109 王都に降る雨
パルナバッシュ王国に王都カーラン、その王都の繁華街の『リストランテ・アロンツォ』では、まだ昼の開店にはほど遠い時間であるのにも関わらず、クローズの看板をかけたまま一人の客を受け入れている。
それも通常のホールではなく、隠し扉を経て秘密の地下階に降りた場所。そこで密かに開かれているバーのカウンターを挟み、女性のバーテンダーが親しげに男性客と会話を楽しんでいたのである。
「名残惜しいわ、オレル・ダールベック。本当に帰っちゃうのね」
強くて上等な蒸留酒を入れたショットグラスを奢りながら、それを受け取ろうとするオレルの手に自らの手を重ねて離さないのは、バーテンダーでありながらも、この異世界転生人ギルドの連絡係を請け負うマリールイス・アルムグレーン。
パルナバッシュで全ての役目を果たし、祖国に帰ると挨拶に来たオレルを労いながら、彼との別れを惜しんでいたのである。
「世界は新しい年を迎えた、そしてパルナバッシュも新しい年を迎えた。新しいパルナバッシュに私が与してはいけないよ。よそ者は去るのみさ」
「確かにあなたは凄かったわ。ヴァレリ・クリコフを葬って核爆弾の製造工場を破壊しただけにとどまらず、現王朝を打倒する政変のきっかけも手掛けた。その才能と行動力にほれぼれするわ」
宰相マファルダの邸宅を強襲した参謀情報部三課は、マファルダの拉致と人質二人の救出に成功した。
コンチェッタは無傷のままであったが、黒魔女のフェデリアは外傷性のショック症状を起こしており、命の危険が迫っていた。マファルダ邸離脱後は拠点Bに向かう予定であったのだが、カーラン郊外に出るよりも今すぐ病院に救急搬送すべきだと決断。フェデリアを入院させる事で事なきを得た。
そして拘束したマファルダはそのまま皇太子のベスティーニ・ルド・パルナバッシュに引き渡し、今は彼の屋敷の地下牢に幽閉されている。
皇太子曰く、近日中に民間の識者たちも集めて人民裁判を開くのだそうだ。つまりマファルダは悪しき暗黒の時代の象徴として、ギロチン台に立つ役目があるのだ。
そして皇太子は建国の象徴である魔女を、宮廷魔女の筆頭であるコンチェッタを妻に迎える事で、現在のパルナバッシュ王政を維持。民主化運動や革命の旗頭となっている魔女クラリッチェを説得して、民衆との妥協点を見い出す事で、長年に渡った民主化運動を沈静化させようと画策しているらしい。
確かに、皇太子ベスティーニはこの国の次代の王になるだろう。マファルダ拘束が発表された事で、水晶宮だけでなく近衛警察や陸軍も宰相派と皇太子派に別れたが、そのほとんどは皇太子派に流れており、既得権益を取り戻そうとするごく僅かな宰相派だけが抵抗を繰り返すのみ。
皇太子ベスティーニの政敵になるであろう人物たちも「謎の死」を遂げて敵勢力が空洞化している事から、民衆が派手な暴動を起こさずとも、将来的に後ろ暗くなく安定した時代が来るのを充分に実感出来るのだ。──ベスティーニが暗愚でなければ
艶やかな口をふわっと開いては、オレルをべた褒めし続けるマリールイス。とうとう我慢出来なくなったのか、カウンターを挟んで手を伸ばし、彼の頬に手を添えながらうっとりと眺める。
大陸中のマリールイスからあなたの武勇伝を詳しく聞かせろと、朝から晩まで催促して来るのよと独白しながら、今現在オレルの身体に触れられる唯一の人物である事を彼女は誇っている。
「この国で力を持つ人々に出会い、そして協力を得た事が成功に結び付いただけだ。あまり私を過大評価しないでくれ、その気になって大統領選挙に立候補したくなる」
彼女が添えた手を無理矢理解こうとはせずに、その手首から漂って来る香水の仄かな香りを楽しみながらも、そろそろ行かなくちゃと苦笑する。そして空になったショットグラスを彼女の元へ滑るように返しながら、カウンターに置いてあった大判の封筒も、指で押して差し出した。
「核兵器の製造工場にあった管理室のファイルだ。交代番に申し送り事項が記載された日誌が綴られているのだが……そこに動かぬ証拠がある」
「良いの?あなたが直接手を下しても良いのよ?」
「やめとくよ。俺にとってそれは、国家安全保障問題じゃない。君たちギルドが精査したのちに、然るべき決断をすれば良い」
マリールイスが手を離し、カウンターの上の封筒を受け取る。
「オレル・ダールベック、パルナバッシュにまた来てくれる?ねえ、今度は私に会いに来ると約束して」
「約束は出来ないが、一つだけ君が喜ぶ事をしよう。アムセルンドに帰ったら、あちらのマリールイスにこう言ってやるんだ。パルナバッシュのマリールイスは素敵な香りがしたよと」
その言葉に満足したのか、引き留める事を諦めたマリールイス。
目を潤ませ高揚した表情でさようならと言いながらも、彼女は再びオレルの頬に手を添えた。手首からは柑橘系と香木系をブレンドしたような、爽やかな色気と大人の艶やかさが伝わって来る。
「さようならマリールイス、その香りはしっかりと覚えたよ」
オレルは彼女の手首に唇を寄せる
挨拶のチークキスと同じ感覚で唇を当てて、そして身を翻した。
そのまま一度も振り返らずにカウンターを離れ、バーの出入口から地下の階段、そして地上階であるレストランのホールを抜けて外に出る。
新年早々の王都カーランは、残念ながら冷たい雨模様。
年末にあちこちで起きていた民衆の大規模集会や暴動やデモは今は無く、南西の温暖な海風に逆らって北風が運んだ冷たい霧雨が王都を支配しており、この街が昼にどれだけ賑やかになるのかは未知数である。
本来ならば賑やかであるはずが、様々な要素で寒々しくなっている王都を一瞥し、オレルはコートの襟を立てて歩き出す。道の反対側に停めてある車に向かったのだが、意外な事に少女の叫びが背中に掛かる。
レストランの扉を乱暴に開けた少女が、その勢いそのままに息せききった声でこう呼び止めたのだ。
「お師匠様、待って……待って!」




