っていたことを持ち出されて」


夫人の声が、少し固くなった。


「主人は拒否しました。脅しに屈しないと決めて、証拠を集めようとしました。三年前に倒れるまで、一年間調べていました」


「倒れた原因は」


「表向きは心臓の発作です。しかし倒れる一週間前に、主人が言っていました。証拠を掴んだと。その証拠をどこかへ送ったとも言っていました」


「どこへ」


夫人が少し迷った。


「影廷へ、と言っていました」


ヴィオレットは動かなかった。


「影廷へ送った証拠が、三年間どうなっているか、夫人はご存知ですか」


「何も動きがなかったので、届かなかったのか、あるいは握り潰されたのか、私にはわかりません」


届かなかったか、握り潰されたか。


セダンのことが頭をよぎった。


フォルタン子爵の内偵担当だったセダンが、三年前に影廷内にいたとすれば。


クレヴァン伯爵が送った証拠が、セダンを経由して消えた可能性がある。


「夫人、主人様が集めた証拠の写しは、お手元にありますか」


「あります。主人が念のために残しておいたものが」


「見せていただけますか」


夫人が立ち上がった。


部屋を出て、数分後に戻ってきた。


手に、封のされた封筒を持っていた。


「三年間、誰にも見せていませんでした」


「今日、私に見せると決めてくださった理由は」


夫人がヴィオレットを見た。


「お茶会での令嬢の目を見たからです。根を断つと言った時の目を」


封筒を受け取った。


開封した。


中に、複数枚の紙が入っていた。


読み始めた。


最初の数枚は、送金の記録だった。金額と日付と送り先が書いてあった。送り先の名前が、途中から変わっていた。


変わった後の送り先の名前を見た瞬間、ヴィオレットの手が止まった。


止まったことを、夫人に悟られないようにした。


読み続けた。


次の紙は、薬草の採取記録だった。どの植物をどのくらいの量採取したか。採取した植物がどこへ運ばれたか。


運ばれた先の名前が、また同じ名前だった。


最後の紙を開いた。


そこには、人の名前がいくつか書いてあった。


クレヴァン伯爵が、三年かけて特定した人物の名前のリストだった。


リストの一番上に書かれた名前を見た。


今度は、止まらなかった。


止まらないように、止めた。


しかし全身の何かが、一瞬、冷えた。


その名前は、リュカから見せてもらった書類の中にあった名前と同じだった。


《黄金の枷》の最深部にいると推測される人物の名前と。


そして。


前世の霧の中に、その名前があった。


霧が、今夜初めて、薄くなった。


薄くなった先に、輪郭が見えた。


まだ形にならない。しかし確かに、そこにある。


「令嬢」


夫人が静かに呼んだ。


「はい」


「顔色が悪い」


「失礼しました」


「何かわかりましたか」


ヴィオレットは封筒の中に紙を戻した。


「一つ確認させてください」


「はい」


「この封筒を、しばらくお預かりしてもいいですか」


「構いません。ただし」


「はい」


「主人の努力を、無駄にしないでください」


「します」


断言だった。


今週二度目の断言だった。


夫人が少し目を細めた。


泣いてはいなかった。しかし泣く一歩手前の何かが、夫人の目の中にあった。


「ありがとうございます」


帰り道の馬車の中で、ヴィオレットは封筒を膝の上に置いたまま、窓の外を見た。


カインが御者台にいた。


今日は振り返らなかった。


ヴィオレットが一人で考えている時間が必要な時に、カインは振り返らない。それをいつ覚えたかは、カイン自身も言わないだろう。


リストの一番上にあった名前。


前世の記憶の霧の中にある輪郭と、その名前が重なっている。


前世の最後に何があったか。


今まで霧の中にあったそれが、今夜初めて、輪郭として見えかけている。


怖いかどうかを考えた。


前世の記憶の答えを知ることが怖いかどうか。


怖くない、とは言えなかった。


しかし知りたい、とも思っていた。


前世の答えが何であれ、今夜の自分がやるべきことは変わらない。


根を断つ。


その先に、前世の答えがあるとしても。なくても。


やることは変わらない。


公爵家の門が見えてきた。


今夜はリュカへの連絡を出す。


明日の夜、茶館で会う。


封筒の中の紙を、リュカに見せる必要がある。


リストの一番上の名前を見た時のリュカの反応を、確認したい。


その反応が何を意味するかで、リュカとの関係の次の段階が決まるかもしれない。


馬車が止まった。


玄関でミアが待っていた。


今日は傘を持っていなかった。晴れていたから当然だった。


「お帰りなさいませ」


「ただいま」


「収穫はありましたか」


ヴィオレットは少し考えた。


ミアに今日の話をどこまでするか。


「あります。詳しくは後で」


「わかりました」


「ミア」


「はい」


「貴方とカインに、近いうちに話せることが増えます」


ミアが少し目を見開いた。


「本当ですか」


「はい」


「いつですか」


「もう少し待ってください」


ミアが頷いた。


今日の頷き方は、昨日より落ち着いていた。待つことを、受け入れた頷き方だった。


自室に戻った。


封筒を机の引き出しに入れた。


スノードロップの押し花の隣に置いた。


並んだそれを少し見た。


白い花と、白い封筒。


どちらも、誰かが三年間待っていたものだった。


花は母が持ってきた。封筒は夫人が持っていた。


どちらも、ヴィオレットの手に渡った。


理由が違う。意味が違う。


しかし今夜、同じ引き出しの中にある。


引き出しを閉じた。


リュカへの連絡を書いた。


明日の夜、茶館で。話したいことがある。


それだけを書いて、封をした。


明朝カインに渡す。


手帳を開いた。


今夜のことを書いた。


最後に、リストの一番上の名前を書いた。


暗号で書いた。


書いてから、しばらく見た。


前世の霧の輪郭が、その名前の形をしている。


まだ全部は見えない。


しかし見えかけている。


それで今夜は十分だった。


手帳を閉じた。


窓の外の夜が、静かに深かった。


砂糖は今夜何個だろうかと思った。


数えることをやめていたが、今夜は数えてみたい気がした。


答えは出なかった。


ただ、甘いものが飲みたいと思った。


それだけで十分だと思った。

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