136 忌み嫌う者の祈り
プロニスラフ市街を北に抜けた先にある深い森。
星明かりすら吸い込むような黒い森のとある場所に、長年放置された廃屋を急遽人が住めるように手を加えたような荒屋が建っている。
以前は木こりが住んでいたであろう、朽ち始めたログハウスであったが、今は新たなる謎の住人を迎え入れ、暖炉に火を灯していたのであった。
その住人とは、儀礼用の白いローブをまとった宗教家。白髪を短く刈り込み、深い皺が額に刻まれた厳し表情の老人が一人、暖炉の隣に作った急ごしらえの祭壇に向かって、祈りを捧げていたのである。
「全能なる父、光を背負いし者よ。聖ヤンカミルの導きをもって、我ら彷徨いし民に救いがあらんことを、、、」
老いた宗教家は祈りの最後に、自らの胸の前に右手を持ち上げ、大きく楕円を描いた最後に、その楕円を左右に分割するように右手を上から斜めに振り落とした。
老いた宗教家の息遣いすら聞こえて来るほどに鎮まり返っており、暖炉にくべられた薪が燃える事で、パチパチと爆ぜる音すらも雑音に思えるほどに神々しい静寂に満ちている。祭壇の中央に座す古い天主像が老いた宗教家の祈りに応えたかのように荘厳を放ち、その部屋の空間は聖なる気配に支配されていたのである。
だが、その静寂も戸外から聞こえて来た文明社会の雑音にかき消されてしまった。
この人里から離れた暗黒の森で、"この家"を目指してやって来たのか、一台の車が停車したのである。
老いた宗教家はゆっくりと立ち上がり玄関へ
車に乗って来た者がノックするよりも早く扉を開けて、訪問者を迎え入れた。
「……司祭様、ご報告がございます」
この訪問者の青年も自身の胸の前に右手を持ち上げ、司祭と呼んだ老人の前で“楕円切り”のジェスチャーを行う事で挨拶を済ませ、発言の許可を得る。
この青年は犬系の獣人なのか、金髪の頭から大きな耳が自己主張している。不思議なのは、司祭は純粋な人間であり、それを獣人の青年が敬う構図だ。人間や亜人などが同じ教義に傾倒する事は、まだ種族間の差別が激しいこの世界では非常に珍しい光景である。
司祭と呼ばれた老人は青年を笑顔で迎えつつ、寒いから中にお入りなさいと暖炉の前に誘なった。
「司祭様、例のアムセルンド人の二人組についてなのですが、暗殺に失敗してしまいました」
「こちらの被害はあったのですか?」
「いいえ、全員無事です。襲撃の直前に第三の人物が運転する車がやって来て、そのまま二人を回収して逃げられました」
「そうですか。しかし、とにかく我々の側に被害が無かったのは幸いです」
司祭は青年の肩に手を添えて、申し訳無さそうな表情を浮かべる。
「暗殺に失敗したのは残念ですが、君たち将来ある若者たちがアムセルンド人の穢れた血に触れなかったと考えれば溜飲も下がります」
「失敗は全て私の責任です、申し訳ございません」
「ふふっ、謝る事はありませんよ」
かしこまる青年に笑顔で答える司祭。だが懸念する事があるのか、司祭は難しい顔をしながら顔を背けて暖炉の炎を見つめる。そして十秒ほどの長くて短い時間で自問自答を重ねた結果、こうポツリと呟いたのだ。
「逃げた二人のアムセルンド人がきっかけとなり、公国の領事館は守りを固めるかも知れません。当初の計画よりも荒っぽくなってしまいますが、我らも早めに行動に移す必要があるかも知れませんね」
司祭が呟いたその“行動”が、何を意味して言っているのかが手に取るように理解出来た青年は、深々と頭を下げてその言葉を受け入れた。
「司祭様、早急に決死隊を組織します。武器なども集めて準備を整えた上で、司祭様より突入の裁可をいただきたく、再び報告に上がります」
「君に全てを任せます。マシューよ、頼りにしてますよ」
司祭は青年の肩に再び手を乗せながら、ニコリと微笑みながら「さあ、お行きなさい」と退出を促した。そしてマシューと呼ばれた青年は、再び頭を深々と下げながら、また後日と玄関に向かう。
「アムセルンド人に死を、堕天使の血族に死を」
「アムセルンド人に死を、堕天使の血族に死を」
恐ろしい事に、こんな穏やかな表情の二人が別れの言葉に使ったのが、この穏やかではない言葉であったのだ。
◆ プロニスラフの暗闇から見つめる者 編
終わり




