第三章 山を越えて
七時半の目覚ましより早く、湯呑みを置く音で目が覚めた。
由佳が窓際にいる。昨夜、起きられるか心配していた人が、先に顔を洗い、髪をまとめていた。カーテンの端から入る朝の光が、その膝だけを白く照らす。
「ごめん。起こした?」
「ううん。何時?」
「七時二十分」
「早い」
「そうでもないでしょう」
笑いながら、由佳は急須を持ち上げた。
「飲む?」
「うん」
枕元を探り、鳴る前の目覚ましを止める。布団から出ると、自分だけが夜の続きにいるような心細さがあった。由佳の向かいに座り、両手で湯呑みを包む。中のお茶は、すぐに飲める程度に冷めている。
「いつから起きてたの?」
「六時半くらい。目、覚めちゃって」
「起こしてくれればよかったのに」
「よく寝てたから」
私が先に起きて声を掛けるつもりでいた。お茶まで淹れてもらうと、湯呑みを受け取る手がぎこちなくなる。
由佳の膝に本が開かれていた。指を置いたまま、こちらを向いている。私が起きたことで読む時間を終わらせてしまったのだと気づき、続き読んでて、と言うと、ちょうど切りのいいところ、と栞を挟んだ。
部屋の外から、食器を運ぶ控えめな音が聞こえてくる。
「奈緒、寝言は言わないね」
「由佳も言わなかった」
「いびきは?」
「聞こえなかった」
「そこは、なかったって言ってよ」
お茶を飲みながら笑うと、ようやく朝が自分のところにも来た。
朝食のあと、由佳は残った饅頭を一つ食べた。まだ入るの、と訊くと、昨日の私との約束だから、と言って、包み紙を小さく丸める。残りは紙袋ごと荷物へ入れた。車内に置きっぱなしにしないように、と宿の人に言われ、私は足元へ載せることにした。
荷物を積み直していると、鞄の位置が昨日と少し変わる。由佳は取り出しやすいよう、本の入った袋だけを後部座席へ置いた。私も上着をその隣へ載せる。掃除をしたばかりの車は、早くも二人の都合で狭くなり始めていた。
塩田平の田には、朝の風がまだ残っていた。
車を停めて前山寺の参道を歩く。木々の陰では土の表面が黒く、靴の底に細かな砂がついた。由佳は腕に虫が止まったのを吹き飛ばし、私に言うより先に自分で笑った。
「蚊じゃなかった」
吹き飛ばしたあとまで腕を眺めている。その向こうに塔が見え、重なった屋根の下が深く暗かった。案内を読んでいた由佳が、建物のほうへ目を戻し、それからまた文字に視線を落とす。私は由佳が読み終えるのを待って、先の道を指した。
「もう少し上、行けると思う」
「うん。でもここ、少しいてもいい?」
「もちろん」
急ぐ理由はない。予定表にも、午前は塩田平、としか書いていない。それなのに見終えたら次へ進むものと思っていた。私は隣へ戻り、同じ屋根をもう一度見上げる。
葉の隙間に太陽が移り、古い木の表面に明るい箇所が生まれた。由佳は何も説明せずに見ている。美しいね、と先に言えば、同意してくれただろう。でもそれでは、由佳が何を見ているのか、わからないまま通り過ぎる気がした。
「どこ見てるの?」
「屋根の端。上へ反ってるところ、あんなに薄いんだね」
指を上げる代わりに、由佳は顎を少し動かした。目でその先を辿る。反った縁の向こうは明るい空で、その細さを一度見つけると、目を離しても形が残った。
境内の奥で、砂利を掃く音がする。ひと息ごとに長く、また短く。その音が止むまで、私も次の道を指さずにいた。
参道を戻るとき、彼女が小さく欠伸をした。
「やっぱり眠いんじゃん」
「早起きのせい」
「無理しなくてよかったのに」
「したくてしたよ」
私を見ずに答えてから、由佳は足元の石を跨いだ。
したくてした。その言い方を、私はしばらく口の中に置いていた。
田の間の道を抜け、山へ入る道を選ぶ。鹿教湯の先から三才山トンネルを越えて松本へ向かう、と説明すると、由佳は地図を開き、山の厚みを指で確かめるように画面を広げた。
「この道、前に通ったことある」
「いつ?」
「二年くらい前かな。逆向き。松本から上田に来た」
「帰省?」
「旅行。帰省も兼ねてだけど」
上田に来たなら連絡をくれても、と思うのが先で、誰と、と訊くのが少し遅れた。
「そのとき付き合ってた人と」
由佳は地図を閉じ、携帯を膝へ置いた。
「彼女、松本に泊まりたいって。古い家具を見るのが好きで、中町とか、ずっと歩いてた」
相槌の代わりに、私は一度、唇を閉じた。ゆうべの電話の相手とは別の人のことを話している。それは文の流れでわかったのに、頭の中では二つの知らない暮らしがうまく分かれない。
「もう別れたの?」
口にしてから、訊く順番を間違えたとわかった。
由佳の顔は正面を向いたまま。窓から入る日差しが、まぶたの上を通っていく。
「うん。一年以上前」
「そう」
「今は、付き合ってる人いないよ」
そこまで言わせてしまった。
山道の曲がり角へ差しかかり、速度を落とす。由佳は黙っていた。私の運転に気を遣っているのか、もう話す気を失くしたのか、顔を見る余裕がない。
「ごめん」
「何が?」
「先にそんなこと訊いて」
「別に。訊いたらいけないわけじゃないし」
そのあとは、トンネルの中へ入るまで、どちらも喋らなかった。
ライトの帯が天井を流れていく。由佳の膝に置かれた手が、明るくなり、暗くなり、また明るくなる。誰かが同じ道でその手を見ていた。思い描きたくないものほど、形のないまま、いくつも浮かんだ。
私はハンドルの握り方を直す。由佳がその人の車に乗ったのか、由佳が運転したのか、そんなことさえ知らない。それでも知らない誰かを、自分のいたはずの場所に座らせてしまう。
出口の光が近づいた。
由佳は眩しそうに目を細め、鞄からサングラスを出した。そんなものを持っていることも、私は初めて知る。
「奈緒、疲れてたら代わるからね」
「大丈夫」
返事が硬すぎたのか、由佳はもう何も言わなかった。
松本へ着くころには、昼の暑さが街へ降りていた。
ホテルへ荷物を預け、車もそのまま置かせてもらって、歩いて出る。二人分の足音を意識したのは、午前の土の道から舗道に替わったからかもしれない。由佳は携帯を見ずに道を選び、通りに出るところで一度だけ迷った。
「たぶん、こっち」
「よく覚えてるね」
「少しは」
言ってから、由佳が私を見た。
「別のところ行く?」
「何で?」
「いや。何となく」
「いいよ。行きたかったんでしょ」
口から出る言葉が、少しずつ相手を遠ざける。気づいているのに、言い直すほどのことにも思えず、そのまま歩いた。
女鳥羽川のほうへ出ると、風があった。川に近い縁へ沿って人が歩き、橋の上では立ち止まった人たちが写真を撮っている。由佳は帽子のつばを押さえ、私のほうへ顔を向けた。
「冷たいもの、飲まない?」
店を探して曲がった路地で、小さな古書店が目に入った。戸口に平台があり、色褪せた背表紙が斜めに並んでいる。由佳の歩く速度が明らかに落ちたので、私は先に言った。
「入ろうか」
「いいの?」
「暑いし」
ほかにも理由はあるのに、由佳へ渡せるのはいつもいちばん軽いものになる。
店内には冷房の低い音が満ちていた。紙が長く閉じていた匂いと、奥のどこかにある木の棚の匂いがする。由佳は入口近くで一冊を手に取ってから、私に場所を譲るように奥へ進んだ。
別々の棚の前に立った。背表紙を順に読むうち、何の本を探しているのか、自分でもわからなくなる。携帯を出して仕事の連絡を確認したくなり、鞄の口へ伸ばした手を止めた。
由佳は向こうの棚で本を開いていた。誰かの隣にいることを、一度、忘れたような顔。
その横顔を見ながら、私は初めて、九年は長いのだと思った。
自分にも、そのあいだの暮らしがある。最初の職場で電話を取る声が震えたこと。急に父が入院して、病室へ着替えを運んだ数週間。短大の友人に誘われて初めて海の近くへ泊まり、夜中まで話したこと。今の部屋を借りた日には、一人で家具の寸法を測り、買わなくていいものをいくつも買った。
それらを飛び越えて、由佳だけが同じ場所にいてくれると思っていたのだろうか。
目の前に、港の写真を表紙にした薄い随筆集があった。知らない書き手の名前。手に取ると、意外に軽い。開いたページには、朝の市場で魚を買った人が、宿の台所を借りるまでの話が書かれている。旅へ出てまで自分で魚を焼こうとするところが可笑しくて、前のページへ戻った。
しばらく読んでいると、背後で床が軋んだ。
「何見つけた?」
由佳が私の手元を覗く。
「旅行の話。たぶん」
「たぶん?」
「まだ魚買ったところまでしか読んでない」
由佳は本を取ろうとはせず、私の横から表紙だけを見る。
「その人、読んだことない」
「私も」
「買う?」
私はもう一度、開いたページへ目を落とした。文字を辿っていた時間だけ、由佳に何を言えばいいかを考えていなかった。
「うん。買う」
「読んだら感想聞かせて」
「面白かったら貸す」
「面白くなくても貸して。何でか聞きたいから」
そんな約束なら、すぐにできた。
店を出ると、陽の強さに思わず目を閉じる。由佳は結局何も買っていない。さっき見ていたのは、と訊くと、家にあるかもしれなくて、と答えた。
「同じ人の似た表紙の本があって。帰ったら確かめる。持ってなかったら、またどこかで探すよ」
由佳は日陰へ寄り、鞄から帽子を取り出した。指で潰れたつばを戻している間、私は買った本の袋を持ち替える。すぐ次の店へ歩き出さなくて済んだので、横に立ったまま口を開いた。
「さっき、変な言い方してごめん」
「車で?」
「車でも。道でも」
由佳は私の顔を見た。買った本の角が、指の付け根に当たっていた。
「気にしてるなら、もういいよ」
由佳は帽子を被り、つばの下から私を見る。
「ただ、どこ行っても前に来たか訊かれると、私も困るかも」
今朝聞いたばかりの旅先を、一つずつ確かめて歩くつもりはなかった。それなのに、さっきはそう聞こえることしか言えていない。私は頷いた。
「冷たいもの、飲もう」
今度は私から誘った。
近くの喫茶店の窓際で、由佳はアイスコーヒーにミルクを入れた。白い筋がグラスの底へ下り、氷の間を回りながら消えていく。私も同じものを頼んだのに、ミルクを入れる前の苦さが思いのほか気に入って、そのまま飲み続けた。
由佳が私の本を指した。
「さっきの、少し見ていい?」
「どうぞ」
ページを開く指が、表紙の傷んだ部分を自然に避ける。仕事で本を触る人の手つきなのか、読書の癖なのか。その手を見ていると、誰かとの旅行に持ってきた本もこうして開いたのだろうか、という考えが浮かぶ。
私は自分のグラスを少し手前へ引き、結露をおしぼりで拭いた。
嫉妬している。
別れた、と聞いて安心した。由佳がその人とどんな時間を過ごしたのか、何一つ知らないうちに。冷たいグラスを握る指が濡れていた。
「これ、面白そう」
由佳が本を返してきた。
「すぐ読めそうだし」
「私、読むの遅いよ」
「急がなくていいよ。別に仕事じゃないから」
返された本を鞄へしまう。折れかけた表紙が引っかかったので、一度出し、空いた場所へ入れ直した。
ホテルの部屋では、二つのベッドのあいだに小さな台があった。
和室より境目がはっきりしている。由佳は窓に近いほうへ荷物を置き、カーテンを半分開けた。窓の向こうの建物に別の窓が並び、カーテンの閉じた部屋も、洗濯物の見える部屋もある。
「少し休んでから出ようか」
「うん」
由佳は靴を脱ぐと、足首を回した。私も自分のベッドへ腰を下ろす。部屋に入ってすぐ疲れたと言えることが、旅に慣れ始めた証拠のようで、少し安心する。
空腹を確かめたときには、遅い昼食に食べたパンのことを二人とも忘れかけていた。紙袋の饅頭は、喫茶店を出てから一つずつ片づけた。それなのに由佳は夕食の店を探し始め、私も隣から画面を覗き込む。
「何食べたい?」
「ご飯があるところ」
「広い条件」
「由佳は?」
「何でもいい、って言いそうになった」
由佳が小さく笑う。
「今日は、そんなに飲まないところがいいかな」
「定食とか?」
「うん」
店を決めてから、由佳はベッドへ仰向けに倒れた。片腕を額へ載せ、三十分したら起こして、と言う。私も横になろうとしたけれど、眠ってしまえば夜に困る気がして、本を開くことにした。
宿の台所を借りた書き手は、魚の焼き加減を自分で決められず、結局、宿の人に全部任せてしまう。市場であんなに自慢していたのに、と私は一人で笑った。
「面白い?」
額に腕を載せたまま、由佳が訊く。
「寝てるんじゃないの」
「目、休めてる」
「魚、焼けた」
「よかったね」
目を閉じた由佳の口元が、ほんの少し上がった。
夕食の店は、ホテルから二つ角を曲がったところにあった。壁に書かれた日替わりの品を頼み、二人ともお酒はつけなかった。
食事が来るまで、由佳は店の水差しの持ち手を見ている。硝子の内側に細かい気泡が閉じ込められていた。
「前に来たとき、どんなところ見たの」
私が訊くと、由佳の視線が上がった。
「松本?」
「うん。家具、好きな人だったって言ってたから」
「古道具の店とか。私、全然違いわからなかったけど」
「一緒に選んだの?」
「小さい椅子買った。玄関で靴履くときに使うやつ」
その椅子が置かれた玄関を、また勝手に想像しそうになる。私は水を飲み、次の言葉を急がず待った。
「車で来ててよかったって。後ろの座席、ほとんど椅子が占領しちゃって」
「由佳が運転?」
「半分ずつ。私、駐車はずっと苦手」
「運転するんだね」
「たまにね。東京でも借りるし」
由佳は水差しを持ち上げ、私の空きかけたグラスに注いだ。水の音が止む。私はグラスを手前へ寄せ、彼女の手元から顔へ目を戻した。
「何年くらい、付き合ってたの」
「三年。住む場所、一緒に探したこともある。結局、別々のままになったけど」
水差しを卓の端へ戻す。由佳の指が持ち手から離れるのを見て、私は次の質問を飲み込んだ。
店の奥でフライパンを振る音がした。定食が運ばれてくると、由佳は小鉢の場所を変え、箸を取った。昼に通った道へ、思い出すたび違う人を立たせているのは、私のほうなのかもしれない。
味噌汁の表面を葱が滑る。私も椀を持ち上げた。
「奈緒は? そういう人、いなかった?」
由佳は訊いてから、言いたくなかったらいいけど、と付け足した。
「一人、付き合った人はいる。会社の人の紹介で」
「そうだったんだ」
「男の人。半年くらい」
由佳は頷き、私が口を開くのを待った。
「悪い人じゃなかったけど、予定がなくなると、ほっとしてた。会えば楽しいこともあるのに、前の日になると、何着ようとか、何話そうとか、考えるのが大変で」
「うん」
「それを、付き合うってそういうものかなって思ってた」
由佳の顔は変わらない。気の毒がることも、わかったと言うこともなく、ただ聞いている。
「最後に、私から別れたいって言った。何が嫌だったか訊かれたけど、ちゃんと答えられなくて」
「そっか」
「何にも言えないままじゃ、相手も困るよね」
言ってから箸先を止める。由佳に聞かせるには、遅すぎる言葉が今の話にも混じってしまった。
彼女は味噌汁の椀を卓へ戻し、少し考えた。
「でも、別れたいとは言えたんだね」
責める響きはない。そのせいで私は、しばらく顔を上げられなかった。
店を出ると、昼間の熱が足元にだけ残っていた。
由佳は空を見上げ、山が見えないと方角わからなくなる、と言う。松本にも山はあるけれど、夜の建物に囲まれた細い道からでは輪郭がつかめない。
「こっち」
私が言って歩き出すと、由佳は半歩遅れてついてきた。
「あのね」
「うん?」
「話してくれて、ありがとう」
由佳は少し目を細めた。
「こちらこそ。今まで、あんまりしてなかったね」
「うん」
「高校の話ばっかりしてた」
去年、駅前で飲んだコーヒーの味を思い出そうとした。何を話したかなら覚えている。担任の口癖、文化祭で失敗したこと、その日結婚した友人の昔のあだ名。由佳が今、どんなふうに帰宅するのか、一度も訊かなかった。
「由佳、東京の家に帰って、最初に何する?」
「手、洗う。それからお湯沸かす。飲むつもりなくても、何となく。買って帰ったご飯を出してるうちに沸くから、結局何か淹れるんだけど」
由佳はそこで私を見た。
「奈緒は?」
「鞄持ったまま、冷蔵庫開けてることはある」
「買って帰ったもの、しまうの?」
「ううん。何かないかなって」
由佳が笑った。私も、たいがい何もない、と言って笑う。食べたばかりなのに、少しお腹が空いた気がした。
ホテルの明かりが見えてくる。二人でドアを抜ける前に、由佳が小さく欠伸をした。今度は眠い、と隠さず言う。
「明日は、私も運転するね」
「じゃあ、お願いしようかな」
「うん。道、教えて」
エレベーターの扉が閉じると、鏡に二人が並んだ。由佳の肩と私の肩の高さを、私は初めて知ったように見つめていた。




