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第七章 松本で別れるまで

 朝、由佳は洗面台で髪を結んでいた。

 鏡の中で目が合い、おはよう、と言う。彼女はゴムを口へ咥えかけてやめ、指に掛け直してから返事をした。そんなわずかな手間を自分のために使ってくれたことが、眠りから覚めたばかりの胸に残る。

「よく寝られた?」

「うん。由佳は?」

「途中、一回起きたけど。あとは」

 結び終わった髪を軽く引き、由佳は鏡へ近づく。目元が少し腫れているように見えた。私はそれを指摘せず、窓のカーテンを開けた。

 雲の切れ間に、昨日見えなかった山の一部がある。稜線の全部は出ていない。けれど隠れていた斜面の大きさに、思わず声が出た。

「由佳、少し見える」

 由佳が洗面台を離れて、窓へ来た。

「ほんとだ」

 隣に立ち、二人で雲の動きを待つ。新しく見えるところができると、別のところが隠れる。いつまで見ていても、全部はわからないかもしれなかった。

「朝ご飯、行こうか」

 由佳が言う。

「うん」

 私はカーテンを開けたまま、部屋の鍵を取った。

 食堂では、昨夜と同じ席に二人分の膳が並んでいる。ご飯をよそってもらう量を、今日は二人とも少なめに頼んだ。旅のあいだ、少しずつ食べすぎていたらしい。

 由佳が味噌汁へ口をつけ、熱さに小さく息を漏らす。私も箸を取る。何を話してもよくて、まだ何を話せばいいかわからない。昨夜、口にしたことが食卓の上で乾いていくのを待つような朝だった。

「お土産、買わなくていい?」

 由佳が訊いた。

「会社のは、途中で買う」

「配る人数、何人くらい?」

「事務所だけなら八人。でも現場にも少し」

「いっぱい要るね」

「由佳のところは?」

「十人ちょっと。割れないやつがいい」

 最初の日にも聞いた言葉なので、私は笑った。

「お母さんと同じこと言ってる」

「確かに」

 由佳は口元を押さえ、それから少し困ったように言った。

「あの煎餅、まだ車にある?」

「あるよ。まだかなり」

「奈緒、半分くらい持ってって」

「もともと私へのお土産じゃなかった?」

「そうだった。じゃあ全部」

「由佳にも食べてもらう」

 そうやって普通に笑えることを、私は昨夜の話をなかったことにするために使いたくなかった。由佳が箸を動かしているところを見ながら、駅で言う言葉をもう一度、心の中で確かめた。


 荷物を車へ載せる前に、支払いを済ませた。

 由佳はまとめていた領収書を取り出し、私と一緒に金額を確かめる。細かな計算をしているうち、私が受け取る額より、由佳へ返す額のほうが大きくなった。

「ほら、全部持ってないでしょ」

 私が言うと、由佳は小さく笑った。

「よかった。ちゃんと割れて」

 携帯で送金を済ませ、由佳が受け取りを確認する。お金のやりとりが終わっても、二人ともすぐにはその場を離れなかった。

 宿の人に礼を言い、玄関を出る。由佳は靴の踵を直してから振り返り、忘れ物ない、と私に訊いた。

「たぶん」

「昨日の上着」

「着てる」

「携帯」

「ある」

「私の本」

「それは由佳の鞄」

 由佳は鞄の口を開け、自分で確かめた。

 湖の宿では、まだ次の部屋があった。今日はこの荷物をほどく場所が、二人で違う。荷室に並んだ鞄を見てから、私は後部座席へ自分の本を置いた。

「奈緒、運転平気?」

「うん。今日は、私がしたい」

「わかった。疲れたら言って」

 由佳が助手席へ乗る。背もたれの角度は、もう直さなくてもよかった。

 白馬の街を離れ、来た道を南へ戻る。木立の向こうに見える湖の色が、昨日とは少し違う。寄り道をすれば、まだ一時間くらいはここにいられる。どこかで昼食を取り、もう一度水の傍へ下りることもできる。

 口を開きかけたとき、由佳が地図の画面を消した。

「松本、何時くらいになりそう?」

「途中で休んで、お昼すぎかな」

「余裕あるね」

「うん」

 私は方向指示器を出さず、そのまま道を進んだ。

 曲がり角が背後へ遠ざかる。湖畔の木々の間に朝の光が細く挟まり、やがてそれも見えなくなった。

 大町で一度、車を停めた。二人ともお手洗いへ行き、売店で土産を選んだ。由佳は小さな箱をいくつか重ね、私の大きな袋を見て笑う。

「奈緒のほうが、荷物増えたね」

「車だからって、みんな遠慮しない」

「まだ誰にも頼まれてないでしょう」

「そうだけど」

 頼まれていないのに数を揃えてしまう。その癖を全部やめたいわけではなかった。ただ、由佳がそれを見て笑うなら、私も自分で笑えるところに置いておきたい。

 駐車場へ戻ると、由佳が小さな飲み物の瓶を差し出した。

「奈緒の。冷たいのでよかった?」

「ありがとう」

 余計なことを言わずに受け取った。由佳は自分の分を開け、一口飲んでから、肩を少し下げる。

「おいしい」

 私も蓋を開けた。

 安曇野を過ぎるころ、由佳は少し眠った。窓に頭をぶつけないよう、自分で畳んだ上着を肩へ寄せている。私は空調の風が顔へ当たらない角度に変え、そのあとは触らなかった。

 ときどき、隣の人を連れていることが不思議になる。由佳の身体の重さを載せた車が、自分の足の動きに合わせて速度を変える。信号が赤になれば止まり、青になればまた進む。そんなありふれた仕組みの中で、私はもう少しだけ、彼女の眠りを預かっていた。

 眠る前、由佳は、松本に近づいたら起こして、と言った。私は言われたところまで来てから、名前を呼んだ。

「由佳」

「……うん」

「そろそろ街」

 由佳が目を開け、前を見た。窓の外の店を一つ確かめ、それから私へ顔を向ける。

「寝ちゃった」

「うん」

「ありがとう」

 私も、ありがとう、と言いそうになった。何に対してかを聞かれたら困るので、その代わりに、よく寝てたよ、と伝えた。


 松本では駅に近い駐車場へ車を入れ、荷物を置いたまま昼食へ向かった。

 三日前に泊まった街。由佳が看板を指して、ここ通ったね、と笑う。同じ交差点を渡っていくと、古書店を探した路地の入口が見えた。

 昼の混む時刻は過ぎていて、入った店には空いた席が多かった。二人で窓から少し離れた卓に座る。由佳は鞄を横へ置き、私も自分の小さな鞄を椅子へ掛けた。

 食べ終わっても、由佳は席を立たなかった。私が飲み物を頼むと、彼女も同じものを選ぶ。

「まだ時間ある?」

 私が訊くと、由佳は頷いた。

「あるよ。急がなくて大丈夫」

 何を急がなくていいのか、二人ともわかっていた。

 由佳は携帯を鞄へしまった。私も同じようにした。時刻を見られなくなったからといって、残り時間が増えるわけではない。それでも今、由佳の顔を見ながら話したかった。

「昨日の続き、話してもいい?」

「うん」

 店の奥で、水の流れる音がする。私は卓の下で膝に触れ、そこに自分の身体があることを確かめた。

「由佳が好き」

 言ったあと、由佳の目を見続けるために、もう一度息を吸った。

「この旅行で一緒にいて、もっと会いたくなった。東京にも行きたい。由佳の休みが、家からあんまり出ない日でも」

 由佳の唇がわずかに動く。でもまだ何も言わない。

「昔の返事だけじゃなくて。今、付き合ってほしい」

 最後の言葉を口にすると、卓の下の指が震えた。片方の手でもう片方を押さえる。言ったばかりの願いを、冗談に戻すことはできない。

 由佳は私の顔を見ていた。

 返事を待つあいだに、私たちのいた場所がいくつも浮かぶ。図書室、卒業の日の駅前、結婚式のあとの喫茶店。そのどこでも私は、今するようには、相手の顔を見ていなかった。

 由佳が息を吐いた。

「私、帰ったら、こんなにずっと機嫌よくないよ」

 声は少し掠れている。

「仕事のあと、全然喋りたくない日もあるし」

「うん」

「奈緒が来てくれても、本当に、家から出ないかもしれない」

 私は頷いて、それから少し笑った。

「私も、毎週は行けないと思う。お金も、時間もあるし」

「うん」

「休みの日、洗濯もしたい」

 由佳が笑った。目元に、朝より深く細い線が寄る。

「して。洗濯」

「でも会いたい。次に会えるの、いつだろうって、ちゃんと考えたい」

 由佳は視線を落とし、膝の上で手を動かした。

 少しして顔を上げる。その表情は、私が返事をする前から思い描いていたどの顔とも違った。嬉しそうで、まだ少し困っていて、こちらの言葉を確かめるように目が離れない。

「私も、奈緒が好き」

 今度は私が、うまく息を吐けなくなった。

「一緒にいて、もっと好きになった。だから昨日、腹が立ったんだと思う」

「ごめん」

「それは、昨日聞いた」

 由佳が笑う。私は頷き、謝り直すのをやめた。

「付き合おう」

 そう言って、由佳は卓へ手を置いた。

 私も手を伸ばした。指先が触れ、彼女の手の小さな動きがそのまま伝わってくる。確かめるように少し握ると、由佳が同じくらいの力で握り返した。

 コップの中の氷が崩れた。

 どちらもそちらを見なかった。

 手を離したあと、由佳は鞄から携帯を取り出した。私は反射的に時刻を確かめようとしたけれど、開かれたのは九月の予定表だった。

「次、いつにしよう」

 由佳が訊く。

 次。

 昨日から何度も口にして、何度も自分を苦しくしていた言葉が、今は画面の上の小さな四角として並んでいる。

「三週目の土日、どう?」

 私は自分の予定表を開いた。九月の棚卸しは月末の予定で、具体的な日がまだ入っていない。三週目なら空いているはず、と伝えると、由佳はその土曜日を指で押さえた。

「私も、今のところ大丈夫」

「じゃあ、行く」

「東京に?」

「うん」

 由佳が画面から顔を上げた。

「何も特別なもの、ないよ」

「見たい。由佳のいるところ」

 言い終えたあとで顔が熱くなった。由佳は笑わず、少し照れたように唇を結び、それから頷く。

「来て」

 私も予定表の同じ日を押した。入力する文字を迷っていると、由佳が横から覗き込む。

「何て入れるの」

「まだ決めてない」

「由佳の家、でいいじゃん」

「住所も知らないのに」

「あとで送る」

 由佳の家、と打つ。途中で出た変換候補を直し、保存を押した。字にしてしまうと、それはもう、私の九月に場所を取っている。

 会計を済ませて外へ出ると、午後の陽が建物の壁を明るくしていた。駅へ向かう人の流れの中で、由佳は私の半歩横を歩く。私たちはさっきまでと同じ速さで歩いているはずなのに、身体の置き場が少し違う。

「奈緒」

 呼ばれて顔を向ける。

「さっきの、ちゃんと聞いたから」

「どれ?」

 わかっているのに聞き返してしまった。

 由佳が口元だけで笑う。

「全部」

 私はもう訊き直せず、頷いた。信号が変わり、二人で横断歩道へ足を出す。渡り終わるまでのあいだ、私たちは何も話さなかった。


 車の荷室を開けると、紺色の鞄は初日より少し膨らんでいた。

 由佳が中へ土産の袋を押し込み、入らない、と笑う。結局、袋は手で持つことにした。私は車内から置き忘れがないかを確かめ、ドアの収納にあった水を取り出した。

「これ、由佳の」

「ありがとう。奈緒の車、便利だった」

「本人には?」

「もっと便利」

 私が顔をしかめると、由佳がすぐ、冗談、と言った。そんな軽さを取り戻せたことが嬉しくて、少し腹が立つふりを長引かせた。

 後部座席の本を見つけて、由佳が指を伸ばす。

「魚の本、どこまで読んだ?」

「次の街まで行った」

「ちゃんと旅行してる」

「うん。今度持っていく」

「読み終わってからでいいよ」

「わかった」

 由佳は本を元の場所へ戻し、鞄を肩に掛けた。私は車を閉めてから、駅まで一緒に歩いた。

 ここで見送ることは、旅行を決めたときからわかっていた。帰りの列車も由佳が選び、私は車で上田へ戻る。それなのに改札が見えてくると、足の置き方を間違えたように身体が前へ進まない。

「私、ここで平気だよ」

 由佳が言う。

「うん」

「帰り、眠くならない?」

「大丈夫。なったら休む」

「うん。そうして」

 人が私たちを避けて通っていく。私は少し脇へ寄り、由佳もついてきた。

 何かを渡し忘れていないか、鞄の中を考える。水も返した。充電器は本人が持っている。本はまだ私のもの。もう持たせるものはない。

 由佳が、私の左手を取った。

 指を一本ずつ確かめるような触れ方に、肩の力が抜ける。店の中と違い、周りにはたくさん人がいた。私のすぐ後ろを、小さな子どもが走りかけて親に呼び止められる。その声を聞いても、手を引く気にはならなかった。

「帰ったら、連絡する」

 由佳が言った。

「私も」

「うん」

 手のひらが少し湿っている。自分のほうか由佳のほうか、区別がつかない。

「次は私が迎えに行くね」

 私は頷いた。

 その約束を聞けたのに、別れるのが楽になるわけではなかった。五日間、振り向けばいた人が、ここから先は改札の向こうへ行ってしまう。

 由佳は指を緩め、私も手を開いた。

「じゃあね、奈緒」

「うん。またね」

 またね、と言った声が震えずに出たことに驚く。

 由佳が改札を通る。振り返り、鞄の持ち手を上げるようにして手を振った。私は同じように手を上げた。人の肩に隠れ、もう一度見えた青いシャツが、階段のほうへ曲がっていく。

 見えなくなっても、すぐには歩き出せなかった。

 携帯を取り出すと、由佳から写真が届いていた。青木湖で撮った三枚。最後に短い文がついている。

『二枚目、奈緒がよく笑ってる』

 由佳は目を閉じている。その横の私は、由佳が目を閉じたことに笑っていた。

 私は写真を保存し、携帯を鞄へ戻した。


 駐車場へ戻ると、車の中はまた熱くなっていた。

 運転席へ座り、両側の窓を少し下ろす。助手席に人がいないだけで、景色が遠くなる。いつも一人で乗っていた車なのに、身体が余った場所を探してしまう。

 由佳の座っていた角度のまま、背もたれを触らずに出発した。

 松本を離れ、山を越えて上田へ向かう。三才山トンネルを抜けると、三日前に由佳が元恋人の話をした道へ戻ってきた。由佳の膝に置かれていた手まで思い出せるのに、今、そちらへ目を向けても、畳んだ自分の上着があるばかり。

 車内には案内の声もなく、タイヤの音が続いていた。話しかけそうになるたびに、助手席の空気へ目が向く。青い標識を見つけたことも、雲の端が光ったことも、今ここでは渡せない。

 途中で車を停め、背もたれへ深く身体を預けた。エンジンを止めると、急に外の虫の声が近くなる。水を飲み、目を閉じる。隣で寝返りを打つような音がした気がして目を開けたけれど、上着は畳んだ形のまま座席に載っていた。

 充分に休んでから、もう一度シートベルトを締めた。

 上田へ戻ると、夕方の店にいつもの車が集まっていた。買い物をする人、仕事を終えて帰る人。私もその中へ入り、朝食に使う牛乳と、明日の昼のためのパンを買った。

 部屋の鍵を開ける。買い物袋から牛乳を出し、冷蔵庫へしまうと、奥に残っていた卵が見えた。旅行の前と同じ数。鞄はまだ玄関に置いてある。

『帰ってきた。運転、問題なし』

 由佳へ送り、荷物をほどく。

 洗濯物が思ったより多い。濡れたままにならないよう気をつけていたタオルにも、旅先の匂いが少し残っている。一つずつ洗濯機へ入れ、空になった鞄を押し入れの手前へ置いた。

 由佳から返事が来たのは、そのあと。

『お疲れさま。私はまだ電車。少し寝ちゃった』

 どこまで来たのか訊こうとして、まだ眠っているかもしれないと思った。

『気をつけて。着いたら教えてね』

 送ってから夕食を考える。旅先でしっかり食べていたせいか、何か軽いものがよかった。冷凍してあったご飯を温め、卵を一つ割る。調理台に置いた携帯は、しばらく静かなまま。

 私は箸を並べ、お茶を注いだ。椅子へ座ると、正面にはいつもの壁がある。食事の途中で顔を上げる癖だけが、家までついてきていた。

 遅くなってから、由佳の到着を知らせる文が届いた。

『帰宅。お湯沸かしてる』

 私は読み終わっても、少しのあいだ画面を見ていた。

『おかえり。今日は早く寝ようね』

 送ると、ほどなく、おやすみ、と返ってくる。

 起きる時刻を六時半へ戻す。旅の前に止めていた平日の目覚ましが、明日からまた鳴る。充電器を繋ぎ、私は枕の位置を直した。


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