120 ちいさなビヨンとわたし
一月も半ばが過ぎ、アムセルンド公国の首都バルトサーリは、いよいよ厳しい寒さのピークに差し掛かろうとしている。
連日の真冬日が続く氷点下の高地で、ごくまれに訪れる雲一つ無い晴天の日に、街の家々の煙突からもうもうと白い煙が空に昇って行く光景はまさに壮観であり、その煙一本一本の足元に、寒さと闘いながら日々を暮らす人々の生活が垣間見える、一種の風物詩となっていた。
そして、街の人々の力強い息遣いを目の当たりにする事が出来る、この街を見下ろす小高い丘の上に、大きな屋敷がある。雪化粧した白い森に囲まれる屋敷こそ、五大貴族の一翼を担うランペルド・マルヴァレフト公爵の邸宅だ。
身も凍るような極低温の中だが、束の間の晴天を楽しもうと、ランペルドの孫娘であるアンナリーナ・マルヴァレフトは、昨年末に新たな家族となった茶色毛の子犬ビヨン(熊の意味)を連れ立って、屋敷の庭園に飛び出した。
「ビヨンおいで、こっちよ!」
足のスネ辺りまで積もった粉雪の上を軽快に駆け出すと、彼女に懐'いていた子犬は慌てて後を追いかける。
祖父からのクリスマスプレゼントとしてやって来た彼は、初めて屋外に出て初めて雪を目の当たりにしたのにも関わらず、短い尻尾をピコピコと振りながら、大喜びでアンナリーナの後に付いて行く。
自分の目線よりも高く積もった雪にダイブしてはジャンプして空を駆け、まるで水面を跳ねるイルカのよう。
「……わ、はっ!」
雪に隠れた石段の段差につまづいたのか、顔から盛大に転ぶと全身雪まみれ。しかしそれがまた楽しいのかそのまま立ち上がりもせずに、雪のベッドで寝返り真っ青な青空を見上げる。氷点下に晒された空気で作られた空は、雑味のかけらも感じさせずに天空まで突き抜けており、逆に距離感が掴めず手で触れそうなほどだ。
「あっ、こら。きゃははは!ビヨンやめてえ」
顔についた雪が溶けて水滴に変わったのだが、それを寄って来た子犬がここぞとばかりにベロベロなめる。愛情も上乗せされたそれは、真っ赤な頬だけでなく口や鼻や目など、やりたい放題の様子だ。
「いやあん!顔がふやけちゃう」
くすぐったくて嫌がるのだが、心の底から嫌がる訳でもなく、子犬と同じ目線を楽しんでいる。
天下に轟く五大貴族の一員にして、マルヴァレフト家の実質的な跡取りとしての立場があるアンナリーナは、警備上の問題から公立学校に通わせる訳にはいかず、爵位の飛び抜けた家柄である事から貴族学校にも通わせる訳にもいかず、極めて門戸の狭い貴族の私塾に通ったり家庭教師から教育を受けている。
家柄上肩を並べる友人などいる訳もなく、祖父ランペルドや本人が友人が出来る事を望んだとしても、周囲が距離を置いて頭を下げる環境である以上、孤高の存在となってしまうのは致し方無いのだ。
幸いにして、ランペルドの教育方針や配慮が功を奏したのか、貴族と言う特権階級による嫌らしい選民意識は生まれずに、全てにおいて品位を尊ぶ行儀良さは身についた。
だがやはり、ランペルドの目には映るのである。友人に恵まれない少女の寂しい面影が──
このビヨンと名付けられた子犬は、ランペルドからの贈りもの。彼女の友人になれないかと、苦肉の策としてクリスマスにプレゼントしたのだが、元気いっぱいの子犬は、来て早々に彼女と親友になったらしい。
どこに行くにもアンナリーナに着いて従い、首輪にリードを付けなくとも自由を謳歌せず常に彼女の身の回りに立ち、そしてじゃれる時は全身で愛情表現をするビヨン。そして子犬の世話をする事で彼女にも母性が生まれたのか、今では切っても切れないほどの関係にまで昇華したのである。
「だんだんと身体が冷たくなって来たね、もうちょっと駆けっこしたら、屋敷に戻ろか」
フワフワの冬毛を両手で撫でながら、立ち上がった彼女は「行くよう」と声を掛けながら、大きく腕を振って走り出す。
南に西に、北に東にと、庭園に積もった雪の上に子供の足跡と子犬の足跡が縦横無尽に描かれて行く中、屋敷から発せられた予期せぬ大きな声が一人と一匹の足を止めさせる。
「おおい、そこにアンナリーナはいるかい?ダールベック中佐がお見えだぞう」
辺りに響いたのは間違いなくランペルドの声。年を越す前に見送った人の帰還を意味する言葉だ。
「オレル様、オレル様がお帰りになったのね。ビヨン、屋敷に戻ろう!オレル様が見えられたのよ」
慌てて駆け出したアンナリーナ、楽しげに跳ねながらその後を追うビヨン。二人が吐き出す真っ白な息は、庭園の通路などまるっきり無視して、真っ直ぐに屋敷へと向かって行った。




