第六章 最後の宿で
部屋へ戻ると、由佳が本から目を上げた。
ベッドの上で折っていた脚を下ろす。その拍子に表紙が閉じかけ、由佳は指を挟んだまま私を見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
返事をしてから戸を閉める。歩きながら考えた言葉は、由佳の顔を見た途端、順番がわからなくなった。
上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。手を洗う。そこまで済ませると、もう次にすべきことがない。上着を掛けた椅子へ腰を下ろす。
「由佳」
彼女は顔を上げた。
「さっきの話、ちゃんとしたい」
「うん」
「今、いい?」
由佳は膝の本へ目を落とし、表紙の端を一度、指で押さえた。
「ご飯のあとでもいいかな。先にお風呂行きたい」
「うん。待つ」
由佳は着替えを取りに立った。戸が閉まり、廊下を行く足音が遠ざかる。
階下から、食器を重ねる音が聞こえてきた。人の声が混じり、また器の音に隠れる。私は椅子に座ったまま、由佳が出ていった戸を見ていた。
由佳がお風呂から戻ると、交代で私が入り、夕食へ下りた。料理の説明を聞く間、由佳はきちんと顔を上げる。私も同じように礼を言い、箸を取った。味がわからないほどではない。ただ、何を言ってもこれからの話を避けるための言葉に思えて、最初のうちは、必要なことしか口にできなかった。
野菜の名前を私が聞き逃すと、由佳が教えてくれた。
「これ、炒めたのもおいしいんだって」
「そうなんだ」
「奈緒のとこでも売ってる?」
「たぶん。見たことはある」
今日のうちに話すと約束しただけで、目の前の食事について喋れるようになる。由佳は私の問いに答え、私もそのあいだ、ゆっくり箸を動かした。
部屋へ戻ったときには、外はもう暗かった。
由佳がポットからお湯を注ぐ。私は卓を挟んで床に座り、出された湯呑みを自分の近くへ寄せた。廊下を行く人の声がして、二人とも一度そちらへ目を向ける。声が遠のくと、もう聞こえるものがなかった。
「ごめん」
今度は目を逸らさずに言った。
「あのときの気持ち、まだ残ってるかって訊いたこと」
由佳は頷き、私の続きを待つ。
「私は何も言わないまま、由佳がどう思ってるかだけ知ろうとした。昔、由佳が言ってくれたから、先に確かめてもいいような気がしてた」
「うん」
「次の旅行も、私が行きたいなら、由佳も行きたいだろうって。そういうふうに考えてたと思う」
思う、と逃げた語尾が自分の耳に残る。私は湯呑みから手を離した。
「考えてた」
由佳の目が、わずかに動いた。
「だから、ごめん。変なこと言った、で片づけようとしたのも」
そこまで言うと、言葉が止まった。許してもらうための続きが浮かぶのを待たず、口を閉じる。
由佳はお茶を一口飲んだ。湯呑みを置くとき、卓の木目を見る。
「私も、ああいう訊き方しなくてもよかったと思う」
「そんなこと」
「でも、言いたかった」
顔を上げた由佳に、私は押しかけた言葉を引っ込めた。
「まだ待ってると思ってたの、って。あれは、言いたかったこと」
「うん」
「旅、楽しかったから。奈緒も楽しいって言ってくれたし。だから、何で今、そこへ戻るんだろうって」
唇を結び、由佳は息を整えた。
「あのころの私の気持ちを持ってこないと、今の話、できないのかなって思った」
昼の店で彼女が顔を逸らしたところが、私の中でようやく動き出す。私は、気持ちが残っていないから困らせたのだと思っていた。その一つの答えへ、由佳の表情を全部押し込んでいた。
「あのとき、何で返事しなかったの」
由佳が訊いた。
責める声ではない。だからこそ私は、曖昧に答えるわけにはいかなくなった。
「怖かった」
「私が?」
「ううん」
否定だけでは足りない。膝の上に置いた指を、私はゆっくり開いた。
「好きって答えたあと、どうなるか考えた。誰かに聞かれたら何て言うのかとか、学校の友達に見られたらどうするのかとか」
由佳は動かない。
「そのとき、由佳がどういう気持ちで言ってくれたかより、自分がどう見えるかのほうを考えてた」
言ってしまうと、部屋の中の音が少し遠のいた。由佳が私の話を聞くことを、やめてしまうかもしれない。それでも、怖かった、だけで渡すわけにはいかなかった。
「今は、どう思ってるの」
「あのときの自分のこと?」
「うん」
「ずるかったと思う。わからないなら、わからないって言えばよかった。怖いなら、そう言えばよかったのに。由佳が何も言わなかったことにできる話し方をした」
由佳の手が湯呑みから離れた。
九年前のことを、私は何度も思い返してきた。そのたび自分の沈黙を短くし、そのあとに続いた会話を長くしていたのかもしれない。
卒業式の日、駅へ向かう道の風はまだ冷たかった。
コートの前を開けたまま歩く由佳へ、寒くないの、と私は何度も訊いた。寒い、と彼女は答えたのに、ボタンを留めなかった。
制服を着て歩くのは最後になるかもしれない。そんな話をしながら、私たちは駅前まで来た。式のあとに撮った写真を見せ合い、写っていない友人の名前を挙げて、いつ会えるだろうと話した。
由佳が立ち止まったのは、駅の建物へ入る少し手前。
「奈緒」
呼ばれて振り向くと、彼女は鞄の持ち手を両手で握っていた。
「私、奈緒が好きなんだけど」
それまで話していた誰かの名前が、頭の中に残っている。私はうまく聞こえなかったふりをすることもできず、由佳の顔を見た。
「友達として、だけじゃなくて」
付け足した声が、最後のところで掠れた。
私はその声を知っている。音楽の試験で教室の前へ立ったときにも、最初だけ似た声になる。鞄の持ち手を握る指は白く、彼女の足は駅へ向いたまま動かない。
嬉しかった。
そのことだけは、あのときからずっと、間違いなく覚えている。冷えた足先から急に熱が上がり、由佳の手を取りたくなった。帰らないで、と言えばよかったのかもしれない。今度会うまで待って、と言うこともできた。
けれど私は、少し離れたところを同じ学校の制服が通ったのを見てしまった。
見てしまったという言い方も、今なら卑怯だとわかる。自分からそちらへ目を向けた。誰かが見ていないか、気にした。
「次、いつ帰ってくるの」
私が尋ねると、由佳は口を少し開けた。
それから、唇を閉じ、視線を落とした。
「ゴールデンウィークかな」
「じゃあ、また連絡して」
返事をした声だけが、普段どおりだった。
私は由佳が笑ったと思っていた。別れる前に手も振ってくれたから。その記憶を何度も使い直し、二人はいつもどおりに別れた、と自分へ言い聞かせた。
「笑えなかったと思う」
由佳が静かに言った。
「あの日、そんなにうまく」
私は頷いた。湯呑みの表面には、もう湯気が見えない。
「うん。今、話してて、わかった」
「私はね、断られたんだと思ったよ」
由佳が膝へ目を落とす。
「言わせないようにしてくれたんだって。違う、とはっきり言ったら可哀想だから、別の話にしてくれたんだと思った」
「違う」
すぐに出た声で、由佳が顔を上げた。
私は指先を握り直す。
「好きだった。あのころ」
由佳は目を伏せた。
言えたことにほっとするより先に、その言葉を九年も経ってから渡す重さが胸へ来た。私が楽になるために、相手がしまっていたものをまた取り出させている。
「そうだったんだ」
由佳はゆっくり言った。
それ以上、何を言えばいいかわからないように、視線が卓の上を動く。私は口を開きかけ、閉じた。今は待っていなければいけない。
「嬉しい、って言いたいんだけど」
由佳が少し笑った。笑いきれずに唇が震え、そのまま指の背で目元を押さえた。
「今、ちょっと、悔しい」
謝る言葉が喉へ上がる。けれどそれを言えば、由佳はまた、いいよ、と返さなくてはならないかもしれない。私は黙って頷いた。
冷えた茶を一口飲んで、由佳は長く息を吐く。
「私、あのあと、東京でちゃんと暮らしたよ」
「うん」
「最初は全然慣れなかったけど、友達もできた。好きな人もできたし。奈緒から連絡が来ない日を、ずっと数えてたわけじゃない」
「わかってる」
言ってから、私は首を振った。
「わかってなかった。今、聞いてる」
由佳は目元を拭いた手を膝へ下ろした。
「うん。だから、九年分、今から何かを返してほしいわけじゃない。それは、違う」
私は頷いた。湖で聞いた、次の約束を決めるだけで終わった夜の話を思い出す。由佳には会いたい人がいて、会えない日があった。私の知らないまま過ぎた時間を、今ここで自分のものにはできない。
「最初の年、帰ってきてたの?」
私は訊いた。
「ゴールデンウィーク?」
「うん」
「帰ってた。連絡は、できなかったけど」
自分からして、と言った私には、責める資格なんてない。それでも、あの数日のことは覚えていた。携帯をいつもより近くへ置き、鳴らないことを確かめながら、短大の課題を片づけていた。
「私、待ってた」
由佳の眉がわずかに寄る。
「そういうところ、あのころから変わってないね」
「うん」
「連絡するのも、好きって言うのも、私からなんだ」
私は膝へ目を落とした。否定できないことがまた増える。昔の自分を嫌いになるだけなら、ここへ来る前にも何度もできた。でも由佳の前でその話をするには、嫌いなまま引き受けるしかない。
「ごめん」
今度の謝罪を、由佳は遮らなかった。
しばらくして、彼女は顔を上げる。
「成人式のとき、奈緒が普通に話しかけてくれて、ちょっと助かったよ」
「そうだったの?」
「私だけまだ気まずそうにしてたら、嫌だったから」
何人もの同級生が一緒にいた。私が由佳へ訊いたのは、東京はどう、という、誰にでもできる質問。それでも由佳は答え、帰り際には写真を送ってくれた。
「それから少しずつ、連絡できるようになったでしょ。あれはあれで、よかったと思ってる」
由佳は湯呑みを持ち直し、冷めたお茶をゆっくり飲んだ。私は急須へ手を伸ばしかけ、続きがあるかもしれないと、そのまま待つ。
「去年、お茶したときも楽しかった」
由佳は言った。
「結婚式のあと?」
「うん。帰りの新幹線、座ってから、もう少し遅いのにすればよかったって思った」
「言ってくれれば」
口にして、私は止まった。
由佳も少し目を丸くして、それから小さく笑う。
「私も言えばよかったね」
笑ってくれたことにすぐ乗らず、私は首を振った。
「私も、もっと一緒にいたかった」
「うん」
「四十分しかないなら、ちゃんと話さなきゃって考えてた。でも何を話せばいいか、わからなくて」
「時間がいっぱいあっても、案外わからないね」
由佳の視線が、卓の上の二つの湯呑みを通る。今日はもう列車の時刻も、店の閉まる時刻も気にしなくていい。それでも九年を一晩で話せるはずはなく、これまで知らずにきたことが、まだ部屋の外にたくさん残っている。
「今回、誘ってくれたのは」
そこまで言って、由佳の顔を確かめた。
「訊いてもいい?」
「いいよ。休み取れたから、っていうのが最初だけど」
由佳は背を少し伸ばし、固くなった肩を回した。
「母から、今年は何日いるの、って連絡が来て。休みのあいだずっと家にいるのも、って思ってたら、昔の旅行の話を思い出した」
「図書室の?」
「そう。湖を見て回るやつ」
「覚えてたんだ」
「奈緒も覚えてたでしょう」
私は頷く。
「でも、どっちが言い出したのか、忘れた」
「奈緒だよ。地図見てたら、運転できるようになったら全部回れるじゃん、って」
「全部は無理だよね」
「そう。それで私が、全部じゃなくていいから泊まりたいって言った」
由佳はそこで一度、言葉を止めた。
「誘ったら来てくれるかなって思った。でも来なくても、そうだよね、くらいに思えるつもりだった」
別所へ向かう車で、去年は宿を調べているうちに休みが終わったと聞いた。家にいてもいいか、というあの声が、今の、来てくれるかな、という声に重なる。私は口を開きかけたまま、由佳の続きを待った。
「昔のこと、そんなに怖くなかったの。もう友達で大丈夫、って、自分では思ってたから」
その言葉は痛かった。けれど、そう思えるところまで由佳が暮らしてきたことを、今度こそ知らないふりでは聞きたくなかった。
「でも、駅で会ったら、嬉しかった」
由佳が視線を上げる。
「思ってたより、ずっと」
思わず身を乗り出すと、膝が卓に触れた。由佳はその音を一度聞き、それから続きを話した。
「奈緒、私のこと見て、おはようって言ったでしょう。もうお昼なのに」
「言った」
「あれ、ちょっと安心した。何か、同じところが残ってて。でも、車を運転してるときとか、仕事の話をしてるときとか、知らない顔もいっぱいあった」
由佳は一度、唇を湿らせた。言いかけた言葉を選び直すように、湯呑みを見ている。
「昨日、湖で、もう少しここにいたいって言ってくれたの、嬉しかったよ」
「私も」
「うん」
由佳は指先で湯呑みを少し回した。
「その続きで、今日も過ごしてるつもりだった。だから、昔の気持ちを訊かれたら、私が今、ここにいるのは何なんだろうって」
私は由佳の顔を見た。
上田駅で鞄を持ち替えた手。最初の夜、眠る前の声。古書店の棚に向けた横顔。助手席から見た、交差点を確かめる目。その一つひとつを見ながら、私は十八歳の由佳へ答えを求めていた。
「今、ここにいてくれて、嬉しい」
言ってから、一度息を吸う。
「明日、帰ってほしくないって思ってる」
由佳の目が揺れた。
「でも、帰らないでって言いたいわけじゃない。仕事も、家もあるの、わかってるから」
「帰りたくないな、とは思うよ」
由佳の返事はゆっくりだった。
「でも、帰ったら帰ったで、ちゃんと自分の生活もしたい」
私は頷いた。私にも、休暇届を出して離れてきた机がある。上田へ戻れば、朝はまた六時半に起きる。由佳の起きる時刻も、家を出る時刻も、まだ知らなかった。
「今、うまくまとまらない」
由佳が言った。
「聞けてよかったことと、もっと早く聞きたかったことが、一緒になってる」
「うん」
「奈緒が悪い、で終わる話でもないし。でも、もう全部いいよ、とも言えなくて」
「言わなくていい」
由佳は顔を上げた。少し困ったように笑い、卓に置いていた手を膝へ戻す。
「今日は、そこまででもいい?」
「うん」
私は頷いた。由佳は目を逸らさずに座っている。私もその場を離れず、ぬるくなったお茶を飲んだ。
脚を崩そうとすると、足先が痺れていた。座り直した私を見て、由佳もゆっくり膝を伸ばす。
「ずっとそのままだったね」
言いながら、彼女はベッドの端へ移った。私も立ち上がりかけ、足の感覚が戻るのを待ってから湯呑みを取る。
由佳の分も淹れようかと訊くと、今度は薄めで、と返ってきた。急須を早めに上げ、新しいお茶を渡す。由佳は礼を言い、湯気へ小さく息を吹きかけた。
由佳が携帯の時刻を確かめる。もう十時を回っている。
「明日、何時くらいに出る?」
「朝ご飯食べて、少しゆっくりして。途中で休んでも、松本でお昼食べられるくらいには出たい」
「うん。それでいいと思う」
列車の時刻をもう一度聞いた。今度はそれを遅くしてもらうためではなく、駅へ着いてから話す時間がどのくらいあるかを考えるために。
「松本で、少し時間取ってもいい?」
私が訊くと、由佳は頷いた。
「いいよ」
何を話すのか、彼女は訊かなかった。私も、その言葉に甘えて先の約束まで作ろうとはしなかった。
明日の服を椅子へ置き、使わないものを鞄へしまう。私が充電器の線をまとめると、由佳が、まだ使うでしょ、と言った。今夜も眠る前に充電しなくてはならない。
「早かった」
「気が早いね」
小さく笑い合えた。会話の中へ笑いが戻るまでの長さを、私はたぶん、しばらく忘れない。
由佳は本を一冊手に取り、明かりを消そうか、と訊く。
「もう少し、話しててもいい?」
私が言うと、彼女は本を枕元へ置いた。
「うん。何話す?」
「由佳、東京に行ったばかりのころ、どんな部屋に住んでたの」
「最初の部屋? 寮」
「そうなんだ」
「言わなかったっけ。窓から、隣の建物の壁しか見えなかった」
由佳がベッドの上で足を折り、枕を抱えた。
「夕方、壁に光が当たるの。それで、あ、晴れてるんだなってわかる」
「外、見えないの?」
「端っこのほうに少しだけ。洗濯物干そうとして、ハンガー落としたことある。拾いに行ける場所じゃなくて」
「そのまま?」
「うん。引っ越すときにもまだあった」
見たことのない壁と、その下に落ちた一本のハンガーが、今の部屋の中へ入ってきた。
私は眠くなるまで由佳の話を聞いた。由佳も、私が最初の給料で何を買ったかを訊き、答えを聞いて笑った。母へ渡すつもりだった菓子を、帰り道に自分で半分食べてしまった話。大切なことでも、綺麗な思い出でもない。それでも聞かれなければ、ずっと私一人の中にあっただろう。
由佳が欠伸をして、私にも移る。
「続き、また明日」
彼女が言った。
私は頷いて、自分の枕を直した。部屋の灯りが消え、由佳のいるほうへ顔を向ける。
眠りにつく前、隣から布の擦れる音がした。昨夜までと同じ小さな音を、私は今度は、聞こえたままに聞いていた。




