第十三幕 増えていくもの
第十三幕 増えていくもの
彼女の世界は、どこまでも広がっていく——
芸能コースが動き出し、一ヶ月が経った。
放課後になれば、沙友里たちはレッスン場へ向かうのが当たり前になっていた。
ダンス、ボイトレ、基礎体力、ストレッチ。気がつけば、放課後の予定は毎日埋まっている。
帰り道、沙友里は少し疲れた顔をしていた。でも——目は輝いていた。
「毎日、大変だけど……楽しいよ」
「疲れてない?」
「大丈夫! 夢に近づいている感じがするから」
僕には、心配することしかできない。でも、沙友里の顔を見ていると、この疲れも夢へ向かう一歩なんだと思えた。
二月十四日が近づいてきた。
付き合ってから初めてのバレンタインデー。何だか意識してしまう。男子たちも、どこか落ち着かなかった。
漫研の部室で、スケッチブックを開いていると、守が隣に座った。
「なぁ、直哉……さゆりんは、チョコくれると思うか?」
「……なんで僕に聞くの?」
「お前の彼女だから」
それはそうだけど。
「分からない……だけど、もらえたら嬉しい」
「素直だな」
守がニヤけた。
「ちなみに俺は、十個くらいはもらえると——」
「思わない」
「最後まで聞けよ!」
この日も、沙友里が終わるのを待って一緒に帰った。
僕たちは今日も、手を繋いでいた。
「最近ようやく、里奈と七瀬と仲良くなってきたよ」
「……同じ一年生の?」
「そう! 一般応募で入ってきた、貴重な同い年だからね」
確かに、沙友里は最近よくその二人の話をしていた。
「里奈も七瀬もすごいよ。どんどんダンスが上達してる」
「元々の運動神経がいいんじゃない?」
「それはあるね。里奈は身体を大きく動かすし、七瀬は何か雰囲気のあるダンスするんだよ」
沙友里は、空いている腕を大きく動かしながら、二人の踊りを伝えようとしていた。
「沙友里も、身体中で『楽しい!』って叫んでる感じがするよ」
「ホントに? それが伝わってるなら嬉しい」
ダンスの時だけでなく、今も沙友里の感情は伝わってくる。
少しスキップしながら歩く沙友里に、僕は目を細めた。
「実は十三日に、麻衣も入れた四人で、チョコ作りするの」
「えっ、バレンタインの?」
「そうだよ。七瀬が言い出したんだけど、私も直哉に手作り本命チョコ渡したかったから……」
「あ、ありがとう」
本命と言われて、僕の顔が急に熱くなった。
僕は、この熱が伝わらないようにと願っていた。
「期待しててね!」
僕の胸の内を知らない沙友里は、意地悪な笑みを浮かべていた。その笑顔を見て、繋いだ手を、離れないよう握り直した。
バレンタイン当日。
朝、遅刻ギリギリで登校してきた沙友里は、真っ先に僕のところへやってきた。
「おはよー、直哉」
「おはよう、今日は遅かったね」
沙友里は少し息が弾んでいる。
少し息を整えてから、大袈裟な動作でカバンから袋を取り出した。
「はい、これ。手作りチョコ!」
「ありがとう」
それはとても丁寧にラッピングされた、リボンのついた箱だった。
両手を伸ばして、恐る恐る受け取る。
受け取った瞬間、僕の口元は緩んでいた。安堵と感動が混じり合い、胸の奥が熱くなった。
「直哉、嬉しい?」
「うん、めちゃくちゃ——嬉しいよ」
「良かった」
沙友里の頬が緩み、目を細めた。
「実は、もうひとつあるんだ」
「もう一つ?」
「友チョコ! 四人で交換する用のチョコ、直哉にも一個あげる」
沙友里のカバンから出てきたのは、ラッピングされた小さな袋だった。
「麻衣たちに、渡したチョコだよ」
「いいの?」
「うん、それも美味しかったから」
そう言いながら、沙友里が急に顔を近づけてきた。僕は、思わず座っている椅子を鳴らしてしまった。
「みんなにも義理チョコあげるけど……直哉のチョコだけは特別だから」
「う、うん」
それだけ囁くと、笑顔を見せながら、沙友里は自分の席に向かった。
僕の耳に、沙友里の声がしばらく残っていた。
その日の男子は、みんなソワソワして時間を過ごす。勝者と敗者の明暗が、くっきり分かれる残酷な日。
「直哉、放課後は漫研の部室に集合な!」
守は朝から気合いの入った様子で、共感できないやる気をみせていた。
「相沢、俺は誘ってくれないのかい?」
「お前はダメだ、黒崎。俺の心が折れる!」
「そんなことないよ」
「あるんだよ……」
いつもと何も変わらない黒崎くんからは、余裕すら感じる。
僕は沙友里のおかげで、バレンタインが今までとまるで違う日になっていた。
「はぁーーーー。お前はいいよな……そのでかい箱、さゆりんからだろ?」
放課後の部室で、守は大きなため息を吐いた。
「守だって、そんなに沢山もらってるじゃないか」
「よく見ろ! 全部明らかに義理チョコじゃねえか……こんなに小さいんだぞ」
「大きさの問題なのかな……」
机の上に並べてみると、確かに数は多いが既製品が多く、そして小さいチョコが多い。それでも他のクラスから、わざわざ持ってくる女子もいた。あらためて守の交友関係の広さを知った。
やがて、部室のドアが勢いよく開き、沙友里と神楽さんが顔を出した。それだけで、男だらけの部室が、一気に華やいだ。
「直哉、お待たせ。帰ろっ!」
「お疲れ様、今日は終わるの早かったね」
「城ヶ崎さんが、今日はみんなの過ごしたい人と、過ごしなさいって」
あの人なら言いそうだ。
ガックリと肩を落としている守に、神楽さんが声をかけた。
「守……どうせ、あんたは義理チョコばっかでしょ?」
「……なんで分かんだよ」
「分かるわよ……はい、これあげるから」
神楽さんはカバンから、リボンの付いた立派な箱を出した。
「私くらいでしょ? 守にこんな立派なチョコあげるのは」
「……麻衣」
「何よ?」
「お前、俺に惚れてたのか……」
「調子に乗るな!」
漫研の部室に、守の叫び声が響いた。
帰り道で二人になった時、僕はいつものように沙友里の手を取った。今日は特に、沙友里の手が冷たく感じた。
「チョコ、すごく美味しかった」
「えっ? いつの間に食べたの?」
「昼休みにね」
「ふふ、けど良かった!」
僕たちは手を繋いだまま歩いていた。
大切なものが、少しずつ増えていく。
それは沙友里だけでなく——きっと、僕も同じだった。
——ここからは、直哉の知らないお話。
バレンタイン前日。
沙友里の家には、大量のチョコレートとボウルと型。それに、麻衣、里奈、七瀬の四人が揃っていた。
「みんなで、チョコ作りたい……」
こうなったのは、数日前に七瀬が突然言った一言がきっかけだった。
一番こういうことを言い出しそうにない七瀬からの提案だったので、沙友里は少し驚いた。それでも、これはチャンスだとすぐに受け入れた。
作業が始まると、それぞれの個性が出た。
麻衣はきっちりと計量を行い、グラム単位で正確に測っている。手際もいい。
「先生! 次どうするの?」
里奈が麻衣に聞いた。麻衣は少し照れくさそうに笑いながら、丁寧に教えていた。
常に全力で挑んでいく里奈は、失敗の連続だった。チョコを溢す、型を逆に置いてしまったり。それでも里奈は、ケラケラ笑っていた。
「大丈夫、大丈夫! 形より気持ち」
「気持ちだけじゃ、食べられないわよ」
麻衣は呆れながらも笑っていた。
七瀬は里奈が巻き起こす騒がしさの中でも、マイペースで黙々と作っていた。しかし、デコレーションの段階になると、手が止まらなかった。
「七瀬……それ、すごい」
沙友里は思わず声を上げた。
七瀬のチョコには、細かい模様が描かれていた。まるで小さな絵のように。
「チョコ作りって、絵を描くのと一緒だから……」
ぼんやりとした表情と話し方。七瀬はそれだけ言って、また作業に戻った。
その様子に、三人は顔を見合わせて笑った。
「さゆちゃんは、誰にあげるの?」
里奈が沙友里に問いかけた。
「……彼氏」
突然の問いに、思わず声が小さくなってしまった。
「まいちゃんは?」
「まぁ、ね」
「答えになってなーい」
麻衣は里奈から視線を外した。その耳が赤かった。
「私はね、パパとママ!」
里奈が元気よく言った。
「ななちゃんは?」
「……私は、三人に」
三人は、同時に七瀬へ顔を向けた。
「「えっ?」」
「みんなのこと、好きだから」
真顔でいう七瀬に、三人は顔を見合わせた。
「変かな?」
その呟きが漏れたあと、今度は全員で笑い合った。
「なら四人でも贈り合おうよ!」
「沙友里、それ名案!」
それから一気に忙しくなり、それぞれが熱中した。机いっぱいのチョコを作りながら、四人はずっと笑っていた。
四人で顔を寄せ合い、写真を撮る。
「いくよーー。笑って!」
画面いっぱいに、笑顔が並んだ。
(アイドルとしてだけじゃない、大切な友達だ)
沙友里は、何度も写真を見返していた。
大切なものが、また一つ増えた——




