第二章 別所の朝を待つ
受付で宿帳に土屋奈緒と書き、住所を続けると、宿の人が顔を上げた。
「市内からお越しなんですね」
「はい。友人が帰省していて」
私の隣で、由佳も頷く。すぐ近くに暮らしていることを説明してから、今日は家へ帰らないのだと、また実感した。
二階の部屋へ案内される。窓際には二脚の椅子があり、そのあいだの小さな卓に、籐の籠が置かれていた。
由佳は籠を覗き、古い絵葉書を一枚取り出す。私が宿の人から夕食の説明を受けているあいだも、表と裏を返しながら、窓から入る光に透かしていた。
「六時半でよろしいですか」
「はい」
「朝は七時半か、八時に」
由佳が顔を上げる。声を出すより先に、口が八時の形になった。
「八時でお願いします」
私が答えると、宿の人は頷き、浴場の場所をもう一度教えてから部屋を出ていった。廊下の足音が遠ざかって、急に部屋が広くなる。
「ありがとう。朝、助かった」
「聞こえてた?」
「そこは聞いてた」
由佳は絵葉書を戻し、畳へ膝をついた。鞄の口を開け、薄い上着を取り出してから、いったん畳み直す。
「先にお風呂行く?」
「まだ混んでなさそうだよね」
「でも、今入ったら寝るかも」
畳に両手をついて天井を見る。その姿を見て、私もようやく鞄を置いた。たった半日で、肩の内側が固くなっている。
「外、歩く? 夕飯まで」
「うん。奈緒、どこか見たいところある?」
あるかと訊かれると困った。ここへ来る道も、駐車場の場所も知っているのに、何を見たいかとなると、温泉へ入ることしか思いつかない。
「北向観音とか。近いし」
「行ったことある?」
「何回か」
「じゃあ道、お願いしていい?」
道なら任せてもらえる。私は立ち上がり、車の鍵を鞄へしまった。
身軽になった由佳と歩くと、食堂までよりずっと速く進む。宿の玄関を出たところで、由佳は大きく伸びをした。シャツの裾が少し持ち上がり、すぐに両手で直される。
「こんなに楽なんだ、荷物ないと」
「何入れてるの」
「服と、本と、充電器と。普通のもの」
「本は何冊?」
「二冊」
「重いの、それだよ」
「二冊とも読むわけじゃないから、そこが難しい」
笑ってしまってから、難しいことなんてないでしょう、と返す。由佳は、選べなかったの、とまるで違う事情を話すように答えた。
坂の傾きに合わせ、軒先の高さが少しずつ変わっていく。店の奥に人の気配はあっても、通りへ向けて呼び込む声は少ない。洗った桶を重ねる音が、姿の見えないところから聞こえた。湯の匂いを含んだ風に当たると、私のほうも歩く速度が緩む。
由佳は一軒の店先で立ち止まった。ガラスの向こうに、小さな皿が積んである。焼き物に詳しい人のように眺めていたのに、私が隣へ立つと、あの皿に卵焼き載せたい、と言った。
「買う?」
「最初の日に皿を買うのは、どうかな」
「車に載せておけば」
「東京まで持って帰るときがね」
五日目のことを思い出し、私は黙った。由佳はまだ皿を見ている。
「卵焼き、最近作ってないな。二個で作ると、半分残るから。明日も同じの食べると思うと、目玉焼きにしちゃう」
「一個で作れば?」
「薄くなりすぎて、巻けない。端っこからぼろぼろになるの」
ガラスの向こうへ伸びた指が、小さく丸まった。その仕草が可笑しくて笑うと、由佳も笑った。けれど皿を買おうとはせず、先に坂を上り始める。私は一歩遅れて、その横へ戻った。
北向観音の境内では、大きな木の影が足元を覆っていた。葉の擦れる音を聞きながら階段を上ったせいか、さっきまでの暑さが身体の外へ退いている。由佳は木の下で立ち止まり、案内を読んでから幹を見上げた。
「大きいね」
「うん」
「写真、全然入らない」
携帯を縦にしても横にしても、由佳の望むところまで収まらないらしい。二歩下がり、また一歩進んで、最後には諦めたように腕を下ろした。
「撮ろうか?」
私が手を出すと、由佳は携帯を渡さずに、少し笑う。
「奈緒も入ってよ」
「私?」
「今、ほかにいる?」
木の傍らへ立つ。立ってから、手をどうすればいいかわからない。
「普通にしてて」
「普通って」
「じゃあ、こっち見ないで」
言われて幹のほうを向く。樹皮には深い窪みがあり、奥の暗さへ目を凝らしていると、小さな音が続けて二度した。
「撮れた?」
「うん。いいよ」
見せられた画面で、私は笑っていなかった。髪が頬にかかり、腕は身体の横へ落ちている。いつもの自分より落ち着いて見えたのは、何をしている人なのかわからなかったからかもしれない。
「送るね」
「由佳のも撮る」
「私はいいよ」
「ずるい」
返した声が少し強くなった。由佳は驚いた顔をして、それから、自分が立つ場所を探した。
携帯の中の由佳を見ていると、直接見ているときよりも細部が目に入る。袖から出た腕の下半分が陽に焼けている。耳元に小さな銀色の飾り。唇を結んで笑うと、左頬がわずかに先に持ち上がる。
「まだ?」
「今」
シャッターを押したあとも、しばらく画面から目を離せなかった。
お参りをして、階段を下りる。何を願ったのか由佳には訊かなかった。私は手を合わせている間じゅう、隣に同じように手を合わせる人がいることばかり気にしていて、願いごとをするところまでいかなかった。
坂の途中で饅頭を買った。二つだけのつもりが、味の違うものを選んでいるうちに四つになる。包みを受け取った由佳が、夕飯食べられるかな、と初めて心配した。
「食べられるよ」
「奈緒、そういうときは頼もしいね」
「そういうときは?」
「確信がある」
宿へ戻る道を、来たときよりゆっくり歩いた。人とすれ違うときだけ縦に並び、そのたびどちらともなく横へ戻る。由佳が私の肩へぶつかりそうになる瞬間があって、避けようとした足を戻したころには、もう互いの間に風が通っていた。
湯から上がると、由佳はまだ戻っていなかった。
私は窓際の椅子に腰を下ろし、濡れた髪をタオルで挟んだ。普段ならすぐに乾かしてしまうのに、今日は冷えた空気に首筋を晒しているのが心地いい。窓の外では山の影が少しずつ深くなり、その手前の家の屋根だけがまだ明るい。
浴場に人はほとんどいなかった。由佳は髪を洗うのに時間をかけ、私は先に湯へ浸かった。肩まで入ってしまえば顔しか見えないのに、由佳がこちらへ歩いてくると、目を閉じていたくなる。お湯、熱いね、と言われてようやく目を開けた。
それから、二人で湯の温度と、洗い場の椅子の高さについて話した。もっとほかに話すことはあるはずなのに、どうでもいいことなら、驚くほど長く喋れる。
部屋の戸が開き、由佳が入ってきた。宿の浴衣の帯を少し緩めて、扉を閉める。
「暑い。お風呂、気持ちよかったけど」
「水あるよ」
「ありがとう」
今度は私も、自分の分を注ぐために立つ。由佳は卓の前へ膝をつき、両手でコップを受け取った。
「奈緒、髪乾かさないの?」
「もう少ししたら」
「あとで変な癖つくよ」
「ついたら濡らす」
由佳が目を丸くし、それから笑った。
「そういうところ、雑なんだ」
「全部きちんとはしてないよ」
「知ってる。知ってたはずなんだけど」
由佳は言い直して、コップを置いた。
部屋にある二人分のものが目につく。湯呑み、スリッパ、浴衣を出したあとの引き出し。使ってしまえば、どちらのものかを決めなくてはならない。由佳は自分のタオルを窓側へ掛け、私のタオルを押しのけないよう、物干しの端を少しだけ広げた。
夕食まで、まだ二十分ある。
「一個だけ食べる?」
由佳が饅頭の包みを持ち上げる。
「食べるの?」
「半分なら」
たったさっき、私の確信を頼もしいと言った人が、今は許可を求めるような顔をしている。私は包みを開き、いちばん小さなものを選んだ。指で割ると皮が少し崩れ、餡が片側へ多く残った。
「こっちでいい?」
「大きいほう、くれるの」
「餡、好きでしょ」
由佳は手を伸ばしかけて止まった。
「うん。好き」
短い返事に、思いがけず胸が熱くなる。口へ運んだ饅頭はもう冷めていて、皮の端が少しだけ硬い。由佳の親指に餡がついた。本人が気づいて舐め取るまで、見ているだけの私の指が落ち着かなかった。
食堂へ下りる前に、結局二人とも残りの包みを覗いた。
「夜にしよう」
「夜、食べられるかな」
今度はどちらも、食べられるとは言い切らなかった。
食堂の窓に、外の景色より室内の明かりが強く映るころ、夕食の皿が揃った。
由佳は瓶ビールを一本頼み、私は小さなグラスに半分だけ注いでもらう。今日はもう運転しなくていい。それを確かめるように車の鍵の感触を探して、浴衣にポケットがないことを思い出した。
「乾杯、何にする?」
由佳がグラスを持ち上げたまま訊く。
「普通に、旅行に」
「普通に旅行に」
「そのまま言わないで」
グラスが触れると、思ったより高い音がした。由佳は一口飲み、息を吐いてから、やっと休みだ、と言う。今日の昼から一緒にいた私には、今ようやくその言葉が出ることが少し不思議だった。
「昨日まで仕事の連絡来てたの?」
「連絡は来ない。ただ、確認してないことがあるような気がして」
「わかる」
「出かける前、窓閉めたっけ、ってなるやつの、本の版」
「大変そう」
「でも今思い出しても、どうしようもない」
由佳は携帯を伏せて、箸を取る。その仕草を真似するように、私も鞄の口を閉じた。
煮物の器から、湯気が細く上がっている。最初は皿の説明を二人とも熱心に聞いていたのに、食べ始めると、おいしい、熱い、これ何だっけ、という短い言葉で間に合った。由佳は焼き魚の骨を綺麗に外し、私の皿をちらりと見た。
「そっちからいくんだ」
「どっちからでも同じでしょ」
「私、頭側から崩すの苦手で」
「食べ終われば同じ」
「奈緒、意外と乱暴」
お互いに相手の知らなかったところを、たいしたことではないふりで指摘する。間違えても困らない話を、私たちはいくつも探した。
食事の後半に差しかかると、由佳は膝の上で帯を押さえるようになった。
「半分にしておいてよかったね」
私が言うと、由佳は少し恨めしそうな目でこちらを見る。
「明日の私が食べる」
「朝ご飯のあと?」
「明日の私に決めさせて」
その言い方が可笑しくて、ご飯を飲み込むのに時間がかかった。
部屋へ戻ると布団が二組敷かれていた。端と端の間に、畳の目が細く見える。夕方まで卓のあった場所が、今は私と由佳の眠る場所になっている。
「私、こっちでいい?」
由佳が窓側を指した。私は頷き、入口に近い布団の横へ鞄を移す。荷物の置き場所まで決まると、部屋の半分ずつに別の暮らしが始まったように見えた。
由佳は洗面台で手を洗っている。水を止めてから、歯ブラシを濡らすためにもう一度出した。その短い水音まで聞いてしまう。自分の家なら気に留めない音のどれもが、今は由佳に結びついている。
「奈緒のとこ、一人暮らしなんだよね」
鏡越しに訊かれた。
「うん。二年くらい前から」
「実家、近いんでしょう」
「車で十五分くらい」
「いいな」
いい、という言葉がすぐには身体へ入ってこなかった。東京に住む人に、近くで一人暮らしをしている理由を説明したくなりかける。通勤が少し便利とか、食事の時間が違うとか、以前ならいくらでも挙げていただろう。
「帰ってくると、お母さんがご飯くれる」
「それはいい」
「でも、連絡しないで寄ると、何もない日もある」
「そりゃあ、お母さんにも予定あるもんね」
由佳はタオルへ手を伸ばした。何かを評価するような声ではなかったので、私も続きを言えた。
「一人になりたかったんだと思う。とりあえず」
「なれた?」
「なれたよ。結構」
由佳が笑う。結構、がどのくらいなのか、私自身にもわからなかった。
風呂上がりに好きなだけ薄着でいられる。洗い物を翌朝に延ばせる。夕飯に何を食べたかを誰にも言わなくていい。その気楽さを大事にしているのに、今は、由佳が歯を磨き終えるのを待ってから自分も洗面台へ立つことが、少しも煩わしくない。
由佳の携帯が鳴った。
私が口をすすいでいる間に画面を見て、あ、会社の子、と言う。
「出てもいい? 仕事じゃないと思う」
「もちろん」
由佳は窓際の椅子へ腰を下ろした。私は鏡の前でタオルを畳み直し、必要もないのに櫛を探す。電話をしている人の近くに、どう座ればいいのかわからない。
「もしもし。うん、今、長野」
由佳の声が少し低くなった。
「それで? 買ったの? うそ、止めたじゃん、私」
笑い方まで違う。相手の話を遮って、何かを確かめ、それから長く笑った。私が知っている由佳もよく笑うけれど、こんなふうに遠慮なく声を重ねられたことは、今日、まだ一度もない。
「返品できるやつでよかったね。だから、寸法は測ってからって言ったでしょう」
家具の話らしい。由佳は身を前へ倒し、片方の足を椅子の下へ引いている。
私は自分の携帯を開いた。送られてきた写真を見ているふりをすればいい。木の前で立つ私、そのあとに私が撮った由佳。選んだはずの一枚には、画面の隅に私の指が少し入っていた。
由佳が知っている誰かの部屋に、置けない大きさの家具がある。どんな部屋で、その人が何をしているのか、由佳は電話の向こうを見なくてもわかるらしい。そこにある日常の細かさが羨ましくて、写真を拡大する指が止まった。
「ごめん、長くなった。そろそろ切るね」
由佳がこちらを見たので、私は何も聞いていなかったような顔をした。
通話を終えると、由佳は椅子の背へ身体を預けた。
「お待たせ」
「ううん」
「本棚を買ったら、玄関を通らなかったんだって」
「それは困るね」
「相談されたとき、測りなよって言ったのに。今度、一緒に見てって」
「仲いいんだ」
「うん。入社、同じ年だから」
由佳は携帯を充電器へ繋ぎ、私の横を通って鞄へ手を伸ばした。訊こうと思えば訊ける。その人と普段は何を話すのか。休みの日にも会うのか。東京での由佳は、いつもああいう笑い方をするのか。
そのどれも、口に出すと相手の暮らしへ許可なく入るようで、私は写真の話に変えた。
「これ、指入っちゃった」
画面を差し出す。由佳は私の隣へ膝をつき、思ったより近くから覗き込んだ。
「ほんとだ」
「撮り直せばよかった」
「いいよ。私、ちゃんと入ってるし」
「でも端っこ」
「奈緒が撮ったって、すぐわかる」
軽く言って、由佳はもう立ち上がる。取り残された画面の中で、私は自分の指のぼやけた赤を見つめた。
電気を消す前、由佳は本を一冊、枕元へ置いた。持ってきた二冊のうちの一冊。読むの、と訊くと、持ってきただけで今日は満足、と答えた。
「明日は何時に起きる?」
由佳が布団に片膝を乗せながら訊いた。
「七時半くらい? ご飯八時だから」
「七時半には起きよう、ってことね」
「七時半に起きる、でもいいよ」
「決意の強さが違う」
私は携帯の目覚ましを設定した。由佳も同じ時刻を選ぼうとするので、私のが鳴れば起こす、と言う。ありがとう、と返して、由佳は自分の画面を暗くした。
灯りを落とすと、窓の外のほうが明るい。薄いカーテンの向こうで、どこかの外灯が白く滲んでいた。布団を胸まで引き上げると、糊のきいた綿の匂いに、浴場から連れてきた湯の匂いがわずかに重なる。
「寒くない?」
私が訊いた。
「今はちょうどいい」
「冷房、暑かったら言って」
「奈緒もね」
布が擦れる音がして、由佳がこちらへ寝返りを打ったらしい。顔は影になって見えない。ただ、声の来る場所が変わった。
「来てくれてありがとう」
「まだ、私のほうが近いけど」
「距離じゃなくて」
言い添えた声は、昼より静かだった。
私も、と返したかった。誘ってくれてありがとう。休みを取る理由をくれてありがとう。今日が来るまでのひと月を、長いと思えるようにしてくれてありがとう。
「明日、晴れるといいね」
言ってしまってから、隣の返事を待つ。由佳は身じろぎをして、枕元へ手を伸ばした。
「……晴れそう」
携帯の光が、掛布団の縁と、伏せた睫毛を照らす。こちらへ画面を見せることなく、由佳は灯りを消した。
「おやすみ」
「おやすみ」
しばらくして、隣の呼吸が深くなった。
由佳がどんな顔で眠るのか、目を凝らせば少しは見えるかもしれない。けれど私は仰向けのまま、天井の暗さを見ていた。明日の朝、目覚ましが鳴れば声を掛ける。その約束があるので、夜のあいだに何も確かめなくて済む。
昼間買った饅頭が、卓の隅に三つ残っている。食べきれなければ持って出ればいい。行き先の決まった荷物が、今は私の眠りを少しずつ深くしてくれた。




