121 満たされる未来図
“オレル様が、オレル様が帰ってこられた!”
逸る気持ちを抑えながら、タオルで濡れた髪を拭いてそのままビヨンの身体と足も拭いてやる。 身支度でおかしいところは無いか鏡でしっかりと確認し、頬を紅潮させながらアンナリーナは自室を離れた。
もう私だってレディのはしくれだと── 小さな友人をお供にしながら、駆け出したい気持ちを押し殺して応接間に向かうと、扉の向こうからは聞き慣れた祖父の声とともに、彼女の鼓動が早くなる魔法のような声が聞こえて来るではないか。
「……失礼致します」
応接間の扉をゆっくりと開けるとそこには、待ち焦がれた人の姿がしっかりとあり、彼女を見ながらにっこりと微笑んだではないか。
「オレル様、長旅お疲れ様にございます」
スカートの端をつまんで頭を下げる。精一杯淑女らしくを演出したお辞儀であり、本人的には「決まった!」と実感する瞬間であったのだが、見てる側からすれば、小さな物体がちょこんと頭を下げるその光景が、ひどく可愛らしく見える瞬間であった。
だが、訪問者はそれを児戯とは受け取らずに、うやうやしく立ち上がって胸に手を当て一礼で返す。そして彼女の前に歩んで膝を折り、最敬礼で返礼したのである。
「レディ・アンナリーナ(嬢)。このオレル・ダールベック、パルナバッシュに遠征して無事帰還しました事、ご報告に参上致しました」
「お勤めご苦労様でございます。ご無事で何よりでした」
そのやりとりを微笑みながら見詰めるランペルド。堅苦しいのもその程度にと配慮したのだが、二人の間に割って入ったその言葉が乙女心を傷付ける。
「アンナリーナ、そんなところでかしこまってないで早く座りなさい。ダールベック中佐がお土産をたくさん持って来てくれたんだぞ、お菓子や飴玉や珍しいものばかりだぞ」
もう!お爺さまと言ったら何て意地汚い!それじゃ私が食いしん坊さんみたいじゃないの!──
アンナリーナが顔を真っ赤に染めながら「ぷう」と頬を膨らませたのには、そう言う事情があったのだ。
確かにランペルドの言う通り、オレルが持参したパルナバッシュのお土産は目を見張るものがあった。年代ものの珍しい蒸留酒を渡されたランペルドは、それだけでもう満足であったのだが、アンナリーナは有頂天を隠すのに必死になるほどの内容だ。
焼き菓子と言ってもスフレのようなスポンジ状のものではなく、砂糖とバターがたっぷり入った歯応え抜群のビスケットなるものや、赤や黄色やオレンジ色など色とりどりの飴玉が缶に入ったドロップなど初めて見たお菓子を手にすれば、落ち着いてなどいられない。
さらに追い討ちをかけるように、パルナバッシュの温暖な地域の特性を活かした様々な染色技法で染められた、色鮮やかなドレスやバッグ、貝殻で作られたアクセサリーを手にすれば、彼女の脳裏では無数の天使たちが狂喜乱舞するほどに喜びに満ちていたのである。
だが、そうそう喜んでもいられない。オレルに勧められてドロップを一つ口に入れた頃……砂糖が舌を甘美に刺激するだけでなく、南国の果実を想像させるような、爽やかで酸味を伴う風味が鼻腔を心地良く刺激する頃、ランペルドとオレルは表情から笑顔を消して、真剣な顔付きで話を始めたのである。
首都で起きている獣人の連続猟奇殺人事件は、臓器売買ルートに的を絞って捜査をしているが、今のところ進展が無い。
麻薬密売の証拠隠滅で、公認会計士を暗殺した疑いのある公安警察ルートも未だに闇の中。
少将閣下爆殺事件の犯人や、陸軍の管制品横流しルートも、軍警察のデライケ少佐に調査させているが人物の特定までには至っていない──
そんな仰々しい会話を目の当たりにしながら、一人だけ異国文化に酔ってもいられない。気にしたアンナリーナは、祖父に席を外しましょうかと問うて気を遣うのだが、意外な答えが返って来た。
「ここにいて話を聞いていなさい。まだ分からなくて良いが、いずれは私の代わりにこういう場での主役になって欲しいのだ」
それはつまり、五大貴族の一つであるマルヴァレフトの名を名乗る以上、その責任を全うしなければならない時期が必ず来る。そのためにも、自分の信じた協力者たちと膝を交えながら、こういう深刻な内容の話をする事に慣れなさいと教えていたのだ。
まだ十歳に満たない幼女には難しいかも知れないが、ランペルドの年齢を考えれば避けて通れないのも事実。早々と他人とは違う運命を背負っている事を自覚するだけでも、また一歩前進なのだと祖父は考えていたのだ。──まだ彼女の出生の秘密を明かす事は出来ないが
言われた通り、ソファに座ったまま時間が過ぎるのを待つアンナリーナ。
足元で横になっていたビヨンが退屈に耐えられず甘えて来たので、抱え上げて太ももの上に乗せ、何度も何度も撫でてやる。その心地良さに睡魔が惹かれてやって来たのか、子犬は目を細めてうっとりしている。
小さな命が自分に身を預ける姿を見詰めるアンナリーナは、まるで小さな女神のような神々しい柔らかさを醸し出しているのだが、それは子犬に対して母性を発揮させたと言う理由だけでは無い。彼女の胸の内にはそれまでには無かった新たな安心感が生まれていたのだ。
“オレル様が私を頼ってくれる”
祖父に用事があって、その都度訪問を重ねて来たオレル・ダールベックが、いつかは私を頼って訪問してくれる。まるで願いが叶ったような未来図が待ち受けているようで、アンナリーナはその満足感に満たされていたのである。
『しかし、オレル・ダールベックはその真逆にある』
流れ星のアザを持つ少女がどんなに神々しくとも、どんなに優しげな笑みを浮かべようとも、彼女は忌むべき前世の記憶の片鱗、それ以外の何ものでも無いのである。
少女の無垢なる笑み。そして未だに拭う事の出来ない、青年の腹の底で渦巻く闇。
この整合性のバランスが取れた時、すなわちその時こそが、時の旅の終わりなのかも知れなかった。




