第八章 上田から、もう一度
休み明けの机には、私が思っていたほど仕事は溜まっていなかった。
引き継いだ注文は先輩が処理し、確認の必要なものだけが付箋をつけて置かれている。私は土産の袋を机の端へ置き、まずそれらに目を通した。得意先からの折り返しの電話。数量の変更。担当者が直接工場へ伝えたという短いメモ。休んでいる間にも、会社はいつものように動いていた。
「ありがとうございました」
隣の席へ声を掛けると、先輩は画面から顔を上げた。
「いえいえ。旅行、どうだった?」
「楽しかったです」
返事が、思ったよりすぐに出た。
「よかったね。どこがいちばんよかった?」
湖、と答えようとして、食堂の黄色い旗が浮かんだ。道を間違え、笑いながら地図を見直した駐車場も。どこ、と訊かれたのに場所を一つ選べなくて、私は少し考えた。
「木崎湖かな。夕方に、ずっと座ってたんです」
「何もしない時間って、旅行じゃないと取りづらいよね」
先輩が菓子を一つ取って、ありがとう、と言う。私は頭を下げ、自分の席へ戻った。
午前中は電話が続き、昼休みになるころには、日常の声に戻っていた。取引先の担当者から、休みだったんですね、と言われ、はい、と答えてから数量の話をする。仕事の合間に由佳のことを考えた。考えているのに、手はいつもの順序で書類を片づけていく。
昼、携帯を開くと、由佳から短い文が来ていた。
『メールがいっぱい』
私は笑い、返信を打った。
『私のところは思ったより平気。お昼は食べてね』
送ってから、自分は母親のようなことを言っていると思った。取り消そうか迷っているうちに、由佳から、食べる、という返事が来る。
その日の夜は、何度か文をやりとりした。昨日より短く、旅先で交わした会話よりずっと少ない。でも、仕事を終えて家へ帰ったあとも、由佳に聞いてもらいたいことが見つかる。
翌日は、私が眠るまで返事が来なかった。
朝になって、帰ったらそのまま寝た、ごめん、という文を読む。大丈夫、と返したあとで、少し寂しかった、と書きかける。朝からそんなことを言われても困るだろう。私はその言葉を送らず、携帯を鞄へ入れた。
何でもすぐには変わらない。
助手席は、また私の買い物袋を置く場所になった。由佳のために空けたドアの収納へ、駐車券が一枚入る。洗濯をした服からは宿の匂いが消え、写真の中の半袖が、日ごと少し遠い季節に見え始める。
それでも、次に会う日の印は、予定表の中にあった。
日曜日の夜、電話で話そうと約束した。
九時ごろなら、と由佳が言い、私は少し早めに食器を洗った。昼間干したタオルを取り込み、椅子へ積む。由佳に話すことを考えながら畳んでいると、端がうまく揃わなかった。
会社で誰かがやり忘れたこと。いつもの店で欲しいものが売り切れていたこと。思い出すのはそんなことばかりで、話し始めるところを考えてみても、すぐに終わる。まだ八時五十分だった。
買った随筆集を開く。魚を焼いた書き手は、別の港まで来ていた。頁をめくる指を止め、さっきから同じ船の出る時刻を読んでいることに気づく。私は本を伏せ、携帯を手に取った。
九時を過ぎても、着信はない。
少し前に由佳が送ってきた、まだ会社、という夕方の文をもう一度読む。九時ごろ、と約束したのだから、九時ちょうどにかかってこなくてもおかしくない。携帯を卓へ戻し、洗濯物をしまいに立った。
戸棚の中でタオルが崩れた。奥へ押し込んでいたものまで引き出し、膝の上で畳み直す。その間、携帯のあるほうへ耳を向けていた。家の外で車が停まり、ドアが閉まる音がした。
九時半近くになって、ようやく画面が光った。
『ごめん。まだ電車。帰ってからでもいい?』
『いいよ』
すぐに返すと、待つ時間がまた始まった。
眠くなったら、また今度でいいから。そこまで打ち、送らずに消す。私はまだ少しも眠くない。由佳が、そうしよう、と返してきたら、その返事を見ながら夜更かしすることになる。
本を拾い、さっきまで読んでいた頁を探した。
電話が鳴ったのは、十時を少し回ったころ。
「遅くなってごめん。起きてた?」
由佳の声は低かった。返事をする前に、向こうで鍵の触れ合う音がする。
「起きてた。今、帰ったの?」
「今、玄関。ちょっと待ってね」
何かが床へ置かれ、衣服の擦れる音が続く。五日間、そばで聞いていた音に似ている。私の手は、もう持ち上げるものもないのに、卓の端へ伸びた。
「休んだほうがいいんじゃない?」
言ってから、目を閉じた。
しばらく声が返ってこない。靴を脱いでいるのか、鞄を片づけているのか、見えないところで由佳が動く。やがて近くなった声が、小さく言った。
「休みたいけど。少し、声も聞きたくて」
椅子の背に預けていた身体を起こす。本が肘へ当たり、端から落ちそうになった。
「私も聞きたかった。……待ってたから」
言葉を切ると、由佳は続きを待ってくれた。
「ちょっと寂しかった。連絡、届いてないかなって、何度も見ちゃって」
「ごめん。あと少しで終わると思ってたら、その少しが全然終わらなくて。九時過ぎたときに、先に送ればよかった」
早口になった声を聞く。私も、いいよ、とすぐには返せず、膝にかけていた手を開いた。
「今度、遅くなりそうなときは教えて」
「うん。そうする」
電話の向こうで水が出た。手を洗うから少し待って、と由佳が言う。私は耳へ携帯を当てたまま、卓にこぼれていた小さな糸くずを拾った。畳んだタオルから落ちたものらしい。指先に巻きつき、うまく離れない。
「奈緒」
「聞こえるよ」
「今日、あんまり面白いこと話せない」
「私も。タオル洗ったくらい」
由佳が息を漏らした。笑ったのかと思ったら、続きを訊かれる。
「乾いた?」
「よく乾いた。でも、さっき棚から全部落とした」
「ああ、それ、嫌だね」
今度は確かに笑った。私も笑って、拾った糸を屑籠へ落とす。
湯を沸かす音が始まった。由佳がしばらく黙っているので、私も本を膝へ置いて待つ。どこに腰を下ろしたのだろう。床か、椅子か。訊けばわかることまで、まだ見えないままここにある。
「何して待ってたの」
由佳が言った。
「本、読んでた。松本で買ったやつ」
「魚、食べたあと?」
「もう別の町。朝寝坊して、船に乗り遅れてる」
「ちゃんと起きそうな人なのに」
「私もそう思ってた」
私は本を開いて、船の時刻が出てくる頁を探した。乗り遅れた書き手は、港の喫茶店で、早朝に船を出すほうが悪いと一人で腹を立てている。ところが次の頁では朝ご飯を追加していた。そのことを話すと、由佳は、だんだん好きになってきた、と言った。
「宿で魚焼かせてもらう時点で、あんまり遠慮しない人だとは思ってたけど」
由佳が続ける。私も読みかけの文を指で追いながら、この人、そんなに若くないみたい、と返す。何歳なんだろう、と考え始めると、さっきまで出なかった言葉が続いた。
やがて返事の間隔が長くなった。
「由佳、もう寝ようか」
「ごめん、聞いてる。年齢の話」
「それ、少し前」
向こうで短く笑う声がして、それきり静かになる。私も無理に続きを探さず、膝の本を閉じた。
「かけてくれて、嬉しかった」
「私も。おやすみ、奈緒」
通話が終わってから、寝る支度をした。明かりを落とす前に、本へ栞を挟む。船に乗り遅れたところから、まだ二頁しか進んでいなかった。
九月の二週目、棚卸しの日程が前倒しになった。
上司が事務所の予定表を書き直し、取引先の立会いに合わせたい、と説明する。九月の第三土曜日。その数字を見た瞬間、私は手元の伝票の文字を読めなくなった。
参加できない人は早めに申し出るように、と言われた。休む余地が全くないわけではない。でも、私の担当する品目については事前の整理がまだ終わっておらず、先輩もその日は途中から別の確認へ回る。今から引き継ぎを組み直せば何とかなるかもしれない。できる、とも、できない、ともすぐには言えなかった。
昼休みに担当を確かめ、別の日へ回せる作業を相談した。それでも当日に私が出たほうが無理なく進む。考えて、私は出勤することにした。
席へ戻っても、携帯を取り出せない。由佳へ、どう伝えよう。
仕事だから。
それで説明はつく。けれど、由佳が空けてくれた土曜日を思うと、そのあとへ続く文が書けなかった。
行けなくなった、と打ち、また落ち着いたら、と続けかける。そこで指を止め、自分の予定表を開いた。翌週なら、土日とも空いている。その日も由佳が待っていてくれるとは限らない。
夕方、会社の駐車場で連絡をした。棚卸しが早まったこと、今回は私も出勤することを伝え、約束した土曜日を変えてほしいと書く。それから、次の週末はどうかと訊いた。
『私はその土日なら行ける。由佳の都合、教えてほしい』
送ったあとも、しばらく車を出せなかった。隣の車の人が先に発進し、軽く手を上げていく。私も手を上げ、ようやく鍵を回した。
帰宅してから夕飯の支度をしていると、由佳から、今電話してもいい、と届いた。
濡れた手を拭いて、私からかける。
「今、読んだ。来週のことなんだけど」
由佳は挨拶をする前に予定の話を始めた。
「土曜日の午前中、仕事が入りそうなの。何時までか、まだわからない。日曜日は大丈夫だけど」
「午後に着くようにする。夕方でも」
「終わると思うんだけど、確かめてからでいい?」
「もちろん」
返事をしながら、流しの縁へ伏せてあった包丁を、まな板の上へ戻す。次に何を確かめればいいのだろう。列車を取るのは明日でも間に合う。日曜日に帰る時刻は、遅くなりすぎなければいい。そういうことなら、いくらでも続けられそうだった。
「奈緒、今、ご飯作ってる?」
「うん。でも、火は使ってない」
「何か切ってる音、してたから」
私はまな板の上を見た。携帯が鳴る直前まで切っていた胡瓜が、転がらずに並んでいる。
「包丁置くときの音かな。今は何もしてない」
「そっか」
由佳の返事もそこで途切れた。遠くで何かの扉が閉まる。私は流しに背を向け、食卓の椅子へ座った。
「約束してたのに、ごめん」
「……楽しみにしてた」
さっきより小さな声だった。
「今日、帰りの電車でも、あと何日って考えてて。先にお風呂のお湯ためておいたほうがいいかな、とか。着くの、お昼すぎなのに」
由佳が少し笑った。私にはその笑いに返す言葉がなかった。
「変だよね。旅館でもないのに」
「変じゃないよ」
言ってから、手元の椅子の縁を握る。由佳は私が玄関へ入ってくるところまで、もう考えてくれていた。
「私も、早く会いたかった」
「まだ、来るんでしょう」
思いがけず強い声が返ってきた。
「会いたかった、って、終わったみたいに言わないで」
私は息を吸った。
「行く。会いたい。今も」
由佳は黙っている。耳のそばで、自分の声がいつまでも大きかった。
「来週、行きたい。由佳の仕事、終わってからでいいから」
「うん。明日、確かめるね」
少し掠れた声に戻った。私はもう一度謝りかけ、言葉の代わりに息を吐く。取り消せるのなら取り消したい一日が、二人の間に残っている。
由佳が話し出すのを待った。彼女のほうも待っていたのか、しばらくどちらの声もしない。やがて、胡瓜、何にするの、と訊かれた。
「切っただけ。あとは冷蔵庫のもので」
「ご飯、食べて。途中で止めちゃったね」
「由佳は食べた?」
「まだ。これから」
先に切るのを二人ともためらい、もう一度、また明日、と言って電話を終えた。
胡瓜を皿へ移す。冷蔵庫から取り出したものを卓へ並べて、腰を下ろすまでに、いつもより時間がかかった。由佳も今、何かを食べ始めているだろうか。私は携帯を近くへ置いたまま、箸を取った。
翌日の昼、由佳から仕事の予定が確かめられたと連絡が来た。土曜日は午前で終わる。昼すぎなら駅まで迎えに行ける、とある。
『来てほしい。その日、空けておくね』
私は同じ文を二度読んだ。
『行く。昨日、話せてよかった』
由佳から返事が来る前に、予定表を開く。『由佳の家』を次の土曜日へ移し、空いた日には『棚卸し』と打った。保存を押しても、指はすぐに画面を離れなかった。
その晩には住所も届いた。見慣れない町名と、建物の名前。地図で開くと、線路から何本か道を曲がったところに印がつく。
『駅から一緒に帰ろう。入口、ちょっとわかりにくいから』
道を広げかけていた指を離した。そこから先は、由佳が教えてくれる。
本を読み終えたのは、棚卸しの前の晩。
最後の頁まで来て、あとがきがないことに少し戸惑った。もう少しこの人の話を聞けるつもりでいたらしい。裏表紙を見てから、好きだったところへ戻った。
船に乗り遅れるより前に、面白いところがあった。どこだったか思い出せずに頁をめくり、見つかると、由佳には黙っていようと思う。読んだあとで、同じところを挙げるだろうか。
『読み終わった。持っていくね』
送ると、由佳から、楽しみ、と返ってきた。私は本を棚へ戻さず、次の週末に使う小さな鞄の横へ置いた。
土曜日の会社は、いつもの電話の音がほとんどない。品番を確かめ、数量を数え、紙と実物を突き合わせていく。午前の終わりに合わない数が一つ見つかった。私は先輩を呼び、一緒に記録を見る。
途中の出荷が別の欄に入っている。直せる間違いとわかって、二人で息を吐いた。
「お昼、少し遅くなるね」
先輩が言う。
「私、先にお弁当出しておきます」
「お願い」
頼まれたことを済ませ、自分の席へ戻る。
由佳から、今日はこっち雨、と連絡が来ていた。窓の外を見ると、上田も曇っている。旅のときのように、一つの空を見て返事をすることはできない。
『こっちはまだ降ってない。お昼これから』
送って、箸箱を開いた。
午後も仕事は続き、終わったころには窓の外が暗くなりかけていた。帰りの車で、いつもなら混む交差点をすんなり通る。私が東京に行くはずだった一日が、こうして終わっていく。
家へ戻り、夕食を作る前に由佳へ電話をした。今日は少し高い声で、午前中に部屋を片づけた、と話し始める。
「来週のぶんの掃除までした」
「じゃあ、私が行くまで綺麗だね」
「そこは、わからない。本も洗濯物も増えるから」
由佳が笑う。向こうで椅子を引く音がして、それを聞いた途端、今日そこへ座ることもできたのだと思った。
「奈緒、仕事終わった?」
「終わった。もう家にいる」
「お疲れさま。忙しかったね」
私は椅子へ腰を下ろし、昼の弁当を食べるのが遅くなったことを話した。由佳は、今日のお昼は何を食べたかすぐに思い出せず、冷蔵庫を見に行った。残ったものから確かめるつもりらしい。
「そうだ。焼きそば。キャベツが半分あるから、明日も使わないと」
「来週まで取っておかないでね」
「そこまで奈緒を待たないよ」
言われて笑った。冷蔵庫の扉を閉める音が、少し遅れて届く。
「来週、何食べようか」
今、見たばかりの中身を思い出すように、由佳が訊いた。
「卵焼き、食べたい。別所で、お皿見ながら言ってたやつ」
「あの皿はないけど」
「別のお皿でいい」
「少し甘くするよ。奈緒、甘くないほう?」
「うちも甘い。砂糖、いつも適当だけど」
「私も。焼くたびに違う。うまくいったときの量を覚えとけばいいのに、いつも食べ終わってから思うんだよね」
向こうで金属の触れ合う音がして、由佳が少し遠くから、あった、と言った。
「四角いフライパン。最近、丸いのしか使ってなくて、下にしまってた」
「今、探してたの?」
「うん。出したついでに、今日はこっちで何か焼こうかな」
携帯へ戻ってきた声が近くなる。由佳の台所を思い描こうとしても、さっき取り出したフライパンのほかには、まだ何も置けない。
「私も一緒に作っていい?」
「いいよ。洗った鍋、先にしまっておく。いつもまな板を置く場所で乾かしてるから、そのままだと何もできないの」
「私、どこに立てばいい?」
「冷蔵庫の前かな。開けるときだけ、ちょっと避けてね」
由佳が卵を取り出すところを思い浮かべた。半歩避ければいい距離に、私がいる。私は口元が緩むのをそのままにして、火は任せるね、と言った。
「じゃあ、奈緒はお皿出して。普段使うのは、流しの上の棚にあるから」
もう覚えておくつもりで頷いてから、返事が届かないことに気づく。うん、と声にすると、由佳が、来てから言えばよかったね、と笑った。
朝に作るのか、夕食にも食べるのかは決めずにおいた。由佳は電話の向こうで、やっぱり先に砂糖の量を量ろう、とまだ考えている。私は聞きながら、台所へ行って冷蔵庫を開けた。今夜は自分一人のご飯を作る。
出発の前の日、母から梨を取りに来ないかと連絡があった。
仕事帰りに実家へ寄ると、台所の卓へ大きな袋が置かれている。こんなに食べられない、と言う前に、いくつ欲しい、と訊かれた。
「二つでいい」
「週末、出かける?」
「明日から、東京。由佳のところ」
「この前、一緒に旅行した由佳ちゃん?」
「うん」
母は頷き、袋から梨を二つ取り出した。私が玄関へ向かおうとすると、車で行くの、と訊く。
「電車」
「駅まで送ろうか。午前中、そっちへ買い物に行くから」
いつもなら、大丈夫、車置けるから、と答えただろう。私は少し考え、お願いしてもいい、と言った。
「何時?」
私は列車の時刻を伝えた。母は冷蔵庫に貼ってある紙へ書きつけ、それから、楽しんできて、と言う。
「うん」
由佳に会いに行く。そのことをもう一度、自分の中で言い直した。
家へ戻り、梨を一つ冷蔵庫へ入れた。もう一つは由佳に持っていこうかと思い、先に連絡をする。食べる、と返ってきたので、傷まないよう紙で包んだ。
鞄へ服を詰める。四泊分の荷物を入れたときと違い、すぐに場所が埋まった。寒ければ重ね着できるよう、薄い上着を一枚。帰りの日の服。歯ブラシ。読み終えた本は、いちばん最後に入れた。
携帯の写真を見返したのは、そのあとだった。
木の前に立つ由佳。湖の水面。生姜焼きの皿は撮っていないし、道を間違えて笑った駐車場も、写真にはない。青木湖で並んだ三枚を見ると、あのとき自分がどんな気持ちで肩を寄せたかまで思い出せる。それでも、由佳が隣にいたときの温度を、画面から取り出すことはできない。
私は三枚目を開いた。
二人とも前を見て、少し硬い顔で笑っている。あのあと言い争うことも、白馬の部屋で長く話すことも、まだ知らない顔。消さずに残しておいてよかったと思った。
鞄の口を閉める。明日の列車は予約してある。駅へは母が送ってくれる。由佳は午前の仕事を終えてから、迎えに来る。
目覚ましをかけ、灯りを消した。
眠る前に、由佳から、おやすみ、と届く。
『明日ね』
私はそう返して、携帯を枕元へ置いた。
九月の終わりの上田駅には、薄い上着を着た人が増えていた。
車から降り、母へ手を振る。鞄が軽いと思ったのは最初だけで、肩へ掛けて歩き始めると、本と梨が同じ側へ寄って重さを作った。いったん立ち止まり、中の位置を直す。
由佳を迎えた日に歩いた場所を、今日は一人で通る。あの日は手ぶらで、駐車場に車を置き、もうすぐ会う人の歩く方向ばかり気にしていた。今は列車の発車時刻を見上げ、改札へ向かっている。
待合の椅子に座ると、鞄の中で携帯が震えた。
『仕事終わった。これから帰って、駅まで迎えに行く』
由佳からの連絡を読み、私は時刻を確かめた。まだ乗る前なのに、向こうではもう、迎えに出る人の午前が終わっている。
『お疲れさま。これから乗るね』
到着する時刻も一緒に送る。
返事を待ちながら、鞄から本を出しかけてやめた。梨の包みを押さえ、肩紐を持ち直す。階段を上がった先から、ホームに入る列車の音が届いていた。
鞄を肩へ掛けて階段を上る。上りきると風が通り、頬へかかった髪が揺れた。八月の風ほど熱くはない。髪を耳へかけ、列に並んで、目の前を滑っていく車両を見送った。
携帯に、由佳の短い返事が届く。
『待ってる』
九年前の駅で、私は次に帰ってくる日を尋ねた。今度は、自分の乗る列車の扉が目の前で開く。
鞄を胸のほうへ引き寄せ、足元の隙間を跨いだ。
由佳に会ったら、会いたかったと言おう。
扉の閉まる音を聞きながら、私はもう一度、届いた文字に目を落とした。




