第四章 木崎湖、夕暮れ
「近い」
運転席へ座った由佳が、両膝を見下ろした。
「私の位置のままだから」
「奈緒って、そんなに小さかった?」
「由佳よりは」
座席が後ろへ滑り、次に背もたれが起きる。由佳はミラーの角度を合わせ、ブレーキを踏んでみてから、もう一度座り直した。その一連の動きを見ている間、私は助手席で両手の置き場を探していた。
「慣れるまで、曲がるところは早めに教えてね。人の車、久しぶりだから。交差点に入ってから、ここ、っていうのは無しで」
「わかった。私も言いそう」
由佳は深く息を吸い、ハンドルを握った。こちらを見なくなったので、私も膝の地図へ目を落とす。
ホテルの駐車場を出るとき、由佳は身を乗り出して左右を確かめた。髪を耳へかける指が、すぐにハンドルへ戻る。駐車券を機械へ入れるために窓を下ろしたときだけ、街の音が車内へ入った。
「行きます」
「お願いします」
冗談のような挨拶をして、車が朝の流れへ混じる。
助手席から見る景色は、同じ車に乗っていると思えないほど近かった。歩道を歩く人のシャツの柄まで見える。車道の先へばかり目を向けていた昨日までには、ほとんど意識しなかった店先の鉢植えが、窓のすぐ下を通り過ぎていく。
由佳は交差点の手前で早めに速度を落とし、曲がり終わってからアクセルを踏む。何も踏む必要のない私の右足が、信号の手前で床を押した。青に変わるたび、少しずつ座席へ背を預け直す。
十分ほど道なりに走ると伝えると、由佳は短く頷いた。私は案内の画面を膝へ置く。横顔を見るために信号待ちを待たなくてもいい。それに気づいて、かえって窓の外へ目が向いた。
松本の街を抜け、安曇野へ入る。建物の間隔が開くにつれ、山が窓いっぱいに広がった。峰の上のほうには雲がかかり、その下へ何枚もの斜面が重なっている。手前の田に落ちる光の強さだけが、車の速度と違う速さで変わった。
「見えてきたね」
由佳が前を向いたまま言う。私は頷き、峰の間に残った雲を見ていた。
目的地は木崎湖。途中、穂高の辺りを少し歩こうと話していた。車窓には畑で腰を曲げる人や、家の陰へ寄せられた三輪車が現れ、次々に後ろへ流れていく。遠い山だけが同じ位置に残るので、私は目を細め、その斜面の暗いところを追った。
由佳の足元から、ときおり靴底の擦れる音がする。信号で停まると、田の畦に立つ白い鳥が見えた。鳥は動かず、青に変わってからもしばらく首の細さが目に残る。何か言おうと思うころには、車はもう次の景色へ入っている。
寄る店を調べるつもりでいた携帯は、膝の上で暗くなっていた。
「奈緒、次?」
「え?」
振り向いたときには、曲がるはずの道を通り過ぎていた。
「ごめん。今のところ」
「今のは無理」
「次で戻れると思う」
「急がなくていいよ。停まれるとこ探す」
由佳の声は少しだけ短くなった。でも怒ってはいない。先の道へ集中しているときは、説明を長くしない人なのだとわかる。
広い駐車場を見つけ、隅に停めた。店舗の入口には、まだ開店前の札が掛かっている。私は携帯の地図を広げ、通り過ぎた曲がり角を探した。
「ごめん、全然見てなかった」
「何見てたの」
「山」
由佳が吹き出した。
「じゃあ仕方ない」
「案内するって言ったのに」
「曲がるところだけ教えてくれれば、あとは見てていいよ。そこを忘れるんだから、次から音声つけよう」
案内を設定し直すと、機械の声が、さっき通り過ぎた道へ戻るように告げた。由佳はそれに返事をしてから、自分で笑ってしまった。私も笑い、携帯の音量をもう一つ上げた。
由佳が発進の準備をする間、顔に当たる風を上へ向け直す。冷房で冷えた手を膝の間へ挟んだ。次の角を気にしなくていいのなら、もう少しあの白い鳥を見ていたかった。
穂高の辺りで車を降り、道沿いの水を眺めながら少し歩いた。
流れは浅く、底の石がよく見える。由佳は日陰を選び、私は帽子を忘れてきたことに今さら気づく。東京へ戻るとこういう道を歩く時間があまりない、と由佳が言った。ない、というより、あっても出かけないのだと、すぐに自分で言い直す。
「家の近くにも川はあるの。もっと壁が高くて、上から見下ろすんだけど。散歩する道もある。でも、休みの日って、洗濯機を回してる間に本を読んじゃうんだよね。干したら出かけようと思って、干したあとも続きを読んでる」
向こうから来た自転車を先に通し、由佳はまた歩き出した。
「夕方、食べるものがなくて、ようやく外へ出るの。朝から買い物だけは行くつもりだったのに、それに一日かけたみたいになる」
「帰ったら、続き読む?」
「読む。すごく休んだ気がする日と、何してたんだろうって思う日がある」
道を空けたまま少し離れていたので、私は隣へ戻った。東京にある由佳の部屋へ、夕方の明るさが初めて差したような気がした。聞いているうちに、自分も読みかけの本を置き、外へ出たくなる。
「私、目的なく車で出ることあるよ。山のほうへ行って、コーヒー買って、飲み終わったら帰る。帰り道で買い物思い出して、また少し走ったりするけど」
「私も乗せて」
「今、乗ってるじゃん」
「運転してるの、私」
忘れていたわけではないのに、うまく言い返せなかった。由佳は笑って先へ行く。私も笑いながら道に落ちた木の影を跨いだ。
水の上を虫が飛んでいる。流れに浮かんだ葉が橋の下へ吸い込まれ、反対側に出てくるまで二人で待った。出てきた葉は裏返っていて、同じものか、少し迷う。由佳も確信がないらしく、私の顔を見て眉を上げた。
昼に入るつもりだった店は、臨時休業の紙が出ていた。車の中で探した情報では開いているはずなのに、と私が画面を見返していると、由佳はドアの文字を覗き込んでから肩をすくめた。
「お休みだって」
「うん。ごめん」
「奈緒が休みにしたんじゃないでしょう」
由佳は少し笑ったが、暑さで額に汗が浮いている。空腹もあって、次をすぐ決めたほうがいいのは確かだった。
「さっき、定食って書いてあったところ、戻ろうか」
「どこ?」
「大きい道から曲がったところ。黄色い旗」
自分が景色ばかり見ていたつもりでも、食べる場所は覚えていたらしい。由佳はそれを聞いて、お願いします、と手で道を示した。
見つけた店は駐車場が広く、窓に貼られた写真が少し褪せていた。冷房の風に当たった途端、由佳が小さく声を漏らす。私も同じような声が出そうになった。
生姜焼きの定食を二つ。由佳が先に決めたので、私はそのまま便乗した。
「同じでいいの?」
「食べたくなった」
「じゃあ、味見できないね」
「同じものなら、どっちがおいしいか比べられる」
「たぶん同じだよ」
由佳が呆れたように笑う。その顔を見たとき、私は今日初めて、何かをしてあげたいと考えずに済んだ。
皿が運ばれると、生姜の匂いが卓の上へ広がる。熱い肉を冷ましてから食べる由佳を待たず、私は先にご飯へ箸を伸ばした。どちらの皿も比べる必要がないくらい、ちゃんとおいしい。
「これにしてよかった」
由佳が言った。
「うん」
「最初の店が開いてたら、来てないね」
「まあ、そうだけど」
「でも、開いてたらそっちで同じこと言ってると思う」
今度は私が笑った。由佳も笑いながら、付け合わせのキャベツを箸でまとめている。
何も特別なことは起きていない。予定を一つ逃し、ご飯を食べているだけ。それなのに、いつか人に今日の話をするなら、湖より先にこの食堂のことを思い出すかもしれなかった。
大町へ入るころ、雲の下から山の斜面が広く現れた。
由佳が運転を続けてくれている。代わろうか、と声を掛けたけれど、もう少し走りたい、と返された。午前中よりハンドルを握る肩が下がり、信号待ちのたびに窓の外を見る余裕ができている。
「奈緒の車、慣れてきた」
「持っていかないでね」
「東京で置く場所がない」
「理由が場所だけなんだ」
道の向こうに湖が見えたとき、私は声を上げた。
「あ、あそこ」
「どこ?」
「左。今、家の向こう」
「あとで見る」
由佳は曲がり角へ注意を戻す。私は一人で、その短い青さを追った。家と木立に隠れるたび湖が消え、次の隙間へ来ると、思っていたより広いところまで水が続いている。
宿は湖から少し上がった道沿いにあった。飾り気のない建物の前に、空の植木鉢が重ねて置かれている。由佳は一度切り返し、私が外へ出て後ろを見てから、ようやく車を駐車枠へ収めた。
「着いた」
窓を下ろしたまま、由佳が大きく息を吐く。
「お疲れさま」
「駐車だけ、毎回試験みたい」
「綺麗に入ってるよ」
由佳はわざわざ降りて、車の前から左右を確かめた。私も隣へ立ち、ほとんど意味のない確認につき合う。白線とタイヤのあいだには、両側とも同じくらいの余白がある。
「合格?」
「合格」
由佳が鍵を渡してきた。受け取ると、丸い金属が手の中でまだ温かかった。
部屋へ荷物を置いたあと、由佳は畳へ足を投げ出した。
「ちょっと休んでから、湖行こうか」
「うん」
私も畳へ腰を下ろした。足を伸ばすと、思っていたより疲れている。下の道を車が通り、その音の後ろから、遠くで遊ぶ子どもの声が浮かんできた。
「ここ、いいね」
由佳が窓の外を見た。
「探してくれたの、由佳でしょ」
「写真と同じとは限らないじゃない」
「そうだけど」
由佳は片足を引き寄せ、靴下を直す。足首に残ったゴムの跡を指で擦ってから、膝の上に両手を置いた。
「今日、もう何もしなくていいんだよね」
「湖行く」
「それはする」
「ご飯食べる」
「それもする」
「お風呂」
「忙しいね」
由佳が笑って目を閉じる。私も窓際へ足を伸ばした。
少しして、携帯に母から連絡が来た。今日はどこ、とある。木崎湖、と返すと、すぐに、寒くない、と続いた。まだ日が高く、半袖で充分なくらい暖かい。
『夜は涼しくなりそう。上着持ってる』
由佳が私の顔を見た。
「会社?」
「母。どこにいるかって」
「心配してる?」
「何か買ってきてほしいのかも」
そう言ったけれど、画面の次の言葉は、楽しんできて、という短いものだった。
私は由佳を見た。由佳はもう窓へ顔を戻し、網戸の外を小さな虫が行き来するのを見ている。母への返事を打つ前に、その横顔を少しだけ眺めた。
楽しんでる。
そう返して、携帯を伏せた。
湖へ下りる道の脇には、草の先が乾いて白くなったところがある。
水際まで行くと、風の通り道が変わった。建物に遮られていた空気が、湖面を渡ってそのまま肌へ触れてくる。由佳は一度、肩をすくめ、それから両腕をゆっくり伸ばした。
「運転の肩が、まだ残ってる」
「揉もうか」
「いい。明日で」
「明日でいいんだ」
「明日の私のために取っておく」
別所でも聞いた言い方に笑いそうになり、でも今日は、明日も近くにいることが当たり前に含まれていて、うまく笑えなかった。
沖では小さな舟がゆっくり動いていた。漕ぐ手元は見えず、舟の向きが変わって初めて人の姿がわかる。波は岸に近づいてから細かく崩れ、草の根元へ薄い水を押し寄せた。
並んで歩くと、足元を見るために由佳が時々遅れる。私はそのたび速度を落とした。気を遣っているつもりはなく、横にいないと、次に見つけたものをすぐ話せないから。
岸辺のベンチに腰を下ろした。遠くではまだ人が遊んでいるけれど、この辺りへは声の形が崩れて届く。由佳は日除けの帽子を脱ぎ、膝へ置いた。
「私、今日あんまり役に立ってない」
私が言うと、由佳は目を丸くする。
「何の?」
「道、間違えたし。運転もしてもらって」
「ご飯の場所、見つけたじゃん」
「あれは、たまたま」
「じゃあ、たまたま私が運転した」
由佳は言い終えてから、自分でもおかしかったらしく笑った。
「私も半分運転するつもりで来てるから。ありがとうだけ言ってくれたら充分」
「ありがとう」
「どういたしまして」
由佳の視線が湖へ戻る。私ももう何も言わず、ベンチに座り直した。
湖の向こうの木々には、もう日が当たらなくなっている。空はまだ明るいのに、対岸の家の窓が細く光り始めた。
「仕事でも、そんな感じ?」
由佳が訊いた。
「どういう?」
「何かしてないと落ち着かない感じ」
「どうだろう」
考えているうち、ひと月ほど前の失敗を思い出した。
「出荷する箱のラベル、貼り間違えたことがあって。送り先が逆になってて」
「送っちゃった?」
「ううん。積み込む前に先輩が気づいた。すごく助かったんだけど、私、何回も謝っちゃって」
「うん」
「謝るのはあとでいいから、こっちの箱押さえてって言われた」
由佳が口元へ手を当てた。
「ごめん。ちょっとわかる」
「先輩のほうが?」
「両方。私もたぶん言われる」
由佳は膝の上の帽子を裏返し、縫い目を指でなぞる。
「印刷所から電話が来ると、何も聞いてないのに身構えるときある。何か間違えたかなって」
「そんなに間違えるの?」
「間違えないようにしてるんだけど、間違えたときの大きさがね。紙、もう切っちゃいましたって言われると、戻らないから」
声に仕事の速度が混じる。別所の夜、友人と話していた由佳とも違う。言葉を短く区切り、必要なところへ置いていく。
「前に、急いでるからって電話しながら別の返事を書いてて、両方違う締切を言ったことがある。訂正する電話、何本もした」
「大変だったね」
「大変にしたの、私だけどね」
由佳は笑い、それから帽子へ視線を落としたまま言った。
「忙しいと、雑になる。さっきまで普通にしてたのに、もう無理ってなって、急に喋らなくなるし」
帽子を裏返したまま、由佳は湖を見た。
「昨日話した人にも、一緒に住めば、会う時間作らなくて済むね、って言ったことがある」
私は顔を向ける。由佳の指は、帽子の縁の同じところに触れていた。
「予定合わせるのが面倒だから住むの、って訊かれて。違うよ、って答えたけど、じゃあ何でそう言ったの、ってなると、また黙っちゃって」
「会いたかったんじゃないの」
口に出すと、胸の内側が少し痛んだ。由佳は頷いた。
「会いたかった。面倒だったのも本当。次の約束を決めるだけで夜が終わることがあって、朝になったらまたお互い仕事で」
沖の舟で櫂が動いた。水の面にできた跡を、次の波が消していく。
「それで別れたわけじゃないんだけどね。まだ何度も会ってたし、楽しかった日もある。でも、あのとき何て言えばよかったのか、今もわからない」
由佳は帽子を膝へ伏せた。私は、自分なら、と考えかけたことを口にはしなかった。そばで同じ夜を過ごしたことのない私に、言えることは見つからなかった。
しばらくして、由佳がお腹を押さえた。
「あんなに食べたのに、もう何か食べられそう」
私も考えてみる。生姜焼きの皿の大きさは覚えているのに、空腹はそれとは別のところから来ていた。
夕飯に何が出るかを話し、それから会社でお弁当を温める話になった。由佳のところの電子レンジは、温め終わるまで残り十秒になると急に音が変わるらしい。壊れそうで怖い、と言いながら、毎日使っている。その小さな音を、由佳は笑って真似した。
風が強くなり、由佳が髪を押さえた。膝の帽子を落としかけたので、私が手を出す。拾うほどでもなく、由佳が自分で押さえたところへ、私の手の甲が重なった。
「ありがとう」
「ううん」
手を戻すとき、膝の外側が触れた。
どちらもずれなかった。服の上から伝わる体温は頼りなく、風が当たるたびに、触れているのかどうかも曖昧になる。確かめようとして動けば、この近さは終わる気がした。
「そろそろ戻る?」
由佳が訊いた。
向こうの舟はもう岸へ寄せられている。上着を置いてきた腕が冷え、夕食の時間も近づいていた。
「もう少し、ここにいたい」
由佳は私の顔を見た。何を見たいのかも、何分なのかも訊かず、うん、と言って湖へ目を戻す。
その返事が身体のどこへ落ちたのか、しばらくわからなかった。
西の山に日が隠れ、湖面に残っていた明るさがゆっくり移っていく。由佳の袖が私の腕に触れている。どちらかが何かを言うまで、動かなくてもいい。
今見ているものを、そのまま家へ持って帰ることはできない。写真を撮るために携帯へ手を伸ばす気にもなれず、私は由佳と同じほうを向いていた。




