第一章 上田駅、温泉口
助手席の背もたれを、誰も座らないまま二度起こした。
近すぎるように思えて、レバーを引いてひとつ戻す。膝の前には充分な余地がある。足元の砂も吸い取ったし、ドアの内側に溜めていた駐車券も捨てた。それなのに外から車内を覗くと、何かをまだ片づけ忘れている気がする。
後部座席に置いた私の鞄を、荷室へ移した。空いたところへ手をつき、少しだけ息を吐く。八月の終わりの日差しが、駐車場の白線を眩しく浮かせていた。
携帯が鳴ったのは、運転席へ戻ろうとしたとき。
『あと五分くらい。温泉口でいいんだよね』
上田駅に毎日来るわけではない。それでも由佳から確かめられると、私がこの駅を預かっているような心持ちになる。
『うん。駐車場にいる』
送ってから、迎えに出るね、と付け足した。
冷房を止め、鍵を掛ける。車の下から吹きつけた熱に足首を包まれて、せっかく整えたシャツの襟元へ汗が滲む。改札から出てきた人たちはそれぞれの行き先を知っていて、歩きながら携帯を耳へ当てたり、肩からずれた荷物を直したりしていた。その流れがひと息途切れたところに、薄い青のシャツが見えた。
由佳は大きな紺色の鞄を右肩に掛けている。左手に持った小さな紙袋が、歩調に合わせて膝を打つ。顔を上げたとき、私より先に笑った。
「奈緒」
「おはよう」
「もう昼になるよ」
「うん。そうだね」
何を言っているんだろう、と自分の声を聞く。由佳は私の前で鞄を持ち替え、紙袋を差し出した。
「これ。うちの母から」
「え、何」
「煎餅。旅行中なのに。割れないやつ選んだからって」
「ありがとう。お母さんにも」
「奈緒なら車で持って帰れるでしょう、だって。もう帰りのこと考えてる」
袋の口を覗くと、個包装の煎餅が隙間なく詰まっていた。量について二人で同じことを思ったらしく、顔を見合わせた拍子に笑いがこぼれる。その間だけ、去年の秋から会っていないことを忘れた。
鞄、持つよ、と言いかけたところで、由佳はもう歩き出していた。
「どっち?」
「こっち。いちばん奥」
「日陰を取ったんだ」
「朝は日陰だった」
「惜しかったね」
車までのわずかな距離を、歩幅を測るように並ぶ。右肩の鞄を避けているうち、私の左手と由佳の右手の間が少し広くなる。以前なら荷物を勝手に取り上げて、重い、と文句を言っていただろう。高校のころの私には、それが許されていた。
灰色の車の前で鍵を押すと、由佳が足を止めた。
「これ、奈緒の?」
「そう。前に写真送ったよね」
「うん。思ったより好き」
「思ったよりって」
「色。写真だと白に見えたから。いいね、この色」
誰かに車を褒められたのは初めてではない。けれど、何の変哲もない塗装が由佳の目に映ったと思うと、五年も乗っている車の前で、私まで知らないものを見つけたように立ち尽くしてしまう。
荷室を開け、二つの鞄を並べた。由佳の紺色の鞄は角が擦れて白っぽくなっている。取っ手を伏せる手つきに迷いがなく、こちらへ来るまでにも、いくつもの床に置かれてきたことがわかった。
「助手席、どうぞ」
「お邪魔します」
「家じゃないんだから」
「でも、ほとんど奈緒の部屋でしょう」
座るなり由佳が背もたれのレバーへ手を伸ばした。二度直した角度が、あっさり後ろへ倒れる。
「倒しすぎ?」
「ううん。好きにして」
シートベルトの留まる音を聞いてから、エンジンをかけた。
由佳から旅の誘いが来たのは、七月の夜。
帰宅してすぐに炊飯器の蓋を開けた私は、米を研いだところで朝が終わっていたことに気づいた。吸水しすぎた米をしばらく眺め、それから蓋を戻して炊飯を押す。流しの前へ立ったところで携帯が震えた。
『昔言ってた旅行、今なら行ける?』
文のあとに、八月末の五日間が記されている。
仕事を辞めたのかと思い、続きが来るのを待った。届いたのは、有休と夏休みを繋げられそう、という説明と、泳いでいる魚の絵。由佳の勤める出版社はお盆の一斉休業ではなく、それぞれ都合のつくときに休むらしい。
昔言っていた旅行なら覚えている。高校三年の秋、試験勉強をするはずの図書室で、由佳は地図帳を開いていた。遠くへ行きたいの、と訊くと、遠いかどうかもまだわからない、と答えて、長野県の北西に点々と並ぶ青い形を指で辿った。
湖、こんなにある。
私は地図より、爪の先が引っかけた紙の薄さを見ていた。
免許を取ったら行こうよ。湖を見て、そのへんに泊まって。
そう言ったのがどちらだったか、今はもうはっきりしない。行こう、と応じた声だけが、自分のものとして残っている。
由佳は春に東京へ出た。私は県内の短大へ進み、卒業後は上田に戻って、金属部品を作る会社で受注と出荷の事務を続けている。二十七歳になって、車も、休暇に使える預金も手に入れた。五日間の休みを取るための根回しは必要でも、親に許可をもらうことはない。
それでも私は、炊飯器の前で携帯を持ったまま動けなかった。
由佳と最後に会ったのは、同級生の結婚式。二次会には二人とも出ず、駅前でコーヒーを飲んだ。新幹線の時間まで四十分ほど。お互いの近況を拾っているうちに時間が尽き、次はゆっくり、と言って別れた。その前に会った日のことは、季節さえすぐに思い出せない。
誕生日の短い連絡。雪のニュースを見たという連絡。昔の担任が異動したと、人づてに聞いた話。それだけでも繋がっていられるものを、五日も持ち歩いていいのだろうか。
『会社に聞いてみる』
返事をして、台所の戸棚から茶碗を一つ出した。米が炊けるまではまだ四十分。置き場所を探しているように茶碗を持ち直し、結局、いつもの位置へ伏せる。
翌朝、上司へ休暇の相談をすると、九月の棚卸しと重ならなければいい、と拍子抜けするほど簡単に了承された。隣の席の先輩は、得意先ごとの締め時刻だけまとめておいて、と言ってから、行き先を尋ねた。
「県内です。友達と」
「五日も?」
短すぎると言われたようにも、長すぎると言われたようにも聞こえた。
私は頷きながら、まだ白い休暇届に自分の名前を書いた。
「まずお昼、食べる?」
駅の駐車場を出てから、私は由佳へ訊いた。
「奈緒は?」
「私はどっちでも」
「じゃあ食べたい。朝、母と話してたら食べそびれた」
「言ってくれれば、駅で何か買えたのに」
「もうお昼でしょう」
また同じことを言われて、車内で笑う。
由佳は二晩、実家で過ごしていた。今日は家の人に駅まで送ってもらい、旅の帰りは松本から直接東京へ戻る。先に上田の実家へ帰ってしまうとそのまま動けなくなりそうだから、と旅程を相談したときに由佳が言った。私はそのとき、そんなに実家が居心地いいの、と訊けなかった。
信号待ちの間に、由佳がドアの収納を覗く。
「ここ、水置いていい?」
「いいよ。空だから」
「妙に綺麗だね」
「昨日掃除した」
「私が来るから?」
発進する車へ注意を向けたふりをして、私は頷いた。
「うれしい。たぶん明日には私が汚すけど」
「ひどい」
「煎餅の粉とか」
「割れないのを選んでくれたんでしょ」
由佳は紙袋を両足の間へ立て、真面目な顔で中を確かめた。
千曲川を渡ると、川の上の風が橋際の草を一方向へ押しているのが見えた。窓を閉めているので音は届かない。由佳は川に顔を向け、街へ背を向けていく自分の位置を確かめるように、背もたれから少し身を起こした。
「これ、毎日見える?」
「川?」
「うん」
「通勤の道からは見えない。こっち側じゃないから」
「そっか」
「でも、別に珍しくはないよね」
余計なことを言った。由佳のほうを見るのをためらう。
由佳は気にした様子もなく、川の続きを追っている。日差しで細めた目元に、以前はなかった細い線が寄る。横顔を見すぎないよう視線を前へ戻すと、橋の終わりがすぐそこまで来ていた。
幹線道路を少し外れた食堂へ車を入れた。仕事の外回りに同行したとき、一度だけ来た店。由佳を連れてくるのならほかにもあったはずなのに、どこへ入れば落ち着いて話せるかを考え始めると、知っている店が一つずつ候補から消えてしまった。
入口の引き戸は途中で少し重くなる。私が両手をかける前に、後ろから由佳が戸の縁を押した。
「あ、ありがとう」
「お腹空いてるから」
四人掛けの卓に向かい合って座る。水を持ってきた店の人が、卓の隅へ二人分のおしぼりを置いていった。由佳はその一つを私へ滑らせ、壁の品書きを眺める。
「冷やし中華、まだある」
「まだ八月だよ」
「八月の終わりって、もうない店あるから」
「そう?」
「終わらせたいんじゃない? 夏を」
品書きの下で扇風機が首を振る。私は由佳と同じものを頼んだ。冷房の風が直接当たる席を避けたはずなのに、卓へ載せた腕にはすぐ鳥肌が立つ。
「寒い?」
「ちょっとだけ」
「替わろうか」
「大丈夫」
由佳は私の顔を一度見て、椅子を引いた。
「私、今は暑い。鞄重かった」
向かいの席が空いたので、私も立たないわけにはいかなくなる。二人で水とおしぼりを持ってすれ違った。由佳の座っていた椅子には、薄く体温が残っている。
「ありがとう」
「うん」
礼を言いすぎていると思いながら、ほかに何を言えばいいかわからなかった。
由佳は東京の小さな出版社で、印刷所や製本所とのやりとりをしている。以前の結婚式で聞いたときには、出版社にいる、というところしか頭に残らなかった。どんな本を作るのかと訊くと、暮らしの本が多いよ、と答える。
「料理とか、庭とか」
「読んでると詳しくなる?」
「締切には詳しくなる」
思わず笑ってしまった。由佳は箸の袋の端を折りながら、どうして、と笑う。
「何か、由佳が締切の話するの」
「私だって仕事するよ」
「わかってる。でも、学校のとき、提出ぎりぎりだったから」
「ぎりぎりに出す人は、締切をよく知ってるの」
「そういうこと?」
「そういうこと」
笑ったあとの顔を見ながら、相手のほうが先に水へ手を伸ばすのを待つ。昔もこういう間があっただろうか。おかしさを共有したあと、まだどこかが柔らかいまま残っていて、そこへ不用意に触れると自分のほうが傷つきそうな間。
由佳は水を飲み、窓の外の駐車場に目をやった。
「奈緒の休み、ちゃんと取れた?」
「取れたよ。だからいるんじゃん」
「そうだけど。無理してないかと思って」
「そんなに忙しくない時期だから」
「ならよかった」
休みに入る前、先輩へ渡す引き継ぎを何度も書き直したことは言わなかった。受注の窓口が不在になる以上、必要な手間ではある。でも、間違いなく休める状態を作るためというより、自分がいなくても仕事が進むことを許してもらうために、細かく書き足していた気がする。
「奈緒って、休みの日も朝早い?」
「日による」
「今回、朝早く起きないと見られないものとか、ある?」
「まだ決めてないけど。見たいなら」
「見たいかどうか、起きてから考えたい」
由佳が少し首を傾ける。冗談とも頼みごととも取れる言い方に、私は、わかった、と答えた。
運ばれてきた冷やし中華には、細く切った胡瓜と卵が山になっている。由佳は皿の縁の辛子を全部混ぜてから、一口目で小さく咳き込んだ。
「入れすぎ」
「知ってる」
「先に少しずつ入れればいいのに」
「もう遅いことを言わないで」
水の入ったコップを押しやると、由佳は自分の分を持ち上げて見せた。こちらにもあるよ、と言う代わりに。
私は差し出したコップを戻し、箸を取った。
由佳の前で何かをしていないと、ここにいる理由が薄くなる気がする。駅へ迎えに行く。鞄を載せる。道を選ぶ。水を渡す。その一つひとつに忙しくしていれば、九年前に由佳が言ったことへ、こちらから触れずに済む。
好きなんだけど。
告げられたとき、何が好きなのかを聞き返すことはできなかった。由佳の顔を見ればわかったから。わかってしまったので、私はそれまで二人が話していた別のことへ戻った。
その続きを持ち出すきっかけは、これまで一度もなかった。
なかったということにして、二十七歳まで来てしまった。
「麺、伸びるよ」
向かいから声がして、私は慌てて皿を見る。由佳は辛子で少し赤くなった鼻先を紙で押さえ、もう次の一口を持ち上げていた。
会計のとき、由佳が私より先に伝票を取った。
「ガソリン代、あとでちゃんと分けようね」
「そんなにかからないと思う」
「かかった分は分ける。駐車場も」
「細かいのはいいよ」
「細かいのがいっぱいある旅行でしょう」
財布から紙幣を出す指が、レジの前で止まる。
「奈緒、全部持とうとしてない?」
「全部じゃないよ」
「じゃあ、お昼は私。最終日に計算しよう」
旅の手配のときも、由佳は同じ調子で役割を決めた。最初の宿は土地勘のある私が探し、残り三泊は由佳が候補を送る。高すぎるところは断り、朝食の有無は相談する。一部屋にするか、と最初に訊いたのは由佳。私は画面の前でしばらく指を止め、ツインか布団が二組なら、と必要のない条件をつけた。
由佳からは、もちろん、という返事だけが来た。
車へ戻ると、朝より陽が高い。シートベルトの金具に触れかけた由佳が、熱、と手を引っ込める。私は冷房の風向きを調節した。
「このあと、別所?」
「うん。チェックインまでは時間あるから、途中どこか寄ってもいいし」
「近いんだね」
「家からだって来られるよ」
「じゃあ、奈緒にはあんまり旅行じゃない?」
ハンドルへ載せた手の中で、鍵の輪が小さく揺れる。
由佳は責めたわけではない。退屈させていないかを確かめただけ。それでも返事をするまでに、一拍、余計にかかった。
「泊まったことはないから」
「そっか」
「お風呂入って帰ることはあるけど」
「今日は帰らないんだ」
「うん」
言葉にすると、見慣れた道の先が変わった。
仕事へ向かうときには曲がらない角で、方向指示器を出す。いつもの買い物に使う店の看板が、横から後ろへ流れていく。道が混めば別の道を知っているし、買い忘れたものがあっても、どこへ寄ればいいかわかる。その場所を、私は今、家へ戻るために使っていない。
由佳が窓を少し開けた。
「いい?」
「うん。暑くない?」
「すぐ閉める」
生温かい空気が入り、由佳の額に落ちていた髪を持ち上げる。稲の青さに混じって、水を含んだ土の匂いがした。由佳は腕を窓の縁へ乗せ、何も言わず外を見ている。
こんなふうに黙る人になったのかと思う。
昔からそうだったかもしれない。私が、沈黙を埋めるために喋り続けていたのかもしれない。
別所へ近づくにつれ、家々の向こうの山が大きくなる。道沿いの田では、穂をつけ始めた稲が風の通ったところから傾き、またゆっくり戻っていた。由佳は窓を閉め、車内に戻ってきた静けさの中で言った。
「五日って、長い?」
「旅行として? こんなに休むの、久しぶり」
「私も。去年は宿を調べてるうちに、休みが終わっちゃった」
由佳は袖口の折り目を直した。片方だけ細くなったので、もう片方も折り返す。
「どこへ行こうとしてたの」
「海のほう。行きたいところはあったんだけど、着いたら何をしようとか、一人で何を食べようとか、考えてたら面倒になって。家にいてもいいか、って」
由佳が自分から話してくれるのを、私は待った。けれど、それ以上は続かなかった。窓の外へ目を戻した彼女の手が、膝の上で重なっている。
「今回は、宿取れたね」
口にしてから、当たり前のことを言ったと思った。
「取れた。四つも」
由佳が笑い、私もつられた。
「ただ、朝起きなかったら起こしてね」
「起こしても起きなかったら?」
「そこは置いていかないで」
冗談を言う声へ戻っても、さっきの、家にいてもいいか、という言い方が耳に残った。私は宿への曲がり角を確かめ、車の速度を落とした。
宿へ入る細い道が見えてきた。由佳は携帯で予約の画面を開き、私が車を寄せる間に、荷物の数を確かめている。その落ち着いた身のこなしを横目で追う。九年分の暮らしがこの車に収まるはずもないのに、鞄を二つ積んだだけで、私はずいぶん遠くへ来たような気になっていた。
「着いたよ」
由佳が顔を上げた。
「うん。運転ありがとう」
その声を聞くためなら、どれほどでも走ってしまうと思った。けれど口から出たのは、荷物を先に下ろそう、という、今しなくてはならないこと。
由佳は助手席のドアを開け、降りてから私を振り返る。
会いたかった。
心の中で声にした言葉は、もう遅い挨拶のように、車を降りる私の背へ残った。




