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第8話 なりきり

 稽古を重ねるほど、伊織の存在が大きくなっていった。

 舞台の上で彼が一歩動くだけで、空気が張り詰める。観客がまだいないのに、息を呑む気配が生まれる。

 そんな伊織を見ていると、心臓の奥が熱くなった。



 俺は彼の姿勢、呼吸、まばたきの間隔まで覚えた。

 それを真似るたび、体の芯が痺れるように興奮する。

 誰かが「伊織みたい」と言うと、胸が跳ねた。

 その一言のために、生きてる気がした。


 伊織本人も気づいていた。

「透、最近僕の癖までコピーしてるでしょ」

「そうかな」

「でも、悪い気はしないよ。僕のこと、よく見てるんだなって」

 その優しい声が、脳の奥を溶かした。

 俺は笑いながら、無意識に指先を握りしめた。



 稽古の帰り道、街灯に照らされたガラスの向こうで、自分が笑っていた。


 それはもう、俺の笑い方じゃなかった。


 伊織の微笑みを借りた、偽物の俺。

 でもその偽物でいることが、どうしようもなく嬉しかった。



 二年生になっても、“なりきり”は続いた。


 授業中も、昼休みも、気づけば伊織の声色で話していた。

 鏡に映る姿勢を直す時も、呼吸のリズムを合わせる時も、頭の中にはいつも彼がいた。



 五月末、大きな舞台を控え、サークルは熱気で満ちている。

 八代は主演、伊織は準主役。僕の役は、準主役の兄弟。ほとんどのシーンで向かい合うことが多い。


 練習の合間、伊織が俺の肩を軽く叩いた。


「透、いい感じだね。君がいると安心する」


 その言葉が嬉しくて、息が詰まった。

 心のどこかで“この人にならなきゃ”という義務感に似た衝動が芽生えていた。



 その日の帰り際、八代が隣でぼそりと呟いた。


「なあ葉月、最近ちょっと……おかしい」

「何が?」

「お前、喋り方も笑い方も、全部伊織じゃん。見てるとゾッとするんだよ」


 僕は笑った。


「いいじゃん。芝居に本気なだけだろ?」


 八代はそれ以上何も言わなかったが、視線だけは冷めていた。



 帰りの電車の窓に映る自分を見た。

 ぼやけた蛍光灯の光の中で、僕は微笑んでいた。

 頬の動き方も、目の細め方も、伊織そのままだった。



 次の日も稽古。

 終わったあと、稽古場の隅で伊織が台本を閉じる音がした。

 顔を上げると、彼が柔らかく微笑んでいた。


「ねえ透。君、僕のこと好きでしょ」


 冗談めかした言い方だった。けれど、心臓の奥が跳ねた。


 否定する理由なんてなかった。


 その夜、眠る前に鏡の前に立った。

 伊織の笑い方で笑ってみた。

 本当に彼がそこにいるような錯覚に、息が止まった。

 葉月透の笑い方なんて思い出せなかった。


 ――そして本番前夜、最後の通し稽古。

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