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第五章 青木湖から白馬へ

 畳へ置いた地図の上に、昨日までの領収書が重なっている。

 由佳が財布を開き、折り畳まれた紙を何枚か出した。松本で入った喫茶店、ガソリンスタンド、別所の宿。私は日付の順に並べかけ、まだ今日の宿の分がないことに気づく。

「白馬の分は、明日の出発のときね。今日は忘れないうちに出しとくだけ」

 由佳は紙を一か所へ寄せ、空になった仕切りを指で確かめた。私はその下から地図を引き抜き、元の折り目に沿って畳んだ。

 あと一泊。

 昨日までは、帰る日から逆に数えたりしなかった。

 由佳は座ったまま腕を上へ伸ばす。昨日、運転の肩が残っていると言っていたのを思い出した。

「肩、どう?」

「少し重い。寝方悪かったかも」

「昨日、明日揉んでって言ってたよね」

「そんなこと言った?」

「言ったよ」

「じゃあ、お願いします」

 軽い調子で背を向けられ、私は一瞬、手を止めた。

 由佳の髪は首の少し上でまとめられている。Tシャツの襟が背中に沿って浅く沈み、そこから先の肌は朝の光で白い。私は左右の肩へ指を置き、どのくらいの強さならいいのか探った。

「これくらい?」

「もうちょっと強くても」

 力を入れると、由佳が息を吐いた。

「ああ、そこ」

「固いね」

「そう?」

「私、よくわからないけど」

「わからないのに言ったの」

 由佳が笑い、肩が私の手の下で揺れた。

 押せば、押した分だけ相手の身体が動く。それが不思議で、私は同じ場所を何度か揉んだ。高校の教室で、寝ている由佳の肩を揺すったことなら何度もある。でも、こうして本人が目を閉じて力を預けてくれるのは、初めてのように思う。

「もういいよ。ありがとう」

 由佳が振り返り、私は両手を離した。

「今度、奈緒の番」

「私は大丈夫」

「そう?」

 由佳はあっさり引き下がった。そう言ってしまったのは私なのに、背中へ残っていたはずの手の感触を、もらい損ねたような気持ちになった。

 部屋を出る直前、由佳が窓際へ戻る。私はもう戸口で靴を履きかけていて、何を忘れたのか見えなかった。

「奈緒、これ」

 上着を差し出される。昨夜、椅子の背へ掛けておいたままのもの。

「あ、ありがとう」

「私がいると忘れ物増えない?」

「増える」

「ひどい」

 冗談として通じたことに甘えて笑った。受け取った上着を腕に掛け、もう一度、自分の泊まった部屋を見回す。由佳は先に戸口へ出て、靴を履いていた。

 宿の人に見送られ、今日は私がハンドルを握る。車の座席を自分の位置へ戻しながら、昨日の由佳の膝の遠さを思い出した。

 湖は朝の色をしていた。昨日座っていた辺りを通りかかると、もう別の人が岸を歩いている。車を停めて同じベンチへ行っても、あの時間はどこにも残っていない。

「寄ってく?」

 私が訊くと、由佳は湖を見たまま首を振った。

「今日は次の湖、見たい」

「うん」

 車を北へ向けた。


 中綱湖の近くを通り、青木湖へ出る。

 木立の向こうに現れる水の色は、昨日の木崎湖より深く見えた。山の陰と雲の影が重なっているせいかもしれない。湖沿いの道へ入り、停められる場所を見つけて車を降りると、朝より少し冷たい風が吹いていた。

「上着、要るね」

 由佳が言う。私はさっき返してもらった上着を羽織った。

「忘れなくてよかった」

「私に感謝して」

「してるよ」

 由佳が笑う。その顔を見ていると、帰る日なんて実は決まっていない気がしてきた。明日の朝も同じように起き、気温を確かめて、何かを忘れそうになりながら出発する。湖はまだいくつもあり、道は遠くまで続いている。

 水際には、波の届くところと届かないところが、濡れた色ではっきり分かれていた。由佳は靴を濡らさないよう足の位置を変え、身体だけを水のほうへ傾ける。

「深そう」

「入らないでね」

「入らないよ。冷たいし」

 手を水へ伸ばすつもりもないらしい。私はその隣に立ち、湖面に浮かぶ雲を見た。風で崩れると、空にある形より早く消える。

「一緒に撮ろうか」

 由佳が携帯を持ち上げた。

「二人で?」

「うん。ないよね、今回の」

 頷くと、由佳が私のすぐ横へ来た。片手を伸ばして画面を確かめる。私が少し離れていたので、袖を引かれた。

「こっち。入らない」

 肩が触れた。

 画面の中では、私たちは同じ大きさで並んでいる。普段、自分から見える由佳の顔とは違い、私のすぐ隣に由佳がいることまで一度に見える。そのことに気を取られ、笑うのが遅れた。

「もう一枚」

 今度は由佳のほうが目を閉じた。

「難しいね」

「私が撮ろうか」

「腕の長さ、そんなに変わらないでしょう」

 結局三枚撮り、どれも消さなかった。写真を選ぶために顔を寄せたまま、私は明日のことを聞きたくなくなっていた。

 湖の近くの店に入り、窓際の席へ座る。温かい飲み物を頼むと、カップが来るまでのあいだに指の冷たさが目についた。由佳の指先も、私と同じくらい白い。

「来年も、来ようか」

 口にしてから、来年では遠すぎると思った。

「秋でもいいけど。紅葉のころとか」

 由佳は窓の外から私へ目を戻す。

「秋、仕事が結構詰まってて」

「土日でも」

「土日、休める週もあるけど。まだ予定が」

「冬は?」

 聞き返すのが早すぎた。

 由佳は鞄へ伸ばしかけた手を止めた。笑っていない顔を見て、私はようやく言葉を切る。

「また、落ち着いたら決めない?」

「うん。そうだね」

 カップが二つ運ばれてきた。由佳は礼を言い、取っ手に指を入れる。白い湯気に向けて息を吹きかけたあと、私を見ずに言った。

「奈緒、今、あんまり楽しくない?」

「何で?」

「ずっと次の話してるから」

 胸の奥に引っかかったものが、声へ出そうになった。

「楽しいよ」

「うん。それならいいんだけど」

「楽しいから、また来たいって言っただけ」

 由佳はカップを置いた。

 窓の向こうでは、さっきより風が強くなっている。木の葉が一斉に裏を見せ、すぐに戻った。湖を見に来たはずなのに、私はもう水の色を見ていなかった。

「由佳は、また来たいとは思わない?」

「そうは言ってないよ」

「でも、何か」

 昨日より遠い、と言いかけてやめた。昨日、近づいたと思ったのは私だけなのかもしれない。

 由佳は両手をカップへ添え、困ったように息を吐いた。

「来たいよ。ただ、帰ってから考えても遅くないと思う」

「帰ったら、また会わなくなるかもしれない」

 口に出た声は、自分が思っていたより細い。

「どうしてそう決めるの」

「今まで、そうだったから」

 由佳の指が止まった。

 私から誘えばよかったのに。

 その言葉だけは、喉まで来ても出なかった。代わりに私は、何年も触らずにきたところへ手を伸ばす。

「高校のときのこと、覚えてる?」

 由佳はすぐには答えなかった。問いの範囲が広すぎることは、自分でもわかっている。それでも彼女は、何のこと、と聞き返さなかった。

「覚えてる」

「あのとき言ってたこと、今も、そうなのかなって」

 カップと受け皿の触れる音が、二人の間で鳴った。

「まだ私が待ってると思ってた?」

 由佳の声は大きくない。窓の外の木立を見るような、余計なものを加えない目で私を見ている。

「そんなつもりじゃ」

 言いかけて、止まった。

 そうではないと否定するためには、今ここで、自分の気持ちを差し出すしかない。けれど私は、その順番を逆にしたくて、昔の話を持ち出したばかりだった。

「私が返事をしてなかったから」

「返事がなければ、ずっとそのままってわけじゃないよ」

「わかってる」

「わかってる?」

 初めて、由佳の声が少し揺れた。

 私はカップの縁へ指を置いた。もう熱くはない。落ち着いて何かを言わなければと思うほど、相手を落ち着かせるための言葉しか浮かんでこない。

「ごめん。変なこと言った」

「変なこと、で終わらせないで」

 由佳が顔を逸らした。

 店の奥で、注文を受ける声がする。扉が開き、外から入った風が卓の上を渡った。そのどれもが普段の速さで進んでいるのに、私は自分の次の動作を決められなかった。

 やがて由佳は飲み物を一口飲んだ。私もカップを持ち上げたけれど、口をつける前に戻してしまう。

「少し、黙っててもいい?」

「うん」

 その一言にはすぐ答えられた。

 由佳は窓の外を見る。私は彼女がもうこちらを向かないことを確かめるように、しばらく横顔を見ていた。


 店を出ると、由佳は先に車へ戻った。

 私が鍵を開けるまで、助手席の横に立って待っている。ドアが開く音、鞄を置く音、シートベルトの留まる音。聞き慣れ始めていた順番が、今日は妙に大きい。

「白馬、行っていい?」

 自分でもおかしな確認と思った。そこに今夜の宿がある。

「うん」

 由佳は窓の外へ顔を向けた。

 私は案内の音を入れた。昨日、道を間違えたときには二人で笑った声が、今は次にすべきことを一つずつ指示してくれる。助かる、と思ってしまう自分が嫌だった。

 湖から離れ、山の間を進む。ときどき陽が差し、由佳の足元に置いた紺の鞄の一部が明るくなる。空調の風が強すぎる気がして、私は一段弱めた。

「寒かった?」

「平気」

 由佳は短く返す。昨日、余裕がなくなると喋らなくなると言っていた。そのことを知っているからといって、今の沈黙を理解できているわけではない。

 白馬へ入ってから、由佳がお腹が空いたと言った。私は道沿いの店へ車を入れる。メニューを開くと、由佳はいつもの速さで一ページずつ見て、自分の食べたいものを決めた。私はまだ表紙に近いところを行き来していた。

 注文したものが来るまで、私は天気の画面を見ていた。由佳も携帯を開いている。二人の間に並ぶ調味料の瓶を、私は必要もないのに見つめる。

「明日の列車、予約してある?」

 訊くつもりのなかったことを、また訊いた。

「うん。話してた夕方のやつ」

「そう」

 確認するほど、帰る日は動かせなくなる。それを由佳のせいにしたくなったとき、ちょうど料理が来た。

 食後、宿へ入れる時間まで少し川沿いを歩いた。雲が低く、山の上のほうは見えない。川の音が大きいので、黙っていても気にならないはずだった。けれど昨日の湖畔の沈黙を知ってしまった身体には、今の静けさが重い。

 由佳は少し先を歩く。歩幅はいつもと変わらない。私が遅れているだけなのに、追いつくと嫌がられる気がして、距離を詰められなかった。

 子どもを連れた人とすれ違うとき、由佳が脇へ寄る。後ろに私がいると思って、手をわずかに上げた。その動きの先に自分がいなかったので、私は慌てて一歩進んだ。

「ごめん」

 何について謝ったのか、自分でもわからなかった。

 由佳は私を見て、首を横に振り、また歩き出す。


 宿の受付で、由佳は予約の名前を告げた。

 滝澤由佳です、と言う声が仕事の電話にも似ていて、私は少し安心し、すぐに寂しくなる。普通の声で話せる相手はここにいるのに、それが今の私ではない。

 夕食は六時半。鍵は二本渡された。私は一本を受け取り、部屋の番号が書かれた木の札を指で挟む。

 部屋にはベッドが二つ、低い卓を挟んで並んでいた。由佳は窓に近いほうへ鞄を置き、私は入口に近いほうへ置く。もう相談する必要のないことができていたのに、それをうれしいと思える空気はない。

「お風呂、先にどうぞ」

 由佳が私へ言った。

「由佳は?」

「あとで。少し、本読む」

「わかった」

 何かしなくては、と私は鞄を開いた。着替えを取り出し、またしまう。洗面台にはまだ何も置いていない。旅の最後の宿で、荷物をほどく理由まで薄くなっていた。

 由佳はベッドの端へ座り、持ってきた本を開いた。ページを見る顔は静かで、私が何を言っても、その静けさを壊すようにしか思えない。

「ちょっと、歩いてくる」

 ようやく言うと、由佳は本から目を上げた。

「うん」

「六時までには戻る」

「わかった」

 行ってきます、と言うか迷った。そのあいだに由佳の目が本へ戻り、私は鍵を持って部屋を出た。

 廊下の窓から、駐車場の自分の車が見える。あれに乗れば上田へ帰れる。助手席に誰もいなければ、黙っていても誰も傷つけずに済む。

 そんな考えが浮かんだことが、情けなくてたまらなかった。

 玄関で靴を履く。踵を踏まないよう指を入れて直している間に、宿の人が、夕方は冷えますよ、と声を掛けた。私は頷き、朝、由佳に渡された上着の袖へ手を通す。

 外へ出ると、雲はさらに低くなっていた。

 山の輪郭を見たかったのに、その場所には厚い灰色が続いている。舗装の継ぎ目から伸びた草が、風を受けて道のほうへ倒れていた。足元ばかり見て歩くと、宿からどれくらい離れたのかすぐにわからなくなる。

 細い橋の上で立ち止まった。川は底の石を押し分けるように白く流れ、濡れた石と乾いた石の色がはっきり違う。私は欄干へ手を置き、身体の熱が金属へ逃げていくのを感じた。

 まだ私が待ってると思ってた?

 あの声を思い出すと、否定できなかった自分の沈黙も一緒に戻ってくる。

 車を褒めてくれたこと。写真を撮り、運転し、湖の前で隣に座ってくれたこと。私は一つずつ取り出して、今日の由佳の声へ並べようとしていた。こんなことまでしてくれたのに、と。

 欄干から手を離した。冷えた指を上着のポケットへ入れようとして、今朝それを持ってきてくれたのも由佳だったと思い出す。また一つ数えてしまったことが嫌で、両手を外に出したまま、川を見ていた。

 携帯を出し、時刻を見る。まだ夕食までは一時間以上あった。部屋へ戻ったら由佳に謝ろう。けれどさっきと同じ、ごめん、変なことを言った、では何も変わらない。

 画面を消して、私は橋を渡った。

 道の先に小さな店があり、棚へ飲み物が並んでいるのが見えた。由佳の好きなものを買って帰れば、手ぶらよりは部屋に入りやすい。そう考えたところで足が止まる。

 何も買わずに戻ることが、そのときの私にはひどく難しかった。

 それでも店の前を通り過ぎ、来た道へ向き直った。袖から出た指先はまだ冷たい。鍵の木札を握り直し、私はゆっくり宿へ歩いた。

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