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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第十九話「カインへの開示」

屋敷に戻ってすぐ、ヴィオレットはカインを書斎に呼んだ。


ミアは呼ばなかった。


今夜の話はカインに先に聞かせる必要があった。ミアに同席させるかどうかは、カインが判断すればいい。


カインが入ってきた。


扉を閉めた。


いつもの立ち方で立った。用件を待つ立ち方だった。


「座りなさい」


カインが少し迷った顔をした。この従者は椅子に座ることをまだ少し遠慮する。


「座りなさい、カイン」


今度は座った。


ヴィオレットも椅子に座った。


暖炉が低く燃えていた。


「今日、クレヴァン伯爵夫人という方と話しました」


「はい」


「その方のご主人が、五年前に南東の山岳地帯で何かがあったという手紙を受け取っていたそうです」


カインが動かなかった。


しかし動かないことが、動いた証拠だった。


「五年前」


「はい」


「山岳地帯で、何があったと」


「詳細は次に会った時に聞きます。今日はそこまでしか聞けませんでした」


カインが少し間を置いた。


「俺の部族のことと関係があると、お思いですか」


「可能性があります」


「可能性、というのは」


「確定ではありません。しかし、ルーベン商会が七年前に経営者が変わり、南東から来た人間が関わっているという情報と合わせると、線が引ける位置にあります」


カインが膝の上に置いた手を、少し動かした。


握ったわけではない。ただ、わずかに動いた。


「クレヴァン伯爵はその調査をして、三年前に倒れました。夫人は病以外の理由があると思っています」


「つまり」


「はい。何者かが、調査を止めさせた可能性があります」


カインが黙った。


暖炉の音だけがした。


ヴィオレットはカインが何かを言うまで待った。


この従者は考える時間が必要な人間だ。言葉を整理してから話す。それを知っていたから、待った。


「部族を売った商人の名前を、以前お嬢様に話しました」


「覚えています」


「その商人が、ルーベン商会と繋がっているかもしれないと、以前調べていただきました」


「はい」


「繋がっていた場合、その商人はどこにいると思いますか」


ヴィオレットは少し考えた。


「ルーベン商会が七年前に急成長した。その商会に関わっている人間が、以前南東で動いていたとすれば、今は王都にいる可能性があります」


カインが頷いた。


頷き方が、普段と少し違った。


何かを決めた人間の頷き方だった。


「お嬢様」


「はい」


「俺に、できることがありますか」


ヴィオレットはカインを見た。


この従者が自分から何かを申し出ることは、珍しくはない。しかし今夜の申し出は、普段のそれと質が違った。


「今夜はまだわかりません。ただ、クレヴァン夫人から詳細を聞いた後に、必要なことが出てきます」


「その時に言ってください」


「言います」


「それと」


カインが続けた。


「ミアに話してもいいですか」


「カインが判断していいことです」


「話します」


「わかりました」


カインが立ち上がりかけた。


「カイン」


「はい」


「一つ聞きます」


「なんですか」


「今夜の話を聞いて、どうでしたか」


カインが少し止まった。


感情を問われることに、この従者は慣れていない。慣れていないが、避けない。それがこの人間の誠実さだとヴィオレットは思っていた。


「怒っています」


「誰に対して」


「部族を売った人間に対して。それと」


カインが少し間を置いた。


「自分に対して、少し」


「なぜですか」


「五年前に逃げた時、俺は部族を助けることができなかった。それをずっと知っていたし、受け入れようとしてきました。しかし今夜の話を聞いて、逃げた先で何が起きていたかを知ろうとしなかったことを、後悔しました」


「知ろうとする手段がなかったはずです」


「ありませんでした。しかし、しようとしなかったことは本当です」


ヴィオレットは少し考えた。


「カイン、一つだけ言います」


「はい」


「逃げたことは正しかった」


「しかし」


「ミアが今ここにいる理由は、貴方が逃げたからです。逃げなければ、ミアもいなかった」


カインが黙った。


「後悔することと、正しかったことは、同時にあり得ます。後悔をなくす必要はありません。ただ、逃げたことが間違いだったとは思わないでください」


カインが長い間、黙っていた。


それから、言った。


「ありがとうございます」


「お礼を言うことではありません」


「俺にとっては、あります」


扉の方へ向かった。


扉を開ける前に、振り返った。


「お嬢様」


「なんですか」


「根を断つと、おっしゃっていましたね」


「はい」


「その根の中に、部族を売った人間も含まれますか」


ヴィオレットは答えた。


「含まれると思っています」


カインが頷いた。


今夜二度目の、何かを決めた人間の頷き方だった。


扉が閉まった。


一人になった書斎で、ヴィオレットは暖炉を見た。


カインの自分への怒りという言葉が、まだ耳の中にあった。


逃げたことへの後悔。助けられなかったことへの後悔。


前世の自分に、そういう感情があったかを考えた。


なかった。


前世では、できなかったことへの後悔より、次にどうするかだけを考えた。それが正しいと思っていた。感情は判断を鈍らせる、と思っていた。


今世では、カインが後悔していることを、止めようとしなかった。


後悔をなくす必要はないと言った。


それが今世の自分の判断だった。


感情が判断を鈍らせることもある。しかし感情がある人間が動く時の力は、感情がない人間のそれとは質が違う、ということを、今世に来てから少しずつ理解し始めていた。


カインが今夜、怒っている。


その怒りは、これから動く時の燃料になる。


正しく燃やせば、力になる。


ヴィオレットは立ち上がった。


父の書斎ではなく、自室に戻った。


机に向かって、手帳を開いた。


今夜の記録を書いた。


それから、別のページを開いた。


これまでに集めた点を、全部書き出した。


フォルタン子爵。ルーベン商会。ドレヴァン家の晩餐会。セダン。クレヴァン伯爵。南東の山岳地帯。カインの部族。五年前の出来事。七人の子供。


それぞれの点の間に、線を引いてみた。


引けるものと、引けないものがあった。


引けないものの中に、まだ名前のない点がいくつかある。


その名前のない点に、前世の霧の中の何かが近い気がした。


手帳を閉じた。


窓の外で、風が鳴っていた。


秋が終わろうとしていた。


冬が来れば、社交の季節が変わる。屋外の集まりが減り、室内の集まりが増える。フォルタン子爵の次の接触も、その変化の中に来るかもしれない。


ただ、七人の子供が行方不明になっている現実は、季節を待たない。


急ぐと言った。


急ぐために、今夜できることを考えた。


クレヴァン夫人との次の会合を早める。夫人が持っている情報を早く聞く。


リュカへの連絡を明日出す。夫人との会合の段取りを伝える。


その前に、父へ報告すべきことがあるかどうかを考えた。


ルーベン商会の件を父に頼んでいた。父がその件で何か掴んでいれば、今夜の情報と繋がるかもしれない。


明日の朝食の後に聞いてみる。


頼んだことを忘れていないことを示すことでもある。頼ることの練習を、続けている。


ヴィオレットは机の引き出しを開けた。


一番奥に、小さな白い花の押し花があった。


母が置いていったスノードロップだった。


乾燥して薄くなっていたが、形は保っていた。


しばらく見た。


大切なものが何かを、少しずつわかってきている最中だと、アメリに言った。


今夜また、少し増えた気がした。


引き出しを閉じた。


眠る準備をした。


今夜の意識は何割になるだろうかと思いながら、目を閉じた。


数えることをやめたのは、いつ頃からだろうか。


気づいたらやめていた。


それだけのことだった。

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