第十八話「夫人の正体」
翌朝、ヴィオレットは学園への登校前に、昨夜の勉強会で受け取った名刺を机の上に並べた。
六枚。参加者全員分だった。
夫人の名刺を手に取った。
マリエル・ド・クレヴァン。クレヴァン伯爵夫人。
クレヴァン伯爵家は、ヴィオレットの記憶の中では目立たない家だった。貴族院の中位にいる家で、特定の派閥への傾倒も、特別な業績も、表には出ていない。
目立たない、ということが、時に最も意味を持つ。
学園の馬車の中で、ミアに聞いた。
「クレヴァン伯爵夫人という方をご存知ですか」
「名前だけは。確か、音楽の後援をされている方ではないですか」
「音楽」
「弦楽の演奏家を支援していると聞いたことがあります。奥様自身も演奏されるとか」
弦楽。
指先の傷の説明がついた。
しかし説明がついたことで、逆に別の問いが出た。
弦楽の奏者の指先の傷は、弓を持つ手につく。右手だ。昨夜確認した傷も右手だった。一致している。
しかし昨夜の夫人の会話の質は、音楽の後援者のものではなかった。
両方が本当である可能性がある。
弦楽の奏者であり、かつ別の訓練も受けている。
学園に着いた。
午前の講義を受けながら、クレヴァン伯爵家について頭の中で整理した。
政治学の講師が貴族院の委員会構成について話していた。クレヴァン伯爵の名前が出た。財務委員会の末席にいるらしかった。
財務委員会。
ドレヴァン侯爵家が王国の財政を掌握している。その委員会の末席にクレヴァン伯爵がいる。
末席、という位置が気になった。
目立たない場所から、何かを見ている人間がいる。その可能性をヴィオレットは知っていた。前世で、最も危険だったのは末席にいる人間だったことが何度もあった。
昼食の時間に、アメリが来た。
「今日のお昼、また一緒にどうですか」
「喜んで」
中庭のベンチに座った。
アメリが包みを開けた。今日はアーモンドの入ったクッキーだった。
「ヴィオレット様、クレヴァン伯爵夫人をご存知ですか」
アメリが唐突に言った。
ヴィオレットは表情を動かさなかった。
「少し。なぜですか」
「今朝、お母様から聞いたんです。今週のお茶会にクレヴァン夫人が来るって。夫人が特にヴィオレット様にお会いしたいとおっしゃっていたって」
ヴィオレットはクッキーを一口食べた。
アーモンドの香りが広がった。
クレヴァン夫人が、ヴィオレットに会いたいと言っている。昨夜の勉強会の翌日に。
偶然ではない。
「アメリ様のお母様のお茶会はいつですか」
「明後日です。ヴィオレット様も来られますか」
「行きます」
アメリが嬉しそうな顔をした。
「やった。お母様も喜びます」
「クレヴァン夫人について、他に何かご存知ですか」
「うーん。音楽が好きな方とは聞きましたけど、それくらいで。ヴィオレット様はなぜ気になるんですか」
「先日お見かけして、興味深い方だと思いました」
「ヴィオレット様が人に興味を持つのは珍しいですよね」
「そうですか」
「いつも観察している感じで、興味を持っているのとは少し違うというか」
ヴィオレットはアメリを見た。
この娘は、いつも少し鋭いところで鋭い。
「観察と興味は、私の場合は同じです」
「そうなんですか」
「観察したいと思う相手にしか、興味が向きません」
アメリが少し考えた。
「じゃあ私のことも観察してるんですか」
「しています」
「どんな観察をしてるんですか」
「今日のクッキーにアーモンドが入っていることを、昨日から予測していました」
アメリが目を丸くした。
「なんでわかるんですか」
「アメリ様は私がアーモンドを好きだということを覚えていて、それを選んでくれる方だから」
アメリが少し赤くなった。
「そういうこと言うんですね、ヴィオレット様」
「事実を言いました」
「事実でも、そういう言い方をされると照れます」
ヴィオレットは少し考えた。
照れさせるつもりはなかった。しかし照れさせた。
それがなぜかを考えて、わからなかった。
「明後日のお茶会でクレヴァン夫人と話す機会があれば、教えてもらえますか。夫人が私を話題にしていた時のことを」
「もちろんです」
アメリが頷いた。
その日の放課後、ヴィオレットはリュカへの連絡を出した。
内容は短かった。クレヴァン夫人がヴィオレットとの接触を求めているということと、明後日のソレイユ夫人のお茶会で接触する予定だということだけを書いた。
翌日、リュカから返信が来た。
クレヴァン伯爵夫人について。
クレヴァン伯爵は三年前から病床にある。実質的に家政を取り仕切っているのは夫人だ。伯爵家の財務はここ数年で急に安定した。安定した理由が不明。影廷は把握していなかった。
返信はそこで終わっていた。
ヴィオレットは紙を燃やした。
三年前から夫人が家を取り仕切っている。財務が理由不明で安定した。ルーベン商会が王都に出てきたのが七年前で、急成長したのがその後だった。財務の安定との間に三年から四年の差がある。
差がある理由が何かは、まだわからない。
ただ、線が引けそうな場所が増えてきた。
明後日のお茶会が来た。
ソレイユ伯爵家の広間は、アメリの家らしい明るい雰囲気だった。花が多く、菓子が豊富で、会話が弾んでいた。参加者は十五名ほど。ヴィオレットが来ると、何人かが驚いた顔をした。黒百合令嬢がソレイユ家のお茶会に来ることは珍しかったのだろう。
アメリが隣にいた。
「クレヴァン夫人、もう来ていますよ。窓際にいます」
ヴィオレットは確認した。
昨夜の勉強会と同じ夫人だった。今日の装いも上品で、目立たない色を選んでいた。昨夜と同じ選び方だった。
この夫人は、目立たないことを意図的に選んでいる。
しばらく別の客と挨拶を交わした後、自然な流れで夫人の方へ移動した。
夫人がヴィオレットを見た。
昨夜と違う目だった。昨夜は観察していた。今日は、決めている目だった。
何かを決めて来ている。
「ヴィオレット嬢、先日の勉強会以来ですね」
「マリエル様、またお目にかかれて嬉しいです」
「少しお話しできますか」
「もちろん」
二人で窓際の少し離れた場所に移動した。
夫人が低く言った。
「単刀直入に申し上げます」
「どうぞ」
「フォルタン子爵から離れてください」
ヴィオレットは表情を動かさなかった。
「どういう意味でしょうか」
「あの方の勉強会に、これ以上出席しないでほしいのです」
「なぜですか」
夫人が少し間を置いた。
その間の中に、何かを計算している時間があった。どこまで話すかを決めている間だった。
「令嬢のことを心配しています」
「ありがとうございます。しかし、心配していただく理由がわかりません」
「昨夜の後半の内容を聞いて、どう思われましたか」
「興味深い話でした」
「それだけですか」
「他に何と申し上げればよいのですか」
夫人がヴィオレットを見た。
探っている目だった。この令嬢がどこまで知っているかを、測っている。
ヴィオレットは測られながら、夫人を測った。
「フォルタン様は、令嬢を利用しようとしています」
「利用、ですか」
「ノワール公爵家という立場を。昨夜の後半の内容に令嬢が興味を示せば、次の段階に進もうとするはずです」
「次の段階とは」
夫人が少し迷った。
迷ってから、話すことを選んだ。
「スラム街の子供の件です」
ヴィオレットは茶杯を持ったまま、動かなかった。
「子供、ですか」
「フォルタン様がしていることの本体は、植物学ではありません。昨夜の話は、そこへ近づくための手順の一つです」
「本体とは」
「令嬢には関係ないことです。ただ、関わるべきではない」
「なぜ教えてくださるのですか」
夫人が窓の外を見た。
秋の終わりの庭が、風に揺れていた。
「主人が病で倒れる前に、私にした頼みがあります。これ以上、この件に関わった人間を増やすなという頼みでした」
「ご主人様もご存知なのですか」
「知っていたから、倒れたのかもしれません」
その言葉の重さを、ヴィオレットは受け取った。
病床にある夫。三年前から夫人が家を取り仕切っている。財務が理由不明で安定した。
点が、今夜また繋がった。
クレヴァン伯爵は、フォルタン子爵の件を知った。知ったことが、倒れた原因に関係している可能性がある。夫人はそれを知っていて、夫の遺志として関わった人間を増やさないようにしている。
「夫人」
「はい」
「一つだけ聞かせてください」
「なんでしょう」
「ご主人様が倒れた理由を、病以外にあると思っていますか」
夫人が止まった。
長い沈黙だった。
それから言った。
「思っています」
「フォルタン様が関係していると」
「証拠はありません」
「しかし思っている」
「はい」
ヴィオレットは夫人を見た。
この夫人は、怒っている。表に出していないが、怒っている。夫を倒した可能性がある人間と、表面上は穏やかな関係を保ちながら、三年間怒っている。
それがどれほど消耗することかは、ヴィオレットには想像できなかった。
しかし、怒りを三年間保持し続けることができる人間だということは、わかった。
「夫人」
「はい」
「フォルタン様から離れるという選択は、今の私にはできません」
夫人が表情を変えた。
「しかし」
ヴィオレットが続けた。
「夫人が心配してくださっていることは、受け取りました」
「令嬢、危険です」
「わかっています」
「わかっていて、それでも」
「はい」
夫人が、ヴィオレットを見た。
令嬢の目を見た。
しばらく、見ていた。
何かを読もうとしている目だった。この令嬢が何者かを、読もうとしていた。
読み切れなかった顔をした。
「令嬢は、何をしようとしているのですか」
ヴィオレットは少し間を置いた。
「根を断とうとしています」
夫人が動かなかった。
「根、とは」
「フォルタン様の件だけではありません。その背後にあるものを」
「それは、途方もないことです」
「そうかもしれません」
「一人でできることではありません」
「一人ではありません」
夫人がヴィオレットを見た。
今度は先ほどとは違う目だった。
測る目ではなく、決める目だった。
「私に、できることがありますか」
ヴィオレットは夫人を見た。
三年間怒りを保持し続けた人間。目立たないことを意図的に選んできた人間。財務委員会の末席から何かを見てきた人間。
「夫人の主人が知っていたことを、教えていただけますか」
夫人が少し息を吸った。
「全部は、まだ話せません」
「わかりました」
「ただ、一つだけ」
「はい」
「ルーベン商会が王都に来る前に、南東で何をしていたかを、主人は知っていました」
ヴィオレットは動かなかった。
「どこで知りましたか」
「南東の山岳地帯に、主人の親族がいます。五年前に、その地域で何かがあったと手紙が来ました。主人がそれを調べ始めて、三年前に倒れました」
五年前。
カインの部族が滅びた年だった。
ヴィオレットは茶杯を静かに置いた。
「夫人、もう一度お会いすることはできますか」
「はい」
「次はもう少し、詳しくお話しいただけますか」
「用意します」
「ありがとうございます」
「令嬢」
「はい」
「主人の仇を取れますか」
ヴィオレットは夫人を見た。
仇、という言葉が三年分の怒りを含んでいた。
「約束はできません」
夫人が少し顔を動かした。
「ただ」
ヴィオレットが続けた。
「根を断つ先に、それがあると思っています」
夫人が、静かに頷いた。
その頷き方が、三年間待っていた人間の頷き方だった。
アメリが遠くから手を振っていた。
新しいお菓子が来たらしく、早く来てくださいという顔をしていた。
ヴィオレットは夫人に一礼して、アメリの方へ向かった。
アメリが嬉しそうに言った。
「何を話していたんですか、クレヴァン夫人と」
「植物学のことです」
「そうなんですか。なんか、難しい顔をしていたので」
「難しい植物学の話でした」
アメリが少し考えた。
「ヴィオレット様って、植物学を本当に好きなんですね」
「ええ」
「他に好きなものはありますか」
ヴィオレットは少し考えた。
「アーモンドの入ったクッキー」
アメリが笑った。
今日一番の声で笑った。
その笑い声が、広間に広がった。
何人かが振り返った。
ヴィオレットは振り返った人間たちの顔を確認しながら、アメリの笑い声を聞いていた。
今日の収穫は多かった。
しかし今この瞬間は、収穫のことを考えていなかった。
アメリが笑っていた。
それだけが、今この瞬間にあることだった。
帰り道の馬車の中で、ヴィオレットは手帳を取り出した。
今日確認できたことを書いた。
クレヴァン夫人の立場。伯爵が知っていたこと。南東での五年前の出来事。ルーベン商会との繋がり。
書き終えてから、最後に一行付け加えた。
カインに、今日のことを話す必要がある。
この従者の部族の話が、今夜の情報と同じ場所にある。
それをカインに伝えることが、正しいかどうかを考えた。
正しい、と思った。
カインは知る権利がある。
そして知った上で、どう動くかを選ぶ権利がある。
公爵家の門が見えてきた。
今夜、カインと話す。
その前に、窓の外を一度見た。
夜の王都が、静かに流れていった。
点が増えるたびに、絵の輪郭が少しずつ見えてくる。
輪郭が見えてきた時に、その絵が何を描いているかがわかる。
まだ途中だった。
しかし今夜は、途中の中でも、ずいぶん先まで来た気がした。




